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6月26日の祈祷会の内容です。

2024-06-25 20:00:00 | 日記
祈祷会      士師記5:1~18「デボラの歌、奮い立て」    2024.6.26

讃美歌380番「たてよいざたて」
1 立てよ いざ立て 主のつわもの 見ずや み旗のひるがえるを すべてのあだを ほろぼすまで
君はさきだち 行かせたまわん
2 立てよ きかずや 主のつのぶえ いざ たたかいの 門出いそがん 君がてにつくこの身なれば
雲なすあだも 何かおそれん
3 立てよ わが主の ちからにより 神のよろいを かたくまとい みたまのつるぎ うちかざして
おのが持場に いさみすすめ
4 立てよ いくさはやがておわり 永久の勝ちうた たかくうたい 尽きぬいのちの かむりをうけ
さかえの君と ともに治めん

 この讃美歌ですが、1858年、アメリカの聖公会牧師ティングの礼拝に5千人を超える男性が集まっていました。その説教の時に、「私は、キリストに定められたことを皆さんに語らねばなりません。神のメッセージを皆さんにお伝えするという私の仕事が満足にできないなら、私はこの右腕を切り落としてしまった方がましです」といったそうです。その次の週に、地方の作業小屋でトウモロコシの脱穀機が動く様子を見ていたティングの洋服の袖が歯車に巻き込まれてしまい、腕は引き裂かれ、出血多量で死んでしまったというのです。仲間に囲まれて、死の床で最後の言葉として「みな、立ち上がってイエスに仕えよう」といいました。友人だったジョージ・ダッフイールドはその言葉を聞いて、この讃美歌の歌を作ったというのです。(インターネットより参照)

 6月23日は、沖縄慰霊の日でした。今から79年前に、沖縄で組織だった戦闘が終った日といわれています。約20万人の人々が命を落としました。忘れてはいけない日です。23日の夜のNHKの番組で「戦い、そして、死んでいく~沖縄戦、発掘された米軍録音記録」というものを見ました。戦いのそのままの音声がありました。その中で、米兵が沖縄に上陸する前に、讃美歌を歌っていました。もちろん英語でしたが、讃美歌380番でした。この讃美歌は、戦う前に米兵の気持ちを奮い立たせたのでしょう。

 今日の聖書の箇所はデボラの歌の前半の部分です。前半は戦うまでのことを歌っています。イスラエルはカナン軍と戦うことになりました。士師エフドが亡くなってから、イスラエルの人々は再び、神の目に悪とすることを行ったのです。そのために神は、イスラエルに敵としてカナン人を送り苦しめます。その苦しみが20年続きました。イスラエルの人々は神に助けを求めて叫びます。人々の叫びを聞いた神は、士師として女預言者デボラを送ります。デボラはバラクを呼んで、カナン人と戦うことを促します。バラクはゼブルン人とナフタリ人1万人によって、カナン軍と戦うことになります。カナン軍の将軍はシセラといいます。キション川で戦い、イスラエルは勝利します。カナン軍は全滅します。1人シセラは逃げて、カイン人へベルの妻ヤエルの天幕に行きます。そして、ヤエルによってシセラは暗殺されてしまいます。このようにしてイスラエルの人々はカナン軍の脅威をなくすことができました。そのことが士師記4章に書かれてあります。そして、士師記5章では、イスラエルの人々は戦いに勝利したことで、士師デボラは歌を歌っているのです。戦いの勝利の歌です。
士師記5:6~7
アナトの子シャムガルの時代、ヤエルの時代に、隊商は絶え、旅する者は脇道を行き、村々は絶えた。イスラエルにこれらは絶えた。

 イスラエルの人々のところに、カナン軍が襲って来て、苦しむ様子が描かれています。隊商は絶えるは、貿易もすることができなくなってしまったことを表現しています。旅をする者は、本道を行くことができず、脇道を行かねばなりませんでした。イスラエルの人々の苦しみがあります。

