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12月1日の礼拝の内容です。

2024-11-30 20:10:00 | 日記
12月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、241.242‣1.280.430.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/mrpqMCbFFUQ?feature=shareです。

礼拝説教    使徒13:4~12「まっすぐな道を歩もう」   2024.12.1

 私たちはどのような道を目指して歩んでいるのでしょうか。先週は、1人の姉妹の葬儀を教会で行いました。人の葬儀をする度に、私は、自分はどのような道を目指して歩んでいるのだろうかと問うのです。一般に葬儀をする場合、その人の家族がいろいろなことを決めていきます。しかし、今回はそれがない場合、どうすればいいのだろうと問いかけされました。最近、家族代行という言葉がありますが、そのようなことでした。人にはいろいろな事情を抱えて生きています。でも、いざ人の死となれば、家族ということが大きな要因を持つことになっています。自分の信仰も大切ですが、それを身近な人にどのように伝えて関わっているのかということをもう一度考えることが必要性を感じています。

 教会暦は今日からイエス・キリストの誕生を待つ待降節、アドベントに入っていきます。クリスマスを待つ時を迎えています。使徒言行録を読んでいます。使徒13章は、大きな展開をしているところです。使徒12章までは、イエス・キリストの福音がユダヤ人に伝えられていくことが書かれてあります。そして、使徒13章からは、異邦人へイエス・キリストの福音が伝えられていくのです。アンテオケ教会が誕生しました。このアンティオキア教会は、最初の異邦人教会として建てられていきます。そして、このアンテオケ教会が異邦人伝道の拠点教会となっていきます。教会の人々が神を礼拝し、断食をしていますと、聖霊が教会の人々に告げるのです。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって2人に決めておいた仕事にあたられるために」と。そこで、教会の人々は、断食して祈り、バルナバとサウロの上に手を置いて出発させるのでした。これがパウロによる第1回伝道旅行の始まりです。

 パウロの第1回伝道旅行は、キプロス島を目指して進んで行きます。聖霊によって送り出されたバルナバとサウロはセレウキアに下り、そこからキプロス島に向けて船出し、サラミズに到着すると、すぐにユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせるのです。パウロの伝道旅行を見ていますと、新しい地に行くと、最初にユダヤ人の会堂から伝道を開始していることが分かります。パウロの異邦人伝道といっても、必ずユダヤ人から始めていくスタイルは変っていません。ユダヤ人に語り、それから異邦人へと伝えていくのです。キプロス島全体を巡って、パフォスまで行きますと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという1人の偽預言者に出会います。ユダヤ人でありながら、魔術師であるということが不思議な感じします。神の民であっても、そのような人物がいることに人間の弱さを感じてしまいます。この魔術師は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していたとあります。総督は、そこでバルナバとサウロを目招いて、神の言葉を聞こうとしました。魔術師エリマ、彼の名前は魔術師という意味であるとあります。このユダヤ人の魔術師は、バルナバとサウロに対抗として、地方総督を、イエス・キリストの信仰から遠ざけようとします。おろらく、ユダヤ人の魔術師は、自分の今までの総督の関係がなくなってしまうと恐れたのだと思います。自分の安定した地位を失うことを恐れたのです。

 ここで、パウロとも呼ばれていたサウロという言葉があります。ここからサウロという名前からパウロという名前に変わっていきます。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていく流れで、パウロという名前に変わっていくことには大きな意味があります。パウロによる異邦人伝道が本格化しているということです。パウロは、聖霊に満たされて、魔術師をにらみつけていいます。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手がお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と。するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探しました。

 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入ったと書いています。総督がイエス・キリストの信仰に入ったことは素晴らしいことです。しかし、私はここで、パウロはユダヤ人の魔術師に深い思いを重ねていたのだと思います。この迷えるユダヤ人の魔術師は、実はかつてのパウロその者だったからです。魔術とユダヤ教の信仰と比較することはできませんが、イエス・キリストの福音と考えてみると、同じような気がします。このユダヤ人の魔術師がどうして、このような状態になったのかは分かりません。神の民、ユダヤ人が魔術師となって、歩んでいることに深い悲しみを覚えます。この魔術師は、パウロとの出会いによって、目が見えなくなってしまい、だれか手を引いてくれる人と探すようになります。それは、目が見えないだけでなく、神への信仰ということでも見えないということです。

