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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

夏の甲子園 名勝負集その7

2020年04月14日 | 高校野球名勝負

10年ぶりに書き始めてから3回目。
こんな状況かですから、
なんだか普通に甲子園が行われているときが無性に愛しい状態です。

巣ごもりばかりが喧伝されて元気も出ませんが、
何とか乗り切っていきましょう。




昭和61年 3回戦
東洋大姫路(兵庫) 1-0 拓大紅陵(千葉)  

横綱・拓大紅陵がまさか完封負けに散る。野球王国・千葉の復活はならず。

昭和61年の大会というと、前年までのKKコンビ擁するPL学園のあまりにも強烈な印象が残っていたからか、どうしても印象が薄い大会というイメージが先行します。前年の熱と比べるとやはり少し収まったかに見える大会も、その年に高校3年生になった選手にとっては一生に一度の大切な大会。やはり高校野球は選手という横軸を中心にしながら見ながら・・・・と思います。どうしても甲子園を見続ける『高校野球オヤジ』は、縦軸で眺めてしまうことが多いので。
さて、ということでこの大会。大会前に注目されていたのは選抜で有力視されながら一敗地にまみれた東西の横綱、千葉の強豪・拓大紅陵と、奈良で初優勝を狙う名門の天理でした。そこに大会No1の剛腕・近藤を擁する享栄が絡み3強を形成というのが今大会前の見方。そして注目は選抜で大旋風を巻き起こし4強に進出した新湊の戦いぶりといったところでしょうか。抽選のいたずらで初戦に天理と新湊が激突ということになりました。それを横目に拓大紅陵は初戦では対戦相手の決まらないBYEのところから登場という難しい場所からの登場となりましたが、2回戦を完勝して立ち上がり、「やはり優勝への一番手か」との評価を得ていました。チームは安定感抜群のエース木村ががっちりとマウンドを守り、それを強肩の飯田(ヤクルト)がしっかりリードするという軸のしっかりとしたチーム構成。打線も上位下位ムラなく打てて、しかも小技や足技も得意という得点力の高さで、守備もがっちりしていたことからスキなしとみられていました。千葉県と言えば、昭和40年代から50年代初頭にかけて、神奈川と並んで「野球王国」の名をほしいままにした地区。熱狂的なファンも多く、県大会の上位の戦いになってくると殺気立って大変という印象が今でもあります。しかしその黄金時代を抜けた50年代後半は甲子園(特に夏の選手権)での活躍があまりありませんでした。千葉の高校野球ファンはかなりイラついていたかと思いますが、それでもこの年の前年の昭和60年には銚子商が大型チームを作って甲子園に臨んでいきました。優勝候補に上げられ銚子の熱狂的な銚商ファンも「PL何するものぞ」と意気込んでいたものの、まさかの初戦負けの憂き目にあい意気消沈。しかしその翌年、房総半島の木更津から新興勢力の拓大紅陵が、前年の銚子商に負けないぐらいの大型チームとして甲子園に登場、「今度こそは」の期待は非常に大きかった覚えがあります。銚子商は『超大型チーム』でしたが、拓大紅陵は『安定感抜群の負けにくいチーム』だったので、「今度はそう簡単には負けね~ぞ」の思いも強かったのではないでしょうか。拓大紅陵は昭和59年に元日大三監督であった小枝監督を招聘して甲子園に初出場。そこから90年代の初頭にかけて黄金時代を築きました。『安定した戦いぶり』というチームカラーが際立つチームでしたが、強敵とのしのぎあいの試合に勝ち切れなかったという印象も強いチームです。小枝監督はこの後夏の選手権で準優勝を飾るなどいろいろと強いチームを作り上げましたが、個人的には圧倒的にこの年のチームが一番強かったのではないかと考えています。さて試合です。「こんなに歯ぎしりをする試合は経験したことがない」ぐらいの、ギリギリする戦いでしたね。あれほど簡単に点を挙げていた拓大紅陵の打線が、たったの一点が取れない。。。。。チャンスは無限とも思えるほどあった印象ですが、チャンスにはことごとく野球の神様にそっぽを向かれ続け、ただの一度もホームを踏むことはなく、序盤にちょっとしたスキを見せて取られた1点が、重く重く最後までのしかかってしまいました。確かに東洋大姫路の2本柱の投球はなかなかのものでした。エース長谷川(オリックス―MLB)に、球威抜群の”抑え”島尾。しかしその戦力よりも何よりも、甲子園のことを知り尽くした闘将・梅谷監督が実に試合の流れを読み切って最後まで相手にスキを見せなかったという感じの試合でした。「今年の拓大紅陵は、こういう試合じゃなきゃ、まず負けない」と思っていた「こういう試合」を、見事に甲子園でやられてしまったということです。ワタシも拓大紅陵に全国制覇という夢を見ていましたので、試合がゲッツーで終わったのを見た後は、しばしボー然として動くことができませんでした。そういう意味でも、いまだに忘れられない、この試合です。