士師記5:12~13
奮い立て、奮い立て、デボラよ。奮い立て、奮い立て、ほめ歌をうたえ。立ち上がれ、バラクよ、敵をとりこにせよ、アビノアムの子よ。そのとき、残った者は堂々と下って行く。主の民は勇ましくわたしと共に下って行く。

 デボラはついに立ち上がっていきます。イスラエルの母として、ついに立ち上がっていくのです。デボラは、自分に対しても、バラクに対しても、イスラエル兵に対しても、奮い立て、奮い立てと鼓舞します。立ち上がっていく。イスラエルの人々はカナン軍に対して、堂々と勇ましく戦いに出て行くのです。

・士師記5:18
ゼブルンは死ぬことをいとわぬ民、ナフタリも野の高い所に陣取った。

 ゼブルン人、ナフタリ人約1万人の兵がカナン軍と戦うために、その勇気を描いています。戦うための備えには十分にできています。後は戦うのみです。そして、勝利するのみです。この士師記5章のデボラの歌は、イスラエルの人々が敵と戦う時に、よく歌われたのでしょうか。歌うことによって、戦う勇気と神が共にいてくださって、共に戦ってくださり、必ず勝利することを確信することができたのでしょうか。そのように想像することができます。また、最初の讃美歌380番ですが、沖縄で戦った米兵にとって、戦う勇気を持つことができたのでしょうか。きっと、戦場で歌われたのかもしれません。私たちは、改めて平和の大切さを思います。そのような歌を歌う必要がない世界が来ることを願います。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記5章のデボラの歌をみてきました。戦うための勇気を持つことができたものだと思いました。歌が、戦争の時に、敵と戦うために戦う思いを強くするために用いられたのだと思います。このような歌が必要なくなり、平和で幸福な日々が続きますようにと心から祈ります。戦争が続いているところがあります。一日も早く戦争が終り、平和が来ますようにと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


6月23日の礼拝の内容です。

2024-06-22 20:39:00 | 日記
6月23日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.194.197.280.91(1)です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/MB1T2i7LQ_g?feature=shareです。

礼拝説教     使徒10:1~8「コルネリウスの祈りと施し」    2024.6.23

 皆さんは、映画や演劇などを見に行くことはあるでしょうか。目の前の舞台の垂れ幕が開いて行きます。そして、映画や演劇などが始まっていきます。目の前の垂れ幕が開いて、これから何が始まるのだろうと期待してドキドキしますよね。今日の聖書の箇所は、そのような内容となっています。いったい、何が始まろうとしているのでしょうか。

 使徒言行録は、初めての教会の歩みを書いています。最初のキリスト教の歩みということになります。聖霊を受けたイエス様の弟子たちが、大きな力を得て、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。エルサレムから始まったキリスト教は全世界に広がっていきます。

使徒1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 このイエス・キリストの言葉が、使徒言行録の中で、展開をしていきます。今日の聖書は、ローマの百人隊長のコルネリウスがペトロによって、イエス・キリストの福音が伝えられて、洗礼を受けて、キリスト者になることの始まりのことが書かれてあります。神の救いはユダヤ人だけのものだと考えられていました。それが、異邦人にも伝えられていくというものです。大きな展開になっていきます。

 その前に、旧約聖書から新約聖書の流れの中で、大きな展開があったのものがありました。そのことをまず確認していきたいと思います。4つの福音書の中で、イエス・キリストの十字架の場面が書かれてあります。イエス・キリストが十字架につけられます。そこで苦しみ、やがて死を迎えます。その時に大きな出来事がありました。それは、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ27:51)です。旧約聖書の最初のころに、幕屋というのが造られました。それは、神と人々が出会う場所でした。神が人に幕屋を造れと命じて造られたものです。幕屋の中で、大切な部分がありました。それが聖所というものです。聖なる場所ということです。聖所の奥には至聖所というのがありました。ここには、神の契約の箱が置かれていました。幕屋の中で、一番大切な部分です。この聖所と至聖所の間に大きな幕がありました。つまり、この大きな幕をくぐらなければ至聖所に行くことはできないというのです。至聖所は大祭司が1年に一度だけ、大贖罪日だけに入ることが許された場所です。大祭司は至聖所で、イスラエルの人々の罪の贖いをするのです。

