Facebookがニュースから「撤退」
私は昨年12月、ニューヨーク大学で講演した。2017年のジャーナリズムにおけるイノベーションを振り返る中で、フェイスブックとニュース事業の関係について功罪両面を論じたが、上映したスライドの最後の1枚にはたった1文、こう書いた。「フェイスブックはニュースに関わりたくないような気が、私にはする」――。
忘れがちだが、Facebookの(主要ページでユーザーが日々閲覧する)「ニュースフィード」は、そもそもニュースのためにあるのではなかった。少なくとも、その編集者たちは違うと定義していた。フェイスブック上では今、文字通り数十億の人々が、友だちが見たり読んだりしたいような#(「ハッシュタグ」と呼ばれる検索機能)付きの投稿を無料で行っている。一方、(ニュースフィードにとっては)本物のニュースは、次から次へと来ては去る出来事に過ぎなかった。
2015年にFacebookは、友人や家族による投稿の表示を、報道機関などのフェイスブック上のページよりも増やすと発表。16年にも、ニュースフィードでの「友人・家族優先」を宣言した。17年には、マーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)がコミュニティー(共同体)作りにフェイスブックが果たす役割について積極的に発信するようになり、「フェイスブック上での対話の大半は社交的なもので、イデオロギー的なものではない。友達同士の冗談や、離れて暮らす家族が連絡を取り合うためのものだ」とも記した。
そして今年1月11日、Facebookは「人々を互いに、より近づける」として、メディアや企業などによる投稿の優先度を下げて、友人や家族の表示を増やすと発表した。ニュースフィードの責任者アダム・モッセリ氏は「ニュースフィード上のスペースには限りがある。友人や家族の投稿や更新をもっと載せて会話を弾ませようとすれば、メディアや企業などによる動画その他の投稿は減らすことになる」と述べた。
フェイスブック経由のアクセスに依拠していたメディアにとっては、これは悪い知らせだ。
世界最大のニュース同時配信機能を持つFacebookが、ニュースにさほど力を入れなくなることで、どのような影響があるだろうか。いくつかの点を検証しよう。
まずこれは、デジタルメディアよりも伝統的な報道機関にとって悪くない知らせである。米国の日刊紙の大半は、不本意ながらではあるが、広告収入よりも、読者からの購読料や会員費に依拠せざるを得ないとの結論に達している。グーグル、フェイスブック両社がデジタル広告市場を席巻する中、今度はフェイスブックが多くのページビュー(PV)を止めるというのだ。これは、ページビューに伴う広告収入が入らないことに直結する。収入の全部または大半をデジタル広告に頼る戦略を立てていた企業はすでに苦境にあるが、フェイスブックの今回の措置で困難は一層鮮明かつ差し迫ったものになる。
この変化が、新聞にとって「良い」とは言っていないことに注意してもらいたい。ただ優良な新聞には確立されたブランドと定評ある紙面、そして収益モデルがあり、大衆向けのデジタルメディアに対し、競争力を持つ。デジタルメディアの淘汰(とうた)は予想されていたことで、17年後半には「マシャブル」の身売りや「バズフィード」の経営危機でその一端が垣間見えていた。フェイスブックの動きは、その流れを大きく加速しよう。
Facebookのユーザーは、ニュースフィードからニュースがなくなったことを残念がるだろうか。
仮に、現在、ユーザーがFacebook上で見ているニュースの30%が消えたとしよう。いったい何人がなくなったことに気づき、まして残念に思うだろうか。
ニーマン・ラボのシャン・ワング記者がフェイスブックのユーザー数百人を調査して発見したのは、ニュースフィードできちんとしたニュースを見る人は、ほとんどいないということだ。約75%が、ニュースフィードのニュース記事トップ10のうち1本しか見ない、あるいはまったく見ないと回答している。
私の予想では、ユーザーの圧倒的多数は違いに気づかないし、フェイスブックでニュースを見られなくなることを、他の何かで埋め合わせることもしないだろう。ニュースフィードの気まぐれな配信に頼っていたような人が、積極的に金を払ってまでニュースを得ようとするようになるとは考えにくい。
今回の変更で、Facebook上に残るニュースはどうなるのだろうか。
メディアによる投稿のうち、少なくともいくらかは今後もニュースフィードに現れる。友人や家族同士で気に入ったニュースをシェアすることもできる。ではこの残存するニュースに、どのような変化が起きるだろう。
モッセリ氏もザッカ-バーグ氏も、ニュース記事掲載の基準は、その記事がユーザーの「参加」を促すものかどうかになる、としている。言い換えれば、「いいね!」やコメントが付くような記事であるかどうかということだ。ニュースの価値が好き嫌いやコメント数で決まるというのは、実際にはきわめてイデオロギー色が濃いことといえる。
人々をゾンビのように一日中スマホ画面を眺めて暮らすようにした会社(フェイスブック)から、情報に対して受け身一方ではいけないと説教されるのは笑止千万だ。新聞は読者欄の投稿数で評価されるものではなかったし、本の価値が欄外への書き込み量で決まることもなかった。
より実際的な見地からも、Facebookの方針は読者の感情を揺り動かすようなニュースを奨励するものと言える。それではここ数年、過度に党派性を帯びたFacebookのページが不正確な情報をまき散らしたのと同じ道をたどることになる。