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10月30日の祈祷会の内容です。

2024-10-29 20:00:00 | 日記
祈祷会       士師記15章「サムソンの行動」    2024.10.30

 士師サムソンのことは、士師記13章~16章にかけて書かれてあります。いつものようにイスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ってしまいました。そこで、神はイスラエルの敵として、ペリシテ人を送り、40年間も支配されるのです。その時に士師として活躍するのが、サムソンです。サムソンはダン族のマノアとその妻の間に生まれます。ナジル人ととして神に仕える者として生まれて来るのです。ナジル人としてしてはならないことは、ぶどう酒や強い飲み物を飲まない、汚れた物を一切触れないことなどがありました。

 士師サムソンの働きとして、ナジル人としてふさわしくない歩みをしていきます。怪力の持ち主であり、女性に弱い部分がありました。サムソンは成長して、ティムナに行き、1人のペリシテ人の女性を好きになり、結婚したいと両親に告げました。イスラエルの人々、それもナジル人である者は、異邦人との結婚は許されないものでしたが、サムソンは両親の反対を押し切って結婚したいと話を進めてしまいます。サムソンは両親と共にティムナに行き、ペリシテ人の女性と結婚することになります。その結婚の披露宴の時、サムソンはペリシテ人の出席者30人になぞかけをします。ペリシテ人もそのなぞかけに応じます。ペリシテ人は、サムソンの出したなぞの答えを得ることができず、サムソンの妻を脅迫して「あなたは夫をうまくいいくるめて、このなぞの意味を我々に明かすようにしてほしいと、そうでなければ、火を放ってあなたを家族もろとも焼き殺す」というのです。サムソンがペリシテ人になぞかけをしなければ、サムソンの妻はこんなに苦しまなくてもよかったのです。披露宴が開かれた1週間、妻は夫に泣きすがって、なぞの意味を教えて欲しいと懇願します。妻はしつこくせがんだので、7日目になぞの意味を証してしまいます。妻はすぐにペリシテ人にそのなぞの意味を教え、殺されずにすみました。そこで、サムソンはアシュケロンに下って、30人を打ち殺すことになりました。妻が、自分が教えてことを仲間に伝えたことで腹を立てたサムソンは、自分の父の家に帰ってしまいました。サムソンの妻は、サムソンに付き添っていた友のものとなってしまったのです。ここもサムソンのわがままが目立ちます。

 しばらくして、小麦の収穫の時です。サムソンは一匹の子ヤギを携えて、妻を訪ねます。このころは通い婚といって、妻は実家にいて、そこへ夫が通っていくというものだったと思います。サムソンが「妻の部屋に入りたい」といいましたが、妻の父は入らせませんでした。父は「わたしはあなたが娘を嫌ったと思い、あなたの友に嫁がせてしまった。むしろ妹の方がきれいではないですか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい」と告げました。サムソンは「今度はわたしがペリシテ人に害を加えても、わたしに罪はない」といって、ジャッカル300匹を捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その2つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けました。その松明に火をつけると、サムソンはペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の畑やぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やしたのです。サムソンは自分の妻とその父親が裏切ったのですから、彼らに復讐すればいいのに、ペリシテ人全体に復讐しているのです。争いの火種を増やすことになってしまいます。麦畑などを燃やされたペリシテ人は、これはいったい誰がやったのかとなります。やったのはサムソンで、サムソンが、自分の妻を父親に取り上げられ、その友に与えたからだと分かると、ペリシテ人はその父親と娘に、火を放って焼き殺してしまいます。そのことを知ったサムソンは、ペリシテ人に仕返しをして、徹底的に打ちのめします。そしてエタムの岩の裂け目に住みます。逃げるような形でしょうか。今度はペリシテ人がユダに上って陣を敷き、展開します。ユダの人々が「なぜ、我々に向かって上って来るのか」と正したところ、ペリシテ人は「攻め上って来たのはサムソンを縛り上げて、我々に対する仕打ちの仕返しをするためだ」と答えます。すると、ユダの人々3000人が、エタムの岩の割れ目に下って行き、サムソンに「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。何ということをしてくれたのか」というと、サムソンは「ペリシテ人がわたしにしたように、ペリシテ人にしただけだ」と答えます。ユダの人々は「我々は、お前を縛ってペリシテ人の手に渡すためにやって来た」といいます。サムソンは「あなたたちはわたしに害を加えないと誓ってくれるか」と問うと、ユダの人々は「我々はただお前を縛ってペリシテ人の手に渡すだけだ。殺しはしない」と答えます。ユダの人々は、新しい縄2本でサムソンを縛り、岩から連れ出し、ペリシテ人の所に連れて行きます。

