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3月31日の礼拝の内容です。

2024-03-30 20:02:00 | 日記
3月31日の礼拝の内容です。讃美歌は、81.317.328.575.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/KzZGE5v2iHk?feature=shareです。

礼拝説教     ヨハネ20:11~18「なぜ、泣いているのか」    2024.3.31

 イースターおめでとうございます。イエス様の復活を心からお祝いしましょう。今日は、1人の若い兄弟が洗礼を受けられます。兄弟とご家族の上に、神の豊かな導きと守りがありますようにと心から願います。

 今日はヨハネによる福音書から、復活されたイエス様に最初に出会った人物について考えていきたいと思っています。その人の名前はマグダラのマリアです。4つの福音書にも、イエス様の十字架の場面にもマグダラのマリアは登場しています。イエス様はガリラヤからエルサレムに来て、過越の祭りを祝いました。そのイエス様と共に弟子たちやこの婦人たちも含まれています。この婦人たちは、ガリラヤからイエス様と共に来て、世話をしていたと書かれてあります。4つの福音書には、細かい活動の様子は書かれてありませんが、十字架の最後の場面に出て来るのです。イエス様が十字架にかけられて死なれました。その様子を、遠くで見守っていた婦人たちとなっています。イエス様が十字架で死なれて、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を自分の墓に葬ることを申し出て、イエス様を十字架から下ろし、ヨセフの墓に埋葬する場面も、墓の方を向いて座って見ていたとあります。このガリラヤから来た婦人たちにとって、イエス様の十字架や埋葬の場面では、直接に手を出すことはできませんでした。

 しかし、婦人たちは、十字架の場面や埋葬の場面をしっかりと見ていました。それは、イエス様のご遺体を丁寧に葬りたいという願いがあったからです。イエス様がヨセフの墓に葬られたのは、金曜日の夕方です。すぐに安息日が始まってしまうので、十分な死後の処置をすることはできませんでした。それで、安息日が終って、一番早い日に、墓に行って、遺体の処置をするのです。1週間の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行くのです。手には香料を持っています。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、イエス様の墓に向かうのは複数の婦人たちと書いています。しかし、ヨハネだけが、マグダラのマリア1人だけなのです。

 マグダラのマリアをはじめ、婦人たちがイエス様の葬られた墓に行って、イエス様のご遺体に死後の処置をしたい思いは分かります。しかし、それを実行するには大きな問題が2つありました。1つは、墓の入り口には大きな石の扉があること、婦人たちの力では開けることができないと思うのです。2つは、墓の前には、兵士たちが立っているということです。そのことは、イエス様の葬りの場面を見ているのですから知っているはずです。困難を分かっているのに、それでもイエス様の墓に向かう気持ちが強いのでしょう。愛する者に対する深い愛情がそのような行動にされるのでしょう。

 マリアはイエス様の墓に行きました。すると墓から石が取りのけてあるのをマリアは見るのです。イエス様のご遺体に何かあったと感じたマリアは、すぐに弟子たち元に帰って報告します。イエス様の墓の入り口の石の扉が開いていると、マリアの報告を聞いたペトロとヨハネは急いで、イエス様の墓に向かいます。もちろん、マリアもです。ヨハネはまだ若く、走るのが早く、先にイエス様の墓に着きました。身をかがめて墓の中をのぞきますと、イエス様のご遺体はなくご遺体を包んでいた亜麻布だけが置いてありました。ヨハネは墓の中には入らなかったのです。すぐにペトロが墓に到着しました。ペトロは墓の中に入って行きます。中には亜麻布だけが置いてあるだけでした。ペトロが中に入ったので、ヨハネも中に入って行き、そのことを確認します。そのことだけを確認しますとペトロとヨハネは帰ってしまいます。

 そして、今日の聖書の箇所になります。マリアは墓の外に立って泣いているのです。泣きながら身をかがめて墓の中を見るのです。すると、イエス様のご遺体を置いてあった所に、白い衣を着た2人の天使が見えました。天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」というと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」といいます。こういいながら後ろに振り向くとイエス様が立っているのが見えたのです。でも、それがイエス様だとは分かりませんでした。イエス様は「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と聞きますと、マリアは、イエス様が墓の園丁、つまり墓の管理人だと思ったのです。そして、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこにおいたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」と答えています。

