
アユタヤの工業団地を車で過ぎるとほとんど携帯電話の電波が届かなくなり、この先頼る者はATMだけという異邦人ぶりに心が躍る。これから先、自分がどこの誰か、自分から連絡しない限りは「誰でもない」心地よさは真の解放を意味する。米軍が建設し、さらに日本のODAで四車線に拡張されたことなど誰も知らないアジア・ハイウエイをさらに北上すると、同じ風景のループのような個性のない村や町が通り過ぎさりその頃にはすっかり心はウエスタンの無頼者。どこの町へ入るのも同じ土木資材のチャオプラヤ支流の吊り橋を渡り、昼下がりの決闘のような誰も歩いていない小さな商店通りで極端に甘いクラ・ディンデーンを飲み干す。 さらに奥地の映画のような縮小している湿地帯へ着く頃にはかなり日は傾き、映画の重要な役割を果たすタイの精神的な昼寝空間である「Sala」のベンチは座れないほど朽ち果てている。

(Sala Thai)
ボートの焼玉エンジンとか、鳥犬、さらに蛙の鳴き声で静寂とは無縁だが、急に襲ってくるスコールの美しさはこの世のものと思えないツールで時間を飛び越える。~~戦争でスパンブリに疎開した知事の娘(ラムプイ)は性格が悪く、使用人同然の村長の息子(ダム)が愛用する竹笛を岩に投げつけて壊す。その代わりにハンケチを包んだハーモニカをプレゼントするのだが、こうした乱暴で無神経の女性は成長しても愛情を盾に青年をいつも問題に巻き込んでダムの人生を破壊させることも理解できないほど残念な天然娘・・・・としては描かれていない。

つまりダムはチュラ大学の同級生となるプイが正しい距離感で自分と相手の立場を正しく認識していれば大学を退学させられたり盗賊団ブラック・タイガーとなることもなく、地方のエリートとして立派に生きて行くに違いない。こういうサゲマンと草食系のダムはどうやってバンプーの海岸まで日帰りで出かけデートしたのか謎だし、好青年のダムは大学さえ卒業すればもっといい条件で婿に欲しいという名家は沢山あるし、こういう庶民の運のなさを我が身と投影させるために映写機のような低い解像度を狙った作品・・・という監督の意図はない。

プイの父親である悪役の知事と婚約者の若い警官は盗賊の討伐に乗り出すのだが、これも公務員として当然の話。娘時代のボートの事故にしても娘が何も真実を証言していない。いくら父親が上級役人だとしても娘の言葉に耳を傾けない親は不自然である。盗賊団の親分にしても自分本位でまるでカリスマ性はなくどうしてダムがどうしてこんな暴力集団の仲間なるなどこれも納得ができない。そしてあの美しい湿地帯のサラへ夜中に駆け落ちのために行くなど本当に危険。私でもお断りの無法地帯。あそこで仮に二人がサラで出会っていたとしても、一生ダムが性格の悪いプイの尻に敷かれるのは間違いないし、悪妻から逃げ出し一時的な休息を取る空間としてのサラ~~。美しい魔法のような湿地帯の迷路では作品の理解力まで狂わせる磁力がある。
salaの神秘をみたいと思いました。
恐らくは映画のストーリー自体は韓国映画などにも通じるベタなものを感じますが、それを面白おかしく解説されてるのでポチっておきます!
色を混ぜるだけでは作りきれない彩りで描かれているのが、懐かしいようで違うようで、そして大和にはない風情も漂っている感があります。
お互いにいろいろ大変ですね!頑張りましょう☆
「男もいろいろ」
「女だっていろいろ」
って歌が昔流行りましたが
それを思い出しました。
最近は、見る目を鍛えて、気をひきしめて女性を見ています。
しかし悪いことがあれば良い事もあります。
互いに二度と同じ過ちを繰り返さない様に、悪い女性にはひっかからない様にしたいものですね!