gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

1月19日の礼拝の内容です。

2025-01-18 20:38:00 | 日記
1月19日の礼拝の内容です。讃美歌は、361.412.452.457.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/ylxTz74BV4g?feature=shareです。

礼拝説教    使徒13:42~52「神の恵みの中で生きる」   2025.1.19

 1995年1月17日に、阪神大震災が起りました。その時から30年が過ぎました。あの日は金曜日だったと思います。私は埼玉県飯能市にある日本基督教団飯能教会にいました。朝5時46分に地震が起りました。約6400人以上の方々がなくなりました。その時から2ケ月後に神戸に入りました。大きくゆがんだ道路、大きなビルが倒壊していました。ある場所では火災が起り、焼け跡が残っていました。大きい傷を神戸の町に残しました。その後、様々な災害が起りました。東日本大震災、昨年1月1日に起った能登半島地震です。日本に住んでいるといろいろな災害が起ります。その時に大切なことは、起りうる災害に備えることです。つまり、防災、減災が大切だといわれています。ある時のために、私たちは備えることが何よりも大切なのです。

 私は礼拝で、使徒言行録を読んでいます。キリスト教の最初の記録が書かれてあります。イエス・キリストによって始まったキリスト教が、その弟子たちによって、どのようにエルサレムから当時の中心であったローマにまで伝わっていったのかが分かります。使徒言行録は大きく2つに分けることができます。1~12章は、イエス・キリストの福音がユダヤ人に伝えられていくのです。13~28章は、イエス・キリストの福音が異邦人に伝えられていくのです。使徒言行録13章では、アンティオキアに初めて異邦人の教会が誕生しました。そのアンティオキア教会からバルナバとサウロが派遣されて、第1回伝道旅行が開始されています。その旅は、バルナバの出身地であるキプロス島からスタートしました。そしてピシディア州のアンティオキアに行きます。

 そして、安息日にユダヤ人の会堂に入って席に着きます。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば、話してください」といわれて、パウロが立ち上がって話し始めていきます。これがパウロによる初めての説教となっていきます。説教の内容は、イスラエルの歴史を通して、神が救いの業を行ってきたことを語っていきました。出エジプト、荒れ野の旅、ヨシュアによる約束の地に入って行くこと、士師時代、王国時代、サウル、ダビデ、特に、ダビデから救い主イエス・キリストの誕生をいいます。更に洗礼者ヨハネの言葉から救い主イエス様のことをいっています。

 パウロは、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人の会堂の集まっているユダヤ人に向けて話し続けています。彼らに、兄弟たち、アブラハムの子孫たち、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たちと呼びかけて、この聖書を通しての救いの言葉は私たちに送られたというのです。エルサレムに住むユダヤ人やその指導者たちは、イエス様を認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエス様を罪に定めることによって、死に当る罪はないのに、イエス様を死刑にするようにローマ総督ピラトに求めました。イエス様は十字架につけられて死なれました。十字架から下ろされて墓に葬られました。これはすべて神の御心だったといいます。神はイエス様を死者から復活させてくださった。復活されたイエス様は弟子たちにその復活の姿を幾日も渡って現してくださったのです。イエス様の弟子たちは、今、イエス様の証人となって、先祖に与えられた約束について、あなた方に福音を伝えています。神は、イエス様を復活させて、私たちのために、子孫のために、その救いの業を実現してくださったのです。神は、イエス様を復活させて、もはや朽ち果てることがないようにしてくださいました。ダビデは、神の計画に仕えた後、死んで朽ち果ててしまいました。

 しかし、神が復活させてくださったこの方は、朽ち果てることがなかったのです。そして、パウロは福音の中心に迫って来ます。だから兄弟たち、知っていただきたい。イエス様による罪の赦しが告げ知らされ、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、イエス・キリストによって義とされるのです。パウルの説教を聞いたユダヤ人は、全く新しい言葉を聞いたのです。イエス・キリストの福音を聞いたのです。モーセの律法では義とされないこと、イエス・キリストの十字架の死と復活によって義とされるということです。

 パウロたちが会堂を出る時に、ユダヤ人たちは次の安息日にも同じこと話してくれるように頼んでいます。集会が終っても多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来ます。パウロたちは、彼らに語り、神の恵みの下で生きるように勧めています。次の安息日になりますと、ほとんど町中の人が神の言葉を聞こうとして集まって来ています。

