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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

思い出に残る助っ人の訃報に触れて

2021年05月12日 | プロ野球

2,3週間前だろうか。

広島で70年代終わりに活躍し、
赤ヘル連覇の重要なチームのワンピースであったギャレットが亡くなったと聞いて、
非常に感慨深くその頃を思い出していました。

すると昨日、
今度は阪神で活躍したブリーデンの訃報も届きました。
田淵、掛布らと組むクリーンアップは、
確実性こそなかったもののまさに「猛虎打線」と呼ぶにふさわしく、
70年代の最後を彩ってくれた選手でした。


70年代の後半。
ワタシが最もプロ野球に熱くなっていた時期ともいえるでしょうか。

79年に西武ライオンズが誕生するのですが、
その前の70年代中盤~後半は、
セ・リーグの試合(主に巨人の試合)のみがテレビ放映、ラジオ放送されていた時代で、
阪神や広島は、
目にする機会も多かったですね。

75年の赤ヘル初優勝にはコーフンし、
76,77年ぐらいの阪神の野球には、
楽しさを感じました。

78年にはヤクルト初優勝、
79,80年は広島の連覇、
そして長嶋監督の解任や王の引退など、
時代が確実に変わっていく時期だったと思います。


ギャレットについては、
赤ヘルが確実に強くなっていく過程を、
ライトルとともに支えた選手という強烈な思い出があります。

ライトルは3番に座って確実な中距離ヒッターとしてチームに貢献し、
ギャレットは穴はあったものの、
その長打力で一気に試合展開をひっくり返した選手というイメージを持っています。

77年の35本塁打、91打点、
78年の40本塁打、97打点は見事ですね。

この二人の「超優良助っ人」を、
稀代のヒットメーカー・高橋義彦やミスター赤ヘル・山本浩二、鉄人・衣笠祥雄、
長距離砲の水谷、つなぎのチームリーダー・三村らが支えるんですから、
「史上最強打線」といわれたのもうなずけますね。

広島は75年の初優勝時も、
ホプキンス・シェーンという超優良外人に恵まれましたが、
彼らをさらに優良にしたデュオが、
このライトル・ギャレットの二人でしたね。

当時は1球団に外人は二人までの時代でしたから、
投手よりも打者、それも長距離砲が珍重された時代でしたが、
ホームランは出るものの「大型扇風機」という選手が主で、
これだけ打撃三部門でしっかりした成績を残す外国人は稀有な存在だったと思います。

今はホント、
「外人何人いるんだよ?!」
というぐらい各球団にたくさんの外国人選手が所属して、
試合に出るのも大変な時代ですが、
あの頃の外国人選手は各球団たった二人の「助っ人」ですから、
ファンにも強く印象に残っています。

チームを優勝に導いてくれる助っ人外人選手には、
ワタシは映画「シェーン」の後姿を重ねたりしてみていました。
とにかくカッコよかったですね。


そんな広島のシェーンと対比すると、
ブリーデンの印象は、
「ホームランは打つが、確実性に欠けるぶんぶん振り回す打者」
という感じですね。
それでも76年は37本塁打77年は40本塁打していますから、、
大したものです。

阪神は田淵が大看板として70年代中盤までは君臨していて、
そこにニュースターとして掛布が登場。
76,77年は二人の外国人選手であるラインバック、ブリーデンが暴れまくり、
面白い野球でした。

長嶋巨人が連覇した2年間でしたが、
王の756号なんていう話題もあり、
プロ野球は本当に盛り上がっていましたね。

ブリーデンはものすごく振り回すバッターだったので、
子供の間では「ブリブリブリーデン」
なんて呼ばれていました。

何しろワタシにとっては、
懐かしい時代ですね。

そんな二人が、
78歳と76歳で鬼籍に入られました。

あの豪快なバッティングのことは、
忘れようったって忘れられるものじゃありません。

野球好きの少年にとっては、
青い目をしたヒーローそのもの。
子供心に、
その雄姿は焼き付いています。

どうか安らかにお眠りください。
そして日本に来てくれて、
本当にありがとう。



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