11歳になったオスカルが、父の命でパリの王立陸軍士官学校に通い始めて2週間が経った。この学校はルイ15世の愛妾ポンパドール夫人が「国家繁栄のために、教育は大切。」と考え、私財をつぎ込んで設立された。
ここに通うのはどちらかというと貧しい貴族の子弟が多い。オスカルは次第に「一口に貴族と言っても、ジャルジェ家のような由緒ある家柄の者ばかりではない。」ことがわかってきた。そんなある日、夕食の席でのこと。
いつものようにアンドレが給仕の手伝いをしているところに、オスカルはやってきた。
「たまにはお前と一緒に、食事がしたいな。」
「ダメだよ、オスカル。俺は貴族じゃないから。」
「貴族とか平民とか、そんなことどうでもいいのにな。お前と同じテーブルで食事ができないなんて、おかしくないか?」
「そうだな。でも仕方ないさ。じゃあ俺はこれで。」
「ありがとう、アンドレ。」
給仕の手伝いを終えたアンドレは、ばあやたちと夕食をとるため食堂をあとにした。アンドレが去ってまもなく、ジャルジェ将軍と夫人が入ってきた。3人揃うと将軍が食前の祈りを捧げ、前菜からスタートした。
「オスカル、学校はどうだ?そろそろ慣れてきたか?」
「はい、父上。今のところ、剣の授業では誰にも負けていません。」
「私が鍛えただけのことはある。嬉しいぞ。」
「士官学校に通う者はフランス各地から来ており、多くは寄宿舎に入っています。親からの仕送りや援助はそれほど多くないらしく、皆とても質素な生活を送っています。一応彼らは貴族なのですが、このお屋敷にやってくる父上や母上とお付き合いのある貴族とは全く違います。」
「違うと言うと?」
「はい、父上や母上が普段お付き合いしている方々は、立派なお屋敷に住み召使いを抱え、金銭的に困っていらっしゃる人はおられません。子供たちに家庭教師を付けたり、修道院や外国で勉強させている人がほとんどです。けれどあの学校にやって来る生徒たちは、聞けば食事は1日2回、召使いなど雇う余裕はなく、洗濯や家事は自分でやっている人ばかり。確かに貴族ではありますが、生活は平民とほとんど同じだと言っています。」
「オスカル、わずか2週間でお前はたくさんのことを学んだな。」
「彼らはよく『ここで一生懸命学んで、将来は軍隊に入って偉くなり、大きい家に住み、家族を楽にしてあげたい。』と申します。だから必死に勉強しています。うかうかしていると私は負けてしまうかもしれません。」
「男の子ばかりに囲まれて、困ったことはありませんか?」
「母上、今のところ大丈夫です。取っ組み合いだって、誰にも負けません。それより私は自分が毎日、この家から馬車で通っていることが恥ずかしいです。いずれは自分で馬にまたがり、パリまで行きたいのですが、父上いかがでしょう?」
「お前はまだ11歳。いくらアンドレが供として付き添うとはいえ、20kmも離れたパリまで単独で馬で通うのはまだ早い。」
「やはり、そうですか。しかしいつかは人に頼らず、自分の力でパリへ行くつもりです。」
「それくらいの気構えがないと、将来は近衛隊を束ねる軍人になれんな。さすがはオスカルだ。」
ジャルジェ将軍は嬉しそうに目を細めた。
「でもね、オスカル。私は軍隊の力がなくても、この国が立派に成り立つことを願っています。そうなると、あなたのお役目はなくなるけど。理想だと言われればそれまでだけど、争いのない世の中であってほしいのです。」
ジャルジェ将軍は何か言いたそうだったが、口を閉じた。妻の気持ちもわからないではない。だがこの世から戦いをなくすことは----おそらくできないだろう。
「母上-----。」
「ほら、スープが来ましたよ。冷めないうちに頂きなさいね。」
3人はインゲン豆のスープを口に運びながら、会話を続けた。
「父上、たまにはアンドレと一緒に食事をしたいです。」
「オスカル、アンドレは昔から常にお前に付き従い、とてもよくお前を支えてくれている。それは私も認める。けれどそのことと、食事の席を同じくすることは違うのだ。」
「どうしてですか?アンドレが平民だからですか?」
「そうだ。」
「なぜ貴族と平民は、同じテーブルで食事をしてはいけないのですか?」
「王・貴族と平民の間にしっかり線を引かないと、秩序が崩れるからだ。私たちのすることを何でも平民が同じくできるようになったら、私たちの存在の意味がなくなる。平民は国王陛下を敬わなくなるかもしれない。だからきちんとした境界線が必要なのだ。オスカル、この話はまだ11歳のお前には難しいかもしれない。しかしいずれわかるようになる。」
「いえ、なんとなくわかります。ただ納得がいかないのです。もしアンドレがここで私たちと一緒に食事をしたら、父上や母上のことを軽く見るようになると言いたいのですか?」
「-------------------------------」
「アンドレは、そんな奴じゃない。」
「オスカル、あなたの言うことはもっともです。あなたは正しいかもしれない。でもここで一緒に食事しないからといって私もお父さまも、アンドレのことを軽く見ているわけではないのですよ。アンドレにはこれからもあなたのそばで、大切なお務めを果たしてもらおうと考えています。ジャルジェ家にとっても、あなたにとっても、アンドレはとても必要な人間です。私たちはアンドレがたとえ平民でもとても大事に思っています。わずか8歳で両親を亡くしているのですからね。」
「母上、わかりました。」
いや、この子は本当に納得したわけでない。これ以上私たちと話しても、今は結論が出ないと悟ったのだろう。これから成長していくにつれ、もっと多くの世の中の矛盾、不条理を悟っていくはず。そのつど彼女は自分で考え結論を出し、行動していくことだろう。そしていつか完全に、私たちの手元から離れ、自分ひとりの力で歩いていくのだ。