 使徒言行録において、パウロの最初の登場は、ステファノの殉教の場面です。ユダヤ人がステファノに石を投げている間に、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いています。(使徒7:58)サウロはステファノの殺害に賛成していました。(使徒8:1)使徒9章にはサウロの回心のことが書かれてあります。サウロはキリスト教徒を脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めています。それは、キリスト教徒を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためだったとなっています。パウロの最初は、熱心なユダヤ教徒でした。イエス・キリストを信じる者を迫害することが、神にとって正しい道だと信じて疑っていませんでした。

 そのパウロを、イエス様が呼びかけるのです。突然、天からの光がパウロの周りを照らします。パウロは地に倒れてしまいます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞くのです。パウロが「あなたはどなたですか」というと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とイエス様がいいます。パウロは地面から起き上がって、目を開けましたが、何も見えませんでした。周りの人々はパウロの手を引いてダマスコに連れて行くのでした。パウロは3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったのです。そのダマスコで、キリスト者であるアナニアに出会います。アナニアはパウロの上に手を置いて「兄弟パウロ、あなたがここに来る途中に現れてくださったイエス様は、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」といいます。すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、パウロは元どおり目が見えるようになり、身を起して洗礼を受け、食事をして元気を取り戻すことができました。

 パウロはこうして、ユダヤ教徒からキリスト教徒に変えられていくのです。パウロがエルサレム教会に来た時には、教会の人々はパウロを恐れて近づきませんでした。それを仲介したのがバルナバです。この後、パウロは故郷に戻ってしばらく休み時を持つのです。その後、アンテオケ教会が誕生して、その活動が知られて、エルサレム教会からバルナバが派遣されていきます。バルナバはアンテオケ教会が誕生し、成長している姿に感動しています。バルナバはこれからのアンテオケ教会のためにパウロの手が必要だと感じて、わざわざパウロの故郷にいって、パウロをアンテオケ教会に連れて来て、丸1年間、一緒に多くの人々に教えていくのです。そして今や、聖霊によって、パウロはバルナバと共に第1回伝道旅行に出て行くことになっていくのでした。

 聖霊はこのようにパウロを導きました。迫害者から伝道者に変えてくださったのです。このキプロス島の宣教で、パフォスにいたユダヤ人の魔術師は、パウロと出会いました。パウロによって、厳しい言葉をかけられて、目が見えなくなってしまいました。魔術師は、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探していきます。このユダヤ人の魔術師の手を引いてくれる人は見つかったのでしょうか。魔術師のその後については、使徒言行録は何も書いていませんので、正確なことは分かりませんが、私は想像するのです。パウロにとってのアナニアやバルナバがそうだったように、魔術師も誰かと出会い、キリスト者になって、イエス・キリストを伝えて行く者に変えられていったのです。この人から多くの異邦人がイエス・キリストの福音を聞いて、信じて洗礼を受けて、教会に加わっていったのでしょう。パウロも魔術師も最初は、神へのまっすぐな道を歩むことができませんでした。でも、イエス・キリストと出会い、全く新しい人に変えられて、神へのまっすぐな道を歩むことができたのです。

 私たちも最初はどうだったのでしょうか。でも、人生の途中で、キリスト者と出会い、イエス・キリストの福音に触れて、洗礼を受けて、今は信仰生活を送っています。私たちの道はまっすぐです。イエス・キリストの十字架を通して、神の国へと目指して、まっすぐな道を歩んでいくのです。1人の姉妹の死と葬儀において、改めて、神の国へとまっすぐな道を歩んでいるのです。

祈り 神よ、あなたのことをこのように礼拝することができましたことを心から感謝します。1人の姉妹の死と葬儀を振り返りながら、私たちの歩みべき道のことを考えて来ました。私たちがまっすぐに歩む道が見えています。どうか、その道から離れることがありませんように、また迷った時には、もう一度、その道を見い出すことができるますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


11月20日の祈祷会の内容です。

2024-11-19 20:06:00 | 日記
祈祷会      士師記17章「ミカという人の歩み」    2024.11.20

 士師記17章~21章は、士師記の中で、士師のいない時代のことが書かれてあります。それまでは、オトニエル、エフド、デボラとバラク、ギデオン、エフタ、サムソンなどの士師がいました。そこではいろいろな敵が登場して来ました。カナン人、ミディアン人、アンモン人、ペリシテ人などです。それが、この部分では、そのような外敵は出ていなくて、イスラエルの人々の内部での抗争が書かれてあるのです。