 サムソンはペリシテ人の所に着くと、ペリシテ人は歓声を上げてサムソンを迎えます。その時に、サムソンの上に主の霊が激しく降り、腕を縛っていた縄は落ちました。サムソンは真新しいろばのあご骨を見つけて、手を伸ばして取り、これで1000人のペリシテ人を打ちました。歌を歌っています。戦いの中でサムソンは非常に喉が渇くのです。サムソンは主に「あなたはこの大いなる勝利を、この僕の手によってお与えになりました。しかし今、わたしは非常に喉が渇いて死にそうで、無割礼の者たちの手に落ちようとしています」と祈ります。主はくぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされました。サムソンはそのから水を飲み、元気を取り戻し、生き返ることができました。そのために、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれたといいます。サムソンはペリシテ人の時代に、20年間、士師としてイスラエルを裁いたと書いてあります。ここまでのサムソンの行動を私たちはどのように受け取ればいいのでしょうか。

ヘブライ11:32~34
これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

 これはヘブライ書の受け止め方です。サムソンの行動を肯定しています。サムソンの行動が神によって正しいものとされ、イスラエルのために戦い、勝利を与えたというものです。人は弱い者です。その弱さも神は受け止めて、救いを実行されるということです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。サムソンの行動を、どのように受け止めればいいのでしょうか。分からない部分があります。それでも、あなたがサムソンを導いてくださったことを受け止めることができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                         」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


10月23日の祈祷会の内容です。

2024-10-22 20:11:00 | 日記
祈祷会      士師記14章「サムソンとその働きは」   2024.10.23

 士師サムソンについては、士師記13章~16章にあります。前回の士師記13章では、士師サムソンの誕生の様子が書かれてありました。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ったので、主はイスラエルの人々を40年間、ペリシテ人の手に渡されたのでした。そこで、ダン族のマノアとその妻との間に、サムソンは生まれるのですが、主のみ使いによって、生まれてくる子は生まれた時からナジル人として神にささげられたものとして歩むことになっていました。ナジル人とは神に仕えて歩む人生を送ることを意味しています。ナジル人としてしてはならないことがあります。ぶどう酒や強い飲み物を飲まない、汚れた物を一切食べないこと、髪の毛を切らないこと、死んだものに近づかないことなどです。

 そして、士師サムソンの誕生です。サムソンは成長し、主はサムソンを祝福されました。サムソンはティムナに行って、ペリシテ人の娘に目をひかれます。サムソンは両親のところに行って、「ティムナに行って1人の女性、ペリシテ人の娘に目をひかれました。どうか、彼女をわたしの妻に迎えてください」と願います。両親は「お前の兄弟の娘や同族の中に、女性がいないとでもいうのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは」といって、反対します。イスラエルの人々は同族との結婚だけが許されていました。まして、異邦人との結婚は許されていませんでした。それを知っているサムソンは好きになったからといって、簡単に破ってしまうのです。両親の反対があっても、サムソンは父に「彼女をわたしの妻として迎えてください。わたした、彼女が好きです」と願います。イスラエルの人として許されないことです。このサムソンの行動を、4節「父母にはこれが主のご計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた」と書いています。サムソンがペリシテ人の女性と結婚することは、イスラエルの人々にとってはしてはいけないことですが、あえて、主はそれを許し、ペリシテ人の脅威をイスラエルから排除するための計画だといいます。

