アクアコンパス3 続編

アクアコンパス3が容量一杯になったので、こちらで続きを開始します。

ワールドクルーズ 9 寄港地ツアー、エックスカーション

2025-01-20 19:08:57 | 旅行

今回は、クルーズの寄港地ツアーを紹介します。

寄港地ツアーは私が最も楽しみにしていたもので、乗船前には選択に迷い、色々な不安がありました。

ツアーの予約でいくらか後悔もありましたが、存分に楽しめました。

今回は、寄港地ツアーの選択のポイント、手順、注意などを紹介します。

クルーズでは寄港地ツアーと呼ばず、エックスカーション「Excursions」と呼びます。ここではツアーと略します。

説明は、コスタクルーズで、日本からの添乗員が居なくて、すべて私自身で予約し、夫婦で参加している前提です。

 

エックスカーション(ツアー)について

「ツアー受付」

*クルーズ会社のツアー予約。

必ず予約が必要です。但し、予約のキャンセルは会社(コスタ等)によっては返金不可です。

予約は、乗船前からインターネットで、専用アプリで出来ます。乗船後は、インターネットでも、船内のツアー受付でも出来ますが、インターネットが並ばなくて、早く出来ます。

ツアーの催行が決まっていて空席があれば、前日でも予約できるでしょう。内容によっては当日朝でも可能です。

人気のツアーは、早くから満席になってしまいます。満席の場合は、5ヵ国語毎にツアーを募集しているので、私は英語が満席だったら催行が決まってよく空いていたドイツ語ツアーを選びました。説明は分からなくても、集合、食事、トイレなど重要事項は英語で話してくれるので問題ありません。但し、事前に、「簡単な英語しか分からない」とバス乗車時にガイドに英語で伝えましょう。

 

*クルーズ会社のツアーか、自分で観光かの選択

クルーズ会社が寄港地ごとに、寄港日時に合わして寄港地ツアーを充分に用意しています。

クルーズ会社のツアーは安心で便利ですが、割高です。一番のメリットはツアーの出発と帰着に、気をもむことがない。もしツアーの帰着が遅れて、船の出港予定より過ぎても、船は待ってくれます。船の入港時間が遅れても、ツアーはそれに合わせて出発します。ツアー出発と帰着の遅れは、幾度もありました。

自分で観光する場合、確実に出港の1時間前に帰着しなければなりません。しかしワールドクルーズでは、クルーズ船が同じ寄港地に1泊2日する場合が10回以上あるでしょう。この1日目の町歩きは、深夜まで存分に楽しめます。

大都市の市内観光でホップオンホップオフ バスを使う場合、ケープタウンでは、現地の会社にインターネットで直接申し込む方が割安でした。但し、チケットの交換の為に発券所に行く不便があります。一方、ニューヨークの場合は、クルーズ会社の方が安く、さらに送迎バスまでありました。

カリブ海の有名なリゾートアイランドでは、寄港地の埠頭に、多くの現地ツアーが客引きをしていました。私は使いませんでしたが、利用する人はいました。

私が事前に寄港地ツアーをトリップアドバイザー等で調べ、コスタのワールドクルーズと比較したが、クルーズ会社のツアーの種類は多彩で満足出来ました。英語ガイドのツアー価格はトリップアドバイザーの方が安いのもあるが、高いのも有りました。安心を考慮すればクルーズ会社になります。

 

*自分達だけで、自由に町歩きをしたい場合

ツアーに便乗するのも良いが、夫婦で町歩きも良いものです。トイレは少ないので、レストラン等に入って利用するしかないでしょう。

今回、クルーズ会社が用意した、町の入り口への往復や市内循環の専用バスは少なかった。これはワールドクルーズなので、寄港地に発展途上国が多いためかもしれません。

クルーズ船の着岸埠頭が、結構不便な場合が多く、町の入り口まで片道数km以上の場合があります。この場合、クルーズ会社のツアーで自由散策のあるのを選ぶか、町の入り口までのクルーズ会社の往復バス(少ない)を選ぶのが良いでしょう。埠頭からタクシーを使っているクルーズ客もいた。稀に路線バスが埠頭近くを走っている場合があるが、その国で1日限りの利用となると、面倒で、一度も挑戦しませんでした。

事前に、着岸埠頭や寄港地の情報(通貨、埠頭からのタクシー有無等)は、船内で数ヵ所の寄港地をまとめて、会議室などで5ヵ国語毎にレクチャーしてくれます。案内の放送がありますので聞き逃さないようにして下さい。

 

「コスタ・ワールドクルーズ、マダガスカル、ノシべ島のツアー: 多くの寄港地で5~15件の半日、日帰りツアーがあります。所要時間、難易度、金額€が分かります。クリックするとさらに詳細が分かります」

「コスタ・ワールドクルーズ、モルディブ、マレー(首都)のツアー:ここでは1泊2日なので、半日、日帰り、1泊2日の20件以上のツアーがありました」

*選択上の注意

私が利用したツアーは日本円で、半日・日帰り・一泊で一人6000円~30000円ほどです。

この価格は2023年春のコスタ・ワールドクルーズの場合ですが、これはカジュアル客船なので、プリンセスなどプレミアム客船になるとさらに高くなります。

ワールドクルーズで50件ほどのツアーを利用しましたが、サファリやリゾート島1泊は安いの選ぶと後悔します。

安いと、サファリは見れる動物が3~4種類と少なく、リゾート島のホテルの眺めがよくない。これを事前に調べるのは難しいですが。

もし英語が出来て、クルーズ中にワールドクルーズ常連客に聞くことが出来れば良いのですが、私達は終わってから、知ることになりました。

私は、モルディブのリゾート島選びは、10件ほどの選択肢から、珊瑚の状態と魚影の濃さで選び、予想通りで良かった。全地球上の珊瑚礁の状態を学者グルーブが詳細に調査し、Googlemapに反映しているサイトがありました。

ワールドクルーズには無料のツアーが10以上ありますが、内容は薄いです。一度、訪れた所や関心の薄い所では良いでしょうが。半数以上使いました。

 

「クルーズ船からテンダーボートに乗る所」

 

*テンダーボートについて

クルーズ船が、埠頭に着岸出来ない小さな島などでは、救命用ボートのテンダーボートで乗客を、船から埠頭までピストン運転で運ぶことになります。

いくつか注意があります。

テンダーボートの利用は、航路が決まった段階から決まっていますが、天候によって、事前または当日の途中で中止になることがあります。利用は無料ですが、乗る順番があり、時間が掛かるので、面倒です。

テンダーボートの利用は、ツアー客優先でその日の一番から全員運び終わった後で、ツアー以外の乗客を運ぶ事になります。また乗船の順番は前日に、整理券が配られますので、放送を聞いて、貰いに行って下さい。希望が多いので、早く行くようにしてください。整理券の番号が後の方では、上陸時間がかなり短くなりますので、その島に長く上陸したいのなら、ツアーを予約することをお薦めします。

 

「集合場所でツアー出発を待っている」

 

*集合、出発について

前日、夜までに部屋に、ツアーのバス番号の紙札が届きます。指定場所と時間はアプリ等で確認します。

当日、船内の決められた場所、決められた時間に集合し、自分のバス番号を呼ばれたら、指定されたデッキのゲートから下船します。

 

「ステップを降りて、税関に向かうところ:通常、乗員が行く先を案内しています」

 

「税関を通らず、バスに乗る場合:左のステップを降りて、右に並ぶバスに乗ります。通常バスは数十台あります。」

通常、下船後、税関で入国検査を受けてから、指定された番号のバスに乗ります。すべて自由席でした。

集合場所は、複数のツアー客でごった返していますので、つられないようにして下さい。番号は、5ヵ国語でアナウンスされるだけなので、聞き取り難い。同じ番号の人を探すか、係員に確認する方が良いでしょう。出発時間は大抵、30分から1時間は遅れます。さらに国によっては税関も時間が掛かる場合があります。バスは待っていますが、たまにバスがさらに遅れて到着する場合もあり、日本のような定刻発車は無いと思ってください。

入国手続きは、最初の乗船前に、指定されていたビザや証明書、パスポートを船に提出しておけば、それぞれの国への入港の数日前に、船内で処理したパスポートや書類を渡してくれます。事前にアプリや放送で案内がありますので注意してください。

 

* その他、補足

ツアーで使う車は、バス、ワゴン車など様々で、識別は車の番号だけが頼りです。この時、クルーズ船のカードとツアーチケット(車番号記載)で、乗員が最終確認出来ます。確認されないこともありますので、同乗者に確認してください。