 ここで、ユダヤ人たちが、多くの群衆を見て、ひどくねたみます。口汚くののしって、パウロに反対していきます。ユダヤ人たちはずっと大切にしてきたことがありました。ずっと守ってきたことがありました。それは、モーセの律法を守って生きるということでした。それを、パウロからモーセの律法を守ることはできないこと、神に義とされないといわれたことに我慢ができなかったのです。更に、イエス・キリストのよって義とされることといわれたことに強く反発していきます。町の多くの人々が、パウロの言葉を聞こうとして集まったことも、ねたむことになってしまいました。

 パウロたちは、反対するユダヤ人に「神の言葉はあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」と勇敢に語ります。

 異邦人たちはこれを聞いて喜び、神の言葉を賛美しています。そして、永遠の命を得るように願った人々は皆、信仰に入って行きます。このようにして、イエス・キリストの福音はその地方全体に広まっていきます。ところが、ユダヤ人たちは神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロたちを迫害させ、その地方から追い出してしまいます。それで、パウロたちは彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行きます。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされています。

 イエス様の働きが書かれてある4つの福音書を読んでいると、神に選ばれたユダヤ人の役割がはっきりとしてきます。旧約聖書で、神はユダヤ人を通して、モーセの律法を与え、それを守ることによって、神に義とされるとされていました。でも、そうではなくて、モーセの律法では、神によって義とされないことが分かるのです。更に、モーセの律法によっては、ユダヤ人に神の前に自分たちの罪が明らかにされるということです。そのユダヤ人の罪の大きなものは、神の子イエス・キリストを十字架にかけてしまうということです。つまり、ユダヤ人の役割は、モーセの律法によっては義とされないこと、モーセの律法によって自分たちの罪が明らかにされるということ、そして、ユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけて殺してしまうということです。

 悲しいことに、多くのユダヤ人たちは、その自分たちの役割に気づいていないということ、また、イエス様の弟子たちを迫害し、教会を荒らしてしまうことになっていきます。使徒言行録でも、使徒たちの働きを妨害し、迫害し、時には殺してしまいます。パウロによる異邦人伝道がこれから本格化していきます。そのパウロの伝道活動で障害となるのは、ユダヤ人たちでした。これからも、パウロの伝道に対する抵抗、迫害を続けていくのです。

 ふと、振り返ってみると、悲しいことではありませんか。旧約聖書を見てください。新約聖書に比べて、本当にあついです。旧約聖書の内容は、神がユダヤ人を通して、人間の救いの業を行うというものです。それが、神の救いの業を無にすることになってしまうことをどのように受け止めればいいのでしょうか。神がユダヤ人を選ばれたことの意味を考えると何とも悲しいことだと思います。パウロは、ここで自分たちはこれからユダヤ人ではなく、異邦人の方に行くといっています。でも、パウロの伝道を見ていると、まず、ユダヤ人の会堂に入って行きます。その新しい町に入って、そこにあるユダヤ人から伝道をしていきます。それから、異邦人の方に行っています。パウロのユダヤ人に対する思いは、とてもあついものがあります。

ローマ9:2~4
わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。

 このようにパウロは、同胞であるユダヤ人の救いについて、強い気持ちを持っていました。この点も忘れることなく、伝道を考えていきたいと思います。私たちは改めて、イエス・キリストによる救いを受け止めていることに感謝をしたいと願います。最初に、私は震災を通して、備えの大切さをいいました。イエス・キリストへの信仰も同じだと思います。いつか来る、その時のために、今、備えることが必要です。私たちは、イエス・キリストへの信仰を持って、神の国を目指して歩んで行こうではありませんか。

祈り 神よ。あなたを皆さんと一緒に礼拝することができましたことを心かから感謝します。備えることについて考えて来ました。私たちには聖霊を通して、イエス・キリストの福音が与えられています。神の恵みの中で生きていることができています。どのような時でも、あなたを見上げて、希望と喜びと感謝を持って歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


1月15日の祈祷会の内容です。

2025-01-14 19:35:00 | 日記
祈祷会    士師記20:26~48「神の前で泣くイスラエルの人々」  2025.1.15

 士師記19~21章は、イスラエルの12部族の中で、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれないという危機のことが書かれてあります。この時、イスラエルの人々は神を信じていましたが、宗教的な指導者がいなくて、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていました。その結果が、このような悲劇につながっているのです。