昭和61年 3回戦
 高知商(高知) 2-1 享栄(愛知) 

剛腕・近藤の夏終焉。写真誌禍に巻き込まれ、全国制覇に届かず。

昭和50年代まで、そう、我々世代の高校野球部と言えば、今とは全く様相が違っていました。ひとことで言えば、ワイルドな世相を反映して、野球部にもそういった人材が多く集まっていたということです。ルーキーズとまではいわないものの、エネルギーの発露する場所を追い求めた若者の集団と行ったらいいのでしょうか、悪いことは一通り通ってきた軍団が多かったように思います。もちろん、”プチ悪事”である酒、たばこはお約束。まあ、『昔はよかった』ということは言いませんが、なんとなく許容されていたという世間の空気があったということは言えると思いますね。そのあたりはご容赦してもらって。。。。。しかしながら、このブログでもたびたび書かせてはもらっているのですが、甲子園というものが本当に影響力を持っていた時代にあって、強豪校のつばぜり合いの中に「外野からの先鋭化した声」というものが介在していたというのもまた、事実でしょう。今で言えばさしずめ「文春砲」とでも言いましょうか。昭和50年代~60年代にかけては、ただの週刊誌から更にえぐくなった写真週刊誌というものが全盛。フォーカス、フライデーという「2大巨頭」を筆頭に、フラッシュやらエンマやら、そんな雑誌が週に何誌も発行されていました。もともとがゴシップを取り扱うタブロイド紙の過激版みたいなものでしたから、朝から晩までゴシップを追いかけ何千里・・・・・・ってな感じで、社会的に影響力のあった高校野球、特に高校球児のものも追われまくっていました。そんな中でその餌食になってしまったのが、剛腕エース近藤を擁した大型チームの享栄でした。
享栄はあのカネやんこと金田正一さんの母校でもあり、その当時も愛知県の『私学4強』の一角に数えられる存在でしたが、全国の舞台に顔を出すのは昭和58年からでした。その年藤王を軸にした強打で選抜出場を果たし久々に甲子園の土を踏んだ享栄は、翌59年夏にも甲子園に出場。ようやく長い沈黙を破り『甲子園出場ロード』をつかんだ享栄が、満を持して甲子園に送り込んだのがこの昭和61年のチームでした。エース近藤は秋の新チームの時点から「翌秋のドラ1確実」と言われ注目されていた剛腕で、選抜でも優勝候補の一角に名を連ねていました。選抜ではミラクル新湊の前に初戦で完封負けを喫し敗れ去りましたが、春から夏にかけて打線がグレードアップ。夏の選手権では、堂々の優勝候補3強の一角として名を連ねていた注目のチームでした。しかし、注目されればされるほど、狙われる確度も高くなるというもの。「享栄番」のようなカメラマンが狙っていたところに、まんまと脇が甘かった部員が乗ってしまってパシャリと撮られた喫煙写真。これが発表されてしまって大騒ぎになり、正直享栄は完全に『ヒール』の役割を背負って甲子園で戦わざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。このことでナインは、なんだか委縮してしまったように、甲子園で力を発揮することができませんでした。しかしこんな中でも一人気を吐いていたのはエースの近藤。その唸るような速球と大きなカーブは、相手をきりきり舞い(なんとも古いね、表現が!)