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5月29日の祈祷会の内容です。

2024-05-28 11:31:00 | 日記
祈祷会     士師記3:1~11「士師オトニエルの働き」   2024.5.29

 士師とは「さばきつかさ」という意味です。戦争時には戦いのリーダーであり、平時には政治的宗教的なリーダーということができます。ヨシュアによって、イスラエルの人々は神が示された約束の地に入っていきました。ヨシュアの死からサムエルの登場までの間を士師時代といいます。サムエルの登場は、イスラエルが国を立てていくことになります。サウル、ダビデ、ソロモンの時代になっていきます。ヨシュアは死ぬ前に、イスラエルの人々に大切なことを語っていきました。それは、神がイスラエルを導いてくださったこと、イスラエルの人々が神の教えを守り信じて歩むこと、先住民と交わってはならないこと、特に、先住民の神々を拝んではいけないことです。

 そのヨシュアの遺言があったにも関わらず、士師記1~2章では、イスラエルの人々が手に入れた約束の地には、多くの先住民が残っていたことをいいます。約束の地に先住民がいなくなれば、イスラエルの人々が先住民と交わることも、先住民の偶像を拝む危険性はなかったと思いますが、そうではないことがあるのです。とにかく約束の地に先住民が多くいて、彼らとイスラエルの人々は共に暮らしていかなければならないということです。

 士師記の神学というものがあります。イスラエルの人々は平和時に、神を忘れて先住民と交わり、先住民の神々を拝んでしまうのです。人々は神の教えを破ったことになります。怒った神は、敵を人々に送ります。すると、人々は敵によって苦しい状況になっていきます。そうすると、人々は神に助けを求めます。神は人々を憐れみ、救助者である士師を送ります。士師が活躍し、人々と共に敵と戦い、追い出すことになります。平和がやって来て、人々は喜びます。士師がなくなります。すると、人々はまた神を忘れて、先住民と交わり、偶像を拝んでしまいます。すると、神は怒って、敵を送ります。敵によって、人々は苦しむようになります。人々はその敵からの苦しみから神に助けを求めるようになります。神は人々を憐れみ、士師を送って、敵を追い出します。人々は平和の中で、神を忘れていきます。このようなサイクルが繰り返し繰り返し行われるのです。人々は同じ過ちを何度も繰り返してしまいます。それでも、神はイスラエルの人々と共に歩んでくださるのです。

・3:1~6、神からの試み
 先住民が残っているといいました。その理由が、ここには書かれてあります。カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルの人々とそのすべての者を試みるために用いようとして、主が留まられた諸国の民のリストです。主がそうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々に世代の戦いを学ばせるためにほかならなかったというのです。ペリシテ人の5人の領主、カナン人、シドン人、ヒビ人がそれです。このリストはイスラエルの人々を試みるために、主がモーセに授けた戒めに聞き従うかどうかを知るためだったといいます。でも、イスラエルの人々は先住民の中に住んでいて、先住民の娘を妻に迎え、自分たちの娘を先住民の息子に嫁がせ、先住民の神々に仕えたのです。

 ここでは、先住民が残っている理由として、イスラエルの人々に先住民との戦いを知らないことで、戦いを学ばせるためだったこと、主の戒めを守るかどうかを試みるためだったといいます。主が先住民を残しているとあえて考えると、主の意志が強く出ています。あえて危険な存在である先住民を残すことによって、イスラエルの人々の主への信仰心を試しているということです。残念ながら人々は、主の戒めをすぐに破ってしまっています。

・3:7~11、救助者オトニエル
 イスラエルの人々は主の目に悪をされることを行っています。主を忘れバアルとアシュラに仕えました。主はイスラエルに対して怒りに燃え、アラム・ナハライムの王に売り渡したとあります。8年間、人々はアラムの王に仕えることになります。人々はその苦しみの中で、主に助けを求めて叫びました。主は人々のために、1人の救助者を立てます。そして、人々を救われます。これが、カレブの弟ケナズの子オトニエルです。主の霊がオトニエルの上に臨み、オトニエルは士師としてイスラエルを裁くのです。オトニエルが戦いに出ると、主はアラムの王を破ることができました。国は40年にわたって平穏であったとあります。こうしてオトニエルは死んでいきます。

