*ネタバレするので、原作及びアニメを未見の方は御了解のほどを。
私はアニメが先で原作が後だった。今から約30年前、私が高校生の頃、確か夜6時30分から7時だったと思うが再放送を見てはまり、再放送終了後に原作を古本屋で買って読んだ。アニメは最初からではなく途中から見た。問題はどこから見たのかだが、今となっては判然としないが、今回BSでの再放送を録画して見てみると、第25話「かた恋のメヌエット」の冒頭の、オスカルが拳銃の練習にアンドレの投げた空瓶を撃つところはうっすらとだが記憶にあることから、おそらくこの第25話からではなかったか。だとしたら途中から見たにしては結構いいところから見始めたことになる。
さてこのアニメ版、第12話までが長浜忠夫の演出で、第13話以降が出崎統の演出となっている。私はこれを知らなかった。今回のBS再放送を第3話から見ていて(残念ながら第1話と第2話は録画し損ねたので未見だが)、どうしても面白くなかったので、それが不思議でネットで調べたら、そういうことかと合点がいった次第。とはいえ、いきなり第13話から面白くなるわけではない。実際の制作現場ではかなり先の話数まで制作が進んでいただろうし、引き継いですぐに出崎色になるわけでもない。では何話から面白くなるだろうか。それは私は第19話「さようなら、妹よ!」からだと思う。少なくとも私はそうだ。そして第20話「フェルゼン名残の輪舞」から完全に出崎色になる。というわけで第19話以降面白いというのが私の意見だ。
ではなぜ第18話までつまらないのか。このアニメ版は全40話であるからほぼ半数がつまらないということになる。理由ははっきりしている。焦点をオスカルに当てようとしたからである。原作を読んでわかる通り「ベルサイユのばら」という作品の主人公は、オスカル、アンドレ、アントワネット、フェルゼンの4人である。この物語の前半はアントワネットを軸に話が進む。アントワネット、オスカル、フェルゼンがどうやって出会い、友達になり、友情を深め、互いに信頼し合うようになるかが描かれる。その舞台がベルサイユの宮廷であり、そのためにデュ・バリー夫人やポリニャック夫人の存在が欠かせない。
アントワネットを軸にした宮廷劇の面白さ、女と女の闘い、それを原作通りに丁寧に描かずに、無理矢理オスカルを軸に話を進めようとした結果、非常に中途半端な、だだ起こった出来事を追っかけているだけになってしまった。他にも演出上の問題がある。端的な例がアントワネットがフェルゼンに思いを馳せるときに画面の周囲に出る、キラキラ星、光の輝き。これが余計。興ざめする。第19話以降もこうした演出はあるにはあるが、シャンデリアの輝きや身に着けている宝飾と重ねてあり、しかも控えめであるため、見ていて違和感はない。
このアニメ版はオスカルを軸に話を進めるため、後半から面白くなるのは当たり前だ。なぜなら原作も後半はオスカルを軸にフェルゼンとの恋、そしてアンドレとの愛が描かれるからだ。ではアニメ版の方針と原作の流れが一致したから、もちろんそれはとても大きな要素だが、だたそれだけの理由でこのアニメ版の後半が面白いわけではない。そこに出崎演出が加わることで魅力が倍増している。ではその出崎演出とは何だろうか。
まず画面的にはとにかく顔のアップが多用される。バストショットなんてもんじゃない。どアップである。それも横顔が多かったりする。アニメは顔のアップには耐えられない(アニメでは顔のアップでは画面が持たない)としたものだが、出崎演出ではそんな考えなど、どこ吹く風である。これは何を意味するのかというと、そうすることで見る人の想像を喚起する、見る人に画面から何かを読み取らせようとする効果がある。アニメはセル画に色を塗っただけなので、アップにすればするほど何だかわからなくなる。例えば顔の頬だけをどアップにしたら、画面はだだの肌色があるだけである。何も読み取れない。だからこそ見る人はこれは何だろうと考え、何か深い意味があるんじゃないかと考えることになる。極端な例を挙げてしまったが、アニメはのっぺらぼう(アニメ画面の持つ本質的な平面さ)というのを逆手に取り、しかも顔だけの画面を用い、そこに心理的描写を見る人に読み取らせようというのである。これには横顔が最も効果的である。