させていて、初戦でわずか1安打完封勝利を飾ったと思ったら2回戦では強豪の東海大甲府に対して一歩も引かない投球を披露。東海大甲府のエース・窪田との左腕対決は見ごたえがありました。なんとなくざわついた雰囲気の中でも、近藤は三振を取るたびにふてぶてしいまでに左腕を天に上げて「どうだ!」とばかりのポーズを見せて満天下に『俺を打てるもんなら打ってみろ!』と吠えているようで、かっこよかったですね。久々に出た「サウスポーの剛腕」で、切れがいいという感じではない、ズドーンとくる速球の威力は最高でした。その近藤が3回戦で相対したのが、この時代『高校野球王国・四国』で池田とともに一時代を築き上げていた高知商でした。この頃の高知商、いつ何時でも剛腕投手がマウンドにデーンと構えて相手を寄せ付けず、打っては「黒潮打線」の異名通りに鋭く相手を打ち崩す・・・・・そんなチームでした。この年の高知商のマウンドを守るエースは岡林(ヤクルト)。高校時代は線が細い感じの投手でしたが、大学で成長するとドラ1でヤクルトに入団、92年の日本シリーズでの八面六臂の活躍が深く印象に残る正統派右腕です。その岡林もこの対戦に当たっては、明らかに近藤よりも格下という取り扱われ方でしたが、岡林はこの試合、静かに燃えていたようにワタシには感じられました。高知商というよりも四国のチームが大好きなワタシでしたが、正直この時の岡林はさほど好投手という思いはなく「打ち勝つしかない」と思ったりしていました。しかし必死に投げる岡林をバックが守りで支え、享栄に点を与えず試合を後半にもつれ込ませました。近藤は相変わらず素晴らしいピッチングを続けていましたが、享栄の打線はやっぱり「事件」の後遺症からか、攻撃にキレが全くなく、打てども点は遠いというつながりを欠いた攻撃で岡林を攻略できませんでした。そしてカクテル光線の中迎えた8回。高知商は確か1番打者だった坂本がバッターボックスへ。「小柄だがパンチ力がある右打者」という高知商がどの年のチームにも必ずラインアップに入れているタイプの好打者であった坂本が、近藤の速球(と覚えています)をたたくと打球はレフトスタンドへ一直線。近藤の「あ~っ」という無念の顔を横目に、見事な決勝ホームランとなってスタンドへ飛び込み、高知商がこの接戦を制して『さすがは四国野球』という凄みを見せて準々決勝へ進出したのでした。
高知商のこの頃の勝負強さについてはまた別の稿ででも書くことにしますが、やっぱり「事件」の後遺症で敗れ去った享栄は、本当に悔いの残った甲子園になってしまったというのがワタシの感想です。結果的に天理が優勝するこの大会ですが、エース本橋がひじ痛を発症してボロボロになってしまったチーム状態でしたし、もう一つの優勝候補だった拓大紅陵は既に敗れていて、結果論にはなりますが、享栄はこの試合さえ抜けていれば、優勝まで駆け上がった公算は高かったのではないかというのがワタシの『歴史のif』です。その後享栄はこのチームほどの大型チームを作ることはついぞなく、甲子園で1勝するのも難しくなった90年代を経て、新世紀では甲子園に来ることはここまで一度もなく、最近では「愛知4強」とも呼ばれなくなって久しい状況です。この昭和61年のチーム、全国制覇する最大のチャンスだっただけに、まさに「逃がした魚は大きい」ということがいえる、痛恨の大会だったと思います。