 至聖所と聖所の間にある大きな幕は、神と人とを隔てる幕ということができます。神は聖なる方であり、罪深い人間は直接に会うことが許されていませんでした。神と人間を隔てる大きな幕が、イエス・キリストの十字架の時に、上から下まで二つに裂けたというのは、神と人間を隔てていた壁がなくなったということを意味しています。イエス・キリストの十字架はそのような神と人間を隔てる壁を取り除いてくださったのです。

 そして、今日の聖書の箇所です。旧約聖書の中で、神の救いはユダヤ人だけに与えられるものだと理解されています。イスラエルの人々にです。イエス・キリストはユダヤ人でした。イエス様も最初は、神の救いはユダヤ人だけに与えられるといっていました。それが、イエス・キリストの十字架を経て、ここから大きく展開していきます。それまでの理解を破って、新しい理解になっていくのです。そのことを始めるのが、神の天使です。言い換えれば神であり、聖霊ということができます。

 カイサリアという場所があります。ここは地中海に面した港町です。ローマ帝国のユダヤ地方の拠点になっていた町です。ここにはローマ軍の駐屯地がありました。ここにコルネリウスという人がいたのです。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でした。イタリア隊と呼ばれるのですから、イタリア人が中心の部隊だったと考えられます。百人隊長コルネリウスですが、信仰心があつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたとあります。聖書の出て来る百人隊長はすべてが教会に対して好意的であるように思います。コルネリウスは個人だけではなく、家族そろって、神への信仰があったのです。神の教えに基づいて、祈りと施しを行っています。ユダヤ教徒?ということができると思います。

 ある日の午後3時ごろです。ちょうど午後の祈りの時間です。コルネリウスも神に祈りをしていた時でしょう。神の天使が入って来て、「コルネリウス」と呼びかけるのを、コルネリウスは幻ではっきりと見たのです。コルネリウスは天使を見つめていたが怖くなって「主よ、何でしょうか」といっています。すると天使は「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」というのです。天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは2人の召使と、側近の部下で信仰心のあつい1人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送るのです。このように神の天使が話を進めていきます。この後、ペトロがコルネリウスの所に行き、イエス・キリストの福音を語り、コルネリウスと多くの者が信じて、洗礼を受けて、教会に加わっていくのです。異邦人へのキリスト教の伝道が始まっていきます。

 神は、ペトロに次のような幻を示します。ペトロはヤッファの町にいました。祈るために屋上に上がりました。昼の12時ごろだったとあります。ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思っています。人々が食事の準備している時でした。ペトロは祈りながら、家の下からいい匂いを嗅いだのでしょう。おなかが空いたと思っていたのです。その時の幻です。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見るのです。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。旧約聖書では、清いものと汚れたものという区別がなされていました。これは食べてもよいものと食べてはいけないものというものになります。汚れたもの、食べてはならないものを、天からの声は「ペトロよ、これを屠って食べなさい」といいます。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えています。ユダヤ人とすれば当然のことでした。しかし、神の声は「神が清めたものを、清くないなどと、あなたはいってはならない」というのです。このようなことが三度起ったとあります。

 細かくはいいませんが、旧約聖書は、清くないもの、汚れたものはたべてはならないとしていました。なんと、ここで初めて、すべてのものが清いものだというのです。それも三度も同じようにいわれるのです。神の認識では、イエス・キリストの十字架によって、清くないもの、汚れたものという認識がなくなったということができます。それは、神の救いはユダヤ人だけではなく、異邦人にも与えられるという意味につながっていきます。それまであった常識がここでは大きく変っていきます。その変化は、神がなしていくのです。神が変えてくださるのです。神からの天使、または聖霊をということもできるでしょう。この大きな展開は、ユダヤ人も混乱します。その後でも、ユダヤ人からの大きな抵抗となっていきます。