本来、ツアーバスに乗るのは、集合場所で出発の合図を受けてからのですが、急いで行っても、バスの1/3ぐらいは常連客が既に陣取っています。これは直接先に行く掟破りなのですが、クールズ会社は放置しています。見つかると咎められる場合もあるようですが。

ツアーでは、バス移動や観光地でも必ずトイレ休憩は用意されていた。

ツアーでは、様々な国の人と一緒になるので、国によってマナーが違い、厳格な国民性とルーズな国民性があるので、トラブルになります。控えめに、丁寧に行動する方が良いでしょう。このワールドクルーズでは、アジア人は、10人ほどの中国人グループ1組と韓国夫婦1組、我々日本人夫婦のみでしたので目立ちます。

 

* 参考に、プレミアム客船のツアーを紹介します。

 

プリンセスクルーズ、タヒチのツアー例」

「上記複数のツアーの一つを選び、詳細を見ている」

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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働くとは、何か 8

2025-01-19 08:17:11 | 社会

 

 

今回は、明治から大戦までの日本の悲しい労働運動を見ます。

1.明治(1968~1912年、明治45年まで)

 以前から鉱山で、明治からは造船所や製糸場等で多くの労働争議が起きた。
明治17年、活版印刷工が日本発の労働組合を作ろうとし、6年後には一度成功したが、まもなく解散にいたった。
その後も、様々な工場で組合の組織化は起こるが、失敗が続いた。
27年日清戦争の頃には資本主義の基盤がようやく確立し、労働者団結の気運がにわかに高まった。

 明治30年、労働組合期成会の結成によって、組合運動が本格化し、多くの進歩的な学者、経営者、政治家、宗教家の支援を集めた。
これは米国に出稼ぎに行っていた数十人の日本人の呼びかけが契機となった。
彼らは米国で弾圧に立ち向かう鉄道・鉱山労働者や、イギリス・ドイツ労働者の組合運動を見聞きしていた。
期成会は労働者保護法の工場法実現を目指した。
当時の工場労働者の大半は繊維産業に従事し、その大部分を占めた女工は低賃金、劣悪な労働条件下にあり、生糸工場の労働時間は毎日18時間にも達した。
政府は婦女子保護の工場法制定を目指したが、紡績業を中心とする産業界が強く反対し、ついに実らなかった。
この工場法は、やっと大正5年から実施されたが、まだまだ不完全なものだった。
期成会会員の9割は鉄工だったので、まづ東京中心に砲兵工場、ドック会社、鉄道、紡績場等の鉄工組合が結成され、その後、驚くべき勢いで発展していった。

 日鉄矯正会は、火夫、機関士等の約1千人で組織され、ストライキを通じて、当時民営だった日本鉄道会社に「組合員以外とは一緒に働けない」との待遇改善を呑ませ、日本では珍しいクローズド・ショップ制(注1)を確立した。
活版工組合は、資本家と協議し12時間だった「労働時間を1日10時間とし、30分間の休憩時間を取る」を勝ちとった。

 続いて横浜で家具職、神戸で清国労働者、東京で馬車鉄道の車掌、洋服職工、靴工、船大工職などあらゆる分野で組合が作られた。
上記の西洋家具指物職同盟会は、「雇用者が無資格の職工を雇用する場合、組合員はその職に従事しない」と規定し、労働条件を確保した。

 これら組合運動は欧米では当然で、いずれも労働者の地位向上、生活改善や保護法の制定、普通選挙制度の実施要求にすぎず、決して国家を脅かすものではなかった。
しかし、明治33年の治安警察法制定によって組合運動は壊滅させられた。
この反動で労働運動は、大衆の運動から一部の急進革命家の直接行動に変化し、やがて明治43年の大逆事件(注2)によって崩壊してしまう。

 

 

2.大正(1912~1926年、大正15年まで)

 大正元年、15人の同志によって友愛会が創設され、大正時代の労働組合運動が辛うじて再建された。
友愛会はその綱領に、相愛扶助、技術進歩、地位向上などを掲げ、きわめて労使協調的であった。
第一次世界大戦によって増加しながらも、まだ地位の低かった賃金労働者は、友愛会の運動を大歓迎した。
しかし、当初は穏健だった友愛会は、戦中・戦後の数度の恐慌による物価高騰や賃下げ、米騒動、吉野作造の「民本主義」、ロシア革命などの影響を受けて、労資協調路線を捨て、階級闘争をスローガンにするるようになった。
また大正9年には、日本で初めてメーデーと銘打った屋外集会が開かれた。

 一方、政府は普通選挙実施との交換で治安維持法を施行し弾圧を強化したので、全体として組合運動は現実主義へと向かったが、急進派との分裂は深まった。
友愛会から名を変えた日本労働総同盟は日本で最有力であったが、大正14年には分裂し、さらに左派は地下運動的な急進主義に向かい、右派は労資協調主義へと向かった。
これは、さらなる分裂を引き起こし労働組合運動陣営を分解させてしまった。

 

 

3.昭和から第二次世界大戦後まで(1926~1945年)

 昭和に入ると賃金労働者がより増加し、組合運動は発展したように見えたが、左派と右派の相互不信は解消されず、分裂は固定的なものとなった。
左派の組合運動は、昭和3、4年の共産党員等の大規模な検挙事件によって著しく弱体化した。

 一方、大正末期から昭和初期にかけての不況期における大企業を中心に、新しい、そして日本固有の労使関係の第一歩が踏み出された。
すなわち、それ以前の、転職の激しい高賃金の熟練職人工に代わって、若年の学校卒業生を採用し、中途採用を排し、企業内で技能養成をおこない、一定期間の後、技能優秀・身体強健等の若者だけを本雇いするようになった。
採用後は、従業員が定年退職まで転職しないような労務政策がとられたので、勤務年数の長さが賃金や地位を主に規定し、終身雇用と年功賃金が定着することになった。

 当初、労働者側は欧米のように産業や企業を横断する労働組合を望んだが、組合運動の拡大を嫌悪する政府と産業界の頑強な圧力に屈服し、諦めざるを得なかった。
この圧力は生活協同組合にも及んだ。
これにより労働市場は個々の企業内に制限され、広がる事が出来ず、一方で労働者は、雇われ意識が強くなり、かつ企業内競争に明け暮れるようになった。
これが現在日本の「働く人」だけでなく、産業構造の新陳代謝にも悪影響を与えるようになった。

この手の欧米より周回遅れの障壁(生活協同組合の営業範囲や公労協のスト権剥奪等)は、現在にも通じる根深いものがある。
実は、労働組合法は大正14年に発案され、昭和6年に帝国議会に提案されたが廃案になっており、大戦後のGHQの指令があるまで待たなければならなかった。注3

 既に労働組合は強権の前に合法的存在を得るには戦争協力をうたう以外に道はなかったが、遂に満州事変を契機とするファシズムの台頭は、労働運動の存在を根こそぎ破壊することになる。
日中戦争開始に伴い、昭和15年、残った日本総同盟も含めて総ての労働組合は解散させられた。

この日本の労働運動の不完全燃焼と労働者権利の未発達は、以後も足枷となる。
次回に続きます。


参考文献 :日本労働組合物語(大河内一男、松尾洋 筑摩書房1965年8月)を要約し、補筆しました。

注1: 採用時に特定の労働組合に加入している労働者のみを雇用し、脱退などで組合員資格を失った労働者を解雇する協定です。
クローズド・ショップ制は、18世紀半ばのイギリスの産業革命を背景にヨーロッパ諸国でよく見られましたが、日本ではあまり見られません。これは、日本では企業内組合が多く、採用後に従業員が組合員になるためです。

注2: 1910年(明治43年)に発生した社会主義者や無政府主義者に対する思想弾圧事件です。ジャーナリストで思想家の幸徳秋水ら12名が処刑され、社会主義運動は一時的に弾圧されました。

注3:終戦後の1945年に帝国議会に提出された労働組合法が公布され、翌年施行されました。これにより、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が始めて保障されました。

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ワールドクルーズ 8 船上の暮らし2 イベント等の愉しみ

2025-01-17 06:39:28 | 旅行

今回は、船上で催される様々なイベントや愉しみ方を紹介します。

 

初めに、シアターでの公演を紹介します。

シアターでの公演は、毎日、夕刻から2回、1回1時間ほど行われます。

夕食の時間が2回に分かれているので、どちらかで大概見られます。

公演の内容は、当日、前もってスマホで確認出来ます。

コスタ・デリチョーザの場合は、無料で、席は自由です。

席に余裕はあるが、良い席は開演の半時間前に行くのが良いでしょう。

シアターでの案内や説明に英語が使われるが、公演中の歌等は、どうしてもイタリア語が多くなります。

まづ日本語はありません。

 