昭和62年 1回戦
東海大山形(山形) 2-1 徳山(山口) 

「決まった!」一転悪夢のエラー。徳山のエース温品、無念すぎる敗北。

昭和62年の大会と言えば、立浪、片岡、野村、橋本らのちにプロ野球で大活躍する選手たちがキラ星のごとく揃ったPL学園が春夏連覇を達成した年として印象に残る年でした。とにかくスキのない野球で頂点に君臨したPLは、高校野球の頂点を極めたというのにふさわしいチームでした。高校生の中に、ひとチームだけ社会人が混じっているようなまさに「次元の違う」大人のチームという風情で、とても印象深いプレーを数々見せてくれました。そんなPLにこの2年前にボコボコにされてしまったチームがあります。それが7-29で敗れ去った東海大山形。KKコンビ擁して「史上最強」と言われたチームが相手で、しかも自軍のエースは肘を故障中という不運もありましたが、それでもこの敗戦はショックでした。この敗戦を受けて、山形県議会で「県の高校野球を何とかせんといかん」という議論になったほどの衝撃を与えた試合でした。この当時東海大山形は、県内では名門の日大山形に追いつけ追い越せで強化して、2強と言われたチームでした。もとより東海大のストライプのユニを着ていますのでそのオーラもあり、県内ではほぼ無敵の強豪に変貌を遂げていました。しかしその鼻っ柱をへし折られたのが先に述べた7-29の敗戦。ここからどうやって立て直すか……その答えは甲子園にしかない、ということで翌86年には春夏連続で甲子園にコマを進めるもともに初戦敗退。しかも1-7,0-1と自慢の打線が火を噴かずの苦しい敗戦でした。そして3年連続での夏をつかんでやってきたこの年の甲子園。ここまで甲子園で通算0勝4敗、一勝も上げることができていないチームの目標は「なんとしても初戦突破」以外にはありませんでした。抽選で決まった相手は山口の徳山。ごく普通の県立進学校で、ここまで上がってきたのが不思議と言われるチームであったことは間違いありません。山口県は宇部商が最強の時代で、県代表になるのはかなり難しかった時代。その時代にあって、県大会を勝ち抜いてきたこの徳山は「何かを持っているのだろうな」と思われていたものの、東海大山形にとっては「よっしゃ!今年はいけるぞ」と思ったことは想像に難くありません。そんな背景をもって始まったこの試合。試合のペースは徳山が握り、エースの温品投手は「こういう投手がいれば、勝ちあがってこれるなあ」と誰もが思うような、見事なピッチングを披露しました。球のキレとコントロール、「高校生が好投する要素」を兼ね備えたこの『高校野球ならではの極上のエース』は、9回まで強打と言われた東海大山形打線をほぼ完ぺきに打ち取ってゼロに抑えました。東海大山形は毎年『強打が看板』という触れ込みのチームでしたが、甲子園で打線が火を噴いたことはほとんどなく、唯一火を噴いたのはあのPL戦の9回ぐらい。30点近くリードされて、PLが投手でもない清原を「思い出のマウンド」に上げた試合のみでした。9回は2アウト3塁と最後のチャンスをつかむも温品投手は落ち着き払ってマウンドから変わらぬ投球を続けており、「完封必至」というオーラを放っていました。東海大山形最後のバッターは、果せるかなピッチャーゴロ。しかし「決まった~」と思った次の瞬間、信じられないことが起こりました。簡単にさばいた温品投手、これまであれだけキャッチャーミットが構えられたところに正確に放っていたボールが、あろうことか一塁手のはるか上に。まさかのピッチャーゴロ大暴投となって、まさかまさかの同点劇。こうなると甲子園の魔物が牙をむいて、すかさず東海大山形に逆転のタイムリーが飛び出して試合があっという間にひっくり返ってしまいました。
「どうしたんだ温品投手」全国ン千万の高校野球ファンの誰もにそういう感想を残したまま、温品投手はそれでもさわやかに甲子園を去っていきました。そして徳山高校は、その試合が甲子園の唯一の試合となっているのです。対する東海大山形は、まさかの試合で初めての甲子園の勝利を挙げると、波に乗って2回戦では県岐阜商に対して『甲子園で初めて』自慢の打線が爆発。9点を奪って2勝目を挙げ奮闘、敗れた3回戦も最後まで粘りを見せて、大いに名前を上げたのでした。




昭和62年 2回戦
佐賀工(佐賀) 2-1 東海大甲府(山梨) 

剛腕江口の前に、東海大甲府の「全国制覇の夢」はかなし。決着はまさかの決勝ホームスチール!

