弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

break me if you can

2018-12-04 23:25:27 | 思考
何だか最近、他人全般に興味を持てなくなってきた。
いや、正確に言うと、興味を持てる人の範囲が限られてきた。

強いて二分するならば、
・自分の内面に地獄を持ちそれに抵抗している人
・自己、他者、社会、世界に疑問を持っている人

が主な関心がある人だろう。因みに、最初の人種は決して精神病を持っている人、とは限らないし、どちらも併せ持っている人も少なくない。

どちらにしろ、こちらが関心を持てない人種は向こうもこちらに関心を持たないだろう。
世間的に私の年代は身を固めていく時期。関心は違って当たり前。

ところで、昔は対人関係にすごくウェットだったのに、今は少しドライになってきた、
勿論、上に挙げたような人種でなくても、今まで付き合いが長かった人は付き合いを続けていきたいと思うが、それも自然消滅したらしょうがないか、とも思う。

そう思う一方で、やはり、会って飲み交わしたい人も依然としている。

こうなってしまった最初の転機が友人の自殺。次が電気痙攣療法の経験、そして最後に哲学系統の大学院に入学が決まったことだろう。

何というか、自分と相手の知性と教養レベル、思考の対象が少しでも重なった人と話したい。
そういう意味では大学院入学は楽しみである。

昔の自分が変わっていくことは少し寂しいが、きっといいことでもあるのだろう。
早く次の段階へ・・・

命日ー16回忌ー標

2018-11-03 16:41:25 | 思考
今日は父の16回忌。
父が単身赴任したのは15の頃からだったから、日常的に父が家にいないのは私の人生の半分以上になる。

色々と思うことはあったが、去年との一番の変化は問いの変化だ。
墓に行く途中にカップルや家族連れに遭遇して嫌な気持ちになり自分の病状もよくならなくーいや、父が死んでいなかったら発症しなかっただろうー将来も定まらない。
そんななか、去年、頭の中を閉めていた呪詛めいた問いは、

何故、生きている?(どうして自殺しないのか

だった。

だが、今年は少し違ったようだ。

どうして死ぬ?(死んだらどうなるのかも含めた

父は不動産などの遺産も残したが、一番の置き土産はこの問いだったはずだ。
私の漠然とした空虚感に形を与えた問い。

回り回ったがようやくこの問いに戻ってこれた。それを研究出来る環境に身を置けることになった。

・・いずれ死ぬ。確実に。
だがまだその時ではないようだ、

死によって諸々が終わる(厳密に言えば何が終わるかはわからない
だが、終わるということ、そのことに導かれてもいる。
死というものがなかったらこの問いそのものが成り立たないからだ。

それを確認しただけで、今回は十分だ。

煙と毒と浄化

2018-10-29 01:06:38 | 思考
自分がニコチン依存症なのは分かっているし、タバコが害になることも分かっている。
そして、喫煙スペースを探すのも骨が折れる。
更には、喫煙は不安障害とうつにも悪影響らしい。(発症しやすいのか治りにくいかはわからない

気分転換なら他のことですべきだ。
それでも、私の喫煙を敢えて擁護するならば・・・

毒であろうが、一度、取り入れたものの一部を吐き出し、それが昇っていくという風景に一種のカタルシスを覚えるのだ。

取るに足りないセンチメンタルな感情のせいで身を害しているということ。


ともあれ、紙巻きタバコは卒業したい。
取り組むなら今の余裕がある時期しかない。

少し頑張ってみるか。

忘却とトリガー、そして物語るということ

2018-10-24 00:37:36 | 思考
私は懐疑主義者なので、根本的な善悪の存在を認めない。

というのは建前で、やはり、実際の出来事、創作物であっても、死、手術、自殺、といったものは過去の記憶のトリガーー罪の意識を呼び起こすようだ。

罪があるとするならば、それは移ろいやすさだろう。そして、それは記憶と忘却が大きく関わっている。
私は実定法の罪を犯した訳ではないが、透明な罪業ー道義的な罪を二つも犯した。
そしてそれは許されるものではない。
故人は許す主体にはなれない。自分で自分を許してもならない。
それはいかなる罰を受けても同じだ。