公演の7割ほどは、専属のダンスチームによるショーで、途中交代はあるが、4ヵ月も乗っていると飽きます。

ショーは、ダンス、歌、アクロバットです。

上手な歌手やグループが幾度か、舞台に立ち、感動することはあります。

マジックやコメディーマジックもたまに行われます。

 

私が最も良かったと思うのは、インド洋、南アフリカ、南米、インド等、世界各地のローカルな舞踊でした。

特に、南アフリカの黒人学生らによるエネルギッシュなダンスには感動した。

 

 

数は少ないが、プールサイドで、乗員が仮装して、乗客が多数参加して祝うイベントがありました。

赤道通過など、数回盛大に催されました。

自由参加で、一緒に百名以上が乗員に合わしてダンスに興じます。

おつまみやワインもふるまわれ、盛り上がります。

 

 

船内の中央に大きなプール、後尾に小さなプールがあり、それぞれに小さなジャグジーがあります。

温水ではないが天井が覆われ屋内プールになるので泳ぐことは出来ます。

幾度か、シュノーケルの前の足慣らしで泳ぎました。

私は道具をつけませんでしたが、子供が使っていることがありました。

ジャグジーは、取り合いになるので、空いている時間を見計らっても相席になるのを覚悟してください。

バスタオルはキャビンから持って行きましたが、プールサイドで借りることが出来るようです。

濡れたバスタオルは、キャビンに持ち帰り、キャビン担当の乗員に交換してもらいました。

サンダルは必要です。

 

 

プールサイドでは、毎日、ゲームが2回以上行われていました。

私は初めの頃、参加していました。

ゲームの進行係りや、参加者は楽しい人ばかりです。

常連さんが多く、さぼっているとチームの足を引っ張ることになり、参加しなくなりました。

説明の言葉は単語が多く、英語、イタリア語、参加者によって多言語を使ってくれます。

 

上記は、妻が参加していたクラフトの作品の一例です。

毎日、2時間ほどあり、参加者は20~30名で、はじめは少なかったそうです。

多くは女性ですが、男性もいました。

指導者は美術のプロで、英語、イタリア語、スペイン語で説明してくれる。

材料をふんだんに提供してくれ、各地の特色を表現する作品作りになります。

数回、ここで作った紙の衣装で、ダンスホール内で仮装行列が行われ、観客が多く盛り上がりました。

終日航海日にクラフトはいつも行われるので、すごい作品の量になりました。

クラフト中、ドイツ、スペイン、米国、スウェーデン等の人と、話す内に、仲良くなる人が増えて行った。

これらの友人から、船上の個人の誕生会に呼ばれたり、いまだにメール交換をしています。

1年後、また別のワールドクルーズで日本に来日した2組の友人夫婦を神戸に案内しました。

 

毎日、このダンスホールではダンスレッスンが2回ほど、また同じ場所でクイズも2回ほどあります。

私達はダンスをしませんでしたが、欧米人はダンスが好きです。

クイズには幾度か、参加しましたが、日本語無しの5ヵ国語のクイズであり、話題もヨーロッパか世界になるので、私達には不利でした。

 

これで2回目のクルーズですが、欧米の人は、日光浴が好きです。

オープンデッキは、風があると寒いので、私達はしませんでした。

 

私達がほぼ日課にしていたのが、朝のデッキ一周と体操(ラジオ体操ではない)です。

これは毎日にあり、専門のトレーナーが先導してくれます。

参加者は、20~30人ぐらいでしょうか。

気持の良いものです。

 

おそらく女性には、買い物は必須でしょう。

コスタ・デリチョーザには、コンビニエンスストアのようなものはありません。

日用雑貨は、寄港地で買ってください。

上記の写真は、唯一の船内ブティックです。

店は大きく、ブランドの時計、服、バック等がメインです。

実は安い買い物が出来るチャンスがあります。

シアター公演が終わって、上記で説明したダンスホールを通ると、その横に小さなブースがあり、

不定期ですが、安めの装飾品やバックが売り出されます。

ここは賑わいます。

 

次回に続きます。

 

 

 

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働くとは、何か 7

2025-01-15 05:32:18 | 社会

 

 

今回は、明治維新から第二次世界大戦までの日本の変化を見ます。

 

 

 1868年、明治維新は支配層の新旧後退に過ぎなかったが、植民地の悲惨さを知っていたことにより、列強の侵略に対して富国強兵と内乱を拡大させない事で一致し、後の革新を可能にした。
幕藩体制は経済の不適合から農民一揆が多発し、藩は膨大な財政赤字で身動きが取れなかった。
また武士による新旧交代劇は支配層の危機感を和らげた事も幸いし、スムーズに維新が成功した。

 幸いな事に、欧米の産業革命と市民革命の成果(技術、制度、法律)が既に有り、欧米各国は日本への影響力を得ようとして、競うように日本にそれらを与えようとした。
日本は、従来より大陸文化の修得に長けており、思想では西欧のキリスト教を否定し、儒教と天皇制を保持しながら、技術や産業の導入には割り切って積極的になることが出来た。
また日本人は、平和な江戸時代に高い識字率、後の工業化に必要な勤勉さと、時間を貴重と考える意識が育っていた。

 新政府は、旧幕府時代と維新戦争の軍事費の負債、元士族への恩給などの支払いで財政は火の車だった。
当初、有業人口の7割を占める農民の地租(地価の3%)が国家収入の86%を占めていた。
農民は地租を円通貨で納めなければならなかったが、これは江戸時代の収穫米の約4割に相当し、さらに小作料を払うと農民の収入は3割まで減り江戸時代よりも少なかった。注1
困窮に喘ぎ農民一揆がさらに拡大し、また元士族も不満を抱き反乱を起こした。
政府は、全国に徴兵制度を敷き、これらを制圧したが、農家から男子が招集され事で、農家の苦難は増した。

 政府は、明治元年から10年ぐらいで、矢継ぎ早に制度改革(県、郵便、新聞、鉄道)、さらに殖産興業を打ち出す。
殖産新興は軌道に乗り、明治15年頃からは国税収入の地租割合は初期の86%から64%に下がった。
1880年代には、急速に発展した製糸業は輸出の6割を占め、女工が過酷な労働を担った。注2
大戦前の1940年には農林業者2割、鉱工業者8割と産業構造は逆転した。

国民らの強い要望と運動により、1889年大日本帝国憲法発布、次いで帝国議会が開会された。

 

 

 しかし、一方で暗雲が立ち込め始めた。
琉球漂流民に端を発した1874年の台湾出兵は、海外派兵の先鞭となった。
これは征韓論で燻っていた士族の不満を逸らすることも目的だったが、琉球の日本帰属が国際的に認められ、清国や朝鮮との外交に弾みがついた。
これ以降、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て日本は外地に広大な植民地を得た。
これは軍事費の恒常的な増大を招き、国家予算の6~7割を占め、大戦まで増加の一途になった。
こうなると繫栄するのは軍需産業と紡績産業だけだった。
貧富の差が拡大する中で、農民は相次ぐ恐慌と冷害に遭い、経済発展の恩恵を受ける事無く、貧困に喘ぎ、子女を身売りするようにもなっていった。

 

「明治から現在までの日本の所得格差の推移」<社会実情データー図録>から
縦軸のジニ係数は数値の多い方が格差が大きく、赤枠は第二次世界大戦を示す。

 グラフは、明治から大戦前まで、格差が拡大していた事を示し、大戦前の格差は、現在、世界で最も格差が酷い南アフリカに近かったようだ。注3

 このことは農家出身の下級軍人が度々がクーデターを起こす背景になり、日本は軍事独裁に向かっていくことになる。
正にこの時、農民の救済を前面に出す満州開拓が脚光を浴び、軍部の拡大政策とが一致し、満州事変が勃発、引くに引けず日中戦争、太平洋戦争へと突き進んだ。

政府は続く、戦時下体制を強化する為に、治安維持法の成立、情報統制と警察力による不平分子の検挙に力を注ぎ、ファシズムは完成し、破滅へと突き進んだ。

次回に続きます。


注1: 新政府は江戸時代と同等の税収を農民に課し、かつ高率の小作料収入を地主に保証したので、貧農は不況の度に土地を売り、寄生地主は増大していった。明治初頭の総耕作地に対する小作地の割合は約3割だったが、明治41年には自小作と小作を合わせた小農の数は農家総戸数の7割近くまでになった。こうして小作農民は農業だけでは生活できず、婦女子や二、三男を製糸・紡績業などに大量に出稼ぎに出さざるを得ず、折からの殖産興業を支える事になった。ある学者は、政治的に大きな力を持つことになったこの地主階級が日本をファシズムに向かわせる背景になったと説く。この地主制の解体は、大戦後のGHQまで待たなければならなかった。