 イエス様とマグダラのマリアの関係をみてみましょう。マグダラのマリアについては、イエス様が7つの悪霊を追い出された女性(ルカ8:2)と紹介しています。マグダラとは彼女がガリラヤ湖南西の岸辺の町マグダラ出身ということを示しています。それ以外はよく分かってはいません。マグダラのマリアほど、イエス様を愛した人はいないのではないかと私は感じます。このマリアは、ガリラヤから一緒にイエス様と共に行動して来ました。そして、十字架のすべての場面を目撃してきたのです。マリアにとって、愛する者が十字架につけられること、そして殺されてしまうこと、十字架の死、埋葬を見て来て、死んだ愛する者のために、せめて自分ができることをしたいと願い、行うことは理解することができます。自分ができるせめてのこと、それは愛するイエス様のご遺体を丁寧に死後の処置に香料を使ってすることでした。それが、墓に来て、愛する者の遺体がなくなっていること、それは更に深い悲しみを負うことでした。

 目の前に、イエス様が立っておられるのに、マリアの目にはそれが園丁に見えてしまったのです。園丁に、「あの方を運ぶ去ったのがあなたなら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取りますから」と答えている、せめてもの言葉です。マリアの目には、愛する者を失った悲しみが深く出ています。ここで、天使も、イエス様も、マリアのことを「婦人よ」と呼んでいることです。そして、ここから大きな展開になっていきます。それは、イエス様がマグダラのマリアの本名を呼んでいるのです。「マリア」とイエス様がいわれると、マリアは振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と呼んでいます。「先生」という意味です。

 ここで、イエス様が「マリア」とマグダラのマリアの本名を呼んでいる、そのことがとても大切なことです。復活されたイエス様が、初めて呼んだ名前が「マリア」でした。この後で、マリアはイエス様に抱きつこうとされたのでしょう。マリアの気持ちはよく分かります。深い悲しみにいたマリアが、復活されたイエス様ご自身の口から自分の名前「マリア」と呼んでくださったのですから。しかし、マリアがイエス様に抱きつこうとされるのを拒むのです。イエス様はマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」といっています。イエス様はマリアに特別の役割を与えているのです。それは、イエス様が復活されたことを弟子たちに伝える役割です。この後で、マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と告げ、イエス様にいわれたことを伝えています。

 復活されたイエス様に最初に出会ったのが、このマグダラのマリアでした。イエス様は、復活後に最初に出会われたのがこのマグダラのマリアだったということは、イエス様を最も愛していた者を選ばれたということになります。でも、このマグダラのマリアから、弟子たちに伝えられ、そして、弟子たちから多くの人々に、私たちに、イエス様の復活が伝えられていくのです。その様子は、使徒言行録に詳しく記されています。イエス様の復活は、私たちにとって本当の希望です。

 毎週木曜日の午後に、愛知国際病院のホスピスにチャプレンとして働かせていただいています。十分な働きはできていませんが、ホスピスの現場にいることができる幸いを感じています。ある患者さんと話している、それがこの方と最後の時間になることが多いのです。また来週ということは、難しいのです。来週に、その方が、ここにいるとは限らないからです。いいすぎかもしれませんが、その人の最後の言葉を聞くのです。また、時には付き添っている家族の方と話すこともあります。ホスピスには人の死が現実にあります。イースター、イエス様が復活されたこと、私たちも復活に預かることができる希望が与えられている、このことはとても大きな希望につながっています。復活以外の希望はありません。私たちにイエス・キリストへの復活信仰が与えられている、大きな慰めであり、大きな希望です。この復活の希望を多くの人々に伝えていきたいと願っています。

祈り 神よ、イースターの礼拝を守ることができましたことを心から感謝します。1人の若い兄弟があなたを信じて、洗礼を受けることができます。ありがとうございます。神よ、この若い兄弟の歩みを守ってください。これからいろいろな試練が待っていると思いますが、共にいて支え励まし、導いてください。また、兄弟のご家族の上にもあなたの豊かな恵みと導きがありますように、心から願います。イエス様が復活された、このイースターの出来事は、私たちの希望です。いつか来る死に対して、復活の希望をしっかりと持って歩みことができるように、人生の最後の時まで、その復活信仰を持って歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