故人は許す主体にはなれないといっても、故人の意志が有形無形なもので明確に推定できるなら話は別だ。ところが、それすらも私にはできない。
あまりに、唐突過ぎた。

だが・・自殺した友人kとは違い、亡き父が私に罰を受けろという意志を持っていたというのはさすがに推定出来ない。
父の死に関しては色々あったが、私と父の関係性自体は悪くなかった。むしろ、父は私に期待していた、
なので、その件はもう抱え込んでも仕方ないだろう。
だが、年々、父のことを忘れていってしまうのは歯痒い。

自殺した友人kのことだが、その顛末と私の透明な罪は自分は墓場まで持っていくつもりであった。
だが、自殺、というワードを見聞きすると必ず彼のことを思い出す。
彼の死後、私はmECTを受け、眠る際の恐怖や動悸に苛まされている。
毎日、起きた時に、自分が本当に生きているのか不安になるくらい。

もはや、罪というか呪いのようなものだ。繰り返すが、彼が自殺の直前にこのような呪いで私を苦しめる意図があったかは分からない。

さて、事の顛末を他者に話すと物語となり、物語は嘘をつく。
物語ることで楽になってしまう部分もある。
そして、楽になることは許されるのだろうかという疑問がある。
だが・・最近、物語ー虚偽を含んだものとしても、誰かにそれを語りたくなる。
誰のため?自分のためでしかないだろう。

許しを乞うことでなく、教訓を伝えることでなく、自分のため以外に物語るということはあり得るのだろうか・・
もし、その可能性があるとするならば・・


自殺したら・・負け??ー2、私個人の話

2018-10-19 22:49:50 | 思考
過去にあった悲劇や不運の類いはここでは語らない。
そして、来年から大学院生になると仮定してそれが手遅れだとも思わない。

それでも、深淵には自殺念慮がある。

前の日記で書いた、農業アイドルやブラック企業における過労死という、外面の地獄に身を晒したことはない。私は・・自滅だ。
強いて言うなれば、メディアが作ったイメージに引き金を引かれそうになったことはあるが、今は関係ない。

自殺は土俵を降りることであり、死んだら全てが終わり。そしていつか絶対に死ぬ。
それは確かに呪いではあるのだが、だからと言って、私の自殺を肯定する根拠としては薄弱だ。
(死んだら終わり、というものも本当は分からないのだが。)

お金があるにこしたことはない。物欲がない訳ではないから。
名声や社会的承認も欲しいのだろう。事実、他者に認められるとそれなりに嬉しい。
恋愛、結婚も出来るかはともかく、相手が見つかればしたいのだろう。性欲も恋慕の情も少しはある。

まとめると、現世的な利益への欲求は少なからずあるのだ。
そして、それらを満たす手段や方法も可能性が低いが、ゼロではない。

だが、それらがインセンティブとして機能しない。
学問をやっていく以上、そういう外発的な誘因だけでなく、知的好奇心という内発的な動機もある。

だが、何故だろう。
それらに触発されない。うつ状態と言えばそれまでだが、何かもっと根本的な所でそれらの価値を否定している。
いかに現世的な利益を享受したとしても、死後どころか生前にもそれは持続しない。
自分の生だけでなく、全てのものは終わるもの。
仏教的な生々流転という観点に立たなくても、それは理。
それを空しいと感じ始めたのは幼少期から。

ならば、覆すのは難しい。
むしろ、全身麻酔伴う手術によってその信念は強化された。

だが、ここまで書いてきて、収穫が見つかった。
終わるということを何度も書いてきたが、逆に、何が終わるのだろう。そして、終わらないとは何であろう。
死、それは確かに肉体的には化学組成が変わる。その意味では、確かに終わる。
だが、そもそも、生物はすべからく、絶えず、生成と消滅を個体レベルで繰り返している。
代謝とはそういうこと。

つまり、常に終わって常に始まっている。

この思索が何か私の役に立てばいいが。