注2: 日本の国家資本は、殖産興業等により膨大になり、明治30年で3割弱、明治40年には鉄道国有化も入れると5割を越えるまでになっていた。一方で、明治17年頃から官営の工場や鉱山が民間に払い下げられ、多くは財閥が取得することになった。維新当初から、政商(財閥)が政府と癒着し、巨大化していたが、さらに拍車を掛けることになった。

注3: ちなみに世界で最もジニ係数が高い国は南アフリカで0.63です。最も格差が少ないデンマークは0.23です。折れ線上の名前は、推計した学者名。

 

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ワールドクルーズ 7 船上の暮らし1 食事

2025-01-13 11:42:34 | 旅行

今回から数回に分けて、クルーズの船上の愉しみ、暮らしを紹介します。

今回は、毎日の食事の様子を紹介します。

紹介の一部には、このクルーズ会社COSTAとワールドクルーズに限定されているものがあります。

「2023年、ワールドクルーズでの船上の生活、楽しみ」2分30秒ほどのビデオです。

https://www.youtube.com/watch?v=2EH5kbEIhik

 

先ず、コスタ・デリチョーザを紹介します。

乗客は約2300人、デッキは全12階です。

公共的な屋内デッキは主に2、3、9、10の4カ所、最上階のオープンデッキが11です。

 

「私が食事に使ったデッキは9と2です」

9階の中央から後方にあるRistorante Buffet Muscadinsが、ビュッフェスタイルの朝昼夕だけでなく、軽食、フルーツ、ケーキなどを提供するレストランです。

席は自由に選べますが、余裕はありません。

料理や飲料などは種類によって提供される時間が決まっています。

料理や飲料などは十分が出て来ますが、並ぶことになります。

 

2階の後方にあるRistorante Albatrosが、朝昼夕の食事を提供するレストランです。

このレストランの利用時間は限られおり、夕食については航海中、時間と席が決まっていますので注意してください。

それ以外は、素晴らしいでです。

3階にも同名のレストランがありますが、私達が使うことはありませんでした。

 

ワールドクルーズについては、ビールとワインが、レストランとビュッフェ内で、昼夕の時間は無料です。

しかし他のバーやラウンジなどでは、無料ではありません。

これらも無料になる別購入のビバレッジ・パッケージがあります。

 

 

Ristorante Buffet Muscadinsの食事を紹介します。

提供される食事は非常に多彩で、Ristorante Albatrosに出る料理、ケーキ、ピザ、スパゲッティ、果物に始まり、

通常のビュッフェに出るものまであります。

多くの料理は日々変わりますので、4ヵ月間乗っていても、飽きることはないでしょう。

しかし基本、イタリア人とヨーロッパ人がメインなので、日本やアジア向けの料理は出ません。

小さな欧米風の寿司専門のレストランが別にあります、有料で時間が限られています。

稀に果物や牛肉、貝料理などを目一杯とって行く人を見かけますが、寛容なようです。

 

この場所で、様々なドリンクとビール、赤・白ワインが貰えます。

ビール、ワインの銘柄を選ぶことは出来ません。

時間外にアルコールは出ません。

 

外の景色を見ながら、談笑しながら、気の向くまま食事や軽食を楽しめます。

無料のコーヒーはありますが、あまりおいしくありませんし、時間制限があります。

水はいつでもビュッフェの給水機から備え付けのコップで飲むことが出来ます。

基本、水をポットに入れて持って行くのは禁止です。

服装はかなりラフで、サンダルもOKです。

 

注意が一つ。

エックスカーションや自由散策で帰りが遅くなった時、ビュッフェとレストランAlbatrosの夕食が終わっている時があります。

エックスカーションが予定より遅れた時、稀にビュッフェ時間が延長される時があります。

私はビュッフェの夜食を利用した事がありませんが、あるのかもしれません。

 

食事の例です。

これは愉しみの一つですが、各地を廻っていると、その地域を代表する料理等が提供される日があります。

残念ながら、限られたコーナーで提供されるので、かなりの行列になります。

 

レストランAlbatrosを紹介します。

コスタ・デリチョーザの夕食には満足しています。

私は一番安いキャビンを利用したが、料理は皆と一緒です。

以前、MSCクルーズを利用したが、コスタの方が良いようです。

当然、ビールとワイン、ジュースは飲み放題です。

料理は前菜、スープ、主菜、デザートをそれぞれ数種類から選ぶことが出来ます。

毎日、メニューは変わります。

残念なのは英語表記なので、まったく料理が連想できず、せいぜい肉、魚、野菜の区別がつくくらいです。

それでも毎日の夕食は愉しみでした。

朝昼については、ほとんどビュッフェを利用しました。

理由は、朝昼のメニューは単調で、時間がかかるので、ビュッフェの方が多彩で手短に食べれます。

それでものんびり静かに食べたい時は、空いているので良いかもしれません。

こちらのレストランでは、ラフな服装は禁じられています、毎回、黒のスーツや華やかなドレスの必要はありません。

事前にフォーマルが指定されている時だけ、着て下さい。

一応、フォーマル用の服装は持って行く方が良いでしょう。

いやならビュッフェで済ますことも出来ます。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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働くとは、何か 6

2025-01-11 10:15:35 | 社会

 

 

前回、英国の変化を見ましたが、今回はヨーロッパを見ます。

19世紀、ヨーロッパには、英国の自由主義と民主主義の奔流に加えて、ナショナリズムの嵐が吹き荒れていました。
その切っ掛けは、フランス革命に端を発したナポレオンの帝国拡大戦争でした。
これは抵抗する周辺各国に団結力(ナショナリズム)と軍備をもたらし、ほぼ1世紀間、ヨーロッパでは軍事力による民族国家の統合と同盟結成で境界線の変更が続きました。

 

一方、フランス革命は失敗していたが、ヨーロッパ各国に市民革命の種を撒くことになりました。
残念ながら、19世紀のほとんどの革命は、各国の強力な軍隊によって短命に終わることになった。

英国発の産業革命による資本主義経済と工業化はヨーロッパに浸透し、遂に恐慌がヨーロッパ全体まで繰返し襲うようになりました。

こうした状況を受けて、ドイツで大きな思想潮流が誕生し、やがて世界を巻き込むことになりました。

当時の思想家は、神などの権威を否定し、個人や平等の重視に向かってはいたが、まだ人の意識や観念論から抜け出せていなかった。
一方、現実を注視する思想家は、新しく誕生した工場の賃金労働者を疎外された者と見做し、それは工業化による仕事の分業化、恐慌、悲惨な都市生活を強いられたからであり、元凶は資本家にあると考えた。
彼らは産業資本主義を打破し、平等社会を作るべしと唱え、社会主義を提唱していました。

英国では、実業家オウエンが早くも1817年に協同社会主義を唱え、私財を投げ打って労働者解放を目指した。
彼の試みは失敗したが、英国では啓蒙主義が根付いていた事とナポレオン戦争の被害が少なかった事が幸いし、漸進的な改革が進んだ。

マルクスは、このオウエンを空想社会主義者と揶揄し、人類史を経済発展史と見なし、現在は経済構造変化の過渡期にあり、これは矛盾を内包しているので労働者による革命が必然的に起きるとした。

 


彼の唯物史観に基づく著作は斬新で、労働者にとって正義と愛に満ち溢れ、遠大な人類発展史の中で、労働者が主体の世界が必ず来るとした。
これには宗教的な救いの響きがあった。
彼の「共産党宣言」が発表された1848年、市民と農民による初の民主主義革命を目指したフランスの2月革命が起こった(フランスの革命は幾度も繰り返されて成った)。
さらに1871年、マルクスも関わった史上初の労働者自治政府(パリ・コミューン)が誕生したが短命に終わった(フランスの革命は幾度も繰り返されて成った)。
この後、自由主義者に代わって社会主義者が革命の推進者となっていった。


だが共産主義思想には問題があった。
マルクスはユダヤ系豪商の家柄で迫害に遭い、改宗を余儀なくされており、彼はユダヤ人が虐げられた理由を私利追及の経済行為にあると考えていた。注意1.
おそらく、この事と平等を絶対視するあまり、資本からの利得・利子取得の否定、旺盛な創意工夫を生み出す私欲(財産の私有制)の敵視し、単純な原始共産社会を唱えることになった。
これは明らかに失敗の原因となった。
もう一つ、暴力革命容認に大きな落とし穴がある。
歴史的に明らかですが、共産主義革命に関わらず、武力による政権奪取は、ほとんどの場合、軍事力を独占する人々が国の支配することになります。
また急遽議会を設立しても、民主主義が育たない社会や腐敗した社会では、早晩、独裁が蔓延ることになる。