 サムソンは両親と共にティムナに向かって行きました。それはペリシテ人の女性と結婚するためでした。道の途中で、両親と離れます。サムソンはティムナのぶどう畑まで来たところ、一頭の若い獅子がほえながら向かって来ました。その時に主の霊が激しくサムソンに降り、手に何も持たなくても、子ヤギを裂くように獅子を裂きました。しかし、サムソンはこのことを両親には何もいわなかったのです。サムソンは女性のところに行って、言葉をかけました。サムソンは女性が好きでした。しばらくしてサムソンは彼女を迎えに戻って行ったが、あの獅子の屍を見ようと脇道にそれたところ、獅子の死骸には蜜蜂の群れがいて、蜜がありました。サムソンは手で蜜を集め、歩きながら食べました。また両親のところに行き、蜜を差し出したので、両親も食べました。しかし、その蜜が獅子の死骸からかき集めたものだとはいいませんでした。それは、ナジル人として死んだものに近づいてはならないことを破っているからです。

 結婚の披露宴でしょうか。サムソンはペリシテ人の30人と共に宴会を開きます。サムソンは30人の客に「あなたたちになぞをかけたい。宴会が続く7日間にその意味を解き明かし、いい当てるなら、わたしはあなたたちに麻の衣30着と、着替えの衣30着を差し上げる。もし解き明かせなかったら、その反対になる」といいました。彼らはそのなぞかけに応じました。サムソンは「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た」となぞかけをいいました。彼らは3日間経っても、このなぞが解けませんでした。7日目になって、彼らはサムソンの妻に「夫をうまくいいくるめて、あのなぞも意味を我々に明かすようにしてほしい。さもないと、火を放ってあなたを家族もろとも焼き殺してやる。まさか、我々からはぎ取るために招待したわけではないだろう」といって、脅します。サムソンの妻は、夫に泣きすがって「あなたはわたしを嫌うだけで、少しも愛してはくださらず、わたしの同族にかけたなぞの意味を、このわたしにも明かそうとなさいません」といいます。サムソンは「両親にも明かしていないのに、お前に明かすわけがないだろう」と答えます。宴会が行われた7日間、妻はサムソンに泣きすがったのです。妻がしつこくせがんだので、7日目には明かしてしまいました。妻は同族の者にそのなぞを明かしました。

 7日目のこと、日が沈む前に30人はサムソンに「蜂蜜より甘いものは何か。獅子より強いものは何か」と答えます。するとサムソンは「わたしの雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかっただろう」と答えて、自分の妻が知らせたことをいっています。サムソンはアシケロンまで行き、そこで30人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えました。サムソンは怒りに燃えて自分の父の家に帰ってしまったのです。サムソンの妻は、サムソンに付き添っていた友のものとなったのです。元はといえば、サムソンが宴会の時に、なぞかけを持ちかけたから、このような悲劇になってしまったのです。ここまでサムソンはして来たこと、異邦人との結婚、死体に近づいたこと、ぶどう畑に行ったことなどです。ナジル人として許されないことを犯しています。どうして、士師としてサムソンが選ばれたのでしょうか。それもナジル人としてです。サムソンがペリシテ人の女性と結婚すること、最初、両親は反対していました。そのことを、これは主の御計画であると(士師記14:4)答えています。これは、どのような意味があるのでしょうか。これは創世記のヨセフ物語に通じることがあると考えます。

創世記45:4~5
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

 ヨセフは兄弟たちから憎まれて殺されそうになりました。エジプトに奴隷として売られてしまったのです。その後、世界中に大飢饉が起るということで、エジプトで宰相になることになり、エジプトで兄弟たちと再会した時にいったヨセフの言葉です。人の憎しみを越えて、神は救いを行うことができるという意味です。サムソンの場合もそのように受け止めることができるのでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。士師サムソンのことを見てきました。サムソンの行為をどのように受け止めることができるでしょうか。でも、そのようなサムソンを用いて、神のご計画としてくださること、ペリシテ人の脅威からイスラエルの人々を守るために行ってくださることです。あなたのご意志を少しでも理解することができる知恵を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


10月20日の礼拝の内容です。

2024-10-19 16:36:00 | 日記
10月20日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.394.484.504.27です。教会創立136周年記念日です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/K6zEsUvE7g0?feature=shareです。

説教     ヨハネ4:7~15「永遠の命に至る水」    2024.10.20

 週報を見てください。日本基督教団瀬戸永泉教会、1888年10月20日創立と書かれてあります。今日は、2024年10月20日ですから、教会創立136周年となります。私たちの教会は、瀬戸教会ではなくて、瀬戸永泉教会となっています。永泉が入っています。この意味を現す聖書の箇所が、ヨハネ4:14です。先人たちが、この瀬戸永泉教会に込めた意味を考えていきたいと思います。ここでキーワードになるのが「水」だと考えます。

