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1月1日の礼拝の内容です。

2024-12-31 18:05:00 | 日記
1月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.361.368.484.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/u_6sgAXeH7k?feature=shareです。

元旦礼拝説教     マタイ2:1~12「喜びにあふれよう」    2025.1.1

 新しい年が始まりました。1年の初めに、このように教会に集まり、神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。2025年が素晴らしい年となりますようにと心から祈るのです。

2024年は、皆様にとってどのような年だったでしょうか。それぞれの2024年がありました。私にとって忘れることができないのが、能登半島地震です。ちょうど、1年前、この日は地区の新年礼拝で、名古屋教会に行き、午後には布池カトリック教会の隣にある福信館に越冬炊き出しのお手伝いに行っていました。午後4時に煮込みの時に地震が起ったのです。それぞれが持っているスマホに緊急地震速報のアラーム音が響きました。その後、輪島市や珠洲市に行く機会がありました。災害ボランティア活動中に見た被災地の現状に心を痛めました。9月末に輪島市の活動している時に昼休みに、輪島教会を新藤先生に案内していただきました。壊れた会堂を見せていただき、新藤先生の歩みを心配していました。でも、愛知県いて、何もできない無力感を感じていました。少しでも復興が進み、希望がある歩みができますようと願います。今日、中部教区では、16時10分から能登半島地震1年を覚えての祈祷会を、Webを使って行われます。共に祈りを合わせてくださるとうれしいです。

元旦礼拝の時に、選んだ聖書の箇所は、東方の博士たちのクリスマスの場面です。12月22日のクリスマス礼拝の後の祝会で、教会学校のメンバーによるクリスマスページェントが行われました。遠い東の国から3人の博士たちが、ユダヤのベツレヘムにやって来て、イエス様の誕生を祝い、礼拝し、贈り物をそれぞれがささげるのでした。

マタイ2:1~2
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 この聖書の箇所を読んで、私は不思議に思うのです。それは、どうして、遠い東の国に住んでいる占星術の学者たちが、イエス様の誕生を祝うために来たのかということです。東の方とは、東方とはどこなのかですが、今のイラク、バクダットあたりではないかと思われます。聖書地図を見ると、約1500㎞あると思います。簡単な距離ではないと思います。今から2000年前に、東方の博士たちは、この距離をやって来たのです。占星術の学者たちとありますが、当時は、国の歩みを決めることに関わっていたと思われます。星の動きは規則正しく動いています。その動きに変化がなければ、何も起きないと考えていたのでしょう。でも、違った動きをすると、それは大切な知らせであり、今後の国の歩みにも関わるとされていて、その違った動きを見て、国の王に進言し、大切なことを決める判断になっていくのです。

 この学者たちは、星の動きをいつも見ていていました。きっと大きな動きがあったのでしょう。でも、それがどうして、ユダヤ人の王の誕生と関わっているとなったのかが分からないのです。東方の博士たちは、自分たちの国で、その星の動きを発見しました。それが、どうしてユダヤ人の王の誕生の知らせなのかと知ったのでしょうか。また、博士たちは、ユダヤ人の王の誕生は知りましたが、その誕生の地を正確に知ることができなくて、エルサレムに行き、当時の支配者であったヘロデ王に尋ねています。でも、ユダヤ人の王の誕生が大きな意味を持つということを受け止め、自国の王に知らせるために、旅に出て行ったのです。

 実は、それまでに東の国とユダヤ人の接点がありました。それはバビロン捕囚です。南王国ユダはバビロニアに滅ぼされて、都エルサレムは焼かれ、神殿も破壊されました。この時に多くのユダヤ人がバビロンに奴隷として連れて行かれたのです。バビロンの地でユダヤ人は困難の中を歩んでいました。でも、一方で東の国の人々はユダヤ人の影響を受けていたと思われます。バビロンのいるユダヤ人たちは、その苦しみの中で、自分たちの解放者、救い主、ユダヤ人の王を待望していました。バビロン捕囚が終っても、多くのユダヤ人はバビロンに留まって生活していったと考えられています。クリスマスの時と、星の動きが一緒になって、博士たちの旅立ちとなっていたのでしょう。神が東方の博士たちにクリスマスを知らせることは、すべての人々に神の救いを告げ知らせるというメッセージです。

