エクレアのあのねのね

大と為せば、以って大と為すに足らず

















なページ

玉手箱

2006年05月27日 19時48分29秒 | 徒然日記の50
このG.Wに実家に帰った時に実家で預かっていたというか幼少の頃の荷物を持って帰れと渡された。まあたいした量じゃないからいいんだけど何を大事にとっておいたのか?と玉手箱を渡されたような気分だった。

昔、つうか大病を患うまでは結構思い出って大切にしてたんだよね。
勿論今でもそうだ。決しておなざりにしているわけじゃない。ただ昔のようにものに対する固執がなくなっているから大事にとっておいたものとかそんなのはもう興味があまりなくなってるんだよね。もう心の中にある分だけで十分って感じ。

いつか旅立つんだから後に何か残るようなものはもう・・・

でもまあタイムカプセルのようなもんだからダンボールを開けてみた。
・・・
まあ喜んでいいのやらどう表現していいのやら・・・
子供の頃の写真とかも出てきたんだけどもう完全に記憶のない写真だったりしてこれをとっておいた根拠はなんだったんだろう・・・と。

両親の写真なんかも出てきたけど、どちらも過去の人なので今更感慨にふける気分にもならない。人間生きていてこそナンボだと実感する一瞬だね。

親は放っておいても普通子供より大体20年ぐらい先に逝っちゃうものなんだけどエクレアはまだ40だから平均的に考えると親が健在でもおかしくはないんだよ。
生きていれば何かと話をすることもあるんだと考えるとやっぱ死んじゃうのは忘れ去られるから駄目だ。生きていないと。でないと人の記憶に置いてもらえられなくなる。所詮、歴史上に名を残す人間でもなければ誰かが覚えていてくれることが生きている証ということになるんだから・・・

玉手箱の意義はこういった思い出を反復させることにのみ存在しているのかも知れなくて。そこに残されたものに今更価値を見出すことはない。今更、親の写真を私が持っていても誰に語り継ぐこともない。だからこの玉手箱の中身は一切合財無用の長物ということになる。なのに写真なんかの類は中々に捨てにくい。問題だ。

生きている限り思い出は出来るし物も思いも溜まりがちになるしそういったいい思い出を残そうと生きているのも事実。何も溜めないでも楽しくingで暮らす。この辺りが今後の課題かな?と玉手箱が教えてくれたのかな?





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