19章では、そのきっかけが書かれてあります。エフライムの山地の奥に1人のレビ人が住んでいました。レビ人はユダのベツレヘムから1人の女性を側女として迎え入れました。しかし、その側女はレビ人を裏切って、自分の実家に帰ってしまいました。レビ人はその側女を連れ戻すために、実家に行きます。何とか和解して自分の家に戻ろうとします。その旅の途中で、ベニヤミン族のギブアに到着し、1人の老人の家に泊まることになりました。そこで事件が起ります。町のならず者が家を囲み、戸をたたいて「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい」といいます。家の老人は拒否しますが、耳を貸そうとしません。そこで、レビ人は側女をつかんで、外にいる人々の所で押し出すと、ならず者たちは側女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころ、ようやく側女を放すのです。朝になるころ、側女はレビ人のいる家の入り口までたどりつき、その場で死んでしまったのです。レビ人は死んだ側女をろばに乗せて、自分の家に帰っていきます。そしてレビ人は刃物をとって側女をつかみ、その体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけます。これを見た者は皆、驚き大きな衝撃を受けました。

20章になると、イスラエルの人々は皆出て来てミツバに集まりました。剣を携えた40万の歩兵が参加しました。イスラエルの人々はレビ人に、「このような犯行がどうして行われたのか説明してもらいたい」といい、レビ人は「ベニヤミンのギブアに来て、私は側女と共に宿をとっておりました。ギブアの首長たちが私に向かって来て、夜、私の泊まった家を取り囲み、私を殺そうとし、側女を辱めて死に至らせたのです。私は側女をつかみ、その体を切り離して、イスラエルの嗣業の全耕地に送りました。彼らがイスラエルの中で極悪非道なことをしたからです」と答えます。聞いたイスラエルの人々は、ベニヤミンがイスラエルの中で行ったすべての非道を制裁しようといって、ベニヤミン族の所に行きます。ベニヤミンの人々は、イスラエルの人々の行動を知っていました。イスラエルの人々はベニヤミンの人々に「あなたたちの中で行われたあの犯行はなんということか。今、あのならず者の犯人がギブアにいれば、引き渡せ。犯人を殺してイスラエルの中から悪を取り除こう」といいます。ここでベニヤミンの人々が、ならず者を引き出せば、それで終ったはずでした。しかし、どういう訳か、ベニヤミンの人々はイスラエルの人々の声を聞かず、戦いの準備を始めるのです。ベニヤミン族は剣を携えた兵士26700人が集まります。

一方で、イスラエルの人々も40万の兵士が戦いの準備をします。第1日の戦いが始まりました。戦いの結果、22000人のイスラエルの兵士が打ち倒れたのです。しかし、イスラエルの部隊は奮起し、戦闘態勢を立て直しました。イスラエルの人々は、主の御前に上って、夕方まで泣き続けて、主に問うて「兄弟ベニヤミンと、再び戦いを交えねばなりませんか」と聞くと、主は「彼らに向かって攻め上れ」と命じます。第2日の戦いも始まりました。戦いの結果、18000人のイスラエルの兵士が倒れてしまったのです。

そして、今日の聖書の箇所になります。イスラエルの人々は皆、すべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣きました。その日、人々は夕方まで断食し、焼き尽くすささげものと和解のささげものをささげました。当時は契約の箱がベテルにあって、アロンの孫でエルアザルの子であるピネハスが御前に仕えていたのです。イスラエルの人々は主に問うて「兄弟ベニヤミンとの戦いに再び繰り返し出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか」と聞くと、主は「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す」といわれるのです。第3日目の戦いになる時に、イスラエルの人々は戦い方を変えて、ギブアの周囲に伏兵を配置します。こうして、再び、イスラエルとベニヤミンとの戦いが開始されます。

第3日目の戦いです。イスラエルとベニヤミンとの戦いで、ベニヤミンは町から遠くへおびき出されます。一方はベテルに、他方はギブアに通じる大路に進みます。野で、イスラエルの兵士30人が倒れます。ベニヤミンの人々は、また敵を打ち負かしたと思って油断してしまったのでしょう。イスラエルは、撤退して敵を町から大路へおびき出そうと謀っていました。ベニヤミンの人々はおびき出されてしました。伏兵はギブアの町を急襲しました。伏兵は突入し、町をくまなく剣を持って撃ちました。イスラエルと伏兵の間に打ち合わせがあって、町からのろしの煙が高々と揚がると、イスラエルは戦線に復帰することになっていました。ベニヤミンが振り返ると、町全体が火に包まれ天に燃え上がっていました。そこに、イスラエル兵が引き返して来たので、ベニヤミンは、自分たちに、不幸な結末が訪れるのを知って、うろたえました。ベニヤミンはイスラエル兵を見て、荒れ野の方に向かったが、戦いから逃れることはできませんでした。イスラエルはベニヤミンが壊滅するまで追い迫り、打ち殺していきます。この日のベニヤミンの全戦死者は25000人でした。600人が荒れ野のリモンの岩場に逃げて、4ケ月留まりました。最初に戦いに参加したベニヤミンは26700人ですから、多くの人々が戦死したことになります。