 私たちが水を考える時、豊かな水が身近にあり、水道から溢れるばかりの水が出てきます。また、お風呂も沸かして、ゆったりと入ることができています。水に関して不自由を感じることはない生活をしています。9月の後半に、能登地方を中心に大雨の被害がありました。先日、輪島市に行った時に、水害のすごさに驚きました。普段は、小さな川だったのが、大雨の影響で、水があふれて洪水が起り、大きな被害がありました。泥出しをしている時に、その日はとても暑い日でした。少しの時間でも重い泥を片付けている時に、大汗をかいてしまいました。休憩時間に水を飲んで、本当に生き返りました。水の有難さを深く感じたのです。今から、136年前の瀬戸地域の人々の水の事情はどのようなものだったのでしょうか。今のように水道があり、自由に水を飲むことができる状態ではなかったと想像します。私の勝手な想像です。間違っていたらすみません。

 話は、ヨハネによる福音書に入っていきます。この聖書の箇所は、「イエスとサマリアの女」という題になっています。イエス様の活動が進んでいきました。すると、洗礼者ヨハネより、イエス様の弟子たちが多くいるという話がファリサイ派の人々の耳に入っていったということです。イエス様はファリサイ派の人々からの攻撃を受けることになることを思いました。直接の戦いは、まだ早かったのです。それで、イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方に逃れていきます。その途中で、サマリア地方を通ることになりました。ここで、イエス様はサマリアの女性と出会うのです。この聖書の箇所全体を読んでいきますと、イエス様によるサマリア人伝道の様子が書かれてあるのです。1人のサマリアの女性を通して、サマリア人伝道とつながっていくのです。

イエス様はユダヤを去り、ガリラヤに行かれます。しかし、サマリアを通らねばならなかったとあります。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られました。そこにはヤコブの井戸がありました。イエス様は旅に疲れて、そのまま井戸に座っておられました。正午のことでした。弟子たちは食べ物を買いに町に行っていました。そこにサマリアの女性が水を汲みに来ました。当時は、水汲みは女性の仕事だったといわれています。それは普通、朝に行われていたのです。ところが、この女性は熱い正午のころに水を汲みにやって来たのです。このサマリアの女性の境遇は、ヨハネ4:17~18「5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というものです。この女性の置かれた環境が、他の人々の目を避けて生きていた。朝、水汲みに行くのを避けていたから、正午に1人で水汲みにやって来たということです。

イエス様とサマリアの女性の間には、いろいろな課題がありました。イエス様はユダヤ人であり、この女性はサマリア人でした。ユダヤ人とサマリア人は当時、交際していなかったのです。もともとは同じユダヤ人でした。しかし、昔にアッシリアが北イスラエルを攻めて来た時に、移住政策と混血政策のために、北イスラエルのいたユダヤ人たちは異邦人と混血するようになってしまいました。南のユダも後にバビロニアによって滅ぼされまして、捕囚という厳しい状況にありましたが、ユダヤ人の純血を守ることができました。南のユダヤ人は北のユダヤ人をサマリア人と呼んで、混血のために汚れているとして交際しないことになってしまったのです。また、当時の社会は男性中心社会でした。外で男性が女性に話しかけることはなかったというのです。そのような社会的な壁はありましたが、イエス様はそれを乗り越えて、このサマリアの女性に声をかけるです。

ヤコブの井戸に、このサマリアの女性が水を汲みに来ました。イエス様は「水を飲ませてください」と、この女性に声をかけたのです。すると、サマリアの女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と聞きました。イエス様は「もし、あなたが神の賜物を知っており、また、水を飲ませてくださいといった者が誰であるか知っておれば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」と、答えています。女性は「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手に入れるのですか。あなたはわたしたちの父ヤコブより偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、ヤコブ自身もその子どもや家畜もこの井戸から飲んだのです」と答えます。

そして、イエス様は「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と答えています。すると女性は「主よ、渇くことのないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と願っています。イエス様とこのサマリアの女性の会話は続きます。やがて、弟子たちが帰って来ます。すると、この女性は水がめをそこに置いたまま町に行き、町の人々にいうのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と。サマリアの人々は町を出て、イエス様のもとにやって来るのです。