 イスラエルの人々がエジプトを出て、荒れ野の旅を経て、約束の地に入って行くまで、神の強い導きがありました。十戒を中心とする律法です。そして、幕屋とその祭司制度なども丁寧に与えてくださいました。これらはすべてイスラエルの人々の歩みが豊かで平和で幸福になるためのものでした。それがあっても、イスラエルの人々は神の教えを守ることができなかったのですが、この個所では、もっとひどくなります。今日の中心的な聖書の箇所は、「そのころイスラエルに王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」(6節)です。王がいれば、イスラエルの人々は神の目に正しい歩みをすることができたということではありませんが、イスラエルの人々を導く人がいなかったという意味です。

 さて、今日の聖書の内容に入っていきます。エフライムの山地に名をミカという男がいました。ミカは母に「銀1100シェケルが奪われた時、あなたは呪い、そのことをわたしに話してくれました。その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです。」といっています。ミカは、母から銀1100シェケルを黙って盗んだのです。母は銀を奪われたことで、奪った者が神に呪われるということを話したのでしょう。聞いたミカは、恐ろしくなって、自分が母の銀を奪ったことを告白しています。通常なら、母は息子ミカを激しく怒って、罪の重さを知り、深く反省するように導くと思うのですが、ここで母はミカに「わたしの息子に主の祝福がありますように」といっているのです。いったい何を考えているのだろうと思いました。もっと悪い息子になってしまうと思いました。更に驚くべきは、母はミカに「息子のために彫像と鋳像を造っていただこうとして、この銀はこの手で聖別し、主におささげしたものです。今これをあなたに返します」と答えています。この母は、息子ミカのために、銀1100シェケル持って彫像と鋳像を造るためだったのです。息子のミカがそのお金を盗んでいなかったら、その通りでいいと思うのですが、息子が一度盗んで、そのことを告白し、そのことが全くなかったかのように、息子のために使うというのはどうでしょうか。それも偶像になります。ミカが銀を母に返すと、母は銀200シェケルを取って銀細工師に渡し、彫像と鋳像を造らせたのです。それがミカの家にあるようになります。

 このミカという男は神殿も持っており、エフォド(祭司の衣装)やテラフィム(家の偶像)を造って、息子の一人の手を満たして自分の祭司にしていました。神殿は決まった場所にあり、自分の家に置くということはありえないことでした。エフォドもテラフィムも偶像ということになってしまいます。祭司はレビ族の中でアロンの子らだけがなることのできるものでした。自分の息子を祭司にするということそのものが神にとって許されないことだったのです。

 次に、ユダのベツレヘムにレビ族の1人の若者が寄留していました。彼は寄留地を求めて、旅を続けてエフライムの山地にあるミカの家まで来ました。ミカは「どちらからおいでになりましたか」と声をかけると、彼は「わたしはレビ人で、ユダのベツレヘムから来ました。適当な寄留地を求めて歩いているのです」と答えます。ミカは「わたしの家に住んで、父となり、祭司になってください。あなたには年に銀10シェケル、衣服一そろい、及び食糧を差し上げます」といいます。レビ人はミカと共に住むことに同意し、若者はその息子の一人のようになりました。ミカがこのレビ人の手を満たしたので、若者は祭司となり、ミカの家に留まりました。ミカは「レビ人がわたしの祭司になったのだから、今や主はわたしを幸せにしてくださることが分かった」といったのです。

 このミカの歩みを見ていきますと、神への信仰、神殿や祭司などがありますので、完全に神への思いはなくなったということはないと考えます。しかし、母が息子のために彫像と鋳像などを造ってしまうこと、それも自分の息子が盗んだものを、それを銀細工人に手渡しして造らせる。自分の家に神殿を造ったり、自分の息子を祭司にしたりと、勝手な振る舞いをみるのです。どうして、このような勝手な行動になってしまうのか、神があれほど丁寧に、十戒を中心とする律法を与え、幕屋などを造り、祭司制度を整えたことはいったいどれほど、イスラエルの人々の信仰生活に根差していたのでしょうか。考えてみれば、この士師のいない時代でなくても、士師のいた時代でも、イスラエルの人々は神の教えを守ることはできませんでした。また、これまでのイスラエルの人々の歩みを見ていると、いかに神の教えを守らず、神に反抗してきたのかを見ることができます。イスラエルの人々は神の民として、聖書の中で位置づけされているにも関わらずに、神へ罪を犯し続けて来た歩みを振り返ることになります。そして、これからのイスラエルの人々の歩みは神に対して罪を犯し続けることは変っていません。

 まもなく、イエス・キリストの誕生を待つ待降節に入っていきます。神はイスラエルの人々のために、私たちのために、イエス・キリストをこの地上に送ってくださるのでした。神のイエス・キリストは十字架のつくために来られるのです。それは、私たちの罪を赦し、神の国へと招くためです。以下は今年の瀬戸永泉教会のクリスマスの聖句となります。