21:2~3で、イスラエルの人々はベテルに帰って、神の御前に座り、声をあげて泣き叫んで「イスラエルの神、主よ。なぜ、イスラエルにこのようなことが行われ、今日イスラエルから1つの部族が欠けることになったのですか」といっています。どうして、このような悲劇を止めることができなかったのでしょうか。神は、どうしてこのような悲劇を止めることをしなかったのでしょうか。イスラエルは、神を信じながら、指導者がいなくて、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた結果が、このようになってしまったことを聖書は、警告として、私たちに伝えているのでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの12部族の中でベニヤミンがなくなってしまうかもしれない危機を学びました。神を信じながら、それぞれが自分の目に正しいことを行っていった結果が、このような悲劇をもたらしたのでしょうか。人間の罪の深さを知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                  」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


1月12日の礼拝の内容です。

2025-01-11 11:59:00 | 日記
1月12日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.280.394.430.24です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/E-JRt8vr08Y?feature=shareです。

礼拝説教      使徒13:33~41「罪が赦されること」     2025.1.12

 ここは、パウロの説教の箇所です。パウロがここでいっていることは、イエス・キリストによって私たちの罪の赦しがなされていることです。

「神はイエスを復活させて、わたしたちの子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。」(33節)「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことは」(34節)
「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。」(37節)
「この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(38~39節)

 パウロはこの説教で、本当に大切な神の救いの業を語っています。神が聖書を通して、私たちの罪の救いのために、何をしてくださったのかを、ここで丁寧に話しています。私は、ここで神の救いとは何かを聖書全体を通して、改めて振り返ってみたいと思います。

 初めに神は、この世界と私たち人間を創造してくださいました。神は自ら造った創造の業を、すべては良かったといっています。神にとって素晴らしい世界が創造されたのです。その創造の業の最後に、私たち人間の創造がなされました。神にとって人間の創造は特別なものでした。神は御自身に似せて、かたどって、人間を創造されたのです。これは、神が人間を愛し、人間が神を愛するという相互関係の中にありました。互いに愛し合う関係を持つための人間の創造だったのです。それは、人間の自分の意志、自由意志を与えてくださいました。神は自ら意志を持つように、人間も自ら意志を持つ存在として創造されたのです。神の意志は、人間自身が神を愛するようになって欲しいと願っていました。神の願うロボットのような存在ではなかったのです。自由な意志を持って、神を愛する存在として人間は期待されていました。

 しかし、人間は、神によって与えられたその自由な意志によって、神を愛さない道を選びました。神を愛さずに、自分を愛するようになっていったのです。ここに人間の罪が入って来ました。この人間に罪が入ったことによって、人間は死ぬ者となっていったのです。神から離れた人間は、滅びの道を歩むようになっていきます。

 神から離れた人間を、神はそのままにはしませんでした。どうにかして、人間を救う道をさがしていくのです。まず、神が始めたことはアブラハムを選ぶことでした。つまり、イスラエルの人々を選ぶことでした。神は、イスラエルの人々を選民として選び、人間の救いのために動いてくださいます。神は、イスラエルの人々と共に歩み、人間の救いの計画を始めていきます。神は、イスラエルの人々をエジプトに送りました。そこで、長い間、奴隷としての苦しい日々を送らせるのです。430年にも渡る苦しい日々でした。その時に、神はモーセを送ります。モーセを通して、神はイスラエルの人々を、奴隷の状態から解放しようとします。出エジプトです。神は、10の災いをエジプトに送って、イスラエルの人々をエジプトから解放されます。

 エジプトを出たイスラエルの人々は、神の示す約束の地カナンを目指して、荒れ野の旅を続けていきます。荒れ野の旅は苦しいものでした。水はない、食べ物はないという命に関わる苦難を経験していくのです。その中で、神がイスラエルの人々を養ってくださる経験をしていくのです。更に、神は、イスラエルの人々と契約を結びます。神の民としての契約です。神は、イスラエルの人々の神となり、イスラエルの人々は神の民となるということです。その内容は、十戒を中心とした神の教えを守るということでした。十戒は、イスラエルの人々の日常生活を中心として、守るべき事柄が細かく書かれてあります。神の教えを守ることによって、イスラエルの人々は、約束の地で平和に、幸福に生きることができるという内容でした。