次回に続きます。


注意1: ユダヤ人迫害は、古代ローマ時代のユダヤ教とキリスト教の対立から始まり、キリスト教がローマ帝国の国教に指定された後は、一方的にユダヤ教が邪教として貶められ続けた事が最大の理由と考えらる。

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ワールドクルーズ 6 古代遺跡と中世の街並み

2025-01-08 06:38:39 | 旅行

今回は、ワールドクルーズ中に訪れた古代遺跡と中世の街並みを紹介します。

代表的な19都市を各1枚の写真で、世界を早回りします。

 

「紹介する古代遺跡と中世の街並みの位置を赤四角と番号で示します」

 

「1.クロアチア、ドゥブロブニク」

ここはベネチアと唯一対抗できた、15~16世紀に栄えた海洋都市国家でした。

海からそそり立つ城壁に囲まれ、すべて石畳と石造りの街並みは、様々な映画の舞台となり、アドリア海の真珠と言われている。

あなたを遥か昔の幻想の世界、ドラゴンが飛来する世界へ誘ってくれるかもしれません。

 

「2.イタリア、カターニャ」

ここはシチリア島で2番目に大きな都市で、16世紀以降に建てられたバロック様式の建物が多く残っている。

歴史はギリシャ時代に遡り、ローマ遺跡も点在するが、移民も多く庶民的な街でもありました。

 

「3.イタリア、ポンペイ」

ここはナポリ湾岸にあり、紀元79年の火山噴火で埋もれていた古代ローマ遺跡です。

かつては2万人が暮らしており、貴族館の浴場から町のパン屋の厨房跡まで見ることが出来ます。

 

「4.フランス、エクス=アン=プロヴァンス」

ここの歴史は古いが、15世紀時代に繁栄し、ポール・セザンヌのお膝元の街として有名です。

街の至る所に趣向を凝らした噴水があることでも知らており、くつろげる街です。

 

「5.ギリシャ、オリンピア」

ここはワールドクルーズの訪問地で最も古い遺跡になり、紀元前10世紀頃、全ギリシャの都市国家が参加したオリンピック開催都市でした。

港から1時間のバスで向かうと、木々に囲まれたなだらかな丘陵地帯に、この遺跡は忽然と姿を現した。

 

「6.キプロス、首都ニコシア」

中心部には16~18世紀の城壁や教会などがひっそりと残っている。

この島国は、文明の十字路、古代より様々な民族に代わる代わる支配されて来た。

今も、この首都を境にトルコとギリシャに島を分断されており、さらにロシアの資金と富豪が逃げ込んでいる。

 

「7.イスラエル、エルサレム」

私が訪れた時は、この地は平和を謳歌していました。

この地の歴史は紀元前11世紀に遡りますが、キリスト時代の都市以降、幾度も破壊と再建が繰り返され、現存する旧市街の市壁は16世紀に再建されたものです。

街を行くと、様々な人種、白人(ユダヤ人)とアラブ人が共存していることに驚いた。

 

「8.ヨルダン、ペトラ」

ここは正に、伝説の都市、失われた都市と言えるでしょう。

広大な砂漠を越え、巨大な山塊を登って行くと、草木がまったくない大峡谷に至る。

深い枯れ沢の赤い砂岩の崖に掘られた無数の構造物が続く。

1日のツアーですべてを見ることは不可能です。

この都市は、アラビアの隊商交易を独占した民族が、紀元前後から地震で水源が壊滅する4世紀までに建造されたものです。

一つ旅行の注意があります。

ヨルダン訪問の後のイスラエル訪問はイスラエルが許さないので、両方を観光したい時はワールドクルーズは東回りを選んでください。

 

「9.インド、オールドゴアとパンジム」

写真はパンジムのポルトガル植民地時代の面影を残している通り。

ポルトガル領インドの首都は16世紀中頃からオールドゴアにあったが、伝染病の蔓延で18世紀に首都がパンジウムに移された。

オールドゴアはフランシスコ・ザビエルが訪れており、キリスト教化の中心地でした。

 

「10.チリ、首都のサンティアゴ 」

ここは16世紀以降、スペイン人が建設した都市です。

しかし、今は560万人が暮らす南米の最大都市の一つでもあります。

歴史都市と言うよりは近代的な巨大都市でした。

 

「11.ペルー、首都のリマ」

この地も、スペイン人が建設した都市でした。

ここはかつてインカ帝国の神殿や館があった。

現在、人口1100万人の大都市です。

 

「メキシコ、トゥルム遺跡」

ここはマヤ文明末期の城塞都市で、カリブ海に面した崖の上に造られている。

13から15世紀の間に繁栄した交易都市でもあった。

便利な位置にあり、景色も良く、保存状態の良い遺跡なので観光に適している。

 

「ポルトガル、ポンタ・デルガタ」

ここは北大西洋のほぼ中央にあるアゾレス諸島の一つサンミゲル島にある最大の港湾都市です。

ポルトガル人の航海の中継地として18世紀から19世紀にかけて繁栄した。

以前スペインのテネリフェ島(カナリヤ諸島)を訪れたことがあるが、 火山を除けば、こちらの街と畑の景観の方が美しいと思った。

 

「14.ポルトガル、首都のリスボン」

15世紀から17世紀の大航海時代、この河口の港から多くの船が出港し、大きな富を持たらした。

様々な記念碑的な建物があり、赤い屋根の家並みが河畔の丘を埋め尽くし、中世の大都市を彷彿とさせる。

 

「15.モロッコ、タンジール」

ここはジブラルタル海峡に面した古くからの国際的な交易都市です。

海に落ちる丘陵の斜面を所狭しと迷路の街並みが覆い、その先端には15世紀に出来た軍事要塞が構えている。

ムスリムらの喧噪の中を歩いていると実にエキゾチック感に没入出来る。

 

「16.フランス、マルセイユ」

ここは歴史が古く、フランス最大の港湾都市であり、15世紀以降の要塞や巨大な教会などが至る所に見られる。

 

「17.イタリア、サボナ」

ここはジェノバに近い港湾都市です。

この写真は16世紀築造された巨大な要塞跡から、サボナ港を見ています。

歴史的な街並みが良く保存されており、教会が沢山あります。

落ち着いた小さな都市です。

 

「18.モンテネグロ、コトル」

ここはバルカン半島にあるのですが、アドリア海に面した複雑なフィヨルドの奥深くにある小さな交易都市でした。

このフィヨルドはヨーロッパの最南端にあり絶景の一つです。

ベネチアが15世紀に、ここを支配すると、イスラム勢力の防御の為に背後の絶壁の山に城壁を巡らすことになった。

海と山に囲まれた実に美しいコンパクトな古代都市で、タイムスリップした気持ちになれます。

アドリア海沿岸に点在する古代ローマから中世に栄えた都市の景観はどれも素晴らしいと思いますが、

ドゥブロブニクとコトルは双璧だと思います。

 

「19.イタリア、ベネチア」

古い町並みが全体に良く保存されており素晴らしいだけでなく、クラシック音楽等の文化も守り続けられ、人々の生活もこの古風な街に根付いているのに感心した。

一方で、細い運河、迷路のような街路、朽ち果てた家の壁、貴重な草木、どれをとっても都市づくりの苦労が伝って来る。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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働くとは、何か 5

2025-01-07 07:13:22 | 社会

 

今回は、英国の産業革命が労働者にもたらした変化を見ます。

19世紀半ばに英国経済は絶頂期を迎えたが、労働者には光と影があった。

国富は増大し、便利な生活用品も増えていったので、農民と工場労働者の暮らし向きは良くなったはずです。
だが急激な都市人口の膨張は、粗末な住宅も災いし、都市は不衛生の極致に達していた。
また作業に腕力が不要になり企業は子女の労働を増やした事もあり、国民の平均寿命は低下した。
この背景に、英国経済を発展させて来た自由放任主義があり、企業家や住宅施行業者は規制が無い中、欲望のままに振る舞ったことが大きい。

もう一つ、以前まで無かった悲惨な状況が頻発するようになった。
19世紀半ばに初めて起きた恐慌が、それ以降10年毎に繰り返すようになった。
投機によるバブル崩壊は以前にも稀にあったが、恐慌はヨーロッパ全体を極端な不況に陥れた。
一言で言うと、恐慌は、過剰な生産と流通資金が一気に収縮することで企業と銀行が倒産し失業者が溢れ、経済活動がストップしてしまう事です。

