
いつの間にか黄色とか赤とかシャツの色で色眼鏡で見られる国になってしまった。これは何かクーデターとか政変があるといつも知識人達が思考停止になったツケが分断の結果だが、「もともと個人主義の強いお国柄だからね」というゆるい感想で日本への鋭い眼差しを意味なく避ける。しかし、「可哀想な漂流者」と一時的にMの快楽に酔うタクシン氏はドバイで娘とショッピングを楽しんだり、今度はマンデラ氏を不遇の大金持ちの自分に重ね合わせるという厚かましい役者ぶりを発揮している。また最近では「私は国王陛下の忠犬」と急に渋谷系みたいな発言で陛下に恩赦をという手詰まり状態で、閉塞感が漂う。
タイをなんとかしようという元実業界のカリスマのタクシンの心意気だったら、タイ国内の没収されたS銀行の預金6,500億円を国庫に寄付をして二年間の実刑に服すと表明すればいい。その覚悟がないから、あの畳一畳生活のチャムロンに舐められるのだ。先週にもバンコクではタクシンが香港で銃撃されたというウワサが飛び交ったが、空手空拳で帰国しても収監先で暗殺されるだけだろうが・・・。それにしても彼の元夫人も実刑判決を受けているのだが、離婚して帰国後に収監されたという話は聞かれないうちに、息子と地方へ支持議員の選挙運動をしているのも外国人には判りにくい話だ。
日本でも麻生内閣がアキバのフィギアのようでどうも権力の臍がどこにあるのか判らないが、タイでも南部、バンコク、最大の票田区イサーンとそれぞれ臍が分断されている。風が吹けば桶屋ではないが、誰が権力を握るか判らなくなっている。権力者の好き嫌いは別として、たとえば国を持ち株会社にして運営して首相を派遣して経済政策だけのパフォーマンスができるかもしれないが、これではカリスマというのは育たないし誰も認めないだろう。でもカリスマだけを求めるんだったら、AppleのCEOでもいい。JobsにGuy Kawasakiではないが「一生、砂糖水で薄めたユニックスを売っていくのか、それとも極東で首相をしないか」とSONYの盛田さんが生きていたら詰め寄っていたかも知れない。そして閣僚は同じエレベーターに乗り合わせただけもクビという事態というのも今よりは緊張感があるようだが・・・。
タイ映画『セマ・ザ・ウォリアー』だけど、本当に退屈な映画で、なぜがイタリア映画の『美しき諍い女』とながら映画で丁度。食事の支度、掃除、洗濯など家事をしながらでも退屈。これだけ伝説の勇者のストーリだが、どうも足を引っ張っていたのが女優の思いやりのない何気ない仕草。演技では無く、もうこれは彼女の地が映像を飛び出していて違和感を感じるのは私だけだろうか。スクリーン上の誰にも会いたいと思わないし、食事もしたくないし、また寝てみたくもない麻生内閣のメンバーのようなものである。つまり監督も製作会社も内閣も共通していることは真心という臍がないんですね。これは私が「タイ版ラスト・サムライ」という映画の宣伝文句についフラフラとしただけで、まあB級映画という点はクリアしたけ。
権力と反権力。どちらでもいいが、日本でもタイでも映画のようなヒーロの出現が待ち遠しいが、それがタクシンの復帰ということだけはならないだろう。
タイをなんとかしようという元実業界のカリスマのタクシンの心意気だったら、タイ国内の没収されたS銀行の預金6,500億円を国庫に寄付をして二年間の実刑に服すと表明すればいい。その覚悟がないから、あの畳一畳生活のチャムロンに舐められるのだ。先週にもバンコクではタクシンが香港で銃撃されたというウワサが飛び交ったが、空手空拳で帰国しても収監先で暗殺されるだけだろうが・・・。それにしても彼の元夫人も実刑判決を受けているのだが、離婚して帰国後に収監されたという話は聞かれないうちに、息子と地方へ支持議員の選挙運動をしているのも外国人には判りにくい話だ。
日本でも麻生内閣がアキバのフィギアのようでどうも権力の臍がどこにあるのか判らないが、タイでも南部、バンコク、最大の票田区イサーンとそれぞれ臍が分断されている。風が吹けば桶屋ではないが、誰が権力を握るか判らなくなっている。権力者の好き嫌いは別として、たとえば国を持ち株会社にして運営して首相を派遣して経済政策だけのパフォーマンスができるかもしれないが、これではカリスマというのは育たないし誰も認めないだろう。でもカリスマだけを求めるんだったら、AppleのCEOでもいい。JobsにGuy Kawasakiではないが「一生、砂糖水で薄めたユニックスを売っていくのか、それとも極東で首相をしないか」とSONYの盛田さんが生きていたら詰め寄っていたかも知れない。そして閣僚は同じエレベーターに乗り合わせただけもクビという事態というのも今よりは緊張感があるようだが・・・。
タイ映画『セマ・ザ・ウォリアー』だけど、本当に退屈な映画で、なぜがイタリア映画の『美しき諍い女』とながら映画で丁度。食事の支度、掃除、洗濯など家事をしながらでも退屈。これだけ伝説の勇者のストーリだが、どうも足を引っ張っていたのが女優の思いやりのない何気ない仕草。演技では無く、もうこれは彼女の地が映像を飛び出していて違和感を感じるのは私だけだろうか。スクリーン上の誰にも会いたいと思わないし、食事もしたくないし、また寝てみたくもない麻生内閣のメンバーのようなものである。つまり監督も製作会社も内閣も共通していることは真心という臍がないんですね。これは私が「タイ版ラスト・サムライ」という映画の宣伝文句についフラフラとしただけで、まあB級映画という点はクリアしたけ。
権力と反権力。どちらでもいいが、日本でもタイでも映画のようなヒーロの出現が待ち遠しいが、それがタクシンの復帰ということだけはならないだろう。
ところで
どうして急に復活されたんですか?
意見は割れましたが楽しめました!