 神は、十戒を中心とした神の教えだけでなく、神とイスラエルの人々が出会う場所として、幕屋を造るように命じました。この幕屋は移動式でした。荒れ野の旅を継続していたので、そのような機能が必要だったのです。幕屋を中心に、イスラエルの人々の宗教生活も細かく指示されていきます。幕屋の働きを担うために、レビ人が選ばれ、その中で、祭司が選出されて、宗教儀式をするようになっていきます。祭司の中で大祭司がいて、大祭司の大きな仕事としてイスラエルの中で、贖いの日というのが定められていきます。それは、年に一度だけ、大祭司が、幕屋の中の一番聖なる場所である至聖所に入って、自分のための罪の贖い、そして、イスラエルのすべての人々のために、罪の贖いをするということです。人間は神の前で罪を犯してしまいました。そのために、罪を贖う必要があります。どのようにして、人間の罪を贖うのかといえば、家畜に、自分の罪を負わせるのです。家畜が、人間に代って、神の前でささげられます。家畜は殺されて、血を流し、肉は焼かれていきます。このことが人間の罪の贖いにとなっていくことを神は許してくださいました。イスラエルの人々の神への礼拝をいえば、家畜をささげて、人間の罪の贖いをするということでした。

 旧約聖書を読んでいると、イスラエルの人々は、神の教えを守らなければならないということですが、守ることができないのです。多くの預言者が与えられて、イスラエルの人々への罪の悔い改めを求めていきますが、守ることができないのです。ここに神のご計画があるのです。それが、パウロによって明らかにされていきます。

ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 それは、神はイスラエルの人々に与えた律法の役割は、人間は神の教えである律法を守ることができないことを示すために与えられたものでした。罪の自覚を生じさせるために、神の律法が与えられたのです。つまり、旧約聖書だけでは、神の救いはないということが分かります。それで、イエス・キリストの新約聖書が必要となってくるのです。パウロは続けていいます。それは、どのようにして、人間の救いが完成するかです。今まで、家畜の犠牲によって、罪の赦しがなされていました。

ローマ3:21~25
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 パウロが、ここでいっていることは、旧約聖書でなされていた家畜による罪の贖いが、神の子イエス・キリストの十字架の死によって、完全な罪の贖いが完成したということです。私たちは新約聖書を通して、旧約聖書を読んでいます。そうすると人間の罪の現実というのが弱くなってしまうのではないかという思いを私は持っています。人間の罪とは何かを教えるために、神がイスラエルの人々の歩みを通して、旧約聖書を通して、私たちに教えてくださったいます。その人間の罪深さと重さを知って、イエス・キリストの十字架がいかに、私たちにとって神の恵みとなっているかと受け止めることができるのです。神の救いのご計画は、神によって与えられた恵みの業です。私たちは心から感謝して、受け止める必要があります。私たちが何もできないことを、神はすべてご自身で成し遂げてくださっているのです。神の救いの業の最後に、最後の審判というのがあります。神が造ったこの世界は、いつの日か終りを告げます。そして、神によって新しい世界が造られます。その時に、新しい神の世界、神の国に入る資格があるかどうか審判されるのが、最後の審判です。全ての人々は、神の国に入る資格はありません。イエス・キリストの十字架による贖いを信じ、洗礼を受けて教会に加わった者だけが入ることを許されているのです。そうでないものは、神の国に入る資格はありません。最後の審判の後で、神の救いと裁きが用意されていることを、私たちは知っています。イエス・キリストの十字架だけが、私たちの本当の救いを完成することができるものです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロが語る神の救いについてみてきました。私たちの人間の力で、神の救いに預かることできません。神の恵みであるイエス・キリストの救いを信じることによって救われることを改めて確認をすることができました。この神の救いの業の中にあって、その生涯を送ることができますように、また、この神の救いを、周りの人々に伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


1月8日の祈祷会の内容です。

2025-01-07 19:51:00 | 日記
祈祷会      士師記20:1~25「悲しみの物語」     2025.1.8

 士師記19~21章は、イスラエルの12部族の中で、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれない危機が書かれてあります。この間の主題は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記21:25)です。