 ここまで読んでいくと、イスラエルの人々の歩みを通して、人の罪を知ることができます。人は平和な時、順調な時に、神を忘れ、罪を犯していくということです。逆に、人は大きな苦難や苦しみや悲しみにあるときに、神を求めるということです。神に助けを求めて、神のもとに帰っていくということです。人がいつも神のもとにあるためには、苦しみや悲しみが必要だということです。私たちはいつも幸福と平和を求めています。しかし、それが続くと、私たちは神を必要としなくなるということです。神を忘れ、罪を犯していくということです。人はなぜ苦しみや悲しみがあるのか、人生の中で大きな問いですが、その答えの1つとして、神のもとにあるために、神を求め、信じ続けるためということです。では、人が幸福であり平和である時も、神から離れず、神を求め、信じ続けることができるためにはどうしたらいいのでしょうか。不可能なことなのでしょうか。この問題は、私たちが問い続ける必要があることです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々の歩みを通して、人とは何かを問われています。人は幸福であり平和な時には、神を必要としなくなります。逆に苦しみや悲しみがある時に、神を必要とします。人が神を信じ続けるには、苦しみや悲しみが必要であるということを知ります。どのような時でも、神を信じ求めていく信仰があることを願います。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


5月22日の祈祷会の内容です。

2024-05-20 22:03:00 | 日記
祈祷会      士師記2章「イスラエルを愛される主」    2024.5.22

 モーセに導かれたイスラエルの人々は、エジプトを出て、荒れ野の旅を経て約束の地を目の前にするまでにやって来ました。ここでモーセは死に、次にリーダーとなったのがヨシュアでした。ヨシュアによって導かれたイスラエルの人々は、主が示された約束の地に入って来ました。ここではイスラエルの人々は約束の地を手に入れることと、12部族がくじ引きで土地を分けて住むことをしていくのです。ヨシュアの死後、士師がたてられて、イスラエルの人々を導いていきます。サムエルが登場して、サウル、ダビデ、ソロモンの王が立てられるまで、士師の活躍は続きます。士師とは「さばきつかさ」という意味です。戦争の時は軍事的なリーダー、平時には、政治的宗教的なリーダーとして活躍していきます。

 士師記1~2章は、序章にあたります。ここではヨシュア記の最後の部分と重なる部分が多いです。ヨシュアは最後に、イスラエルの人々に大切なことを話していきました。主はイスラエルを導いてくださったお方であること、その主に従い、主の教えを守ること、主に従わず。主の教えを守らないことになると、主から裁きを受けることをいいます。特に、約束の地に住んでいる先住民と交わってはならないこと、それは先住民の拝んでいる神々を、イスラエルの人々が拝むようになるからということでした。そのヨシュアの教えにも関わらず、約束の地には多くの先住民がいたことをいっています。これが、士師記の時に、イスラエルの人々の苦しみになっていくことになります。

・2:1~5、ボキム(泣く者の意)での出来事
 主はイスラエルの人々に「わたしはあなたたちをエジプトから導き上り、約束の地に入らせ、わたしはあなたたちと交わした契約を決して破棄することはしないと誓いました。あなたたちはこの先住民と契約を結んではならない、先住民の祭壇は取り壊さなければならないといったが、あなたたちはわたしの声に聞き従わなかった。どうして、このようなことをしたのか。だから、わたしは先住民を残す、先住民の神々はあなたたちの罠となっていく」と告げています。聞いたイスラエルの人々は声をあげて泣くのです。イスラエルの人々は、ここで主にいけにえをささげています。ここでも主は、イスラエルの人々が、主に従うことをせず、先住民と交わり、先住民の信じる神々を拝んでいるというのです。

・2:6~23、主に背く世代が興る。
 ヨシュアの死後、ヨシュアの在世中、生き永らえて、主がイスラエルの行われた大いなる御業を見た長老たちは存命中、人々は主に仕えることができたのです。でも、その世代が皆絶えて、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業を知らない別の世代が興っていきます。イスラエルの人々は、主の目に悪と思われることを行います。イスラエルの人々は、主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えていきます。バアルは男神、アシュトレトは女神です。豊穣の神々として、先住民の神々でした。このバアルとアシュトレトとは、イスラエルの人々はずっと悩まされていくことになるのです。

