【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

#追記

2024年03月02日 | 歴史

<ここは執筆途中です>

 

宮内庁と皇宮警察が過去に作成した私に関する記録は

全部、虚偽です。

 

 

鉛筆

案内された部屋には、窓も無いが、椅子も無かった。私は恐る恐る、宮内庁侍従職の男に「紙と鉛筆が欲しい。帰りの自動車の用意ができるまで、絵を描いて待っているから」と言ってみた。意外なことに、私の要望は何の質問もなされず、「お待ちください」という言葉で受諾された。まったく悪意の無い声だった。机が運び込まれ、その上に紙と鉛筆が置かれた。

 

三十分も経った頃、車馬課の男が「車の用意ができました」と知らせに来た。すると、それまで私が絵を描いていた紙を眺めていた男が言った。「それはあなたにあげますよ」 私が手に持っている鉛筆のことだ。が、何だか、妙な気がした・・・と言うのも、当時、鉛筆はもう文房具店にありふれていて、私は24色のクレヨンも持っていたからだ。しかし、私は親に教えられたとおり、「ありがとう」とお辞儀をして、芯が丸くなった鉛筆を握ったまま、大急ぎで椅子から降りた。もたもたしていると置き去りにされてしまうからだ。私がドアを出ようとしたその時、男の大声が響いた。「泥棒!」

何年か後になって、皇宮警察の日誌に、私が宮内庁の備品を窃盗したと記録されていることを教えられた。

 

 

 

 

 

撃ってもいいんだ(その1)

「なあ、外国なら、何処がいいんだ?」 皇宮護衛官が作り笑顔で言った。

私はこの時、四歳だったが、すでに何度も国内外へ連れて行かれて、そのたびに死にそうなくらい危険な目に会っていた。一度は、船でサハリンの近くまで行って、ロシア兵に銃撃されたし、また一度は、アフリカの草原をジープで走り回って、護衛官らがライオン狩りをしていたところ、腹をすかせたライオンが後部座席に飛び乗って来て、私が喰われそうになった・・・
「何処へも行かない」私はきっぱり答えた。それなのに、後日、私は眠っている間に飛行機に乗せられ、米国の空港に降り立った。

 

私と護衛官は米国の閑静な住宅地を歩いていた。道路の両側にポプラか何かの大きな街路樹が植えられて、二階建ての大きな邸が並んでいた。護衛官はいつものように、私の少し後方を歩いていたが、突然、私の背中へ向って、次のように言った。「ここではなあ、撃ってもいいんだぞ。・・・アメリカだからな」 振り向くと、護衛官は右手に短銃を握って、上方へ構えていた。驚いた私は無暗やたらに前方へ走った。街路樹は高いけれど、幹が細いので、私の体が隠れるかしら? と思った時、バンッと一発の銃弾が私の靴に近い地面に当たった。男は卑しい笑みを浮かべていた。

 

通りに面した二階の窓で、女の鋭い悲鳴が上がった。護衛官は反射的に体を捻って、声の方角を撃った。弾丸は、窓枠に近い外壁に当たった。
パトカーが四、五台も、サイレンを鳴らしながら走って来た。護衛官は私から二十メートルほど離れた位置に銃を持ったまま立っていたが、パトカーはそのまた後方三十メートルくらいの位置に、次々に斜めに急停車し、大勢の警察官が一斉にこちらへ銃を向けた。すると、護衛官がまた撃った。弾は最前列のパトカーのボンネットに当たった。米国の警察は躊躇しなかった、一人が乱射している男の胸を撃ち抜いた。帰国後、皇居にいる護衛官らが「仲間を殺された」と憤ったが、私は無言だった。殺されたんじゃあない、彼らは悲鳴を上げた女性を救ったのだ。

 

しばらく経って、在日米軍基地へ連れて行かれた。しかし、門番兵は罪人になった我々を中へ入れてはくれなかった。護衛官らは、私だけを車から降ろして、「日本人が殺された、と叫べ」と言った。「そう言えばいいんだ。シュプレヒコールだ」そして、自分たちは車に乗り込んで、離れた場所まで下がった。白人の兵士が上方へ向けて威嚇射撃をした。

 

 

 

 

 

撃ってもいいんだ(その2)

小学校二年生の或る日、チャイムが鳴って、みんな席に着くと、一人の男子生徒が立ち上がった。彼は右手に拳銃を持っていた。「なあ、本当にやってもいいのか?」 誰に言うでもなく、彼は言うと、その数秒後、銃声が鳴って、女子生徒の悲鳴が上がった。
銃口は下へ向けられていたので、床に当たって砕けた弾が誰かに当たったかどうかは分からなかった。「警察がやれって、言ったから・・・」と、苦しそうな男子の声が聞こえた。

 