 エフライムの山地の奥に1人のレビ人がいました。レビ人はユダのベツレヘムから1人の女性を側女として迎え入れます。その側女がレビ人を裏切り、自分の実家に帰ってしまいました。レビ人は側女を連れ戻すために、側女の実家にやって来ます。和解して、レビ人は側女を連れて、自分の家に帰ろうとします。旅を続けて、ベニヤミン族のギブアにやって来ました。そこで、1人の老人の家に泊まることになりました。その家で事件が起ります。町のならず者が家を取り囲み、戸をたたいて、「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい」といいます。家の老人は拒否します。でも、ならず者たちは承知しません。そこで、レビ人は側女をつかんで、外にいる人々の所に押し出すと、ならず者たちは、側女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく側女を放しました。朝になるころ、側女はレビ人のいる家の入り口にたどりつきましたが、倒れて、死んでしまいました。レビ人は、死んだ側女をろばに乗せて、自分の家に戻ります。家に戻ると、レビ人は刃物を取って側女をつかみ、その体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送るのです。これを見たイスラエルの人々は大きな衝撃を受けて、ミツバに集まります。

 ミツバにイスラエルの全部族、剣を携えた40万の歩兵が集まります。ベニヤミンの人々も、イスラエルの人々がミツバに集まったことを伝え聞きます。イスラエルの人々はレビ人に「このような犯行がどうして行われたのか説明してもらいたい」といったので、レビ人は「ベニヤミンのギブアに来て、わたしは側女と共に宿を取っていました。ギブアの首長たちがわたしに向かって来て、夜、わたしの泊まった家を取り囲み、わたしを殺そうとして、側女を辱めて死に至らせたのです。わたしは側女をつかみ、その体を切り離して、イスラエルの嗣業の全耕地に送りました。ギブアの首長たちがイスラエルの中で極悪非道なことをしたからです。イスラエルのすべての人たちよ。ここで話し合って、協議してもらいたい」といいます。レビ人の説明の中で、ギブアの首長たちとありますが、実際はギブアのならず者たちです。また、レビ人は、自分が側女をつかんで外に押し出したのです。自分の都合の悪いことは隠しています。

 イスラエルの人々は、ギブアの人々に対して攻め上ろうと決めました。ベニヤミンがイスラエルの中で行った非道の制裁をしようということです。イスラエルの人々はすぐに、ベニヤミン族を攻めようとしませんでした。まず、ベニヤミン族に「あなたたちの中で行われたあの犯行はなんということか。今、あのならず者の犯人を引き渡せ。犯人を殺して、イスラエルの中から悪を取り除こう」と聞いたのです。ここで、ベニヤミンの人々が、イスラエルの人々の声を聞いて、ならず者たちを出せば、よかったのです。ならず者たちが殺されて、それでこの騒動は終わりとなるはずでした。ところが、ベニヤミンの人々は、イスラエルの人々の声を聞かず、戦おうとするのです。これから最も悲劇的な展開になっていきます。イスラエルの全部族の中で11部族対ベニヤミン族との戦争となっていきます。どうして、ベニヤミン族はそのような決断をしたのでしょうか。分かりません。

 ベニヤミン族は剣を携えた兵士26000人と、ギブアから兵士700人が集まりました。一方、イスラエルの人々も剣を携えた兵士40万人が集まっています。イスラエルの人々はベテルに集まって、神に問うています。「我々のうち、誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか」と。主は「最初はユダだ」といわれます。翌朝、イスラエルの人々は行動を起して、ギブアに対して陣を敷きます。イスラエル対ベニヤミンの戦いが始まりました。1日目は、22000人のイスラエル兵が倒れました。大きな被害が出たのです。イスラエルの人々は、主のみ前に上って、夕方まで泣き続け、主に問うていいます。「兄弟ベニヤミンと、再び戦いを交えなければなりませんか」と。主は「ベニヤミンに向かって攻め上れ」といいます。2日目も戦いになっていきます。またも18000人のイスラエル兵が倒れてしまいました。ここまでが、今回の聖書の箇所の内容となっています。

 その後は、3日目の戦いでやっとイスラエルの人々の勝利となっていきます。イスラエルとベニヤミンとの戦いの結果として、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれないという危機になっていきます。そうならないように、イスラエルの人々は努力していきます。そして士師記は終ります。神はどうして、この戦いを止めようとしないのでしょうか。分かりません。この戦いは、イスラエル全体に大きな悲劇となっていきます。どうして、そうならないようにすることができなかったのでしょうか。それは、それぞれが自分たちの正しさを主張しているからだと思います。自分たちの正義といいますか。自分たちの正しさといってもいいかもしれません。その正しさがぶつかって戦争となり、大きな悲劇になってしまったのです。

コヘレト7:15~16
善人がその善のゆえに滅びることもあり、善人すぎるな。賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。