これにやや遅れて、英国は帝国主義(インドやアフリカの植民地支配)に邁進し始めます。
これらの背景に、資本の集中と資本家の躍進、輸出入の拡大がありました。
産業革命は国を富ましたが、労働者にとって影の部分も多かった。

この中、英国の市民革命で定着した啓蒙主義(権威に反抗し人間性を尊重)が、再び燃え上がりました。
当時の議会勢力は、初期の貴族(大地主)に産業資本家が加わっていたが、工場労働者の意見はまだ反映されていなかった。
工場労働者は、改善の第一歩として普通選挙を訴え、暴力事件もあったが、平和的な運動で、これを実現した。
並行して、国や上流階級も労働者の為に様々な規制、貧困者の救済、公衆衛生の整備を進め始めた。

この時期に、もう一つの画期、労働組合の結成が紆余曲折を経て、社会に広がっていった。
労働者達が自ら様々な待遇改善を企業側に飲ませて行くことになった。
当初は、過激になったり、高級職人だけの職業別組合に留まったが、やがて地方に結成された様々な職業組合が、全国的に団結するようになった。
組合は、警察による排除、ストライキによる失業者への賃金援助、ストライキ潰しの御用組合などの障壁を乗り越え、全国的な団体交渉を行えるまでになった。
そしてストライキ権の確立、労働時間短縮などの労働条件向上や賃金アップを勝ち取っていった。
20世紀初め、遂に労働者を代表する政党を議会に送り、1923年には最初の労働党内閣を組閣するまでになった。

この英国の経済変化と労働者運動はヨーロッパに波及し、大きなうねりとなっていった。


次回に続きます。

 

 

 

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京都を歩く 2 瑠璃光院

2025-01-05 07:05:32 | 旅行

今回は、京都の奥、八瀬にある瑠璃光院を紹介します。

この寺は叡山電鉄叡山本線の終着駅、八瀬比叡山駅で降りた所にあります。

訪れたのは、2024年12月14日午前中でした。

 

「黄線が瑠璃光院までの徒歩ルート」

丸が電鉄駅、矢印が瑠璃光院で、徒歩時間は20分ぐらい。

高野川に沿って歩きますが、紅葉が綺麗でした。

瑠璃光院を観光している間は、雨が降り続けていました。

 

「駅近くから見た高野川」

 

「風情がある門に到着」

観光客が多いのと、中国系(大陸か台湾)が多いのに驚いた。

 

「玄関の前にある石橋」

門からここまで来るには、苔むした庭の間を行く石段を登ります。

石橋の下、左に池があり、鯉が泳いでいます。

 

「紅葉の間に、鯉が見える」

 

「縁側から望む庭」

 

「2階から玄関側を見下ろす」

紅葉は盛りを過ぎた頃のようでした。

 

「2階から庭を見ろす」

1面、苔の絨毯の間を行く筋かのせせらぎと小石の道が曲線を描き、その上を紅葉の木々が覆っている。

折からの小雨で、映し出す光は鈍く、厳粛な雰囲気を漂わせている。

 

 

「庭を囲む紅葉」

黒漆のテーブルに紅葉が映っている。

ここが瑠璃光院の最も美しい眺めだと思いました。

 

解説を引用

るりこういん
無量寿山光明寺瑠璃光院

平安時代から貴族や武士に愛されてきた八瀬大原にひっそりとたたずむ瑠璃光院。
元は明治時代の公卿・三条実美の庵で、大正時代末に大改修。
およそ1万2000坪の敷地に数寄屋造りの建物と、洛北の雄大な自然を借景とした3つの庭園が整えられています。

終わります。

 

 

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働くとは、何か 4

2025-01-03 18:43:23 | 社会

今回は、国民の働き方が大きく変化した様子を見ます。

 

18世紀後半に、英国の綿工業の隆盛から産業革命が始まりました。

 紡績機の動力に蒸気機関が使われ始め、人力に頼る必要が無くなり、様々な工夫発明が機械による大量生産を可能にしました。

生産増は物流の発展を促し、運河・鉄道の建設、蒸気機関車や蒸気船などの開発により交通網が発達した。

また、コークスの発明により大量生産が可能になった製鉄や相次いで発明された化学薬品が、産業と生活をより向上させて行きました。

英国の貿易額は世界の1/3を占めるまでになり、1820年、一人当たり実質GDPは主要56ヵ国でトップになり、日本の2.5倍になっていました。

 

なぜ英国で起きたのか?

 英国議会は、17世紀末に権利の章典で、議会の議決が王の権利を制限することに成功していた。

議会は、産業や商業の発展を促すことになる土地の私有や特許権などを相次いで定めた。

これらは富裕層に有利ではあったが、囲い込みによる農地の大規模化と農業改革、次いで産業革命へと向かう起爆剤となった。

この間に、農業の生産性が上がり、弾き出された人々は都市部に吸収され、工業やサービス業が興隆し、資本家の役割が増大した。

 

しかし百年もすると隆盛に陰りが見え、19世紀末には生産高で資源国の米国に抜かれた。

 一番大きな理由は、二世企業家らが新技術の採用や投資への意欲を失くした事でした。

また国内で増大した資金が米国等の海外投資に向かうようになったことも一因でした。

 

「濃い灰色の部分が『その他の国内資本』を示す」<ピケティ21世紀の資本論>より

赤枠が産業革命期、茶枠が二つの大戦期を示す。

産業革命期に年間所得に比べ農地の価値が急激に減少し、その他の国内資本(設備や資金か)が増えていった。

この国内資本は年平均4~5%の所得(利子など)をもたらすので、事故でも無い限り増え続ける。

二つの大戦期の破壊で激減し、復興によりまた拡大している。

 

 

「富裕層の上位から1%と10%の人々が所有する英国総ての富の割合を示す」

<ピケティ21世紀の資本論>より

産業革命以前から、大戦が始まる前まで、富裕層の富は増え続け、経済格差は広がり、1%の人が70%の富を所有するようになった。(初期の富裕者は大規模農地所有者か)

 

労働者に何が起きたのか?

 農業人口は減り、工業人口が増え、都市部に人口が集中するようになった。

産業技術や設備、金融資本が労働の種類と対価を左右するようになり、これらを所有する人々が新たな富裕層になり、経済格差が拡大した。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

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ワールドクルーズ 5 驚きと発見

2025-01-01 21:48:12 | 旅行

今回は、ワールドクルーズ中に、予想を上回る発見や感動を紹介します。

 

「赤丸が紹介する8カ所の寄港地、青楕円が紹介する船上の1体験」

 

 

「下2枚はヨルダンのぺトラ遺跡に向かう途中の景色」

アカバ港に近い、乾し上がった大きな川。

 

ペトラ遺跡途上の高原地帯、荒涼とした乾燥地が続く。

ワールドクルーズは、地球が如何に広大で、かつ人が住まない大地が多いことに気付く旅でもありました。

 

「下2枚は、マダガスカル、タマタベとノシべ島」

ノシべ島の村

大きな港湾都市タマタベから川を遡ってジャングルに向かう途中。

川沿いに粗末な住まいが並んでおり、その傍で、川石を砕いて建築用の石材を造っている家族総出の姿が多く見られた。

ワールドクルーズでは、発展しているアフリカも見たが、まだ貧困が続いているアフリカも見た。

 

「下2枚はモルディブ、フーシー島」

この時期は雨季で、雲一つない快晴とはいかなかったが、天気と魚影に恵まれた。

 

シュノーケリングを大いに楽しんだ。

ワールドクルーズでは、計の5カ所で潜り、世界の珊瑚礁を見て来た。

世界の珊瑚礁は温暖化等で、白化が進み半数が死滅し、さらに被害は拡大している。

ワールドクルーズ以外で、私は沖縄の珊瑚礁で20年以上前に潜っているだけだが、

まだ世界には海の楽園が残っており、何とかこのまま子孫に残して欲しいと願う。

しかし今の世界状況(トランプ政権)を考えると、望みは薄い。

 

 

「これはクルーズ船内での仮装パーティー」

船内では、様々なイベントが催されている。

これは手作りの紙の衣装で仮装し、皆に披露しているところです。

世界中から来た皆さんが、いつしか参加している内に、片言の多言語で、胸襟を開いて楽しみや喜びを分かち合うようになっていた。

特に、日本の人には、海外の人と接する機会を増やして欲しいと思う。

 