娘のゆく道がたとえいばらの道であったとしても、どんな環境に置かれたとしても、そこに幸せを見い出せる人になってほしい。戦いで命を落とすようなことは、絶対にあってほしくない。軍人の妻として、こんなことを考えてはいけないのだろうけれど、----ジャルジェ夫人は心の中で想っていた。
終わり
写真はパリの陸軍士官学校です。11月13日(金)にパリ同時多発テロがあってから、いろいろ考えました。そしてこのようなSSを書きました。読んでくださり、ありがとうございます。(また「すみれ色の風」に戻ります。)
りら様も書いておられますが、士官学校でも女性というだけでオスカルは嫌がらせを受け、取っ組み合いをしたはず。近衛隊時代にも先輩からのセクハラはあったと見ています。これが学友や同僚の友人が出来にくかった原因になったのやら。これでは初恋さえ難しかったことでしょう。
オスカルはアントワネットを指して、「初恋も知らぬうちに愛のないを結婚をさせられて…」と同情していましたが、あなた、人のことを言えますか、とツッコミたくなります。いかに美人でも、軍服を着て剣を振り回す女を一般男性なら敬遠するにせよ、初恋を知る環境にありながら、それが出来ないのは哀しすぎます。愛のない結婚をさせられるのと、親の都合で結婚できない人生、果たしてどちらが幸福なのやら。
重いテーマで申し訳ありません。
>別に異性として付き合わずとも、単なる友人としての学友や同僚がいても不思議はないのに、あまり友人のいた気配が感じられません。
黒い騎士を追いかけている途中、オスカルは偶然サロンに入り、そこで政治や芸術について自由に議論している人たちを羨ましそうに眺める場面があります。あのシーンを読んでいるとオスカルは、同年代の普通の女性たちが好むいわゆる恋バナには興味はなく、どちらかというと男性が好みそうな話題(政治、文化、芸術、哲学等)で議論を戦わすほうが、性に合っているようです。
士官学校時代そして近衛隊時代、オスカルと対等に、この分野の会話ができる男性が周囲にあまりいなかったのではないでしょうか?オスカルはどちらかといえば、当時台頭してきた第3身分の人たちと、話が合ったのかもしれません。
>親の都合で結婚できない人生
オスカルはジャルジェ将軍に「自分を男として、軍人として育ててくれたことに感謝します。」と言っています。「姉君たちのように本人の意思と関係なく15くらいで嫁がされる人生でなく、女でありながらこれほどにも広い世界を、人間として生きる道を、ぬめぬめとした人間の愚かしさの中でもがき生きることを---。このような人生を与えてくださったことに感謝します。」と将軍にはっきり述べています。彼女ならいくらでも社交界の花になりえたはず。生まれつき普通の女性として躾けられていれば、女性の人生や幸せとはそういうものとインプッされたでしょう。軍人として、男性のように生きる道を歩まされながらも、そこに意味を見出し、彼女を支えてくれるパートナーがいて、愛も仕事も手に入れる。オスカルは幸せな生き方をしていると思います。
そのような見方もありますね。尤もジェローデルのと結婚話を蹴って以降、昼といわず夜と言わず強い酒ばかりを飲み、半ばアルコール依存症気味になっていたのが気になります。実は私自身も30代はじめ、仕事上のストレスでやけ食い、やけ酒ををしたことがありました。さすがに昼は飲酒しませんでしたが。
「自分を男として、軍人として育ててくれたことに感謝します。」宣言をしたはずのオスカルの、その後の深酒でした。もちろんグータラな私とは違いますが、酒好きおばさんとしては引っかかりました。ジェローデルの台詞も意味深。
「欲しいと思ったことがあるはずだ…平凡な女性としての幸せ。差し伸べられた優しい手を拒み続ける自分に涙を流したこともあったはずだ…」
女性観察力の鋭さ、というよりジェローデルの口を通して著者がオスカルの内心を表していたように思えました。その意味でロザリーは、オスカルがそうありたかった女性の生き方のひとつ…と私は解釈しています。
>ジェローデルのと結婚話を蹴って以降、昼といわず夜と言わず強い酒ばかりを飲み、半ばアルコール依存症気味になっていたのが気になります
強いお酒を求めたのは、オスカルの現実逃避だったのでしょうか?あの頃、フランスは日々革命に近づいていきました。この先、今までどおり王家についていくか、あるいは王家と袂を分かつかもしれないことを薄々感じ始めていたのではないでしょうか?そんな不安定な時、軍神マルスの子として生きる決意をし、一生平凡な女性としての幸せには縁がないと悟り、強いお酒に束の間、救いを求めたのかもしれません。
そしてmugiさまもある時期、ストレス解消のためやけ食い、やけ酒をしていたのですね。
>ジェローデルの口を通して著者がオスカルの内心を表していたように思えました
mugiさまの仰るように、オスカルの心情を、ジェローデルの口を借りて代弁させているように思えます。オスカルはああいう人ですから、絶対にそんなことを、自分から声に出して言わないでしょう。だからジェローデルの言葉は、ストレート直球で響いたでしょうね。新作エピソードジェローデル編で、彼はソフィアに指摘され、コンテ大公妃の舞踏会で、美しいドレス姿でフェルゼンと踊るのはオスカルであることを知ります。その姿を見ているから、彼の言う「欲しいと思ったことがあるはずだ…平凡な女性としての幸せ。」がスムーズに繋がると思いました。