アクアコンパス3 続編

アクアコンパス3が容量一杯になったので、こちらで続きを開始します。

働くとは、何か 8

2025-01-19 08:17:11 | 社会

 

 

今回は、明治から大戦までの日本の悲しい労働運動を見ます。

1.明治(1968~1912年、明治45年まで)

 以前から鉱山で、明治からは造船所や製糸場等で多くの労働争議が起きた。
明治17年、活版印刷工が日本発の労働組合を作ろうとし、6年後には一度成功したが、まもなく解散にいたった。
その後も、様々な工場で組合の組織化は起こるが、失敗が続いた。
27年日清戦争の頃には資本主義の基盤がようやく確立し、労働者団結の気運がにわかに高まった。

 明治30年、労働組合期成会の結成によって、組合運動が本格化し、多くの進歩的な学者、経営者、政治家、宗教家の支援を集めた。
これは米国に出稼ぎに行っていた数十人の日本人の呼びかけが契機となった。
彼らは米国で弾圧に立ち向かう鉄道・鉱山労働者や、イギリス・ドイツ労働者の組合運動を見聞きしていた。
期成会は労働者保護法の工場法実現を目指した。
当時の工場労働者の大半は繊維産業に従事し、その大部分を占めた女工は低賃金、劣悪な労働条件下にあり、生糸工場の労働時間は毎日18時間にも達した。
政府は婦女子保護の工場法制定を目指したが、紡績業を中心とする産業界が強く反対し、ついに実らなかった。
この工場法は、やっと大正5年から実施されたが、まだまだ不完全なものだった。
期成会会員の9割は鉄工だったので、まづ東京中心に砲兵工場、ドック会社、鉄道、紡績場等の鉄工組合が結成され、その後、驚くべき勢いで発展していった。

 日鉄矯正会は、火夫、機関士等の約1千人で組織され、ストライキを通じて、当時民営だった日本鉄道会社に「組合員以外とは一緒に働けない」との待遇改善を呑ませ、日本では珍しいクローズド・ショップ制(注1)を確立した。
活版工組合は、資本家と協議し12時間だった「労働時間を1日10時間とし、30分間の休憩時間を取る」を勝ちとった。

 続いて横浜で家具職、神戸で清国労働者、東京で馬車鉄道の車掌、洋服職工、靴工、船大工職などあらゆる分野で組合が作られた。
上記の西洋家具指物職同盟会は、「雇用者が無資格の職工を雇用する場合、組合員はその職に従事しない」と規定し、労働条件を確保した。

 これら組合運動は欧米では当然で、いずれも労働者の地位向上、生活改善や保護法の制定、普通選挙制度の実施要求にすぎず、決して国家を脅かすものではなかった。
しかし、明治33年の治安警察法制定によって組合運動は壊滅させられた。
この反動で労働運動は、大衆の運動から一部の急進革命家の直接行動に変化し、やがて明治43年の大逆事件(注2)によって崩壊してしまう。

 

 

2.大正(1912~1926年、大正15年まで)

 大正元年、15人の同志によって友愛会が創設され、大正時代の労働組合運動が辛うじて再建された。
友愛会はその綱領に、相愛扶助、技術進歩、地位向上などを掲げ、きわめて労使協調的であった。
第一次世界大戦によって増加しながらも、まだ地位の低かった賃金労働者は、友愛会の運動を大歓迎した。
しかし、当初は穏健だった友愛会は、戦中・戦後の数度の恐慌による物価高騰や賃下げ、米騒動、吉野作造の「民本主義」、ロシア革命などの影響を受けて、労資協調路線を捨て、階級闘争をスローガンにするるようになった。
また大正9年には、日本で初めてメーデーと銘打った屋外集会が開かれた。

 一方、政府は普通選挙実施との交換で治安維持法を施行し弾圧を強化したので、全体として組合運動は現実主義へと向かったが、急進派との分裂は深まった。
友愛会から名を変えた日本労働総同盟は日本で最有力であったが、大正14年には分裂し、さらに左派は地下運動的な急進主義に向かい、右派は労資協調主義へと向かった。
これは、さらなる分裂を引き起こし労働組合運動陣営を分解させてしまった。

 

 

3.昭和から第二次世界大戦後まで(1926~1945年)

 昭和に入ると賃金労働者がより増加し、組合運動は発展したように見えたが、左派と右派の相互不信は解消されず、分裂は固定的なものとなった。
左派の組合運動は、昭和3、4年の共産党員等の大規模な検挙事件によって著しく弱体化した。

 一方、大正末期から昭和初期にかけての不況期における大企業を中心に、新しい、そして日本固有の労使関係の第一歩が踏み出された。
すなわち、それ以前の、転職の激しい高賃金の熟練職人工に代わって、若年の学校卒業生を採用し、中途採用を排し、企業内で技能養成をおこない、一定期間の後、技能優秀・身体強健等の若者だけを本雇いするようになった。
採用後は、従業員が定年退職まで転職しないような労務政策がとられたので、勤務年数の長さが賃金や地位を主に規定し、終身雇用と年功賃金が定着することになった。

 当初、労働者側は欧米のように産業や企業を横断する労働組合を望んだが、組合運動の拡大を嫌悪する政府と産業界の頑強な圧力に屈服し、諦めざるを得なかった。
この圧力は生活協同組合にも及んだ。
これにより労働市場は個々の企業内に制限され、広がる事が出来ず、一方で労働者は、雇われ意識が強くなり、かつ企業内競争に明け暮れるようになった。
これが現在日本の「働く人」だけでなく、産業構造の新陳代謝にも悪影響を与えるようになった。

この手の欧米より周回遅れの障壁(生活協同組合の営業範囲や公労協のスト権剥奪等)は、現在にも通じる根深いものがある。
実は、労働組合法は大正14年に発案され、昭和6年に帝国議会に提案されたが廃案になっており、大戦後のGHQの指令があるまで待たなければならなかった。注3

 既に労働組合は強権の前に合法的存在を得るには戦争協力をうたう以外に道はなかったが、遂に満州事変を契機とするファシズムの台頭は、労働運動の存在を根こそぎ破壊することになる。
日中戦争開始に伴い、昭和15年、残った日本総同盟も含めて総ての労働組合は解散させられた。

この日本の労働運動の不完全燃焼と労働者権利の未発達は、以後も足枷となる。
次回に続きます。


参考文献 :日本労働組合物語(大河内一男、松尾洋 筑摩書房1965年8月)を要約し、補筆しました。

注1: 採用時に特定の労働組合に加入している労働者のみを雇用し、脱退などで組合員資格を失った労働者を解雇する協定です。
クローズド・ショップ制は、18世紀半ばのイギリスの産業革命を背景にヨーロッパ諸国でよく見られましたが、日本ではあまり見られません。これは、日本では企業内組合が多く、採用後に従業員が組合員になるためです。

注2: 1910年(明治43年)に発生した社会主義者や無政府主義者に対する思想弾圧事件です。ジャーナリストで思想家の幸徳秋水ら12名が処刑され、社会主義運動は一時的に弾圧されました。

注3:終戦後の1945年に帝国議会に提出された労働組合法が公布され、翌年施行されました。これにより、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が始めて保障されました。

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