 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せられます。イスラエルの人々は略奪者から略奪されるままにされ、災いが下り、苦境に立たされることになります。その時に、主は士師たちを立てて、イスラエルの人々を略奪者の手から救い出していきます。でも、イスラエルの人々は士師たちにも耳を傾けず、バアルに恋い慕って、これにひれ伏していきます。主は、イスラエルの人々のために士師を立て、士師と共にいて、その士師の存命中、敵の手から救ってくださったのですが、それは圧迫し迫害する者を前にして、うめくイスラエルの人々を、主が哀れに思われたからです。その士師が死ぬと、人々は先祖よりいっそう堕落して、バアルに従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い思いと頑なな歩みを何一つ断つことはしませんでした。

 このようなイスラエルの人々に対して、怒りに燃え、「この人々はわたしが先祖に命じた契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかった。わたしは先住民を追い払うことをしない。」と、いっています。更に、主は「略奪者によってイスラエルの人々を試し、主の道を歩み続けるかを見るためだ」というのです。

 主はイスラエルの人々を神の民として選ばれました。それは、数の少ない民、罪深い民だから選ばれたのでした。主は、イスラエルの人々を導こうとされます。それにも関わらず、イスラエルの人々は、主に対して罪を犯し、反逆し、敵対していこうとします。それでも主は、イスラエルの人々を愛され続けられるのです。士師記の神学というのがあります。イスラエルの人々は、平和の中で、神を離れて、先住民と交わり、先住民の神々であるバアルを拝んでしまいます。罪を犯した人々に対して、主は敵をイスラエルの中に送ります。敵によって、人々は苦しみ、主に助けを求めます。主は士師を送り、人々の危機を救い出してくださいます。それは敵と戦い、勝利するということです。やがて、士師は亡くなっていきます。そうすると、人々は再び、バアルを慕い求めます。すると主は怒り、敵を人々にもとに送ります。すると、人々は敵の攻撃で苦しみ、主に助けを求めます。主は、人々の苦しみを知り、士師を送り、敵と追い出します。このようなサイクルが何度も展開されていきます。

 士師記を通して、考えることは、イスラエルの人々は、主に従うことができないということです。それでも、主は、人々と共に歩んでくださるのです。何度も裏切られます。それでも、主は人々と関わり続けます。主のイスラエルの人々への関りは終ることがありません。主と人々との関りはやがて、新約聖書に入って、イエス・キリストの十字架の死と復活につながっていくことが分かります。主はイスラエルを最後まで愛し続けます。それは、私たち1人1人に対する関りと同じです。

ローマ8:32
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

祈り 神よ、私たちはあなたの愛をどのくらい知っているのでしょうか。イスラエルに対する愛、イエス・キリストを十字架につけるまでの私たちに対する愛をです。何よりも、あなたの愛を知ることができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


5月19日の礼拝の内容です。

2024-05-18 20:06:00 | 日記
5月19日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.343.349.405.88です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/tO6t4rIWtPY?feature=shareです。

礼拝説教     使徒9:20~25「サウロが福音を語る」    2024.5.19

 聖霊とは何でしょう。聖霊が働くとどのようなことが起るのでしょうか。今日の教会暦は聖霊降臨日です。イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降った日です。聖霊を受けた弟子たちにどのようなことが起ったのでしょうか。

使徒2:1~4
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 聖霊が降った様子を使徒言行録は、上の聖句のように書いています。イエス様の弟子たちが同じ場所に集まっていました。その時に、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたというのです。弟子たちが座っていた家中に響いたとあります。炎のような舌が分かれ分かれに現れて、1人1人の上に留まりました。すると、一同は聖霊に満たされたとあります。聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出したと表現しています。独特な表現で書かれてあります。この聖霊が弟子たちに降った様子をどのように考えればいいのでしょうか。