 でも、博士たちの旅は困難なものだったと想像します。いくら仕事とはいえ、旅立ちは命をかけるものだったはずです。もしかしたら、家族とはもう会うことができなくなるかもしれないと思いは持ったと思います。それも星の動きを見ての行動です。東の国からユダヤまで、いったいどのくらいの時間がかかったのでしょうか。1年以上かもしれません。また、このような危険な旅ですから、3人だけで移動とは考えにくいと思います。少なくても100人ぐらいの旅だったと想像します。博士たちは、エルサレムで、ヘロデ王にユダヤ人の王の誕生のことを告げ、律法学者から、ユダヤ人の王はベツレヘムに生まれることを知り、旅を続けて行きます。一度は見失った東方で見た星が出て来て、星が先立って進み、ついに幼子のいる場所に止まりました。学者たちはその星を見て喜びにあふれるのです。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。博士たちはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。

 このように東方の博士たちは、ユダヤのベツレヘムで、幼子イエス様の誕生を祝い、礼拝し、ささげものをささげていったのです。ユダヤ人の王を拝むために来て、そのことを実現することができました。でも、どうして、この東方の博士たちはユダヤ人の王の誕生を祝うために、この厳しい旅をしてきたのでしょうか。東方の博士たちと、ユダヤ人の王と何の関係があるというのでしょうか。それは、東方の博士たちにとって、星の動きを通して、ユダヤ人の王の誕生は、すべての人々の王の誕生と理解したからだと私は思います。東方の博士たちにとって、クリスマスの出来事は、ユダヤ人だけの出来事ではなく、すべての人々の出来事だと受け止めたのです。クリスマスの出来事は、この東方の博士たちにとって大きな人生の変化をもたらしました。やがて、「ヘロデのところへ帰るな」と夢のお告げがあって、別の道を通って、自分たちの国に帰って行ったとマタイは書いています。

 この東方の博士たちも、そして、私たちもそれぞれの人生の歩みをしています。1人1人、いろいろな人生の歩みがあります。同じような歩みはありません。1人1人違う人生の歩みです。でも、最後は人生の最後、死と向き合うことになります。でも、博士たちがクリスマス、イエス・キリストに出会ったということは、全く違う人生の歩みをすることになっていくのです。それは神と共に歩む人生です。神が共に、私たちの人生と共に歩んでくださるのです。今までとは全く違う別の道です。東方の博士たちが、この後、どのような歩みをしていったのかは分かりません。でも、イエス・キリストの出会ったことは、全く新しい人生の歩みになっていくはずです。

 新しい年が始まりました。夢と希望にあふれる年になってほしいと心から願います。しかし、そうならないこともあるでしょう。不安と希望のない年になってしまうかもしれません。でも、イエス・キリストと出会ったことは、全く別の人生の道を歩むことになって行くのです。それは、神と共に歩む人生、イエス・キリストによる罪の赦し、死からの復活、永遠の命、神の国へとつながる歩みです。本当の意味で、恐れることはないのです。イエス・キリストの誕生によって、すべては神が解決してくださったのですから、神の救いをしっかりと受け止めて、どのようなことがあっても、神への信仰と希望を持ちつつ、新しい年を歩んで行きましょう。

祈り 神よ。新しい年の初めに、このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。2025年がどのような歩みになるのか、分かりません。でも、喜びと希望を持った歩みとなることができますようにと願います。また、神の愛を受け止め、イエス・キリストの信仰を深め、神と共にあることを忘れることなく、歩むことができますように、この2025年の歩みを守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