次に、原作のかなりの部分を改変または削除してまで、オスカルの心の動きを追う、オスカルの心理描写に一点集中した。できるだけ削れるところは削り、最小限の表現で最大の効果を狙っている。画面的には最小限の動きに留め、そうすることで、できるだけオスカルの心の動きの解釈の余地を残し、見る人の想像をかきたてるようにしてある。一例を挙げると第28話「アンドレ青いレモン」の前半、フェルゼンが舞踏会で出会った外国の伯爵夫人がオスカルだと見破る場面を原作と比べてみるといい。原作ではフェルゼンがオスカルの髪型を舞踏会で出会った髪型にしてみせるが、アニメではフェルゼンがオスカルの手を掴むだけである。もちろんどちらの表現がいいかは別問題である。ただしどちらがより感傷的になれるかと言えば、それはアニメの方だろう。
以上の2点が出崎演出の秘密だというのが私の考察だ。他にもまだあるかもしれないが、大きな要素としてはこの2つに尽きるんじゃなかろうか。
要するにアニメ版はオスカルに特化して制作された。それ故に原作で犠牲になった部分も多々あるが、徹底したおかげで「ベルサイユのばら」のエッセンスが抽出された結果となった。原作とアニメとどちらがいいかと言えば、それはもちろん断然原作である。しかしながらアニメ版の魅力は十二分にあり、原作を比べてあれこれ違っているとか、あのエピソードがないとかいっても、不思議と腹が立たないし、悪い気もしない。私自身、原作同様、このアニメ版も大好きである。確かに違和感を覚える部分はある。私は原作を知らずにアニメを見たのだが、それでもアンドレの死に方や最終回で畑を耕しているアランには納得がいかなかったのを覚えている(どちらも原作とは違っている)。逆にアニメ版の方が良かったのはオスカルとアンドレの結ばれ方かな(第37話「熱き誓いの夜に」)。
最後に、蛇足めくが、アランの人物設定が原作と大きく変わっているのは、これには2つの理由がある。1つは男から見ると原作のアランは体の線が細いし、性格も弱々しくみじめったらしいので、そんな頼りがいのない男は嫌だというのがある。要するに逞しさが欠けている。これには世の女性諸君からそんな男なんかごまんといるじゃないかと反論がありそうだ。実際それはそうだし、そうした反論に対して、男の私は何も言えない。だから所詮は男の演出。男が演出するとああなってしまう。
それともう1つ、こちらの方が重要なのだが、アニメ版の主人公はオスカルに絞ったとはいえ、アントワネットとフェルゼンのその後については触れないわけにはいかない。そこで第40話(最終回)でアランのところへ、ベルナールとロザリーが訪れて回想と言う形で処理することにした。だからそのためにも原作の人物設定を変え、度量が大きい人物にし、革命の血なまぐさを予感し隠居してもらわないと困るのである。
しかしこんな変更をすると矛盾がないわけではない。こんなに逞しい人物なら、いくら最愛の妹が不幸な死に方をしたとはいえ、あそこまで心が折れてしまうものなのか、もっと気丈なところがあるんじゃないかという気がするのだがどうだろうか。
以上かなりの長文になりました。お読みいただきありがとうございました。
付)今回のBS再放送で、私の中で「ベルサイユのばら」熱が再燃した。しっかりDVD-Rにダビングしたので、ずっと見てます。昔、宝塚へも行きましたし、あの実写版も見たし(あれは一体何だったのか)、劇場版アニメも見に行きました(戸田恵子、水島裕のやつね)。私自身「ベルサイユのばら」への思い入れはかなり強いです。
今回改めて見てみると声優陣が強烈。田島令子と志垣太郎、上田みゆき、野沢那智の声を聞いているだけでもう満足しちゃってる自分がいたりする。どの役の声優さんもぴったり。ジェローデルなんてぴったりしすぎて怖いくらい(もうちょっと声を聞きたかったかな)。
それと作画がこんなにすごかったでしたっけ。ちょっと驚いてます。きれいですね。オスカルの顔のアップなどたまりません。
蛇足)このアニメ版の1ファンとして勝手にベスト3を選んでみました。私が選ぶとこんな感じになりますが、皆さんはどうですか。
1位 第20話「フェルゼン名残の輪舞」
アントワネット、フェルゼン、オスカル、アンドレの心の揺れがよく表現されている。最後、BGM屈指の名曲「優しさの贈り物」が流れる中での、映像の流れ、台詞、心理表現は見事の一言に尽きる。
2位 第29話「歩き始めた人形」
お約束の展開だが見ていて楽しい。紋切型を紋切型としてきちんと描くには実力が要る。制作スタッフの腕前の高さの証拠。
3位 第28話「アンドレ 青いレモン」
出崎演出全開。アンドレの苦悩の表現、この重たさは原作を超えたのでは。