 この聖霊降臨日の様子を知る時に、なかなか分かりにくい状況が起って、どのように理解すればいいのか迷ってしまいます。私たちは、この聖霊降臨日を起った状況を考えるのではなく、この出来事によって、弟子たちがどのように変化をしたのかをみることがとても大切だと理解します。まず、この出来事が起る前のことです。

使徒1:6
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

 復活されたイエス様が天に帰られる時に、弟子たちがイエス様に聞いている場面です。それは、イエス様のことを軍事的なリーダーとしてみていることです。これは、十字架につけられる前とまったく同じです。イエス様に弟子たちは、イエスらえるの国の再興を聞いているのです。何も変わっていないことに気づきます。次は、聖霊降臨日後です。弟子たちは、どのように変わっていったのでしょうか。

使徒2:23~24
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

 聖霊を受けた弟子たちは、イエス・キリストの十字架の福音を理解することができたのです。それだけではなく、教会が誕生し、弟子たちの行動によって、イエス・キリストの福音が多くの人々に語られていくのです。使徒言行録は、聖霊を受けた弟子たちによって、イエス・キリストの福音が多くの人々に伝えられ、聞いた人々が、イエス様をキリストと信じて、洗礼を受けて、教会に加わっていくのです。その初期の教会の様子を描いています。

 使徒言行録の中で、キリスト教の発展のために大きな働きをしていくのが、伝道者パウロです。パウロの働きによって、キリスト教は大きな発展をしていきます。その理由として、新約聖書の3分の1は、パウロの手紙です。また、当時の地中海世界の中で、半分を伝道していったのです。このパウロなくして、今日のキリスト教はなかったということもできると私は思います。使徒言行録の9章は、この使徒パウロ、この時はまだサウロですが、サウロの回心の出来事が書かれてあります。ダマスコ途上で、サウロはイエス様と出会いました。また。キリスト者アナニアとの出会いもあって、サウロが迫害者から伝道者として回心していく様子が書かれてあります。ここにもイエス様を通しての、聖霊の働きをみることができます。

使徒9:1~2
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

 サウロは、使徒22:3によると、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。若い時にエルサレムに留学して、ガマニエルのもとでユダヤ教の律法についての厳しい教育を受けました。熱心なユダヤ教徒でした。そのユダヤ教の熱心さゆえに、キリスト教を迫害し、男女問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。

 そのサウロが、聖霊の働きによって、イエス様との出会い、キリスト者アナニアとの出会いによって、大きく変えられていきました。それが、今日の聖書の箇所です。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいました。すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」とイエス様のことを宣べ伝えていくのです。サウロはイエス様に出会わなければ、このダマスコにある会堂で、大祭司からの許可状を見せて、キリスト者を見つけ出し、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行していくはずでした。それが、何と、サウロ自身がキリスト者となって、それも会堂で、イエス・キリストを宣べ伝えていくのです。これを聞いた人々は皆、非常に驚くのです。そして「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、キリスト者を縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか」といいます。しかし、サウロはますます力を得て、イエス様がキリストであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダや人をうろたえさせました。

 サウロは、このダマスコにいて、キリスト教の伝道のために働くのでしょうか。使徒9:23では「かなりの日数がたって」と書いています。実際の日数を知ることはできませんが、「また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず。アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」(ガラテヤ1:17)より、すぐにアラビアに行ったことが書かれてあります。アラビアに退いたとありますが、この期間が、かなりの日数を要したと考えることができるのです。

 イエス様が、その働きを始める前に、荒れ野に行き、40日間断食されたことがありました。荒れ野で悪魔の誘惑を受けたのです。神の働きの前に、準備期間ということです。サウロにもそのような時間が必要だったのです。神との交わり、祈り時が必要だったのです。アラビアにかなりの日数がいて、ダマスコに戻って行き、再び、伝道活動を再開します。ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんでいました。サウロはかつて自分がしていたことを今度は、自分が受けることになることを十分に知っていました。この陰謀はサウロの知るところとなったのです。しかし、ユダヤ人はサウロを殺そうと、昼も夜もダマスコの町の門で見張っていました。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間にサウロを連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろしました。このようにして、サウロはユダヤ人の危機を逃れることはできました。