12月25日の祈祷会の内容です。

2024-12-24 12:59:00 | 日記
祈祷会       士師記19:16~30「1人の側女の悲しみ」     2024.12.25

 士師記17~21章は、士師が登場していない内容となっています。この内容は「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師記17:6)です。イスラエルの人々は神の教えなどがありましたが、それを自分勝手に解釈して歩んでいたということになっています。士師記19~21章は、ベニヤミン族の滅びと救済のことが書かれてあります。イスラエルの内部の争いが起っています。イスラエルの人々とその1つの民族であるベニヤミン族との悲しい戦争が起り、イスラエルは1部族が滅びるかもしれないという危機に陥っていきます。その原因となるのが、今日の聖書の箇所です。

 エフライムの山地の奥に1人のレビ人がいました。レビ人はユダのベツレヘムから1人の女性を側女として迎え入れました。しかし、その側女はレビ人を裏切り自分の父の家に帰ってしまったのです。レビ人はその側女を連れ戻そうとして、彼女の家にやって来ます。どういう訳か彼女とその父は、そのレビ人を歓迎しているのです。側女の父はレビ人である婿にゆっくりと家で過ごして欲しいと滞在期間を延ばそうとします。しかし、5日目に自分の家に帰ろうとします。自分の家に帰る途中、ベニヤミン族のギブアにやって来ます。そこに宿泊する予定でしたが、町の広場に来て腰を下ろしました。でも誰も彼らを家に迎えて泊めてくれる者はいなかったのです。夕暮れに1人の老人が畑仕事を終えて帰って来ました。この人はエフライム山地の出身でした。老人は目を上げて、町の広場にいる旅人を見て、「どちらにおいでになりますか。どちらからおいでになりましたか」と声をかけます。レビ人は「私たちはユダのベツレヘムからエフライムの山地の奥にある私の郷里まで旅をしている途中です。私たちを迎えてくれる家がないのです。ろばのためのわらもありますし、私たちにもパンとぶどう酒もあります。必要な物はすべてそろっています」と、答えます。老人は「安心しなさい。あなたが必要とするものは私に任せなさい。広場で夜を過ごしてはいけません」といって、自分の家に入れ、ろばに餌を与え、足を洗って食べて飲むことができました。レビ人と側女はやっと安心することができたと思ったのでしょう。その家で事件が起ります。

 老人の家でレビ人たちがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、老人に「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい」といいます。老人は「それはいけない。悪いことをしないでください。この人が私の家に入った後で、そのような非道な振る舞いを許されない。ここに処女である私の娘と、あの人の側女がいる。この2人を連れ出すから、辱め、思い通りにするがよい。だが、あの人には非道な振る舞いをしてはならない」というのです。ならず者たちは老人に耳を貸そうとしませんでした。

 ここです。当時は、女性に対する思いというのは、このようなものなのでしょうか。町のならず者たちが求めているのはレビ人です。女性ではありません。そのレビ人を助けるために、この老人は、自分の娘やレビ人の側女を犠牲にしてもいいといっています。これと同じような聖書の場面があります。

創世記19:4~8
彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」

 アブラハムの甥ロトがソドムにいた時に、2人のみ使いが派遣された時です。ソドムの男たちがロトの家を取り囲んで「お前の所に来た者を出せ。なぶりものにしてやるから」と叫んでいた時に、ロトが自分の娘たちを差し出すから、好きなようにしてください」といっています。このようなことは、当時は普通だったのでしょうか。

 話は元に戻りますが、レビ人は自分の側女をつかんで、外にいる人々の所に押し出してしまっています。ならず者たちは側女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射す頃、ようやく彼女を放しました。朝になるころ、側女はレビ人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていました。レビ人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、「起きなさい。出かけよう」といいます。しかし、答えはありませんでした。側女は亡くなっていたのです。本当に側女はかわいそうです。私はこのレビ人をどのように受け止めていいのか分かりません。その後、レビ人は側女をろばに乗せて、故郷に帰り、家に着くと、刃物をとって側女をつかみ、その体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送るのです。これを受け取ったイスラエルの人々は大きな衝撃を受けて、やがて、ベニヤミン族と戦争することになっていきます。