 自分たちは罪人である。弱い人間であると受け止めることができることは、本当に大切なことだと思います。自分の弱さを知り、自分の罪を知り、人間同士互いに弱い存在だと知り、互いに許し合い、愛し合うことができるようになるからです。自分の弱さを知る人が本当は強いのかもしれません。神は自分をも愛し、他の人々も愛してくださっているのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。自分の正しさを強くすると、本当の自分が見えなくなってしまいます。神の前で、私たち1人1人は、罪深く、弱い存在であることを知り、そのことを喜んで、受け入れて、互いに愛し合うことができること、許し合うことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


1月5日の礼拝の内容です。

2025-01-04 11:33:00 | 日記
1月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.194.368.451.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/fGKG_bFC6sM?feature=shareです。

礼拝説教    使徒13:26~32「イエス様の証人となる」  2025.1.5

 2025年になりまして、最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。示された神のみ言葉を受けて、それぞれが豊かな1週間の歩みをすることができますように祈ります。

 私たちはキリスト教の信仰を持ち、教会生活をしています。一番大切にすることは何かといえば、それはイエス・キリストの十字架です。十字架の死と復活です。いつも私たちは、イエス・キリストの十字架を見上げつつ、信仰生活を送っています。このキリスト教の信仰生活は、私たちのいろいろな場面で生かされていると思いますが、一番発揮されるのは、人の死と向き合った時だと思います。私たちの日常生活では、死を意識することは少ないと思いますが、死を意識する場面に突然に出会うこともあります。私はいつかくる死とどう向き合うのかを、日常生活の中で意識することが大切だと考えます。死を意識することによって、イエス・キリストの十字架とより向き合うことができるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たち自身の死とその後の復活、永遠の命を受け止めることになります。人の死の先に未来と希望があることを知るだけで大きな勇気を持って生きることができるのです。

 私が青年時に、マザーテレサの働きに大きな影響を受けました。インドのカルカッタ、今は違う呼び方になっています。ここで紛争が起りました。その紛争で多くの難民が生まれ、難民がカルカッタの町に逃れて来たのです。多くの難民が町にあふれました。そうすると、高齢者や子どもなど弱い立場の人たちが倒れて、そのまま死を迎える人々が多くいたのです。死者の数があまりに多いので、人々は人の死に無関心になってしまったというのです。そこで、マザーテレサの活動が始まるのです。普通なら、死にそうな人ではなく、生き延びる可能性がある人を助けると思うのですが、マザーテレサはそうでなくて、今にも死にそうな人を見つけて、助け出し、死を待つ人の家に連れて行くのです。その意味は、今にも死にそうな人に「あなたは愛されるために生まれて来たことを感じて欲しい」という願いがあっての行動でした。家で、その人に一杯のあたたかいスープを飲ませます。あなたは大切な人ですという願いを持って、そのような行動になっているといいます。

 今にも死にそうな人が自分だったらどうでしょうか。紛争で逃げて来て、道端で倒れて、今にも死のうとしている。その時に、誰かから抱き起されて、どこかの家に運ばれて、汚れた体をきれいに洗ってもらい、最後の一杯のあたたかいスープを飲ませてもらえる、うれしいことだと思います。私たち1人1人が、人生の最後を迎える時に、誰かが側にいてくれる、これだけでうれしいと思います。何もできなくても、ただ側にいてくれる、それだけでいいのです。あなたは神に愛され、人に愛されて、ここまで生きることができた。幸いな人生だと感じて、死を迎えることができることは本当に幸いなことです。

 使徒言行録を読んでいきましょう。今日の聖書の箇所は、パウロの第1回伝道旅行のピシディア州のアンティオキア、安息日でユダヤ人の会堂で行われたパウロの説教の部分です。パウロの伝道旅行は、異邦人に向けての伝道と考えられがちですが、新しい町に行った時には、最初にはユダヤ人の所に行って伝道しているのです。その伝道方法は最後まで変わることはありません。初めに、パウロはユダヤ人に向けて、神は私たち、イスラエルの民を選んでくださった。そして、エジプトの時代、荒れ野の40年の時代、士師の時代、サウルとダビデの時代、ずっとイスラエルを導いてくださったっことをいいます。ダビデの子孫から救い主イエスを送ってくださること、洗礼者ヨハネもイエス様のことを指し示してくださったことを語っていくのです。