イザヤ9:5
ひとりのみどりごがわたしたちにために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちのために与えられた。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記より、士師のいない時代のことを学びました。神の教えを導くことのできる人がいなかったから、イスラエルの人々は神を求めながら、神から離れ、それぞれの自分の思いの中を歩み、苦しんでいました。人の弱さがそこにはありました。私たちには神がいてくださり、共に歩んでくださり、聖書を与えてくださっています。まもなくクリスマスを待つ待降節に入っていきます。神の導きを忘れることがなく、歩んでいくことができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


11月17日の礼拝の内容です。

2024-11-16 21:09:00 | 日記
11月17日の礼拝の内容です。讃美歌は、194.361.405.471.29です。
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礼拝説教    使徒13:1~3「伝道旅行へ出発する」   2024.11.17

 使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は初めての教会の歩み、キリスト教の初期の時代を書いています。エルサレムから始まったイエス・キリストの福音がローマまで達していくのです。

使徒1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 このイエス様の言葉が実際に実現していくことになっていきます。今日の使徒言行録13:1~3は、大きな変化が起きているのです。使徒言行録1章~12章は、イエス・キリストの福音がユダヤ人に語られています。ペトロを中心にその働きがエルサレム教会を中心に展開していました。そして、使徒言行録13章からはアンティオキア教会中心になって、異邦人伝道が展開されていきます。その中心になるのがパウロです。パウロによって、第3回に渡る伝道旅行が行われます。そして、パウロは囚人としてローマまでいくことになります。そこで、使徒言行録は終っています。パウロがローマに行く前にすでに、イエス・キリストの教会は存在していました。パウロの前に、無名のキリスト者によって、ローマにイエス・キリストの福音は伝えられていたのです。

 私は、キリスト教の伝道の発展を見ると、このパウロの働きは大きいものがあると思っています。3回に渡る伝道旅行、パウロが中心として展開していきますので、パウロの計画によるのかなあと考えてしまいますが、そうではありません。その伝道の旅行のきっかけになったことが、今日の聖書の箇所に書かれてあるのです。

 これからの異邦人伝道の拠点となっていくのが、アンティオキア教会です。この教会がどのようにできていったのかを初めに見ていきましょう。そのことが使徒11:19~26までに書かれてあります。ステファノの殉教があって、多くのキリスト者はエルサレムからユダヤやサマリアに逃げて行きました。逃げて行く先々で、キリスト者は、イエス・キリストの福音を伝えていきました。でも、多くがユダヤ人に対してでした。ところが、キプロス島やキレネから来たユダヤ人キリスト者は、ユダヤ人だけではなく、ギリシア語を話す人々、異邦人にも語りかけていったのです。イエス・キリストの福音を、異邦人でも伝えていきました。ここでは無名のキリスト者といってもいいと思います。主がこの人々を助けたので、異邦人も信じて、主に立ち帰った人々は多かったのです。このキプロス島やキレネから来た人々が、異邦人にイエス・キリストの福音を伝えていったのです。こうしてアンティオキア教会が誕生していくのです。アンティオキアに異邦人の教会が誕生したことは、噂としてエルサレム教会に伝わっていきました。教会はバルナバを派遣するのです。バルナバはもともとキプロス島出身だったので、またその性格ももってふさわしい人物でした。

 バルナバがアンティオキアにある教会に到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めていきました。バルナバによって更に多くの人々が主に導かれていきました。この時に、バルナバはパウロを捜しにタルソスまで行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰っていきます。こうしてバルナバとパウロによって、丸1年間、その教会に仕え、多くの人々に教えていきました。バルナバがパウロを見い出したことが分かります。アンティオキア教会はできてまもないのですが、神によって祝福されて多くの人々が加わっていきました。使徒13章の初めには、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、パウロなど、預言する者や教師たちがいたのです

 アンティオキア教会の人々が主を礼拝し、断食をしていますと、聖霊が告げるのです。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって2人に決めておいた仕事にあたらせなるために」と。そこで、教会の人々は断食して祈り、2人の上に手を置いて出発させるのです。こうして、第1回伝道旅行が始まっていきます。このようにして、伝道旅行はパウロの働きになっていきますが、その初めは聖霊の導きによっているのです。このことを忘れてはいけないと思います。この使徒言行録全体を導いてくださっているのは聖霊です。この聖霊が、バルナバとサウロに伝道旅行に出発せよと命じています。その間に、アンティオキア教会があるのです。聖霊は、このアンティオキア教会を通して、2人を派遣していきます。これからは、異邦人伝道が、この伝道旅行によって本格的な活動が展開されていきます。