この試合も忘れることのできない試合です。選抜大会で4強に進出し優勝したPL学園を最後まで追いつめた東海大甲府。昭和60年代にピークを迎えた東海大甲府は、智将と言われた大八木監督の下、『甲子園で勝てるチーム』で毎回優勝候補に挙がってくるチームでした。この年の夏も西のPLと並んで、東の帝京、東海大甲府と言われるぐらい期待されていたチームで、「簡単には負けない」とワタシも思っていました。一方の佐賀工。「佐賀って言えば佐賀商じゃないの?」って感じではありましたが、エースの江口が「ごっつすごいらしい」という評判のチーム。「ものっすごく球が速い」という触れ込みの大会NO1とも形容されるぐらいの注目度でしたから、この初戦の対戦が注目を集めていたのは確かです。それでもワタシ、「東海大甲府が負けることはないだろう」と思っていましたが、試合が始まってびっくり。江口投手の球、そりゃーえぐかった。球速もありましたが、球の伸びといおうかなんと言おうか、まさに「剛球」そのものの球筋で、「こりゃあちょっとやそっとじゃ、打てないな」という感じでした。その年山梨県には中込(元阪神)という好投手がいて、東海大甲府はこの中込やその他の関東の好投手をことごとく打ち崩していましたからいつかは打つだろうと思っていましたが、その東海大甲府打線が江口の球にことごとく力負けしているのを見て、なんだか不穏なものを感じながら見ていたものです。この日の江口の投球、ワタシの長い高校野球観戦歴の中でも、10本の指には入るぐらいすごいものでした。印象としては高校時代の槇原(大府ー巨人)かな。それぐらいの衝撃度でした。試合はものすごい緊張感をはらんだまま1-1の同点で終盤へ。「同点ならば試合巧者の東海大甲府課」と思ったその矢先の8回裏。ランナーを3塁に置いた佐賀工の攻撃で、佐賀工は見事な勝負手を打ってきました。それがホームスチール。詳細についてはもうワタシ、衝撃でボーっとしてあまり覚えちゃいないんですが、ホームスチールだったということだけはよく覚えています。そして試合巧者と言われた東海大甲府のナインが、まさにボー然とグラウンドに立ち尽くしていた姿が、思い出されます。大八木監督はこの大会で頂点を狙っていたと思いますが、残念ながらの初戦敗退。その後も何度も優勝してもおかしくないチームを作ってきたものの結局決勝までは届かず。そして東海大甲府を去って行ってしまうわけです。ワタシの中では、この大八木監督は高校野球界の『悲運の名将』のひとりだと思いますね。そう位置付けています。そしてこの試合で勝った佐賀工。あの江口の投球を見ると、『ひょっとしたら頂点もあり得るんじゃ』なんて思ったのですが、なんだか選手と監督がその後の練習やらの中でもめたとかもなんとか・・・・・。3回戦ではその影響からか、エース江口もナインも、それはそれはやる気がみじんも感じられない野球に終始し、「おいおい、東海大甲府に勝っておいてなんだよ・・・・」と思わず言いたくなるような試合で同じ関東の小粒な習志野にボコボコにやられて甲子園を去るのでした。そして初戦の後には『ドラ1確定』とまで言われた、有り余る素質を持った江口は、この3回戦で見せたような精神的なムラからか、その後ダイエーに入団するも大成せずに野球人生を終えてしまいましたね。しかしこの試合で見せた超絶な投球は、佐賀工という名前とともに、いまだにワタシの脳裏に深く刻み込まれています。


昭和62年 準決勝
常総学院(茨城) 2✕ー1 東亜学園(西東京) (延長10回)