さて、その町の多くのサマリア人は「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました。」と証言したこの女性の言葉によって、イエス様を信じるのです。そこで、このサマリア人たちはイエス様のもとにやって来て、自分たちのところに留まるようにと頼んでいます。イエス様は2日間滞在されます。そして、更に多くの人々が、イエス様の言葉を聞いて信じていくのです。このように、イエス様によるサマリア人伝道がなされているのです。そのきっかけは、この一人のサマリアの女性です。この女性は、正午に水汲みにやって来ました。それは人々に会うことを避けるためでした。しかし、イエス様との出会いによって、この女性は変えられていくのです。自分が、ヤコブの井戸に来た意味を忘れて、水がめを置いて、町に帰って行き、人々にイエス様のことを伝えていくのです。

この一人のサマリア人の女性を通して、イエス様によるサマリア人伝道がなされていきました。当時のユダヤ人とサマリア人の状況がありながら、その壁を乗り越えていくのです。さて、これからイエス様がこの女性にいわれた言葉の意味を考えていきたいと思います。ヤコブの井戸、この井戸から多くの人々が、その水によって命をつないでいくことができました。井戸があること、水があることは、人々の命に関わる問題になっています。水があることによって、人々はそこで生きることができるのです。水がなければ、人々はそこで生きていくことができなくなるのです。イエス様は、まず人々が飲む水をいいました。この水を飲む者はだれでも渇くと、その通りです。絶えず、私たちは水が必要なのです。飲んでもまた、渇きを覚え、水を飲んでいきます、こうして、生きていくのです。

これからはイエス様が与える水のことをいっています。しかし、わたしの与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ると。水は必要です。私たちが生きるために必ず必要です。では、永遠の命に至る水はどうでしょうか。イエス様が与えてくださる命の水、それは、私たちが永遠の命に至る水です。

いつもいうことですが、私たちは生きています。生きている者は、いつかは死を迎えることになります。私は毎週木曜日の午後に、ホスピスに行き、チャプレンとしての働きをしています。本当に死を前にした人と話します。又は、その家族と話します。ずっとその方が話すことを聞き尽くすのです。今まで、自分がどのように生きてきたのかを振り返るのです。自分のこと、親の子と、兄弟のこと、友人のこと、いろいろな良い思いでもあります。後悔が残っていることもあります。そして、その時がやって来ます。人の死、自分の死を、私たちは受け止めることができるのでしょうか。

そこにイエス・キリストの福音がある。イエス様が語る永遠の命に至る水がある。きっと大きな慰めになるのです。私たちの先にある死、そして、その先にある復活の命、永遠の命、イエス様にある希望があります。その永遠の命の水があることを、私たちの教会は、伝えていくのです。

祈り 神よ。私たちの教会は創立136周年を迎えることができました。長い日々を、あなたが守ってくださり、導いてくださったことを心から感謝します。今、教会を巡る様々な困難を抱えています。でも、教会をあなたが導いてくださることを信じています。イエス・キリストの永遠の命の至る水のことを伝えることを、あなたから託されています。私たちの瀬戸永泉教会を通して、神から与えられる永遠の命に至る水があることを、伝えていくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


10月16日の祈祷会の内容です。

2024-10-15 20:18:00 | 日記
祈祷会       士師記13章「わたしの名は不思議という」    2024.10.16

 士師記13章~16章は、士師サムソンのことが書かれてあります。士師ギデオンについて次に長いものです。サムソンとは「太陽の子」という意味だそうです。サムソンの働きは、太陽のような働きをしたのでしょうか。疑問が残ります。士師サムソンの働きを見ると、他の士師とは違うことに気づきます。それは、他の士師の働きは、士師とその仲間を集めて、敵と戦っていきます。そして敵からの勝利のことがあるのですが、士師サムソンの場合は、個人と敵ペリシテ人との戦いになっていきます。そして、ペリシテ人から勝利したとは書かれてありません。士師として最後の登場するのが、このサムソンです。非常に特徴的な忘れることのない活躍をしていくのです。士師サムソンの特徴としては、怪力の持ち主であること、それはサムソンが生涯ナジル人として歩んでいくからです。サムソンの弱点は女性に弱いことです。