 今日はクリスマスです。天使ガブリエルがイエス様の母となるマリアに告げた言葉が、私の心に響きます。「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1:28)神の子イエス・キリストは、私たちの罪を負って十字架につくためにお生まれになるのです。神の愛の深さを感じます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。1人の側女の人生を思います。人は愛されるために生まれた来たはずです。それが、このような悲しい人生があるのでしょうか。神が、この側女を愛してくださり、御国において癒し、慰めてくださいますように心から祈ります。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


12月24日の礼拝の内容です。

2024-12-23 20:51:00 | 日記
2024年12月24日の聖夜礼拝の内容です。讃美歌は、252.259.260.261.264.26です。
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聖夜礼拝      ルカ2:1~7「救い主が生まれる」    2024.12.24

 まもなく1年になろうとしています。2024年1月1日の午後16時10分に能登半島地震が起りました。元旦を迎えて、多くの人々は家で家族団らんの日々を過ごしていたのでしょう。正月の祝いをしている時でした。突然の大きな揺れが起り、多くの被害が出てしまったのです。能登半島と地域性もあり、道路が寸断されて、その後の救援に多くの困難がありました。あの日から、1年になろうとしています。能登半島の人々は、今度の正月をどのような思いで過ごされるのでしょうか。

 日本に住んでいますと、自然災害から逃れることはできません。大雨、噴火、地震、津波などの自然災害が起ってきました。今後も起るでしょう。私は個人的な災害ボランティアで、3月には輪島、5月には珠洲に行ってまいりました。建物の片づけが主な働きでした。家の中にある家具などを外に出して、集積所に運ぶのでした。被災された方々と触れ合う中で、被災された方々の苦しみと重荷を深く感じました。でも、変ってあげることはできませんでした。9月の後半、輪島や珠洲での災害ボランティアも先が見えて来たのでしょうか。10月からは週末だけに活動を行うといわれていました。それが、9月の後半に大雨が降ったのです。二重の苦しみを能登の方々は負われました。許されて1週間後に、輪島に行くことができました。活動先は輪島市のある仮設住宅でした。ちょうど、入所が決まって、2.3日後に、大雨が降ったのです。多くの土砂が仮設住宅の床下まで入っていました。このような時は、一度、部屋を出てもらい、土砂を取り除く必要があったのです。多くの嘆きの声を聞きました。どうして、なぜ、このようなことになるのかと、黙って聞きながら、活動をしました。

 今、家があります。家は、安心して生活し、眠ることができる場所です。でも、ある人たちは、家がありません。安心して生活することができる場所がないのです。いろいろな事情の人たちがいます。困難の中にいる人々がいます。

 今日はクリスマスイブです。12月24日です。今日の聖書の箇所は、イエス様の誕生の様子が書かれてあります。イエス様の両親となるヨセフとマリアですが、この時に、旅をしなければなりませんでした。ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムまで行かなければならないのです。その理由は、当時のローマ帝国の皇帝の出した命令がありました。それは、ローマ帝国内に住んでいるすべての住民に、住民登録をせよというものです。日本でも、5年に一度、国勢調査というものが行われていますが、それに近いものだと想像します。この時のローマ皇帝が出した住民登録の目的は、ローマ帝国内にいる人々の数を調べて、確実に税金を取るためでした。ヨセフとマリアにしてみれば、いい迷惑です。自分たちのためにではなく、かえって重荷になるものでした。しかし、ヨセフとマリアは、その命令に従って、旅をしていきます。この時に、マリアは身重でした。すでに、イエス様を妊娠されていたのです。身重であるマリアにとって旅は、辛いものだったと想像します。