私はアニメが先で原作が後だった。今から約30年前、私が高校生の頃、確か夜6時30分から7時だったと思うが再放送を見てはまり、再放送終了後に原作を古本屋で買って読んだ。アニメは最初からではなく途中から見た。問題はどこから見たのかだが、今となっては判然としないが、今回BSでの再放送を録画して見てみると、第25話「かた恋のメヌエット」の冒頭の、オスカルが拳銃の練習にアンドレの投げた空瓶を撃つところはうっすらとだが記憶にあることから、おそらくこの第25話からではなかったか。だとしたら途中から見たにしては結構いいところから見始めたことになる。
さてこのアニメ版、第12話までが長浜忠夫の演出で、第13話以降が出崎統の演出となっている。私はこれを知らなかった。今回のBS再放送を第3話から見ていて(残念ながら第1話と第2話は録画し損ねたので未見だが)、どうしても面白くなかったので、それが不思議でネットで調べたら、そういうことかと合点がいった次第。とはいえ、いきなり第13話から面白くなるわけではない。実際の制作現場ではかなり先の話数まで制作が進んでいただろうし、引き継いですぐに出崎色になるわけでもない。では何話から面白くなるだろうか。それは私は第19話「さようなら、妹よ!」からだと思う。少なくとも私はそうだ。そして第20話「フェルゼン名残の輪舞」から完全に出崎色になる。というわけで第19話以降面白いというのが私の意見だ。
ではなぜ第18話までつまらないのか。このアニメ版は全40話であるからほぼ半数がつまらないということになる。理由ははっきりしている。焦点をオスカルに当てようとしたからである。原作を読んでわかる通り「ベルサイユのばら」という作品の主人公は、オスカル、アンドレ、アントワネット、フェルゼンの4人である。この物語の前半はアントワネットを軸に話が進む。アントワネット、オスカル、フェルゼンがどうやって出会い、友達になり、友情を深め、互いに信頼し合うようになるかが描かれる。その舞台がベルサイユの宮廷であり、そのためにデュ・バリー夫人やポリニャック夫人の存在が欠かせない。
アントワネットを軸にした宮廷劇の面白さ、女と女の闘い、それを原作通りに丁寧に描かずに、無理矢理オスカルを軸に話を進めようとした結果、非常に中途半端な、だだ起こった出来事を追っかけているだけになってしまった。他にも演出上の問題がある。端的な例がアントワネットがフェルゼンに思いを馳せるときに画面の周囲に出る、キラキラ星、光の輝き。これが余計。興ざめする。第19話以降もこうした演出はあるにはあるが、シャンデリアの輝きや身に着けている宝飾と重ねてあり、しかも控えめであるため、見ていて違和感はない。
このアニメ版はオスカルを軸に話を進めるため、後半から面白くなるのは当たり前だ。なぜなら原作も後半はオスカルを軸にフェルゼンとの恋、そしてアンドレとの愛が描かれるからだ。ではアニメ版の方針と原作の流れが一致したから、もちろんそれはとても大きな要素だが、だたそれだけの理由でこのアニメ版の後半が面白いわけではない。そこに出崎演出が加わることで魅力が倍増している。ではその出崎演出とは何だろうか。
まず画面的にはとにかく顔のアップが多用される。バストショットなんてもんじゃない。どアップである。それも横顔が多かったりする。アニメは顔のアップには耐えられない(アニメでは顔のアップでは画面が持たない)としたものだが、出崎演出ではそんな考えなど、どこ吹く風である。これは何を意味するのかというと、そうすることで見る人の想像を喚起する、見る人に画面から何かを読み取らせようとする効果がある。アニメはセル画に色を塗っただけなので、アップにすればするほど何だかわからなくなる。例えば顔の頬だけをどアップにしたら、画面はだだの肌色があるだけである。何も読み取れない。だからこそ見る人はこれは何だろうと考え、何か深い意味があるんじゃないかと考えることになる。極端な例を挙げてしまったが、アニメはのっぺらぼう(アニメ画面の持つ本質的な平面さ)というのを逆手に取り、しかも顔だけの画面を用い、そこに心理的描写を見る人に読み取らせようというのである。これには横顔が最も効果的である。