 しかし、神は、そのように変えていかれるのです。神の御計画なのです。神の救いの計画は、ユダヤ人から始まって、ついには異邦人へと伝えられていく、つまり、世界のすべての人々へと伝えられていくのです。それはユダヤ人や異邦人の思いを越えて、神ご自身がそのように計画し、実行してくださるということです。神の御心なのです。使徒言行録はペトロによって、ローマ人のコルネリウスとその家族と仲間、そしてパウロの登場、パウロによる異邦人伝道が本格化していきます。神が計画されていたことが、聖霊を通して、人が用いられて、展開していきます。その流れの中に、私たち瀬戸永泉教会の伝道もあります。神は、すべての人々へ、神の救いの福音を伝えたいと願っています。神は、私たちの教会を、私たちを用いてくださいます。瀬戸の地域の人々へ、神の救いの出来事を伝えていくのです。神は私たち1人一人の働きを期待されています。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。異邦人であるローマの百卒長であるコルネリウスへの伝道の働きをみてきました。神は、その御心によって、救いのご計画を進めていこうとされます。感謝します。神の御心をしっかりと受け止め、その計画に参与することができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


6月19日の祈祷会の内容です。

2024-06-18 20:27:00 | 日記
祈祷会    士師記4:12~24「カイン人へベルの妻ヤエルの働き」  2024.6.19

 士師記を読んでいます。士師とは「さばきつかさ」といわれています。イスラエルの人々はヨシュアに導かれて約束の地に入って行きました。そして、サムエルの時代になると、イスラエルでは新しく王が誕生していきます。それまでの間を士師時代といいます。士師は12人登場して来ます。これまでにオトニエル、エフド、シャムガル、デボラまでです。士師記4~5章にかけては、デボラとバラクの話です。士師記には1つの流れがあります。それは、イスラエルの人々は平和な時に先住民と交わり、先住民の信じている神々を拝むようになっていきます。これは、神が怒ることでした。神は怒り、イスラエルの人々に対して敵を送って行きます。敵がイスラエルの人々を襲い、苦しめます。苦しみの中にある人々は、神に助けを求めて叫びます。人々の苦しみの叫びを聞いた神は、人々を憐れみ、1人の救助者である士師を送ります。士師が登場して、人々を導き、敵と戦い、追い出します。すると、人々は平和を喜びます。士師が亡くなります。しばらくすると、人々はまた先住民と交わり、先住民の神々を拝むようになります。神は怒り、敵を送ります。敵に苦しみ人々は、神に助けを求めます。このような流れが続きます。

 士師エフドが亡くなってから、イスラエルの人々はまたも神の目に悪とされることを行います。神は怒り、敵としてカナンの王ヤビンを送り、人々を苦しめます。ヤビンの将軍はシセラでした。ヤビンは鉄の戦車900両を有し、20年以上に渡ってイスラエルの人々を力ずくで押さえつけました。人々は、神に助けを求めて叫んだのです。神は人々の苦しみの叫びを聞き、憐れみ、士師としてラピドトの妻、女預言者デボラを立てます。デボラは、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せます。それは、神がナフタリ人とゼブルン人1万人を動員して、ヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢と戦うようにいいます。バラクは「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないのでしたら、わたしは行きません。」とデボラに答えています。デボラは「わたしも一緒に行きます。しかし、今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることができません。神は女の手にシセラを売り渡されたからです」と答えています。この神が女の手にシセラを売り渡されことが実現します。それが今日の聖書の箇所です。