中学生の時はさらに深刻だった。事件の三、四日前に、皇宮警察護衛官は職員室に短銃とサリン弾と覚醒剤を置いて行った。幕間の寸劇のように、生徒全員が着席したところへ、短銃を持った教師が教室へ入って来た。カチッと、安全装置を切る音が聞こえたので、私は反射的に上半身を机の上へ伏せた。銃声が鳴り、弾は一番前の席とそのすぐ後ろの席に座っていた生徒の胸を貫通して、後方の生徒の肩に当たった。「二人死んだ」と後で誰かが言った。

 

救急車とパトカーが来る前に、何処かに隠れていた護衛官が現れて、「こいつが撃ったんだ」と大声で言った。「こいつ」というのは私のことだ。護衛官は三人ほどの生徒へ順番に視線を投げて、「こいつがやったと言え。そうすれば、アレ(先生)は助かるんだ」と教唆した。しかし、さすがに同級生が死んでいるので警察官に偽証する者はいなかったが、検証が終わって警察も教師もいなくなると、「あんたがやったんじゃないの」と幾人かが言い出した。女子生徒の一人は卒業するまで「あんたがやった・・・」と言っていた。

 

 

 

 

 

絵画

フランスのルーブル美術館だったと思う。絵の題名を知らないが、昼寝から寝覚めたばかりといった風情の女が、お尻の上までスカートがまくれ上がったまま寝そべっている図だ。五歳の私を連れて、この美術館へ来た皇宮警察護衛官が、突然、その絵のまで立ち止まり、指差した。私は横を向いて通り過ぎようとした。すると、男が突然、私のスカートを掴んだのだ。掴んだだけではない、もう片方の手で、自分のズボンの前をこすり始めた。外国の美術館で、半裸の女の絵を見ながら、自慰をしだしたのである。

 

「いや。離して!」私は悲鳴を上げた。男が手を離したので、私は次の部屋へ逃げた。
すぐに守衛が駆けて来た。威嚇の銃撃音が響いて、護衛官は捕まった。私の傍にも女が走って来て、何があったの、と訊かれたが、あいにく私は言葉が判らない。「(あれは)お父さん?」と日本語で訊かれたので、「違う」と首を振った。別の若い男も駆け寄って来て、「パパ? ダディ?」と訊いた。「違う」

 

逮捕された護衛官の顔を確認させるためか、私はガラス張りの取調室のほうへ連れて行かれた。中からもこちらが見えるのか、椅子に座っていた護衛官が不意に立ち上がって、窓ガラスへ寄った。突然、銃声が鳴った。

 

 

 

 

 

サリンは、裕仁が使って良いと言った

皇宮警察は、度々、私の家を襲って来た。天皇裕仁が孝明天皇の子孫ではなく、徳阿弥を始祖とする徳川血統である事を知っている人間は戦後も極少数だが残っていて、我が家も奴らが監視せねばならない一つだったのだ。

裕仁は、戦後に再開された九州北部の遺跡発掘調査で、「斉王」の陵墓から印璽や王冠などが発見されると、武官(皇宮警察)にサリン弾を使わせて、出土品を強奪させ、皇居へ隠匿した。その後、皇居へ拉致される度にサリンを噴きかけられる私が、「毒ガスを使わないで」と護衛官に懇願すると、護衛官が「それなら、陛下に訊いてみよう」と言い出して、問答無用に私を裕仁の前へ連れて行った。そこで、裕仁が「使っても良い」と宣下したのだった。


以後、護衛官は私を皇宮警察庁舎の横に建てた犬小屋のような監視小屋の外へ放ち、何処かから走って来ては、私にサリンを噴きかけた。もしくは、監視小屋の中から、麻酔銃で私を撃った。

 

密偵(皇宮警察)は小学校へも来た。或る日、臨時教員と称した男が教室で授業をしたが、生徒の机の間を歩きながら、私の横で止まると、教科書を持っていた私の手の甲を、青酸カリを塗った針で刺した。それから、教室を出て行く直前に、サリン弾を投げた。
数日後には、担任教師が私の席へ来て、「お前にこれを渡してくれと言って置いて行ったんだが、何だ、これは?」と言いながら、教室内でサリン弾の口を開けた。

 

成人になって有る企業で事務員をしていた時にも、突然、密偵が職場へ侵入して来て、サリン弾を投げて行った。近くの交番から来た警官は、ガスが抜けて、床に転がっているサリン弾を確保して行ったが、一週間くらい経つと再び私の職場へ来て、「捜査は終わったから、これは返すぞ」とまるで拾得物のように、サリン弾を返却しに来たのだった。私は「私の所有物ではない」ので、その場から逃げた。机の上に置かれたサリン弾は、たしか、別の職場の若い男が持ち去った。

 

 

 

 

 

お前、これが作れるのか?