 今日の士師記13章は、その士師サムソンの誕生のことが書かれてあります。イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行いましたので、主は40年間、イスラエルの人々をペリシテ人の手に渡されていきます。マノアというダン族の1人の男がいました。マノアの妻は不妊の女性で子どもを産んだことがなかったとあります。主のみ使いが現れて、妻に「あなたは不妊の女性で子どもを産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物を一切食べないように気を付けなさい。その子はナジル人として神にささげられているので、その子の頭の毛にかもそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルの人々を解く放つ救いの先駆者となる」といいます。

 この言葉を聞いた妻は、すぐに夫のところに来て「神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神のみ使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのか尋ねることもできず、名前も明かされませんでした。ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいる時から死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物を一切食べないようにいわれたのです」と答えました。そこで夫マノアは主に向かって「主よ。お願いします。お遣わしになった神の人をもう一度、わたしたちのところに来させ、生まれてくる子をどのようにすればいいのか教えてください」と祈りました。神はマノアの祈りを聞いてくださり、神のみ使いが再び、その妻のところに現れたのです。妻は畑に座っていて、夫は別の場所にいました。妻は夫のところにすぐに知らせるために走り、「この間、わたしのところにおいでになったお方が、また見えています」といいました。マノアはすぐに妻について行き、神のみ使いのところに来て、「わたしの妻に声をかけたのはあなたですか」というと、その人は「そうです」と答えました。マノアは「あなたの言葉通りになるのなら、その子のためになすべき決まりは何でしょうか」と尋ねます。

 主のみ使いは「わたしがこの女性にいったことをすべて守りなさい。彼女はぶどう酒や強い飲み物を飲んではならない。汚れた物を一切食べてはならない。このことをすべて守らなければならない」といいます。マノアは「あなたを引き止めてもいいでしょうか。子ヤギをごちそうさせてください」といいます。主のみ使いは「わたしはあなたの食べ物を食べない。もし焼き尽くすささげものをささげたいのなら、主にささげなさい」と答えます。この時に、マノアはその人が神からのみ使いだとは知らなかったのです。 そこで、マノアは主のみ使いに「あなたのお名前は何とおっしゃいますか。あなたをおもてなしたいのです」といいます。主のみ使いは「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議という」と答えます。

 マノアは子ヤギと穀物のささげものを携えて、岩の上に上って、主、不思議なことをなさる方にささげようとしました。すると祭壇から炎が天に上る時、主のみ使いも、その祭壇の炎と共に上って行きました。マノアと妻は、それを見て、ひれ伏して顔を地につけました。2人はこの方が主のみ使いであることが分かったのです。マノアは神を見たので、自分たちが死ぬかもしれないと思いましたが、妻はそのようなことはないでしょう。子どものことをわたしたちにいわれたのですからと反論しています。妻は男の子を産み、その名をサムソンと名付けました。子は成長し、主はその子を祝福されました。主の霊が奮い立たせ始めます。これが士師サムソンの誕生の様子です。主のみ使いによって、マノアとその妻の間に生まれて来るのです。マノアがみ使いに名を尋ねた時に、「わたしの名は不思議という」と答えています。神がイスラエルのために、ペレシテ人から脅威から守るために、不思議なことをしてくださるのです。サムソンは生涯、ナジル人として歩むことになります。このサムソンの誕生の様子は、イエス・キリストの誕生と似ていると思いました。

ルカ1:26~31
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

 士師サムソンとイエス・キリストの歩みは違うものですが、神に仕える者として、生まれる前から、神から祝福を受けている点では似ています。これからサムソンの歩みを見ていきますが、人間的な弱さを持ったサムソンがどう神に従っていくのかを見ていきたいと思います。サムソンの歩みと自分の歩みを重ねて見ていきたいと思います。

祈り 神よ。聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。士師サムソンの誕生の様子をみてきました。神に祝福されてナジル人としての歩みをするようにと母親にいわれました。神はサムソンを士師として、イスラエルの危機の時に、働くように導かれるのです。神からの霊によって特別な力が与えられました。その力をサムソンは神のために、イスラエルのために用いられることを求められていきます。サムソンの歩みを見ながら、私たちの歩みを考えていきたいと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