 まず、バラクはゼブルンとナフタリの人々をケデシュに招集します。1万人が集まります。シセラはバラクがタボル山に上ったという知らせを聞きます。するとすべての戦車、900両に及ぶ鉄の戦車に加えて、自分に属するすべての軍隊を招集し、キション川に向かわせました。デボラはバラクに「立ちなさい。神が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。神が先立って出て行かれたではありませんか」と、いいます。バラクは1万の兵を従え、タボル山を下りました。神はシセラとそのすべての軍隊をバラクの前で混乱させられました。シセラは車を降り、走って逃げました。バラクは敵の戦車と軍勢を追い詰めました。シセラの軍勢はすべて剣で倒れ、1人も残ることができなかったのです。900両の戦車が、平地ではその力を発揮することができるのですが、キション川付近では大雨が降ったのではないかと想像します。すると、戦車はまったく機能することができず、逆にそれが負担になって、敗北したと考えられます。シセラは大雨が降ることは考えていなかったと思います。その結果、大雨のために敗北してしまったということになったのです。ここまでで、カナンの王とイスラエルの戦いははっきりとしたわけです。カナンの王の敗北は決定的なものとなっていきました。

 シセラは1人になって逃げて行くのです。シセラはカナン人へベルの妻ヤエルの天幕に走って逃げて来ました。ハツォルの王ヤビンとカイン人へベル一族と間は友好的であったということです。ヤエルは出て来て、シセラを迎え、「どうぞ、こちらに。わたしの主君よ、こちらにお入りください。ご心配には及びません」といいます。シセラはヤエルに近づいて天幕に入りました。ヤエルは布でシセラを覆いました。シセラはヤエルに「喉が渇いた。水を飲ませてくれ」というので、ヤエルは革袋を開けてミルクを飲ませ、シセラを覆いました。シセラはヤエルに「天幕の入り口に立っているように。人が来て、ここに誰がいるかと尋ねれば、だれもいないと答えて欲しい」といっています。

 ここから、へベルの妻ヤエルはシセラを暗殺していきます。ヤエルは天幕の釘も取り、槌を手にしてシセラのそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込みました。釘は地まで突き刺さったのです。疲れ切って熟睡していたシセラはこうして亡くなっていきます。そこでバラクがシセラを追ってやって来ました。ヤエルは出て来て、バラクを迎え、「おいでください。捜しておられる人をお目にかけましょう」といったので、バラクは天幕に入りました。そこにはシセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには釘が刺さっていたのです。神はその日に、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださったとあります。イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすようになっていきます。

 カナン人とイスラエルの人々の戦いですが、士師記を読んでいると、日本の戦国時代と似ているように私は感じます。いろいろな民族が土地を巡る争いをしています。その時その時、いろいろな民族が台頭しては消えていきます。その争いの中にイスラエルの人々は入っているのです。どのようにして生き延びていくのかと士師記を描いていると思います。この士師記4章では、カナンの王とイスラエルの人々の戦いがあります。士師デボラとバラクが協力してカナン人の王の軍隊に戦っています。イスラエルの勝利を描いていますが、特に、1人の女性ヤエルが敵の将軍シセラを暗殺する場面を強調しています。旧約聖書の時代にあって、女性の活躍が描かれていることは珍しいことです。しかし、男性中心社会であっても、女性の活躍もあることを描いていることは大切なことだと私は考えます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々の歩みの中でいろいろな民族との戦いの場面をみています。戦争という悲しいものでありますが、その中で、何を私たちは受け止めることができるのでしょうか。人間の現実の歴史ということですが、その中でも読む意味を見い出すことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


6月16日の礼拝の内容です。

2024-06-15 19:29:00 | 日記
6月16日の礼拝の内容です。讃美歌は、60.470.486.507.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/GH39m6LXttU?feature=shareです。

礼拝説教       使徒9:36~43「ドルカスの働き」     2024.6.16

 ここでは「タビタ」という女性が出てきます。別名は「ドルカス」といい、「かもしか」と呼ばれる婦人の弟子がいたとあります。婦人の弟子がいたとありますのが強調されていると思います。これから、ドルカスといっていきます。