この時、私はセーラー服を着ていたので中学生か高校生だったのだろう、いったい何十回目の「拉致」だったのか判らないが、皇居の暗く広い部屋に監禁されていた。

 

護衛官は開口一番にこう訊いた。「芸能人では誰が好きなんだ? 誰でもいいんだ。言えば、連れて来てやる」 しかし、当時の私はそんな呑気な生活ではなく、父親が殺された後は、何処か誰も知らない街で一生独身のまま生きて行こう、などと考えていたので、「特に誰もいない。テレビもあまり見ないし・・・」と答えた。「そんなことは無いだろう。誰でもいいんだ、言えよ」 護衛官はしつこく繰り返したが、やがて、「それなら、こちらで探してやる。待ってろ」 そう言って部屋から出て行った。

しばらく経つと、護衛官は再び戻って来て、「おい、いたぞ。お前にぴったりなんだ。お前、会いたいだろう?」と嬉しそうに言った。半日か一日後、見知らぬ若い男が、護衛官に連れられて部屋へ入って来た。護衛官より大きな男だった。

私はドアから対角線上に離れて、壁に張り付くようにして立っていた。護衛官と男は入って来たドアの傍で立ち止まり、そこで護衛官が子供の握りこぶしくらいのサリン弾を一個、男に差し出して見せた、「お前、これが何だか判るか? ・・・お前、これが作れるか?」
若い男の表情は見えなかったが、何か、護衛官の予想せぬことを言ったらしい、護衛官が半身を反らして「何だ、お前!」と声を荒げた。男のふてぶてしい態度が好戦的に映ったのだろう。そのせいか、護衛官は続けて、私が聞いたことが無い化学物質らしい名前を言って、知識をひけらかした。

私は叫んだ。「開けちゃ駄目。それは猛毒のガスが出るから」 
男は驚いて、手に持っていたサリン弾を床に落とした。そして、ドアから廊下へ逃げた。護衛官がサリン弾を拾って、男を追いかけた。男は廊下にいた別の護衛官に捉えられていた。「早くこれをやって、帰そうぜ」と言う声が聞こえ、ドアが閉められた。

 

それから一週間くらい後、護衛官から電話がかかって来た。「なあ、あいつ、本当に作れると思うか?」 私は無言で電話を切った。
また三年くらいが経って、私のほうは完全に忘れていたが、護衛官から電話がかかって来た。「なあ、あの男を覚えているか? あいつなあ、本気で作るつもりなんだ。・・・お前、あいつの所へ行って止めろよ」 私はまた無言で電話を切った。私に何の関係も無いことだった。明日は図書館へ行って、就活のために筆記したものをまとめなければならなかった。

 

 

 

 

大岡昇平と司馬遼太郎

「女は馬鹿なんだ。何もできない。アレをやって、子供を産むしかないんだ」と言ったのは司馬遼太郎で、会ったその日に、高校生だった私に抱きついてきた。
曾祖父も父も死んだ後、私は東京国立博物館に置いてある「宝物」をどうしたら良いのか分からなかった。社会へ出る前に、多少なりとも知識がある大人と話をしてみたかっただけなのだ。ところが、大岡昇平と司馬遼太郎は、私が身体だけ成長した田舎の高校生なので、「都会の金持ちを見れば、やらせる」と期待して、「はるばる遠方から来てやったのだ」と言った。


数日後、大岡昇平と出版社で働いているという男が、覚醒剤の注射器を持って、私の家へ押し入って来た。田舎の一戸建てだったので、少々騒いだとしても近所には知られないと思ったらしい、大岡もまた私に抱きついてきて、顔を舐めた。互いに胸ぐらを掴み合ったまま、私のほうが上になって押し倒し、一発、殴ってやった。すると、もう一人の出版社の男に、注射器で脚を刺された。
幸運にも、二人の男はすでに外に停めた車の中で麻薬を打ったらしく、かなり腑抜けた様子だったので、私は大岡を力一杯突き飛ばし、出版社の男を蹴って、交番へ走った。

 

 

 

 

 

楽観

 防衛庁「戦争になったら、米国が助けてくれる」

 警察庁「戦争になったら、逃げる。・・・当たり前だ」

 

 

 

 

天国

そんなに女や子供を虐待していると、いつか女が子供を産まなくなっちゃうよ。そうしたら、日本の人口が少なくなって、最後は日本が無くなってしまう・・・私がそう言うと、皇宮護衛官が「産まなければ、産ませてやる」と意気込んだ。「天国を作ってやるぞ! どうだ」

 

いま、日本は天国になった。ついこの間まで、児童手当を支給されている中学生でも同意があればセックスができた。セックスをしてみなければ、結婚すべきかどうか判断ができないからだ(そうだ)。皇宮護衛官は言葉を続ける、「女は15歳で成熟する。メンスが始まった女は男が来るのを待っているのだ。子供を産めない女は駄目だ、女じゃない。男が来たら、(子供が? セックスが?)できるように準備していなければいけない。云々」 ・・・猿か?