イエス様がアナニアに「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、彼に示そう」(使徒9:15~16)といっていることが実現していくのです。まさしく、このイエス様の言葉は、今後のサウロの人生になっていくのです。

聖霊の働きをみてきました。聖霊降臨日の時の弟子たちの変化、また、サウロの変化をみてきました。このように聖霊の働きによって、大きな変化が起っています。イエス・キリストの福音を知ることができるようにしてくださること、神を知らなかった者が、神を知るようになることができるように変えられたこと、この世の命しか知らなかった者が、永遠の命があることを知ることができるように変えられたのです。ここにいる私たちも、この聖霊の働きによって、イエス・キリストの十字架と復活を信じることができるようにしてくださったのです。

祈り 神よ、今日は聖霊降臨日を祝いました。聖霊の働きによって、私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活の意味を知ることができました。神の救いを得ることができました。それは、私たちの力によるのではなく、神ご自身の聖霊の働きによるものです。私たち1人1人が、聖霊を受けて、信仰者として歩むことができるしてくださっています。どうか、この信仰を人生の終りまで持ち続けることができますように守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


5月19日の礼拝の内容です。

2024-05-18 20:06:00 | 日記
5月19日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.343.349.405.88です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/tO6t4rIWtPY?feature=shareです。

礼拝説教     使徒9:20~25「サウロが福音を語る」    2024.5.19

 聖霊とは何でしょう。聖霊が働くとどのようなことが起るのでしょうか。今日の教会暦は聖霊降臨日です。イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降った日です。聖霊を受けた弟子たちにどのようなことが起ったのでしょうか。

使徒2:1~4
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 聖霊が降った様子を使徒言行録は、上の聖句のように書いています。イエス様の弟子たちが同じ場所に集まっていました。その時に、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたというのです。弟子たちが座っていた家中に響いたとあります。炎のような舌が分かれ分かれに現れて、1人1人の上に留まりました。すると、一同は聖霊に満たされたとあります。聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出したと表現しています。独特な表現で書かれてあります。この聖霊が弟子たちに降った様子をどのように考えればいいのでしょうか。

 この聖霊降臨日の様子を知る時に、なかなか分かりにくい状況が起って、どのように理解すればいいのか迷ってしまいます。私たちは、この聖霊降臨日を起った状況を考えるのではなく、この出来事によって、弟子たちがどのように変化をしたのかをみることがとても大切だと理解します。まず、この出来事が起る前のことです。

使徒1:6
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

 復活されたイエス様が天に帰られる時に、弟子たちがイエス様に聞いている場面です。それは、イエス様のことを軍事的なリーダーとしてみていることです。これは、十字架につけられる前とまったく同じです。イエス様に弟子たちは、イエスらえるの国の再興を聞いているのです。何も変わっていないことに気づきます。次は、聖霊降臨日後です。弟子たちは、どのように変わっていったのでしょうか。

使徒2:23~24
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

 聖霊を受けた弟子たちは、イエス・キリストの十字架の福音を理解することができたのです。それだけではなく、教会が誕生し、弟子たちの行動によって、イエス・キリストの福音が多くの人々に語られていくのです。使徒言行録は、聖霊を受けた弟子たちによって、イエス・キリストの福音が多くの人々に伝えられ、聞いた人々が、イエス様をキリストと信じて、洗礼を受けて、教会に加わっていくのです。その初期の教会の様子を描いています。

 使徒言行録の中で、キリスト教の発展のために大きな働きをしていくのが、伝道者パウロです。パウロの働きによって、キリスト教は大きな発展をしていきます。その理由として、新約聖書の3分の1は、パウロの手紙です。また、当時の地中海世界の中で、半分を伝道していったのです。このパウロなくして、今日のキリスト教はなかったということもできると私は思います。使徒言行録の9章は、この使徒パウロ、この時はまだサウロですが、サウロの回心の出来事が書かれてあります。ダマスコ途上で、サウロはイエス様と出会いました。また。キリスト者アナニアとの出会いもあって、サウロが迫害者から伝道者として回心していく様子が書かれてあります。ここにもイエス様を通しての、聖霊の働きをみることができます。