 ここから少し流れが変わることを許してください。アンティオキア教会の中に、キレネ人のルキオの名前が出ています。私は、このキレネ人のルキオに注目していきたいと思います。アンティオキア教会の創立に関わったのが、クレネから来た人々であると書かれてありました。このクレネ人というと次のように聖書の箇所を思い出すのです。

マルコ15:21
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理やり担がせた。

 この場面は、イエス様が十字架を担いで、ゴルゴタの丘までいくものです。途中で、イエス様は十字架の重荷で倒れてしまいます。そこで、たまたま通りかかったキレネ人のシモンに、兵士たちが無理やりに、十字架を担がせたというものです。シモンにしてみればたまらないものです。どうして、自分がという思いだったでしょう。ただ、その後のシモンのことについては、聖書は何も書いていません。ただ、マルコではアレクサンドロとルフォスの父と書いています。だから、シモンは後に、教会の群れに加わったと考えることができます。キレネ人のシモンは、自分自身も、イエス・キリストを信じ、教会に加わり、そして自分だけでなく、家族もイエス・キリストを信じて、教会に加わった。だから、アレクサンドロとルフォスの名前が出ていると考えます。

 更に、このキレネ人のシモンを通して、多くのキレネ人がイエス・キリストの信仰に入り、教会に加わったと想像することができると思います。その流れは、この使徒言行録の、アンティオキア教会の創立に関わったキレネ人と、その後のキレネ人のルキオにつながっていったと思うのです。キレネ人のシモンが、たまたま、イエス様の十字架を担いでいて、倒れた場面に出会って、その後の展開が起っているのです。この出会いを、偶然なこと、たまたまなこととして受け止めることもできます。しかし、この出会いが、その後のキレネ人の伝道の大きな役割を果たしていくことを私たちはみることができました。このことをどのように考えればいいのでしょうか。使徒言行録を読みながら、伝道者としてペトロやパウロなど活躍をみることができます。彼らによって、イエス・キリストの伝道はなされていくのですが、もちろん、大きな導き手は聖霊であることも確信をしました。また、無名のキリスト者の話をもしました。キレネ人のシモンを通して、多くの関係者が救われ、教会に加わり、目には見えませんが、いろいろなところで活躍をしていることを知ることができました。

 それでは、このようなことが私たちにどのような関りとして受け止めることができるのでしょうか。それは、最初の使徒言行録の聖句に戻ります。使徒1:8のみ言葉です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」更に、私たちは礼拝の後で、祝祷を受けます。これは、次の聖句から来ています。

2コリント13:13
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

 私たちの家はそれぞれあります。また、キリスト教の信仰によれば、教会が私たちの家と考えることもできます。私たちは教会から、この祝祷によって、それぞれの場所に押し出されていくのです。伝道者としてです。広い意味で、私たち1人1人が伝道者として召されているのです。自分たちができる伝道が求められています。神の導きを祈りましょう。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たち1人1人は、実は伝道者として導かれていることを知りました。私たちができる伝道をということを教えてください。それぞれの場で神の栄光を現すことができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


11月13日の祈祷会の内容です。

2024-11-12 19:40:00 | 日記
祈祷会       士師記16:18~31「サムソンの祈り」     2024.11.13

 士師サムソンについては、士師記13章~16章にかけて書かれてあります。いつものようにイスラエルの人々は主の目に悪とされることを行いました。神は怒り、敵としてペリシテ人を送ったのです。ペリシテ人は40年間、イスラエルの人々を苦しめることになります。そこで、士師として活躍するのがサムソンでした。サムソンはダン族のマノアとその妻の間に生まれます。サムソンは生まれる前からナジル人、神に仕える人として歩むようになっているのです。サムソンはナジル人として、士師として歩むことが期待されていましたが、それとは全く反対の歩みをしていきます。サムソンはナジル人として神から特別な力を与えられていましたが、それを自分の思うように使っていきます。また、非常に女性に弱いのです。そのために、サムソン自身を苦しめることになります。