 そして改めて、ユダヤ人に向けて、兄弟たちと呼びかけます。アブラハムの子孫の方々、神を畏れる人たちと。この救いの言葉はわたしたちに送られましたといいます。パウロがいう救いの言葉とは何を意味するのでしょうか。使徒言行録が書いていることは、ユダヤ人が神の民とされたにも関わらず、神の子、救い主にイエス・キリストを認めなかったことです。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエス様を認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエス様を罪人とされたのです。イエス様に死に当る理由は何も見い出せなかったのに、イエス様を死刑にするようにピラトに求めたというのです。ピラトのもとで、イエス・キリストは十字架にかけて殺してしまったのです。十字架の死後、ユダヤ人はイエス様を十字架から下ろして、墓に葬りました。

 ユダヤ人は、神から特別に選ばれた民でした。それは、ユダヤ人を通して、すべての人々の救いにつなげるということでした。旧約聖書を読んでいると、神に選ばれたユダヤ人が、神から与えられた神の教え、幕屋や祭司制度などを守ることが求められています。もし、神の教えを破った時に、神の罰が与えられるというものだと思います。しかし、旧約聖書の狙いは、そこにはなくて、神に選ばれたユダヤ人が、神の教えなどを守ることができない。その場合として、いかにユダヤ人の犯した罪を赦すのかの方法が書かれているのです。旧約聖書のレビ記の中に、ユダヤ人が罪を犯した場合、どのように神の前で罪を贖うことができるのかの具体的な方法が書かれてあるのです。それは、人間の犯した罪を、人間自身が負うのではなく、人間の飼っている家畜に、人間の罪を負わせて、神の前にささげるということでした。家畜が、人間に代って罪の贖いとしてくださるのです。

 ルカは、この聖書の箇所で、「イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。」(27節)「イエスについて書かれてあることがすべて実現した後」(29節)と書いて、ユダヤ人がイエス様を十字架につけて殺すことは、神のご計画であったことを書いています。ここまで読んできて、驚くべきことは、神に選ばれたユダヤ人の役割は、神の子イエス・キリストを十字架につけて殺すことでした。そのまま考えれば、ユダヤ人の大きな罪であると思うのですが、その大きな罪を、神の赦しのために用いられるということです。

 神は、イエス様を死者の中から復活させてくださったのです。イエス様は、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日もわたって復活の姿を現してくださったのです。その人たちは、今、ユダヤ人に対して、イエス様の証人となっています。私たちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせていますといいます。

 この救いの言葉は私たちにおくられましたとパウロは、ここでいっています。もちろん、パウロの言葉を聞いているユダヤ人に対してですが、この言葉は、今、ここにいる私たち1人1人に語られている神の言葉です。私たちは旧約聖書、ユダヤ人の歩みから、人間の罪について、罪の赦しについて知ることができます。そして、新約聖書の4つの福音書から、イエス・キリストの働き、特に十字架の死と復活について知ることができるのです。使徒言行録では、使徒たちによって、このイエス・キリストの福音がエルサレムからローマにまで伝わっていくのです。ユダヤ人からすべての異邦人へ宣べ伝えられていきます。パウロが、ここでいっている、この救いの言葉というのは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちの罪が贖われて、罪が赦されて、復活の命に預かることができるということです。

 私たちはいつの日か、死を迎えることになります。しかし、そこでは終わりではありません。新しい命の始まりが起ります。神によって造られた私たちは、罪を犯し、神から離れ、滅びを待つしかありませんでした。人間の力では、罪の現実に立ち向かうことができなかったのです。そのために、神は人間の救いのために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。そのイエス・キリストを人間は、十字架につけて殺してしまったのです。神の目からすれば、決して赦されることのない罪を犯したかのようです。でも、それは神のご計画でした。神は、人間の罪を利用して、人間の罪の救いを成し遂げてくださったのです。それが、イエス・キリストの十字架です。この十字架を通して、私たちの本当の救いがあります。救いの言葉は、私たちの死後にある希望です。神と共にある永遠の命です。やがて、私たちの住む世界は、神よって終りの時を迎えます。そして、神よって新しい世界が造られます。神の国です。そこに、罪赦された私たちは、そこに入る恵みを与えてくださっているのです。これは神からの一方的な恵みです。まさしく福音です。新しい年が始まっています。私たちは、このイエス・キリストにある希望を持って歩もうではありませんか。イエス様の証人として歩み、復活の命のことを知らない人々に、伝えていきましょう。

祈り 神よ、新しい年の最初の日曜日に、このように神を礼拝することができましたことを心から感謝します。私たち1人1人が、イエス様の証人として歩むことができますように、十字架の死と復活の意味を知り、死の先にある復活の命の希望があることを、周りの人々に伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。