次に、原作のかなりの部分を改変または削除してまで、オスカルの心の動きを追う、オスカルの心理描写に一点集中した。できるだけ削れるところは削り、最小限の表現で最大の効果を狙っている。画面的には最小限の動きに留め、そうすることで、できるだけオスカルの心の動きの解釈の余地を残し、見る人の想像をかきたてるようにしてある。一例を挙げると第28話「アンドレ青いレモン」の前半、フェルゼンが舞踏会で出会った外国の伯爵夫人がオスカルだと見破る場面を原作と比べてみるといい。原作ではフェルゼンがオスカルの髪型を舞踏会で出会った髪型にしてみせるが、アニメではフェルゼンがオスカルの手を掴むだけである。もちろんどちらの表現がいいかは別問題である。ただしどちらがより感傷的になれるかと言えば、それはアニメの方だろう。
以上の2点が出崎演出の秘密だというのが私の考察だ。他にもまだあるかもしれないが、大きな要素としてはこの2つに尽きるんじゃなかろうか。
要するにアニメ版はオスカルに特化して制作された。それ故に原作で犠牲になった部分も多々あるが、徹底したおかげで「ベルサイユのばら」のエッセンスが抽出された結果となった。原作とアニメとどちらがいいかと言えば、それはもちろん断然原作である。しかしながらアニメ版の魅力は十二分にあり、原作を比べてあれこれ違っているとか、あのエピソードがないとかいっても、不思議と腹が立たないし、悪い気もしない。私自身、原作同様、このアニメ版も大好きである。確かに違和感を覚える部分はある。私は原作を知らずにアニメを見たのだが、それでもアンドレの死に方や最終回で畑を耕しているアランには納得がいかなかったのを覚えている(どちらも原作とは違っている)。逆にアニメ版の方が良かったのはオスカルとアンドレの結ばれ方かな(第37話「熱き誓いの夜に」)。
最後に、蛇足めくが、アランの人物設定が原作と大きく変わっているのは、これには2つの理由がある。1つは男から見ると原作のアランは体の線が細いし、性格も弱々しくみじめったらしいので、そんな頼りがいのない男は嫌だというのがある。要するに逞しさが欠けている。これには世の女性諸君からそんな男なんかごまんといるじゃないかと反論がありそうだ。実際それはそうだし、そうした反論に対して、男の私は何も言えない。だから所詮は男の演出。男が演出するとああなってしまう。
それともう1つ、こちらの方が重要なのだが、アニメ版の主人公はオスカルに絞ったとはいえ、アントワネットとフェルゼンのその後については触れないわけにはいかない。そこで第40話(最終回)でアランのところへ、ベルナールとロザリーが訪れて回想と言う形で処理することにした。だからそのためにも原作の人物設定を変え、度量が大きい人物にし、革命の血なまぐさを予感し隠居してもらわないと困るのである。
しかしこんな変更をすると矛盾がないわけではない。こんなに逞しい人物なら、いくら最愛の妹が不幸な死に方をしたとはいえ、あそこまで心が折れてしまうものなのか、もっと気丈なところがあるんじゃないかという気がするのだがどうだろうか。
以上かなりの長文になりました。お読みいただきありがとうございました。
付)今回のBS再放送で、私の中で「ベルサイユのばら」熱が再燃した。しっかりDVD-Rにダビングしたので、ずっと見てます。昔、宝塚へも行きましたし、あの実写版も見たし(あれは一体何だったのか)、劇場版アニメも見に行きました(戸田恵子、水島裕のやつね)。私自身「ベルサイユのばら」への思い入れはかなり強いです。
今回改めて見てみると声優陣が強烈。田島令子と志垣太郎、上田みゆき、野沢那智の声を聞いているだけでもう満足しちゃってる自分がいたりする。どの役の声優さんもぴったり。ジェローデルなんてぴったりしすぎて怖いくらい(もうちょっと声を聞きたかったかな)。
それと作画がこんなにすごかったでしたっけ。ちょっと驚いてます。きれいですね。オスカルの顔のアップなどたまりません。
蛇足)このアニメ版の1ファンとして勝手にベスト3を選んでみました。私が選ぶとこんな感じになりますが、皆さんはどうですか。
1位 第20話「フェルゼン名残の輪舞」
アントワネット、フェルゼン、オスカル、アンドレの心の揺れがよく表現されている。最後、BGM屈指の名曲「優しさの贈り物」が流れる中での、映像の流れ、台詞、心理表現は見事の一言に尽きる。
2位 第29話「歩き始めた人形」
お約束の展開だが見ていて楽しい。紋切型を紋切型としてきちんと描くには実力が要る。制作スタッフの腕前の高さの証拠。
3位 第28話「アンドレ 青いレモン」
出崎演出全開。アンドレの苦悩の表現、この重たさは原作を超えたのでは。
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