10月13日の礼拝の内容です。

2024-10-12 21:02:00 | 日記
10月13日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.57.405.471.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/ethc-dVmLDM?feature=shareです。

10月13日の特別講演会「パレスチナとイスラエルの平和」桃井和馬氏
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/QQqAlh0KZX0?feature=shareです。

礼拝説教    使徒12:12~19「戸をたたき続けて」   2024.10.13

 今日の午後に、教会創立136周年記念講演会を予定しています。この礼拝の中に講師である桃井和馬先生も一緒におられます。主題は「パレスチナとイスラエルの平和」です。詳細は、午後になりますが、私たちが本当のその通りになって欲しいという内容です。パレスチナとイスラエルは今、まさに戦争状態にあります。長く、この争いは続いています。本格的な平和が訪れて欲しいと心から神に祈るのです。神への祈り、神への祈ることの大切さが、今日の説教のテーマになります。私たちが語る神への祈り、そして神からの応答、それをどのように受け止めていくことができるのでしょうか。

 使徒言行録に入っていきます。使徒言行録は、最初のキリスト教の教会の歩みが書かれてあります。神からの聖霊を受けたイエス様の弟子たちは、使徒として歩んでいきます。聖霊を受けたことによって、イエス・キリストの十字架の意味、私たちに対する救いの意味を知ることができました。そして、このイエス・キリストの十字架の福音を伝えていくのです。ユダヤ人の反対にあいながらも、伝道活動は広がって行きます。イエス・キリストの十字架の福音はエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、アジアに広がっていきます。アンティオキアにおいて、初めての異邦人教会が誕生しました。これからパウロによる異邦人伝道が本格的に始まっていきます。その前に、当時の支配者であるヘロデ王に迫害のことが起って行きます。ヘロデ王は、自分の王としての権威を保つために、ユダヤ人からの指示を得るために、教会を迫害していくのです。ここでは、ペトロが捕らえられていきます。

 それは、除酵祭の時でした。ヘロデ王はペトロを捕らえて牢に入れ、4人一組に引き渡して監視させました。過越し祭の後で、民衆の前に引き出すつもりでした。こうしてペトロは牢に入れられてしまったのです。ここで教会はペトロのために熱心な祈りが神にささげられていました。この教会の祈りが大切なものとなっていきます。教会の熱心な神への祈りが、神に聞かれていきます。ヘロデ王は次の日に、ペトロを牢から引き出そうとしていた前夜、ペトロは2本の鎖につながれ、2人の兵士の間で眠っていました。番兵たちは戸口で牢を見張っていました。本当に厳重な警備がなされていたのです。そして、神は天使を送って動かれます。主の天使は側に立って、光が牢の中を照らし、ペトロを起し、ペトロのつながっていた鎖は外れ落ち、天使の導きによって、ペトロは帯を締め、上着を着て、外に出て行きます。第1、第2の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門はひとりでに開いて、そこを出て、ある通りに進んで行きます。すると、天使は離れ去って、ペトロは我に返って、自分が牢から解放されたことを知るのです。

 牢を出たペトロは神から送られた天使が、自分をヘロデ王の手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから救い出してくださったことを知るのです。こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行きます。ここは、初めての教会です。教会堂というのはまだできていなくて、家の教会ということになります。大きな家だったのでしょう。そこには大勢の人々が集まって祈っていたのです。そうです。ペトロの解放のために祈っていたのです。教会は1つになって、指導者ペトロの無事と牢からの解放を祈っていました。教会の人々の祈りは聞かれたのです。教会の人々はすぐに喜んだでしょうか。ここで不思議なことが起って来ます。

 ペトロはその家の門の戸をたたくのです。そうするとロデという女の人が取り次ぎに出て来ました。ペトロの声だと分かると、喜びのあまりに門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが家の門の前で立っていると告げました。教会の人々は喜んで、すぐに家の門に走って行ったでしょうか。そうではなくて、教会の人々はその女の人に「あなたは気が変になっているのだ」と告げました。教会の人々は、神から送られた天使によって、ペトロは解放されたことを信じることができませんでした。それで、「あなたは気が変になっている」といってしまっているのです。教会の人々の祈りは、いったいどのようなものだったのでしょうか。神への熱心な祈りは、ウソだったのでしょうか。ロデは「本当にペトロがいる」と言い張ったのです。それでも、教会の人々は、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出しました。当時は、1人1人に守護天使がいると考えられていたからです。