 このドルカスという言葉は懐かしく思います。私は瀬戸永泉教会に来る前は10年程、神奈川県茅ケ崎市にある平和学園で宗教主任として働いていました。特にアレセイア中高での働きが中心でした。ボランティア部といった方が分かりやすいと思います。それをドルカス部というのでした。10年間、そのドルカス部の顧問として活動していたのです。私の思いはできるだけ、生徒たちに現場に行って、活動して、そこから感じて欲しいという願いがありました。近くの保育園や高齢者施設や病院などで活動していきました。平和学園に勤めてからまもなく東日本大震災が起こりました。2011年のことでした。その時から毎年、夏と冬に生徒たちを連れて、被災地である宮城県石巻市や女川町に行き、活動しました。被災地の現状を自分の目で見て、そこから何かを感じて欲しいという思いでした。多くの生徒たちが参加してくれました。活動が終ってから、参加した生徒に感想文を書いてもらうのですが、1人1人いろいろな思いを書いてくれました。今では、本当に懐かしい思い出です。すみません。少し個人的なことを話させていただきました。

 ドルカスはたくさんの善い行いや施しをしていたとあります。どのような働きだったのでしょうか。ドルカスが亡くなって、やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいた時につくってくれた数々の下着や上着を見せてくれたとあります。場所はヤッファという地中海に面した港町です。
ヤッファが港町であることから、次のようなことが考えられると思います。この港町に住む人々の多くが漁師だったということです。特に男性の多くが漁師だったと考えられます。漁に出て行きます。時には嵐にあって、遭難して亡くなる人も多かったのではないでしょうか。夫が漁師として、漁に出て行き、遭難して亡くなってしまった。多くの女性が、やもめとして取り残されている状況があったということです。このドルカスもその1人だったのかもしれません。夫を亡くして、失意にいるやもめたち、その人たちに、ドルカスは、やもめ1人1人の顔を覚えていて、必要なことをしてあげていったのでしょう。特に、数々の下着や上着を作ってあげていったのです。ドルカスは、1人1人に手作りで着る物を作って、できたら、その人のところに持って行きました。多くのやもめたちがドルカスから着る物をもらっていたのです。やもめにとっては、大きな励ましと慰めになっていったのでしょう。

 そのドルカスが死んでしまいました。やもめたちにとっては大きな悲しみです。人々は遺体を清めて、屋上の部屋に安置しています。ヤッファの聖なる者たちは、リダにペトロがいることを知っていました。前回で触れましたが、ペトロはリダに住んでいる聖なる者たちのところに行ったのです。その中で、8年間も中風で床についているアイネアという人と出会いました。ペトロが「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい。」といいますと、アイネアはすぐに起き上がっていきます。リダに住む人々は皆、アイネアを見て、主に立ち帰っていきました。そのペトロのことはヤッファの聖なる者たちにも伝わっていたのです。

 リダとヤッファはすぐ近かったので、弟子たちは、ペトロはリダにいることを聞いて、2人の人を送り、「急いでわたしたちのところに来てください」と頼みました。ペトロは2人から話を聞いて、すぐに出かけて行きました。ヤッファの聖なる者たちは、ペトロが到着すると、すぐに階上の部屋に案内します。やもめたちが皆、そばに寄って来て、泣いています。泣きながら、ドルカスが一緒にいた時に、作ってくれた数々の下着や上着を見せたのです。どれほどドルカスは、やもめたちに慕われていたのでしょうか。やもめたちの悲しみが伝わって来ます。

 ペトロは、皆を外に出します。ひざまずいて祈るのです。ペトロは、イエス・キリストに祈るのです。癒しの力、奇跡の力は、ペトロから出ているものではありません。イエス・キリストから出ているものです。そのことを、ペトロはここで確認をしているのです。リダの時は、「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。」との言葉をいいました。ペトロがアイネアを癒すのではなく、イエス・キリストの力が、アイネアを癒されるのです。ペトロは自分の力ではなく、イエス・キリストの力によって、自分を通して、その力が働いてくださることを祈り求めているのです。