 今日の聖書の箇所は、サムソンの最後の内容です。サムソンの壮絶な死を描いています。サムソンはガザに来て、デリラというペリシテ人の女性を好きになります。それまで、サムソンはその怪力を生かして、ペリシテ人を戦い、勝利していました。ペリシテ人の領主たちは、何とかサムソンを打ち負かしたいと願っていました。サムソンが仲間のデリラを愛したことを知り、デリラに大金を渡すから、サムソンの力の秘密を捜し出して欲しい、そうすれば、サムソンを打ち負かし、縛り上げて苦しめることができるといいました。デリラはペリシテ人の領主たちの申し出を受けました。さて、どのようにデリラはサムソンから力の秘密を聞き出そうとするのかと思いましたが、そのまま聞いています。デリラはサムソンに「あなたの怪力がどこに秘められているのか、教えてください。あなたを縛り上げて苦しめるにはどうすればいいのでしょう」と聞いています。サムソンは、3度ウソをいいます。でも、デリラは迫って来ます。「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどといえるのですか。もう3回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくだらなかった」といい、来る日も来る日もしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けてしまうのです。それは、自分はナジル人として神にささげられているので、髪の毛をそられたら、力は抜けてしまうということだったのです。

 デリラはサムソンが心の中の一切打ち明けてたことを見て取り、ペリシテ人の領主たちを呼びます。銀を携えて、ペリシテ人の領主たちはやって来ました。デリラはサムソンを膝の枕に眠らせて、人を呼んで、サムソンの毛をそらせました。サムソンの力は抜けていったのです。デリラが「サムソン、ペリシテ人があなたに」というと、サムソンは眠りから覚め「いつものように出て行って暴れてくる」といいましたが、神がサムソンから離れたことには気づきませんでした。ペリシテ人はサムソンを捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて行き、牢屋で粉を引かせるのです。しかし、サムソンの髪の毛はそられた後、また伸び始めていたとあります。

 ペリシテ人の領主たちも人々もサムソンを捕らえたことで大いに喜び祝っています。ペリシテ人は上機嫌になり、「サムソンを呼べ。見せ物にして楽しもう」といい出します。こうしてサムソンは牢屋から呼び出され、笑い者にされました。サムソンはここまでの流れをどのように受け止めていたのでしょうか。デリラを愛し、その結果として、自分の怪力の秘密をデリラに明かし、その結果としてペリシテ人に捕まり、目をえぐり出され、青銅の足枷をはめられ、牢屋で粉をひかされ、今や、ペリシテ人の前に出され、笑い者にされているのです。サムソンは自身の愚かさに気づいたのでしょうか。自身の弱さを知ったのでしょうか。この時に、サムソンは神に祈るのです。サムソンはペリシテ人のダゴンの神の神殿にいました。柱の間に立たされます。建物の中はいっぱいで3000人程のペリシテ人がいたとあります。彼らは見せ物にされたサムソンを見ていました。サムソンはこの時に、サムソンの手をつかんでいた若者に「わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい」と頼んでいました。サムソンは神に祈っていいます。「わたしの神よ。わたしを思い起してください。神よ。もう一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの2つの目の復讐を一気にさせてください」と。

 それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探り当て、両手でもたれかかります。サムソンは「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」といって、力を込めて押しました。建物はそこにいたすべての人々の上に崩れ落ちました。サムソンも多くのペリシテ人も死んだのです。サムソンの家族が来て、サムソンを引き取り、父マノアの墓に運び、葬りました。

 サムソンは神から特別な力を与えられていました。ナジル人としての力です。その力を神のために、イスラエルのために用いたのではなく、自分の思いのままに用いていったと思います。多くの女性を愛し、虜となっていきました。その女性への愛は、サムソンの一方的な片思いのように見えてしまいます。女性の答えに答えれば自分がどのようになるのかを深く考えなかったのでしょうか。デリラのサムソンへの質問は、サムソンを苦しめるものでしたが、そのまま聞いています。デリラもサムソンへの愛は何もないように思います。それでもデリラへの愛ゆえに、自分の力の秘密を教えてしまう。結果として、目をえぐり取られ、青銅の足枷をはめられる。最後には大勢のペリシテ人の前に立たせられて見せ物にされてしまう。悲しい最期を迎えることになってしまいます。でも、最後の時に、神に祈っています。もう一度、神に立ち帰っていくことができています。いろいろあったサムソンですが、神に立ち帰ることができた、神に祈り求めることができたことは信仰者としての人生の歩みだったと思います。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。サムソンの歩みの最後をみてきました。悲しい最後でしたが、神の立ち帰ることができたこと、神に祈ることができたことは信仰者としての歩みでした。サムソンの歩みを見ながら、神を信じていく歩みを考えました。私たちの信仰生活もサムソンの歩みを参考して歩んでいきたいと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