使徒9:1~2
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

 サウロは、使徒22:3によると、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。若い時にエルサレムに留学して、ガマニエルのもとでユダヤ教の律法についての厳しい教育を受けました。熱心なユダヤ教徒でした。そのユダヤ教の熱心さゆえに、キリスト教を迫害し、男女問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。

 そのサウロが、聖霊の働きによって、イエス様との出会い、キリスト者アナニアとの出会いによって、大きく変えられていきました。それが、今日の聖書の箇所です。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいました。すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」とイエス様のことを宣べ伝えていくのです。サウロはイエス様に出会わなければ、このダマスコにある会堂で、大祭司からの許可状を見せて、キリスト者を見つけ出し、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行していくはずでした。それが、何と、サウロ自身がキリスト者となって、それも会堂で、イエス・キリストを宣べ伝えていくのです。これを聞いた人々は皆、非常に驚くのです。そして「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、キリスト者を縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか」といいます。しかし、サウロはますます力を得て、イエス様がキリストであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダや人をうろたえさせました。

 サウロは、このダマスコにいて、キリスト教の伝道のために働くのでしょうか。使徒9:23では「かなりの日数がたって」と書いています。実際の日数を知ることはできませんが、「また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず。アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」(ガラテヤ1:17)より、すぐにアラビアに行ったことが書かれてあります。アラビアに退いたとありますが、この期間が、かなりの日数を要したと考えることができるのです。

 イエス様が、その働きを始める前に、荒れ野に行き、40日間断食されたことがありました。荒れ野で悪魔の誘惑を受けたのです。神の働きの前に、準備期間ということです。サウロにもそのような時間が必要だったのです。神との交わり、祈り時が必要だったのです。アラビアにかなりの日数がいて、ダマスコに戻って行き、再び、伝道活動を再開します。ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんでいました。サウロはかつて自分がしていたことを今度は、自分が受けることになることを十分に知っていました。この陰謀はサウロの知るところとなったのです。しかし、ユダヤ人はサウロを殺そうと、昼も夜もダマスコの町の門で見張っていました。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間にサウロを連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろしました。このようにして、サウロはユダヤ人の危機を逃れることはできました。

イエス様がアナニアに「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、彼に示そう」(使徒9:15~16)といっていることが実現していくのです。まさしく、このイエス様の言葉は、今後のサウロの人生になっていくのです。

聖霊の働きをみてきました。聖霊降臨日の時の弟子たちの変化、また、サウロの変化をみてきました。このように聖霊の働きによって、大きな変化が起っています。イエス・キリストの福音を知ることができるようにしてくださること、神を知らなかった者が、神を知るようになることができるように変えられたこと、この世の命しか知らなかった者が、永遠の命があることを知ることができるように変えられたのです。ここにいる私たちも、この聖霊の働きによって、イエス・キリストの十字架と復活を信じることができるようにしてくださったのです。

祈り 神よ、今日は聖霊降臨日を祝いました。聖霊の働きによって、私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活の意味を知ることができました。神の救いを得ることができました。それは、私たちの力によるのではなく、神ご自身の聖霊の働きによるものです。私たち1人1人が、聖霊を受けて、信仰者として歩むことができるしてくださっています。どうか、この信仰を人生の終りまで持ち続けることができますように守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


5月15日の祈祷会の内容です。

2024-05-14 20:19:00 | 日記
祈祷会   士師記1:22~36「イスラエル、カナン人と共に住む意味」  2024.5.15

 ヨシュア記の最後で、ヨシュアはイスラエルの人々に大切なことを3つ話しました。神はイスラエルの人々を守り導いてくださったこと。その神に従って歩むことと神の教えを守って生きていくこと。残っている先住民と交わることのないようにすること、それは、先住民の神々を拝むようになるからということでした。ヨシュアは、イスラエルの人々にこの3つのことを何度も語って聞かせるのです。それに対して、イスラエルの人々は、わたしたちは主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神ですと答えていました。