 ペトロはドルカスの遺体のそばにいるやもめたちを皆、外に出して、ひざまずいて祈ります。ドルカスの遺体に向かって「ドルカス、起きなさい」というとドルカスは目を開き、ペトロを見て起き上がりました。ペトロはドルカスに手を貸して立たせます。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼んで、生き返ったドルカスを見せました。特にやもめたちにとっては大きな喜びであり、大きな慰めになったことでしょう。

 このペトロの行った奇跡、死んだドルカスが生き返る奇跡ですが、この奇跡物語が語られた目的は、この奇跡によって、ヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じたということです。使徒言行録は、初期の教会の歩みの様子を描いています。ここまで読んでいくと、1つの流れがあるように感じます。それは、使徒たちがイエス・キリストの福音を語る。それと共に何らかの奇跡が行われるということです。使徒2~3章にかけての、ペトロの説教がありました。それと共に、足の不自由の男の癒しが行われました。使徒8章には、フィリポによるサマリア人伝道の記事があります。ここでもフィリポは、人々にイエス・キリストを伝えると共に、いろいろなしるしを行っています。実際に汚れた霊に取りつかれて多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人も癒してもらったとなっています。そして、リダの場面とヤッファでのドルカスの奇跡の場面です。これは、イエス様の福音書でも同じことがいえると思います。イエス・キリストは神の言葉を語りながら、多くの癒しの奇跡を行って来ました。その行動によって、多くの人々が、イエス様を信じるようになっていったのです。

 リダでは、アイネアが8年間も中風で床についていた。ヤッファでは、ドルカスが死んでしまった。使徒言行録の時代も、今の時代も、病気があること、突然の事故にあってしまうこと、そして、突然、死んでしまうことが起っています。時代が変わっても、どんなに科学が進んだ現代でも、そのような突然の病や事故や死は防ぐことができません。今、元気でいる私たちも、突然、そのような事態になってしまうことが起るかもしれないのです。これから先、何が起こるのか、私たちには分からないのです。ただ、私たちは明日があると勝手に信じています。ずっと未来があることを勝手に信じています。それは、実際にどうなのかは誰にも分からないことです。
 
 毎週木曜日の午後に、ホスピスに行かせていただき、チャプレンとしての働きをしています。ホスピスには人生の最後の日々を送られる方々が入院しています。その時、その時、いろいろな出会いがあります。意識していることはその日を大切にしたいということです。話っている中で、相手の様子を見て、また、次回ということもありました。また、次回があることもありますが、多くは、その次回はないのです。次の機会はないのです。そのことを多く感じるのです。

 一度、死んだドルカスが、ペトロを通して、イエス・キリストの力によって、生き返っています。でも、また、ドルカスは死を迎えることになるのです。でも、イエス・キリストの力は、人の死を乗り越える力があることを、私たちに示しています。イエス・キリストの十字架の力は、信じる人々に、復活の命を与えることができる力を持っています。ドルカスを死から生き返すことのできるイエス・キリストの十字架の力は、復活の命、永遠の命を与えることができるのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ドルカスの働きと、ペトロの奇跡をみてきました。一度死んだドルカスが、再び生き返ることができました。イエス・キリストの力を改めて知ることができました。感謝します。このイエス・キリストの奇跡の力は、復活の命、永遠の命があることを伝えています。イエス・キリストを信じること、その意味を深く知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


6月12日の祈祷会の内容です。

2024-06-11 20:14:00 | 日記
祈祷会      士師記4:1~11「士師デボラとバラク」    2024.6.12

 士師記には1つの流れがあります。イスラエルの人々は約束の地に入って来ました。そこでも多くの先住民が残っていました。イスラエルの人々は先住民と共に生きることになっていきます。イスラエルの人々は平和の中で先住民と共に仲良く生きようと思ったのです。先住民と交わっていきました。そして先住民の神々を拝むようになっていきます。それは、神の教えに反することでした。神は怒って、イスラエルの人々に敵を送ります。敵は、イスラエルの人々を支配し苦しめます。すると、人々はその敵の支配に苦しみ、神に助けを叫び求めます。人々の声を聞いた神は憐れみ、1人の救助者である士師を送ります。士師が活躍し、敵を追い払います。すると、人々に平和が戻って来ました。人々は喜びます。士師は亡くなっていきます。平和な日々が続いた後で、人々は先住民と平和に生きようとして、交わっていきます。すると先住民の神々をまた拝むようになり、神の怒りをかうことになります。神は敵をイスラエルの人々のもとに送ります。このような流れが続いていくのです。何度も何度も同じことを繰り返していくのです。