2024/03/26

2024-03-26 11:01:00 | 日記
祈祷会    ヨシュア記21:20~45「レビ人の町より、信仰と希望」  2024.3.27

 ヨシュア記の内容は、イスラエルの人々が神から示された約束の土地を手に入れることと、その土地を12部族がくじ引きで分けて住むことが書かれてあります。19章の後半では、イスラエルの人々はそれぞれの境界線を定めて、土地の嗣業の配分を終えたのです。最後に、ヨシュアに嗣業の土地を贈っています。20章には、逃れの町が6つ制定されています。逃れの町とは、意図としてではなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めば命が助かるというものでした。21章では、レビ人が住むことができる町と放牧地を与えることが書かれてあります。

 レビ人の家長たちがシロにいるヨシュアや祭司エルアザルや部族の家長たちのもとに集まって、「主は、わたしたちに住む町と家畜の放牧地を与えるように、モーセにお命じになりました」と申し出ています。すると、イスラエルの人々は、主の命令に従って、自分たちの嗣業の土地の中から、次の町とその放牧地をレビ人に与えるのです。これもくじ引きで割り当てを受けることになります。

最初に割り当てを受けたのは、ケハト族の中の祭司アロンの子孫です。彼らはユダ族、シメオン族、ベニヤミン族から13の町と得ました。その他のケハト族は、エフライム族、ダン族、半マナセ族から10の町をくじで得ました。次に、ゲルション族は、イサカル族、アシュル族、ナフタリ族、半マナセ族から13の町をくじで得ました。メラリ族は、ルベン族、ガド族、ゼブルン族から12の町をくじで得るのです。そして、それぞれ町の名前が書かれてあります。このようにして、イスラエルの人々の所有地の中で、レビ人の町は48になりました。それに属する放牧地がありました。レビ人の町が、12部族全体に広がっていることが分かります。これは、神に仕える祭司としての役割を持つレビ人が、共にいるということを意味しています。神は、イスラエルの人々と共にいてくださるということです。特に、今日はヨシュア記21:43~45までの意味を考えていきたいと思います。

・ヨシュア記21:43~45
主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もなくなった。主は敵を一人残らず彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した。

 この内容を読んでいると、ヨシュア記の最後のように思ってしまいます。ヨシュア記の内容が最初にいいましたように、約束の土地を得ることと、土地に住むことだからです。主は、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、約束の土地をことごとく与えてくださった。そして、住むことができるようになった。そればかりではなくて、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、イスラエルの人々が住む周りの敵の脅威から守り、安らかに住むことができるようにされたとあります。主は、イスラエルの敵を一人残らず、イスラエルの人々に渡し、滅ぼしてくださった。主がイスラエルの人々に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現したとなっています。

 本当に、そのようであればいいのですが、現実はそうではないのです。ヨシュア記の中で、イスラエルの人々は、神が示された約束の土地に入って行きました。そして、その土地を、自分たちのものとしていくのですが、占領した部分と、まだ占領していない土地が多く残されていることが分かります。理論上、土地の割り当てをすることができました。しかし、土地の征服は、これからなのです。また、征服をすることができず、先住民が多く残っていることが分かっています。特にヨシュア記の後の士師記では、ヨシュアの死後も、先住民との戦いが続いています。そして、多くの全住民が残っていることが書かれてあります。

 これをどのように受け止めればいいのでしょうか。主のみ言葉に対する信仰と希望が求められていると私は思います。イスラエルの人々にはまだまだ多くの困難と成すべきことが残っています。でも、主がいわれた内容は必ず成就するという確信を持つということです。ここからは新約聖書の視点から考えていきます。参考として新約聖書のパウロの言葉を引用してみます。

1コリント13:12~13
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 教会暦は今、受難週にあります。イエス・キリストのエルサレム入場、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕、裁判、十字架刑、イエス様の死と埋葬です。それは、主の救いのご計画です。主の救いのご計画、それを私たちは今、鏡におぼろに映っているのを見ているのでしょう。しかし、やがて主と顔と顔を合わせて見ることができるようになるとパウロは、ここでいっています。私たちは今、主の御心を一部しか知りません。やがてははっきりと知ることができるようになるといいます。このような主への信仰と希望が私たちには求められています。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ヨシュア記を通して、イスラエルの人々の信仰をみてきました。彼らの目の前には多くの困難が残っていました。それでも、主のみ言葉に対する深い信頼をみることができました。私たちも、あなたのみ言葉に対する深い信仰と希望を持つことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)