木内マジックで波に乗る常総。ついに「マーベラス」川島をも倒して決勝へ。

昭和62年の選手権。PLの強さばかりが目立った大会でしたが、ワタシの中ではこの年の甲子園は関東のチームが久しぶりに活躍した大会として印象付けられています。選抜で8強に4校、4強に2校が入って気を吐いたこの選手権でも、”関東勢の大将格”と言われた東海大甲府、浦和学院が初戦で敗れるも他のチームが頑張って8強に4校、4強に3校が残り気を吐きました。その中でも「まさか」と言われたのが常総学院です。言わずと知れた「木内マジック」の木内監督が取手二を全国制覇に導いた翌年から率いているこのチーム。選抜では補欠校でしたが、まさかの出場辞退があったため何の準備もしないまま「初めての甲子園」に出場、敗れましたが全国にお披露目を済ませていました。そして夏。たくましさを増し春とは全く違った姿で出場した常総でしたが、もちろん初出場だけに多くの期待をかけられていたわけではありませんでした。『1回ぐらい勝てば…』と言われた臨んだこの夏、しかし常総は予想を覆す快進撃を見せてくれました。初戦で常連の福井商を破ると、2回戦では栽監督率いる沖縄水産と激突。相手のエースは3年連続の甲子園出場となる注目の上原(元中日)。この試合の初回に見事な速攻で4点を挙げて試合を決めた常総は、にわかに注目を集め始めました。スポーツ紙には「木内マジック」の文字が踊り、「木内監督が率いているんじゃ、何かをやってくれるはず」というふんわりとした期待が蔓延する雰囲気となりました。3回戦は大会屈指と言われる剛腕・伊良部(元ロッテ、NYYら)の尽誠学園が相手。伊良部は初戦で強打の浦和学院の打線、特に評判のスラッガー鈴木健を速球でほぼ完ぺきに抑え込んでおり、さすがの常総旋風もここまでと言われたものでした。しかし常総はここでもマジックを発揮。伊良部の速球に的を絞って鋭い攻撃を仕掛けて完璧に攻略。前日沖縄水産に7-0と完勝したのに続いてこの日も6-0と完勝。旋風は全く止まる気配を見せず準々決勝に進出しました。準々決勝は中京との対戦。この中京にも好投手木村(元巨人)がおり、考えてみれば常総は、2回戦から決勝まで、5試合連続、6人の『のちにプロ野球で活躍する投手』とばかり対戦していたことになりますので、そのくじ運の悪さは相当なものですが、初出場ながらそれをことごとく打ち破って決勝まで進出したパワーたるや凄いですね。準々決勝の中京戦は、疲れの見えたエース島田が初回に4点を先取されるも、打線がじわじわと追い上げて逆転、7-4と勝利をつかんでいます。
一方の東亜学園。この東亜学園は、この時期に一瞬のきらめきを見せた「流れ星チーム」ですね。エース川島は正統派の右腕本格派。2年生エースとして前年も甲子園のマウンドを踏みましたが初戦敗退。捲土重来を期して臨んだこの2年連続の甲子園で、彼は輝きを放ちます。初戦で伊野商を2-1と接戦で下すと2回戦では金沢を同じく3-2と接戦で下し、3回戦では延岡工を3-0と完封。徐々に光を放ち始めた彼の驚くべきはその制球力。何と3回戦までの3試合で与四死球が何とゼロ。無類の制球力で相手に付け入るスキを与えず、準々決勝でも北嵯峨に対して初めての四球こそ与えたものの完封勝ち。大会の流れとしては、王者・PLに対してこの川島が激突したらどんなことに・・・・・という感じで期待も高まっていました。しかしその前に立ちはだかったのが、木内マジックと圧倒的な勢いで勝ち上がってきた常総学院でした。準決勝で激突した両チーム。第1試合ではPLがライバルの帝京を一蹴して決勝進出を決めており、このPLへの挑戦者を決める一戦は沸き上がりました。試合はこれまで数多の好投手を打ち崩してきたさしもの常総打線も川島は打ち込めないという展開。6回に先取点を上げた東亜学園が、PLへの挑戦者として名乗りを上げるのは時間の問題とみられていました。しかし0-1とリードされた8回、常総のエース島田が放った打球は高々と舞い上がってレフトへ。まさかの同点ホームランが出て、ここでまた常総の勢いが加速していきました。延長に入った10回、満塁のピンチを島田の渾身の投球で切り抜けたその裏の常総の攻撃。その島田がヒットを放つと、打席には仁志(巨人)。ここで仁志はセカンドゴロを放つも、東亜学園のセカンドが痛恨の悪送球。当時広かった甲子園のファールグラウンドをコロコロと転がり続けるボールを見て、ランナーの島田が2塁、3塁も回りホームへ。送球は間に合わず、まさかのエラーによる幕切れで、あっけなく常総がこの激闘を制して決勝に進出するのでした。東亜学園、特に川島にとっては本当に信じられない結末だったろうと思います。ワタシも、できれば川島をPLに当てたかった。しかし常総の勢いはすさまじく、後半はその波に飲み込まれてしまったような試合ぶりでしたね。こうして木内監督は自身3年ぶりの夏の決勝に向かうわけですが、この頃になるともう彼の名声のあがり方はとどまるところを知らず、「尾藤スマイル」「池田」「PL」などと並んで「木内マジック」も高校野球語録の一つとして語られるみたいな感じになっていました。今振り返ってみても、この年の常総学院の夏の勢いはすさまじいものがありますね。ワタシは関東の9代表の中で、いいところ5番目か6番目ぐらいの評価だったのですが、木内監督に恐れ入ったと最敬礼するような戦いぶりでした。




本当は今回は「ポストKK時代」の61年~63年について、書こうと思っていたのですが、
あまりにも1試合の分量が多くなってしまったので、
昭和63年の戦いについてはまた後日。

スポーツの楽しい話題が全くないこの4月ですが、
何とか頑張って乗り切りましょう。






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2 コメント

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Unknown (gooyuhueriami)
2020-04-14 16:43:37
長谷川、島尾 懐かしい東洋大姫路。スパルタ梅谷監督 どれもが懐かしい。
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Unknown (まめちち)
2020-04-16 09:58:55
gooyuhueriami様、コメントありがとうございます。
昔の名勝負、思い出していただけて幸いです。
返信する

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