 士師として、オトニエル、エフド、シャムガルが活躍しました。士師エフドが死んだ後、イスラエルの人々はまたも神の目に悪とされることを行いました。ここではその悪の内容は書かれてありませんが、先住民の神々を拝んだと想像することができます。神は怒り、カナンの王ヤビンにイスラエルの人々を売り渡されたのです。ヤビンの将軍はシセラでした。イスラエルの人々は苦しみ、神に助けを求めて叫びました。ヤビンは鉄の戦車900両を有し、20年に渡ってイスラエルの人々を力ずくで押さえつけたのです。

 ここから新しい士師が登場して来ます。ラビドトの妻、女預言者デボラです。ここに女預言者と書かれてあります。モーセの姉ミリアム(出エジプト記15:20)以来ということが分かります。士師の中に女性がいたということです。デボラは士師としてイスラエルの人々を裁いていくのです。デボラはエフライム山地のラマとベテルの間にあるなつめやしの木の下に座を定め、人々はデボラに裁きを求めて上ることにしています。

さて、デボラは人を遣わしてバラクを呼んで来て、イスラエルの神はお命じになりました。「行け。ナフタリ人とゼブルン人1万人を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンとその軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す」と。バラクは「あなたが共に来てくださるなら行きます。もし来てくださらないなら、私は行きません」とデボラにいいました。デボラは「わたしも一緒に行きます。ただし、今回の出陣で、あなたの栄誉を自分のものとすることはできません。神は、女の手にシセラを売り渡されるからです」とバラクに答えています。デボラとバラクは共にケデシュに向かいました。バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに招集しました。1万人がバラクに従って上りました。戦いの準備が整いました。この後は、シセラの軍隊との戦いになっていきます。

今回の学びで注目したいことは、女預言者デボラのことです。デボラも士師として活躍していきます。旧約聖書を読んでいくと、どうしても男性中心の視点で書かれてあります。旧約聖書は紀元前に書かれたものですので、時代的な背景で、そのように男性中心の傾向があることが分かっています。その中でも、女性の役割があるのです。預言者として、士師としての活躍です。また、「神は女の手にシセラを売り渡らせるからである」とも書いてあります。女性の働きを、しっかりと受け止めている姿だと思います。

一方、現代は男性と女性が平等であることがいわれています。また、男性であることと女性であることを巡る視点も変化して来ています。男性と女性の区別を強調しすぎると間違った視点であると考えられています。また、LGBTなどの性に関わることも大きな視点です。

新約聖書のパウロはキリスト教に大きな影響を与えた人です。キリスト教の土台をつくったのはパウロといわれています。しかし、そのパウロには、女性に関する内容が、今日では問題があると私は思います。その箇所の1つが以下のところです。

1テモテ2:9~15
同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

 特に、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」とある箇所です。パウロの時代は、今から2000年前ですから、このような考えだったと理解することはできます。しかし、現在の視点から見ると、問題があります。どうしても男性中心の考えになっています。その視点を私たちは克服する必要があります。ただ、聖書の文章として残っているので、このパウロの文章によって、苦しんだ人が多くいたと思います。神の言葉である聖書をいかに、信仰として受け取っていくのか課題があることも知っておくことが大切だと思います。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。女預言者デボラのことをみてきました。デボラが士師として用いてくださっていることに感謝します。聖書の言葉をどのように受け止めて、考えていくか課題を考えながら、いつの時代でも、神の言葉として受け止めていくことができる知恵と信仰を与えてくださいますようにと願います。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)