「下2枚の写真は南アフリカ、ケープタウン」

ケープタウンのシグナル・ヒルに来てみると、何故か多くの人が同じ海の方向を見ていた。

彼ら、家族やカップルが夕陽の沈むのを待っていたのです。

以前、中国の廈門の海岸で、奥地(貴州省)から来た人々が浜辺に沿って、立って並び、夕陽が沈む時に歓声を上げているの見たことがある。

南アフリカの様々な肌の色の人が、沈む夕陽を楽しく静かに見送る姿に胸があつくなった。

自然への感動は世界中の人に共通していると思えた一瞬でした。

 

ところが帰る段になると、山沿いの道は凄い渋滞で、クルーズ船に戻るのが10時頃になった。

この日は、クルーズ船は1泊するので事なきを得ました。

 

 

「ケープタウンのウォーターフロント」

この建物は、土産物屋、African Trading Portで、収蔵されている物が素晴らしかった。

 

1階は普通の土産物屋なのですが、2階と3階は、写真のような博物館並みの民族工芸品が所狭しと置かれていた。

見るのは無料で、説明書きは無い、すべて売りものです。

図録でしか見られない多彩な美術品が、直に見れたのは幸いでした。

 

「下2枚はアルゼンチン、ウシュアイア」

朝、港に着いた時は、非常に寒く、雨まじりの風が吹いていた。

急に、最果ての地に降り立った気持ちでした。

ワールドクルーズでは、赤道直下の熱帯から南極に近い最南端の地まで行った。

 

 

「チリ、アリカ港からアンデスの高地を目指す」

行く途中、草木が乏しい山肌が延々と続く。

港に戻る途中、大峡谷を上から眺めている。

ここはアタカマ砂漠で、谷底には細い川が流れており、久々に民家を見た。

インカ帝国の人々は、海岸の人々と交易する時、我々がツーバスで行った過酷な道を何日もかけて歩いたのだと実感することが出来た。

 

 

「下2枚はパナマのジャングルの川」

パナマの港コロンから、ジャングル奥地のインデアン村を訪ねる為に、カヌーに乗って上流に向かっている。

浅瀬では船頭が降りてカヌーを深みに押して、またカヌーは動き出す。

 

観光客はグループ毎に幾つかある村に案内される。

これはちょうど一艘が着岸したところ。

ワールドクルーズでは、幾つかの先住民の村を訪れ、念願の民族学のフィールドワークの真似事が出来た。

 

 

「メキシコ、ユカタン半島の遺跡と海洋公園」

このトゥルゥム遺跡はマヤ遺跡では、マヤ文明後期のもので小さい方だが、遺跡が広く立派で驚いた。

ワールドクルーズでは、各地の古代、中世の遺跡を見ることが出来た。

 

このシェル・ハ海洋公園、Parque Xel-Háはトゥルゥム遺跡に近く、淡水が海に流れ込む大きな河口湾全体からなる。

様々な施設、自然の景観(洞窟、マングローブ林、淡水の川)があり、至る所で魚が泳いでいる。

お子さんを連れていったら喜ぶのは間違いなしです。

 

以上で、驚きと発見の紹介を終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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働くとは、何か 3

2024-12-30 08:36:58 | 社会

 

今回は、日本人は古代から如何に働いて来たかを振り返ります。

 奈良時代、平城京の天皇が倭の国を津々浦々まで支配していた。列島の5百万人ほどの農民は、土地を与えられた見返りに、数百人の天皇と貴族の為に、身を粉にして働いた。農民は国と地方から二重に、税として収穫した稲や布、さらに労役と兵役を課せられた。自身の小さな田畑からの収穫だけでは自給出来ず、他でも働き、かつ税を払わなけらばならなかった。また洪水や旱魃が起これば、彼らは生きることが難しかった。税はほとんど猶予されなかったから、座して死ぬを待つか、逃げるしか道はなかった。

 

 平安時代になると私有が認められ、裕福な者が貧農の借金を方に田畑を取得、拡大させた。彼らはその土地を天皇家、摂関家、大寺社に寄進した形にし、それら最高位のお墨付きを背景に、国と地方に支払う税を減らし、農民を自由に酷使した。最高位の人々は、何もせずに潤うので、あるがままに任せた。こうして巨大な荘園が各地に広がっていき、農民はさらに喘ぐことになった。

 鎌倉幕府、室町幕府、応仁の乱へと天皇から将軍支配の時代に変わった。しかし頻発する戦乱により、農民は破壊と殺戮に苛まれた。農業技術が発展し、一部には灌漑も進んだが、収穫量が上がれば税が増えただけだった。発展し始めた商業からも税が徴収された。

 

 戦国時代になると人々に新しい動きが生まれた。国の権力層が混乱するに連れ、農民や地侍らによる自治が村から村同士、さらに小国へと広がった。これは惣一揆と呼ばれた。彼らは、皆で拠出した資金を使い、また全員の武力蜂起や農作放棄を盾に中央の公家や守護大名、大寺社に歎願や抗議を行い、要求をしばしば通す事に成功した。しかし戦国時代が終わる頃には、全国統一を図る覇者が彼らを粉砕した。

やがて平和が続く江戸時代になれば、庶民は楽になったのだろうか? 
 2400万人の農民は収穫の40%以上の年貢と労役が課せられ土地に縛られた。年貢は豊臣時代の石高2/3よりは減っていた。この年貢は180万の武士が消費し、飢饉時の放出以外ほとんど農民への見返りはなかった。しかも武士は一握りの将軍や大名の生活を支える役目に過ぎなかった。

 結局、江戸時代が終わる迄の1200年近く、日本の民は0.01%ほどの支配者(将軍と大名)に労働の5~7割を税として貢、ほとんど還元されない生活を続けていた。
皆さんは、この状況と今との違いが分かりますか?

 一方、江戸時代の半ばまでに、英国では貴族が国王の権力乱用を制限し、やや遅れてフランスでは市民革命をが起き、国王を断罪した。英仏米の市民は自由獲得に動き始めていた。

次回に続きます。

 

 

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ワールドクルーズ 4 世界の料理とレストラン 後半

2024-12-29 06:25:15 | 旅行
 今回は、前回に続いてワールドクルーズで訪れた海外のレストランと料理を紹介します。



「オレンジ線で示す範囲、赤丸の寄港地での食事」
二つの矢印、エクアドルのマンタからイタリアのサボナの間。


「熱帯ジャングル公園内のロッジ」
ツアーで行きました。
小雨の中、ジャングルを散策後の軽食でした。


見たことのない料理で、不味くはなかった。



「パナマの先住民の村」
パナマ運河の港コロンから、ツアーバスに乗り、さらにジャングルの川をカヌーで遡った。
ダンスを見る前に、昼食が出た。
魚のフライ、果物など、素朴で美味かった。






「コスタリカ、港プエルト・リモンにある中華料理店」
フリーで港に近い大通りを散策中に入った。


 
料理の量が多くて驚いた。
味は日本人に合うものだった。



「メキシコ、ユカタン半島にある海洋レジャーパークのレストラン」
ツアーで来て、半日過ごし、昼食をとった。


ビュッフェ形式、豊富な種類に驚いた。
あるゆる人種の客がいたが中国人が目に付いた。



「ニューヨークのラーメン店」
フリーで日本食レストランが多い通りを目指した。
探し回ったが日本店は少なく、この店に入った。
店は日本の味噌ラーメンのチェーン店で、店員は日本人だった。
コロナで日本店が多く廃業し、中国人に買われ、業態が変わった。






「ポルトガル、港町ポンタ・デルガーターのレストラン」
この港町は大きいのでレストランが多い。
ツアーの後、ガイドにお薦めのレストランを聞いて、昼食でここに入った。


魚料理を注文した。
蛸料理は値段の割に蛸が少なく、ここでも蛸は貴重になりつつあるのだろうか。



「ポンタ・デルガーターのクルーズ船着岸地に近い寿司店」
クルーズ船内にも寿司店はあるのだが、外で初めて食べた。
フリーで散策後、夕食に入った。





味は普通で、寿司以外にもビュッフェ形式で食べられた。
経営は中国人の家族経営で、安いのには驚いた。





「ポルトガル、リスボンのレストラン」
ここはブイヤベース専門店で、行列が出来る店でした。
本当に美味しかったので、お薦めです。


「レストラン名はUmaです」
赤丸がレストラン、黄線が散策ルートで、右がロシオ広場、左がコメルシオ広場です。


「ブイヤベース」




「モロッコ、タンジールのレストラン」
フリーで、ガイドにクスクス料理のお薦め店迄案内してもらった。
ガイドが注文してくれて、デザートまで付いているフルコースでした。
クスクス料理は北アフリカ発祥で、クスクス(蒸した小麦粉)に肉と野菜の煮込みをかけて食べる料理のようです。
安価だった。