 イスラエルの人々は、ヨシュアの時代から士師時代に入っていきます。士師記の1章をみると、約束の土地にはまだ多くの占領すべき土地が残っていたこと、そして、追い出すべき先住民が多く残っていたことが書かれてあります。士師記1章の前半では、ユダ族が先住民と戦い、土地を手に入れることが書かれてありますが、そこでも先住民を追い出すことができず、先住民が住み続けていたことが分かります。今日は、1章の後半の部分になりますが、マナセ族、エフライム族、ゼブルン族、アシュル族、ナフタリ族が先住民との戦いのことが書かれてありますが、多くのカナン人と戦いますが、占領することはできず、カナン人がそのまま住み続けていることが書かれてあります。時にはカナン人を強制労働に服させることもありましたが、徹底的に追い出すことはしなかったとあります。

ヨシュア記23:1
主が周囲のすべての敵を退け、イスラエルに安住の地を与えてから長い年月が流れ、ヨシュアは多くの日を重ね、老人となった。

 この聖書の箇所を読むと、ヨシュアの晩年には、神はイスラエルに与えてくださった約束の土地において、すべての先住民を追い出し、安住の地を与えてくださったとなっています。また、あなたたち神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことなくはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。(ヨシュア記23:14)とあります。このような表現だけをみると、すべては神の御計画は完成したと考えることもできます。イスラエルの人々は、神の民として、ふさわしく生きることができる環境が与えられたと考えることもできます。

 でも、現実には、約束の土地において、イスラエルの人々は多くの征服していない土地が残っていたこと、その土地に多くの先住民が残っていて、そのまま住み続けているのです。繰り返しになりますが、士師記1章には、ヨシュアの死後にも、多くの占領することができていない土地が残っていたこと、更に、その地には、多くの先住民が残っていて、そのまま住み続けていることが書かれてあるのです。

 ヨシュア記や士師記を読んでいく時に、大きな疑問が出てきました。それは、どうして、神は、イスラエルの人々は、神が与えてくださる約束の土地において、先住民を多く残していたのだろうかということです。約束の土地に先住民が残っていることによって、イスラエルの人々が先住民と交わることが起ってくるわけです。そうなると、イスラエルの人々が先住民の神々を拝む危険性が多くなるということです。約束の土地が完全にイスラエルの人々の土地になっていれば、偶像礼拝に陥る危険性は極めて少なくなってくるはずです。それが、先住民を多く残しているということは偶像礼拝を犯すリスクがより多くなっていくということです。士師記2章では、ヨシュアの死後、時が流れ、主を知らず、主がイスラエルの人々にしてくださった御業を知らない別の世代になっていきます。イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行うようになります。先住民と交わり、先住民が拝む神々を拝むようになっていくのです。ヨシュアが死ぬ前に、何度も警告として、先住民と交わってはならないこと、先住民の神々を拝むことのないようといった言葉がむなしく聞こえてきます。イスラエルの人々の答えが何だったのだろうと思います。

 ここで違った考え方をすることもできます。神は、イスラエルの人々のために、あえて、先住民を残したということです。約束の土地において、イスラエルの人々は、周りにいる多くの先住民と生活する中で、いかに神に従っていくことができるかを試されるということです。それが、イスラエルの人々が現実の世界の中で、どう生きるのかと問うことになるのです。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(創世期1:27)
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。(創世記2:9)
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16~17)

 この聖書の箇所には、人間の創造のことが書かれてあります。神は人間をご自身にかたどって創造されました。それは、人間に自由意志を与えてくださったということです。人間の自由意志をみるために、あえて危険な食べてはならない善悪の知識の置いたことです。この善悪の知識の木の実がなければ人間は罪を犯すことはなかったのです。でも、自由意志はないことになります。その流れで、約束の土地で、先住民を残したことと通じると思います。人間は神が与えてくださった自由意志の中で、いかに神を愛することができるかと問われているのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々はどうして、先住民を追い出すことをしなかったのだろうと考えてきました。罪を犯すリスクを残すことになるからです。でも、現実の中で、先住民を追い出すことができなかったのでしょうか。イスラエルの人々が先住民と共に生きて、どう罪を犯すことにしないようになるのかが問われているのです。私たちは、この問題をどのように考えたらいいのでしょうか。私たちは現実の生活の中で、神に従って生きることの意味を考えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)