 ペトロは戸をたたき続けました。教会の人々が家の戸を開けてみると、そこにはペトロがいたので、非常に驚いています。牢の中に閉じ込められていたペトロの無事と解放のために、神に熱心に祈っていたのに、実際に目の前に、ペトロが解放されていることに驚いているのです。信じられない思いでいるのです。それが人間の現実なのだと思います。そのような弱さを、人間は持っているのです。ペトロは驚いている教会の人々を手で制して、彼らを静かにさせて、神が天使を遣わして、牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」といいました。そして、家を出て、他の場所に行きます。そうです。ヘロデ王の追っ手が迫ってくるはずです。同じ場所にいることはできません。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになりました。ヘロデ王はペトロを捜しても見つからないので、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在しています。

 この教会の人々の祈りを見ていると、アブラハムの物語を思い出します。アブラハムはイスラエルの人々の最初の族長になった人です。創世記12章から始まっていきます。アブラハムと妻サラの間には子どもが生まれませんでした。もちろん、アブラハムもサラも、自分たちの間に、子どもを与えてくださいと神に祈っていたと思います。そして、神は2人に子どもを与えると約束してくださっていました。神の約束の言葉とはうらはらになかなか、子どもは与えられませんでした。アブラハムもサラも年を重ねて、高齢になってしまいました。そこで、妻のサラは、アブラハムにハガルというエジプト人の女性によって子どもを得るようにしたのです。アブラハムは、神に子どもを与えてくださいと祈りながら、神の言葉を信じることができず、ハガルによって、子どもを得るようにしました。こうして生まれたのが、イシュマエルです。

 アブラハムが99歳になった時です。神はアブラハムに「あなたとサラの間に子どもを与える」といってくださいました。その時に、アブラハムは神の前にひれ伏しながら、笑って、ひそかに「100歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが生まれるだろうか」といってしまいます。更に、神は天使を送って、サラに「来年の今ごろ、サラに男の子が生まれるでしょう」といってくださったのに、サラはひそかに笑って、自分も年をとり、もはや楽しみなどあるはずもなし、主人も年老いているのに、無理だと思ってしまいました。そのようなアブラハムとサラの思いはありながらも、神はその約束を実現させてくださるのです。アブラハムが100歳の時に、妻サラとの間に、男の子イサクが生まれたのです。

 神への祈りについて、聖書はいろいろな場面を描いています。神の思いと私たちの思いの違いがあります。ペトロが捕らえられて牢に入れられてしまった。次の日には、死刑になってしまうという状況の中で、教会の人々の神への熱心な祈りがなされていた。神は天使を送って、教会の人々の祈りを聞き、ペトロを牢から解放してくださった。その時に、ペトロの解放に信じることができなかった教会の人々、また、アブラハムも子どもを与えてくださるという神の約束の言葉がありながら、信じ切ることができず、別の方法で、子どもを得たのでした。でも神は約束の通り、子どもを与えてくださったのでした。

 神への祈り、私たちは神との関りの中で、神への熱心な祈りをささげることがあります。その祈りに対して、神はどのように受け止めてくださっているのか、また、その神に対する思いといいますか。神への対応を、私たちはどのようにしているのでしょうか。改めて問う必要があるのでしょう。パレスチナとイスラエルの平和のために、私たちは祈っているでしょう。でも、その祈りが実現していないことに、どのように受け止めたらいいのでしょうか。神の思いは、どこにあるのでしょうか。そして、その神の思いを、どのように知ることができるのでしょうか。神への祈りは、神と私たちの対話です。私たちの思いは、祈りによって、神に伝えました。では、神の応答は聞いているのでしょうか。神の思いは、どこにあるのでしょうか。私たちは今、静かに、神の思いを聞くことができる信仰が求められているのです。私たちは、自分の思いを神にぶつけるだけでなく、神からの言葉を待ち続けることが求められているのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちは、神への祈りによって、自分たちの思いをあなたに語りました。あなたは、どのように受け止めてくださっているのでしょうか。また、あなたの思いを受け止めることができますように、私たちにあなたの言葉を聞くことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。