「タンジールのレストラン、店名も位置も定かではありません」
右がクルーズ船の停泊地で、矢印が凡その位置です。
非常に狭い通路が入り組んでおり、店はたくさんあります。
食べ方がよくわからなかったが、多彩な料理で楽しめた。
好き嫌いがある人には向いていないかも。






「英領ジブラルタルのレストラン」
フリーで、メインの通りを歩き、テラス席で昼食を食べた。
イギリス料理のフィッシュエンドチップスとスペインオムレツ。



食べてる途中で撮影したので申し訳けありません。




「イタリア、サボナのレストランOsteria Da Oreste」
見た目は冴えない家族経営の小さな店ですが、味はお薦めです。
フリーで昼食に入ったのですが、繫華街から外れているにも関わらず、
昼食時はお客で満杯になりました。
トリップアドバイザー2017年のエクストリームに選出されていた。



「レストランOsteria Da Oresteの位置」
赤丸がレストランで、黄線がクルーズ船からの徒歩ル―トです。
途中、古い塔が立っている。





クルーズ中、凡そ70日間は陸上で昼食、稀に夕食も食べることがありました。
各大陸、島々、大都会、小さな港町など、各地各様の食事やスナックを食べるのは楽しかった。

これで世界各地のレストランと料理の紹介を終わります。











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働くとは、何か 2

2024-12-28 07:35:29 | 社会
今回は、世界の「働く姿」を見ます。


 アフリカ、カラハリ砂漠に暮らす先住民の男性は、時に動物を追って数日間の狩りの旅に出ることがあった。女性は採集が中心で、村の周辺で植物を採集したり、木の棒で根茎を掘り起こしたりした。しかし、現代人のように四六時中働きはしない。彼らは日長、談話を楽しんでいる。


 コンゴのジャングルに暮らすピグミー族のような狩猟民族において、多くの場合、獲物は仲間に分配される。狩りの中心人物が良い部分を取ることにはなるが。これはチンパンジーの群れでも同じで、一丸となって樹上のサルを飼った後はボスが良い所を取り、残りは分ける。


 ニューギニア高地の先住民の多くは畑作を行っていた。それぞれの家族が畑を持ち、作物づくりに精を出す。だが畑は彼らの私有地ではなく村の共有で、またその広さに差は無い。


 上記、先住民の暮らしぶりは、ジャングルや砂漠の僻地で、文明化される百年以上前に見られた。これら生活は、おそらく狩猟生活で数十万年前から、農耕生活は1万年前から継続していたでしょう。そこには必要な物を得る手段が労働であり、かなり平等と協働が維持されていた。そして、それ以外の時間は、のんびり暮らしていたと考えられる。






 紀元前5世紀頃、労働について明確なメッセージを遺した人物がいました。彼は仏教の創始者釈迦で、当時、王侯やバラモンが支配するインドの階級社会を否定し、人々に救いをもたらす宗教改革を目指した。彼は引き連れている弟子の集団に多くの戒律を定めたが、その中で労働を禁じている。この意図を私なりに解釈すると、人が労働による報酬(物資)を求めるあまり、強欲になってしまうことを諫めたかったからでしょう。釈迦は弟子に乞食(物を乞う)を勧めた。これを現代に照らしてみれば、金銭的な豊かさを求めるあまり、家族や自分の暮らしを犠牲にする愚を諫めているように取れる。






翻って日本人の働き方はどうだろうか? 豊かになったのだろうか?
 かつて日本人は働きバチと海外から揶揄されたことがあった。それは、1960年代の高度経済成長を担った世代、帰還兵と団塊の世代でした。それにも関わらず各国と比べると、現在も先進国の中で、最も長時間働き、その割に所得が低い国に列している。昔も今も、変わらない。


次回に続きます。








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ワールドクルーズ 3 世界の料理とレストラン

2024-12-26 07:46:40 | 旅行

 

これから2回に分けて、ワールドクルーズで訪れた海外のレストランと料理を紹介します。

印象に残ったものだけです。

クルーズ船内のレストランと料理は別に紹介します。

私は食通ではなく、その土地の名物とか日頃食べれないものを求めました。

そうは言っても、ツアーバスで行く場合はレストランや料理に選択の余地はありません。

 

「オレンジ線で示す範囲、赤丸の寄港地での食事」

二つの矢印、ローマからペールのリマの間。

 

「ローマのピザ・レストラン」

ツアーで行って、広場の自由時間で入った。

ピザが大きくて驚いた。

 

「モルディブ、リゾートホテルのレストラン」

夕食は写真のようにビュッフェスタイルでした。

モルディブは、数十の環礁島がリング状に連なった大環礁が十個ほどもあり、リゾートアイランドが200以上もある観光中心の国です。

一つの島は概ね一つのリゾートホテルによって運営されている。

その内の一つフーシー島に一泊した。

 

 

「マダガスカル、ノシべ島のレストラン」

 

ツアーで、海岸近くにある木造のみすぼらしい外観の料理店に昼食で入った。

マダガスカルはワールドクルーズ寄港地中、もっとも低所得の国だったので、

どんな料理が出るか不安でしたが、素晴らしいフランス料理でした。

かつてフランス領だったことから、フランス人はこの島に海洋レジャーでよく訪れるようです。

 

 

 

「南アフリカ、ケープタウンのレストラン」

 

ここウォーターフロントは、ショッピング、レストラン、エンターテインメントがひしめく巨大なエリアで、人が溢れ、新しく、賑やかでした。

フリーの時に、昼食で訪れた。

テーブル・マウンテンを背景に、テラス席でアフリカの風を受けながらシーフドを食べました。

見栄えも含め、素晴らしかった。

 

 

 

「ブラジル、リオデジャネイロの老舗Confeitaria Colombo」

繫華街にあり、重厚な造りで植民地時代の繁栄を偲ばせる雰囲気が良かった。

名物のスナックとコヒーを頂いたが、スナックはそれほど美味しくなかった。

 

 

 

「アルゼンチン、ウシャイアのレストラン」

ここは繫華街のほぼ東端にあり、大きい土産物店の3階にあります。

レストランに行くには、1階土産物店の奥にある写真のような監獄をイメージしたエレベーターに乗らなければならない。

迷っていると店員が声を掛けてくれた。

この土産物店には、幾つもの等身大のロー人形でウシャイア誕生史を再現している博物館がある。

これが目的で、フリーの時に、夕食で訪れた。

 

「三階のレストラン」

 

窓から停泊しているクルーズ船が見えた。

店内では三組の大人数のグループが、家族の誕生会らしいのをやっていた。

観光客もいたが地元に人気があるようでした。

海鮮と肉料理を頼んだ。

料理は、ボリューム満点で、あっさり味が多かった。

 

「ウシャイアの別の店の看板」

この港はカニ料理も名物なのですが、私の入ったレストランにはカニ料理が無かった。

がっかり!

 

「チリ、Puerto Chacabucoのホール」

ここはツアーで訪れたホールで、民俗舞踊を見ながら軽食をいただいた。

提供されたジュースやワイン片手にチーズやパイを食べました。

 

 

「チリ、アンデス高地のPutre村のレストラン」

ここは高山の谷、標高3500mの寒村で、わずかな畑と家畜(鶏とアルパカ等)しかなく、他の村からは離れている。

期待して居なかったが、素朴で美味しかった。

 

ツアーで行くと、食事の時間に同行者と会話が弾むことが多々あった。

この時、私はドイツ語案内のツアーバスに乗ったので、多くはドイツ人でした。

日本に親しみを持つ人もいて、多くは私より英語が話せるので、楽しく過ごした。

大事な連絡事項、集合等については英語で話してくれる、観光案内は期待出来ないが。

初めに、英語しか出来ない(笑い)と伝えておくと良い。

 

 

 

「ペール、首都リマのレストラン」

 

ここはツアーバスで行った都心部にあるレストランでした。

ここでもドイツ語のバスで、多くはドイツ人でした。

 

「名物の飲み物」

同じレストランで薦められた。不思議な味でした、名前は忘れた。

 

旅の愉しみの一つは、見知らぬ街を散策し、レストランや屋台で食事をすることです。

メニューは見ても分からないし、実物を見ても分からない、味の予想は不可能です。

しかし、食べた半数以上で、驚きと美味しさに巡り会える。

食事中の会話も、日本人観光ツアーとは異なり、興味をそそるものがある。

 

次回は後半になります。

 

 

 

 

 

 

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