11月10日の礼拝の内容です。

2024-11-09 20:00:00 | 日記
11月10日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.211.311.402.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/WQOzPtAy3sk?feature=shareです。

礼拝説教      使徒12:20~25「ヘロデ王の歩みから」    2024.11.10

 人の歩みというのはそれぞれです。まず、同じ歩みというのはありません。1人1人の人生があります。それも、その人だけの特別な人生の歩みです。今日の使徒言行録の内容は、ヘロデ王の急死です。かなり悲しい内容です。このヘロデ王の死から、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

 私にとって忘れることができない絵本との出会いがありました。以前にも話したことがあると思います。神奈川にいた時に、神奈川県立子ども医療センターでボランティアをしていた時に、入院している子どもたちに絵本の読み聞かせをしていました。そこで出会った絵本です。絵本の題名は「生まれてきてくれてくれて ありがとう」です。知っている人もいると思いますが、次のような内容です。2011年発刊の、にしもとようさんのデビュー作です。難産だった息子の経験を元に生まれた作品とのことです。物語は、ぼく ママを さがしているの。かみさまがね「うまれて いいよ」って。だから、ママを さがしているの。という書き出しで始まり、天使のような赤ちゃんが登場します。それから、ぼくのママを探す旅が始まります。くまくん、ごりらくん、ぶたくん、ふくろうくんと、ぼくのママについて尋ねるのですが、みんな知りません。みんな、自らのママを紹介してくれるのですが、ママ達は一様に、「うまれてきてくれて ありがとう」と言うのです。最後、ぼくは、明るい光に導かれて誕生するのですが、この一文は涙なしに読めません。ぼく、ママの こどもで うまれるよ。あの ことばを いってもらいたくて「うまれてきてくれて ありがとう」という絵本です。とても素晴らしい絵本です。

 インターネットでこんな言葉を見つけました。「くらーくて せまーい みちを あなたは いっしょうけんめい でてきて くれました ちいさな ちいさな あなた あたたかで やわらかな あなたたいせつに たいせつに だきました それから あなたは たくさん なきました ねつも だしました。そして たくさん わらうように なりました はじめて ひとりで たったとき・・・ 2・3ぽ あるいたとき・・・ はじめて なまえを よばれたとき ほんとうに ほんとうに うれしくて・・・あなたの ねがおを みると やさしい きもちに なって ふしぎな ちからを もらいました。きょうは あなたが うまれた ひを おもいかえします かけがえのない あなたに あえて ほんとうに しあわせです うまれて きてくれて ありがとう」 赤ちゃんが生まれて来る時に、すべての赤ちゃんがそのようであって欲しいと心から願うのです。

 1年前の教会創立記念日の時に講演会のことを覚えているでしょうか。小さないのちのドアの代表、永原郁子さんの講演を、ズームを使ってしていただきました。小さなのいのちのドアのホームページには次のような言葉が書かれてあります。「思いがけない妊娠や、思い通りにならない育児に悩み苦しんではいませんか?」「誰にも言えない」「親に知られたらどうしよう」「流産してしまえばいいのに・・・」「子どもなんていらない」「いっそのこと死んでしまいたい」思いもよらない妊娠で途方に暮れているあなたに育児に追い詰められているあなたに、私たちは寄り添い、幸せになれる道を一緒に考えていきたいと思っています。少しでも傷つく女性を減らしたい 、そんな思いで小さないのちのドアを開設しました。一人で重荷を背負わなくていいのです。悲しい事件になる前に、深い傷を負う前に、ぜひご相談ください。全力であなたと小さないのちのためにお手伝いします」と。この日本で、このような苦しみを抱えて生きている人がいる。そのような人に救いの手を伸ばしています。素晴らしいお働きだと思います。でも、母親から「生まれてきてくれてありがとう」といってもらうこことができない赤ちゃんがいる事実もあるのです。

 私は教誨師として月に一度ですが、瀬戸少年院に行き、1人の少年と面談をしています。目の前にいる少年は何かの罪を犯して、この瀬戸少年院に入所しているのですが、少年たちの背景を知ると涙が出てしまいます。過酷な環境の中で、生きてきました。罪を犯してしまうような環境です。そのことを、罪を犯したから、あなたが悪いとだけはいうことが私にはできません。人が生まれてくること、人が生きることはどのようなことなのでしょうか。

 今日のヘロデの歩みをみていきましょう。使徒言行録12章に出て来るヘロデ王は、イエス様の誕生に出て来るヘロデ大王の孫にあたります。ヘロデ家の血筋はユダヤ人ではありません。ユダヤ人からすれば異邦人ということになります。ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばして、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺すのです。教会にとっては大きな悲しみでした。それはヘロデ王が自分の地位を守るために、ユダヤ人からの指示を受けるために行ったことでした。教会を迫害することは、ユダヤ人に喜ばれることを知ってヘロデ王は、今度はペトロを捕らえて、牢に入れました。過越し祭の後で、ユダヤ人の前に出して、殺す予定でした。それも、ユダヤ人から指示されるため、自分の地位を守るためでした。教会の人々からすれば、ヘロデ王はとんでもない悪い王だと思うのは当然のことだと思います。ただ、冷静になってヘロデ王の立場を考えてみると、王となったからといって、すべてが自分の思う通りにいかないことが見えてきます。逆に、王であり続けるために、ユダヤ人の指示を受ける必要があるのです。王とすれば当然のことですが、王であることの孤独を思います。

 ペトロの逮捕はあったのですが、天使の働きによって、ペトロは解放されて、ヘロデ王は自分の願いを実現することができませんでした。そして、今日の聖書の箇所になります。ヘロデ王は、ティルスとシドンの住人にひどく腹を立てていたとあります。どのようなことがあったのかは分かりませんが、ティルスとシドンの人々にとっては大変な状況だったというのです。それは、彼らの地方が、ヘロデ王の国から食料を得ていたからだとあります。食糧を得ることができないことは生きていけないのですから、非常事態です。そこで、住民たちはそろってヘロデ王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出ています。定められた日とありますが、この日はローマ皇帝の誕生日だったといわれています。ヘロデ王は、ローマ皇帝の誕生日を祝う日を用います。ヘロデ王は王の服を着て、王座に着いて演説をします。すると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けます。人々の思いは、ヘロデ王を称賛して、自分たちがまた食糧を手に入れることが目的だったのです。純粋にヘロデ王をあがめているわけではありません。ヘロデ王にしても、王であり続けるために、人々からの指示を受けなければなりません。この場面では複雑な思いが交錯しています。悲しいものです。

 ここには人間の罪の現実が起っています。それは、人間が神になることです。この後、すぐに悲劇が起ってしまいます。するとたちまち、主の天使がヘロデ王を打ち倒してしまいます。神の栄光を帰さなかったからだといいます。ヘロデ王はうじに食い荒らされて息絶えたというのです。使徒言行録は、教会を迫害したヘロデ王の死を悲惨な形で伝えています。人が神になること、これが人間の罪そのものであるということですが、ヘロデ王の自分が神である、人々の神の声だと叫ばれた時、どのような思いだったのでしょうか。一時的ですが、気持ちいい状態になったのでしょうか。自分は王だ、神と同じだと思い、満足していたのでしょうか。すぐに悲惨な死が待っていることを知らずにです。このヘロデ王といわずにも、私たち自身の中に、自分中心の思いが誰でも思っていると感じます。教会の中でもあることに熱心になりすぎると、自分はこんなにやっていて素晴らしい、でも、あの人は何もしていないと勝手に判断して、批判的な思いを持ってしまうことはしばしばあると思います。ヘロデ王のような人生もあります。1人1人、いろいろな人生があります。1人として全く違う人生の歩みです。その人だけの人生です。

 最初に戻りますが、人がこの世界に生まれて来て、ある人から「生まれて来てくれてありがとう」といわれることの大切さをいいました。その思いが、その人の人生の最後まで続いていって欲しいと願います。現実は、本当に難しいことですが、そのような愛された人生、喜びにあふれて感謝して歩んできた人生であって欲しいと願います。神の目からすれば、すべての人が1人1人、大切な存在であるはずです。私たち人間の目では、いろいろな判断をします。しかし、創造主である神は、この世界を創造し、私たち1人1人を創造し、命を与え、生かしてくださり、神に愛されているはずです。ヘロデ王もそうです。殺されたヤコブも、教会の指導者であるペトロもそうです。

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 この神への讃美は、すべての人々に当てはまるはずです。世は、すべての人々の名前が入るはずです。神の目といいますか、神の人間に対する深い愛を信じて、歩んでいきたいと心から願います。すべての人々は、神によって、創造されて、愛されているのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ヘロデ王の急死について、みてきました。ヘロデ王の悲しみに満ちた人生を思います。人はいろいろな人生を歩んでいきます。悲しい人生の方が多いのでしょう。でも、神の目は、すべての人々に目が注がれています。すべての人々は、神に創造され、愛されているのです。神の愛は不変です。神の愛を信じて歩むことができますように、私たちの歩みを守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。