自分を忌み嫌い、自殺念慮に悩まされながらそれでも自殺出来なかった入院前。
自殺念慮は消えたが、夜眠る前に死に怯えながら布団に入っていた入院後。
その止揚ではないが、心理学・哲学の見地から新しい心境が生まれつつあるのかもしれない。
今まで、そしてこれからも肥大化した自我には悩まされるのだろうが、そもそも自我とは、自己とは自意識とはなんであろうか。
結論から言えば、そんな確固としたものは存在しない。
あらゆる社会的な相互作用(文明社会ではその一刻一刻)でその都度、構成されて生まれいづる「それ」を「そう」呼んだだけ。
生命の適応上、生じたシステム。
そう見なすことが出来れば、死というのも割り切れる。かもしれない。
そうすると、毎晩、怯える必要はないかもしれない。
でも、それは恐ろしい可能性にすらなる。
今まで自殺を選べなかった臆病があったが、次に自殺念慮が長く続いた時にこの心境がどう作用するか不明だからだ。
世界に目的も意味も価値もなければ、自分という存在にもそれがない。
欲求ー衝動も微弱なものとしてしか残っていない。
今現在、自殺念慮はないが、存在として微弱な我が身を動かしていくのはしんどい作業だ。
病気でも老衰でも、自殺でもなる時になったらなるようにしかならない、か。
こういうの悟りではなくただの諦観だな。
自殺念慮は消えたが、夜眠る前に死に怯えながら布団に入っていた入院後。
その止揚ではないが、心理学・哲学の見地から新しい心境が生まれつつあるのかもしれない。
今まで、そしてこれからも肥大化した自我には悩まされるのだろうが、そもそも自我とは、自己とは自意識とはなんであろうか。
結論から言えば、そんな確固としたものは存在しない。
あらゆる社会的な相互作用(文明社会ではその一刻一刻)でその都度、構成されて生まれいづる「それ」を「そう」呼んだだけ。
生命の適応上、生じたシステム。
そう見なすことが出来れば、死というのも割り切れる。かもしれない。
そうすると、毎晩、怯える必要はないかもしれない。
でも、それは恐ろしい可能性にすらなる。
今まで自殺を選べなかった臆病があったが、次に自殺念慮が長く続いた時にこの心境がどう作用するか不明だからだ。
世界に目的も意味も価値もなければ、自分という存在にもそれがない。
欲求ー衝動も微弱なものとしてしか残っていない。
今現在、自殺念慮はないが、存在として微弱な我が身を動かしていくのはしんどい作業だ。
病気でも老衰でも、自殺でもなる時になったらなるようにしかならない、か。
こういうの悟りではなくただの諦観だな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます