見出し画像

熊本から気ままに山と自転車のブログ

西の武蔵塚までウォーキング

西の武蔵塚までウォーキング
2023/1/25(水) 晴/曇

今日は、出かけた時の気温0°早朝の気温-6°早朝から陽が射していたが、出かける頃から雲が出て来た。炬燵に入って丸くなっていても健康によくないので午前11時半からウォーキングに出る。目的地は、西の武蔵塚とする。

往路は、熊本都市バス島崎線東荒尾バス停を目標にバス周回ルートと逆方向に歩く。左側に古荘公園(写真1参照)を見る。


その先右側に「西の武蔵塚350m」の標識(写真2参照)を見る。


東荒尾バス停(写真3参照)の東側の坂道を北方向に上り、右に曲がって進む。


標識(写真4・5・6参照)の誘導に従って進むと駐車場があり、その奥を左に登ると武蔵の自画像の標柱がある。


その説明文(写真7・8参照)には、「寛永十七年(1640)、藩主忠利に招かれた宮本武蔵は、五年後の正保二年(1645)、千葉城跡の屋敷で亡くなった。六十二歳であった。遺言により、東郊の龍田町弓削に葬られたというのが通説である。
この塚は、城下の西郊にあるところから、西の武蔵塚と呼ばれ、武蔵の高弟寺尾家の墓域である。死の直前の武蔵が寺尾求馬助に「兵法三十五箇条」を、その兄孫之丞に「五輪書」を授けて二天一流の正系を伝えたところから、愛弟子の墓域に葬られたという説もうまれたのだろう。
武蔵は兵法の達人であるとともに、すぐれた芸術家で、その枯淡で風韻のある書画彫刻にその人格が偲ばれる。」とある。


もう一つの石柱碑文(写真9参照)には、「宮本武蔵の高弟寺尾信行は武蔵の他界後五輪の書に書かれた、五方の構え、太刀筋、五つのおもての次第のことを後世に伝える為四男信盛に武蔵の新免姓を名乗らせ二天一流を継承させたが江戸末期には野田流山東派山尾流の三流にわかれ肥後細川藩門外不出として隆盛を極めた。その後野田派二天一流は現在も熊本で相伝されており、先師寺尾信行顕彰の機会に野田派二天会会長大浦辰男氏が墓地石段を寄進、毎年流祖の遺訓を後世に伝えるよう二天一流形の墓前奉納計画、この碑を建立す。」とある。


宮本武蔵の墓石と思われる威風堂々とした自然石(写真10参照)が建立されている。


武蔵の墓石の右手前に一際大きな五輪塔(写真11参照)が建立されている。風輪に「寺尾」の文字が陰刻されている。その他にも数基の五輪塔が建立されている。


総所要時間2.5(実2)時間(ウォーキングの記事は1万歩以上とする)

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
Re:FUSAさんへ コメント有難うございます。
東の武蔵塚は公園(公用地)の中なので市の一存でいかようにも計画できるのでしょうが、西の武蔵塚は寺尾家の墓所(私有地)の中なので、公費の投資が難しいのでは・・・と思います。もう一つには、確証できる文書等の客観的な資料で証明できるかどうか等、伝承だけでは公費投資が難しいと考えます。その差が施設整備の差になっているのではないでしょうか。自転車くま
FUSA
2年ほど前に西の武蔵塚にお参りしました。鎌研坂の帰り道だったと思います。大津街道沿いの武蔵塚に比べ、やたら寂しげな印象が残っています。
asotakadakedake1592
Re:romajin-daさんへ お早うございます、コメント有難うございます。
自転車では通り過ぎてしまうものも、徒歩であれば躊躇なく立ち止まれてじっくり観察できるは良いですね。

武蔵は豊前の豪族佐々木小次郎と決闘をし、島原の乱にも細川藩の兵士として参戦しているようです。細川藩は武蔵を家臣ではなく客分として処遇したのは、幕府に対する配慮があったのではないかと思っています。自転車くま
romajin-da
お早うございます、ウオーキングお疲れ様でした。
歩いて見る風景は、自転車と違い落ち着いた感じがします。

関ヶ原の合戦後、敗れた側の武士たちが、大量に失業者になりました。浪人と言われる人たちで、その一人が宮本武蔵だそうですね。兵法家で剣豪、芸術家で知られていますが、実際には失業者としての側面もあったようですね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「肥後国の近世史跡・文化財」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事