 ユダヤ人は、自分たちは神から特別に選ばれた民族だと思っていました。他の民族よりも、自分たちは特別な存在だと信じていたのです。そのような思いを持ちつつも、現実は違っていました。今から、2000年前のパレスチナに住むユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配下にあったのです。神の民が、神の民ではない民に支配されていたのです。その支配の現実は、ユダヤ人たちに住民登録に従わなければならないという矛盾を受けることになりました。それも、自分たちのお金をローマ人に税金として納めるという屈辱を味わうことになるのでした。ユダヤ人であるヨセフとマリアは、そのローマ皇帝の命令に従ってベツレヘムまでの旅をしているのです。やっと二人は、目的地であるユダヤのベツレヘムに着きました。そして、2人は、自分たちが宿泊する宿屋を捜しました。宿屋といっても普通の家です。家の空いた部屋に身を寄せるものでした。しかし、2人には宿屋が見つからなかったのです。住民登録のために、多くのユダヤ人が移動して、先に宿屋を確保したからかもしれません。

 ベルレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからであるとルカは、イエス・キリストの誕生の様子を、クリスマスの様子を伝えています。神の子であるイエス・キリストの誕生の様子を私たちは、このルカによる福音書によって、知ることができています。このクリスマスの様子は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。一般の子どもの誕生なら、普通の家の中で生まれると思います。また、その国の王の子から王宮の中でうまれるのでしょう。神の子は、家畜のいる飼い葉桶がある家畜小屋でお生まれになったのです。それは、今後のイエス・キリストの生涯を描いているといってもいいと思います。

フィリピ2:6~8
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 イエス・キリストの生涯は、人々の苦しみを味わうものでした。人間として生きることの苦しみと悲しみと辛さなど、または喜びや楽しみを味わってくださっていたと思います。そして、最後は十字架におつきになるのです。それは、人間の持っているすべての罪を身に負うものでした。神の子は、私たちが味わう苦しみを共に負ってくださっています。罪は犯しませんでしたが、人間の味わうすべての悩みと悲しみを味わってくださったのです。神の子が家畜小屋の中でお生まれになったことは、私たちの苦しみの現実を現し、神の子も味わってくださるメッセージです。どのような思いで、私たちはクリスマスを迎えるのでしょうか。能登の人々の苦しみを思いながら、一日も早い復興を祈り願うのです。

祈り 神よ、聖夜礼拝をこのように多くの方々と共に祝うことができました。今も困難の中にある能登の人々のことを思います。少しでも希望を持って歩むことができますようにと願います。神の子イエス・キリストはすべてにおいて、私たちと一緒になってくださったのです。それも最後は十字架という死刑を味わってくださるのです。私たちもいつ被災するか分かりません。そのことを忘れずに、今、困難の中にある方々のことを覚えたいと思います。特に、能登の人々の復興のために祈りましょう。これらの願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


12月22日の礼拝の内容です。

2024-12-21 20:33:00 | 日記
12月22日の礼拝の内容です。讃美歌は、258.263.265.269.81.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/6meQebL04Es?feature=shareです。

礼拝説教    マタイ1:18~23「神は私たちと共にいます」   2024.12.22

 クリスマスおめでとうございます。2024年のクリスマス礼拝を、このようにお祝いすることができますことを神に感謝したいと思います。毎年毎年、この時期に私たちはクリスマスをお祝いしていますが、その年その年で、それぞれのクリスマスを祝っていると思います。皆様にとって2024年は、どのようなクリスマスなのでしょうか。

 今日の聖書の箇所は、クリスマスの時によく読まれる箇所です。クリスマスの出来事を男性のヨセフの視点から書かれてあります。イエス・キリストの誕生の次第について、次のようであったとあります。母マリアはヨセフと婚約していたが、2人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになったとあります。ユダヤでは、結婚について厳しい考えがありました。結婚の前に約1年間の婚約期間があります。この時には、まだ夫婦とはなっていませんが、夫婦であるかのようにふるまうことが求められていました。特に、男女間の性的な健全さが求められていたのです。ヨセフとマリアもおそらく両親が決めた結婚なのでしょうか。今のように自分が結婚相手を選ぶことは少なかったと思います。この婚約期間中に、2人は結婚のための準備をしていくのです。男性として夫としてどうあるべきかを準備していくのでしょう。女性として妻として、どのように過ごしていくのかを期待と不安を交えながら、この時を過していくのでしょう。

 ヨセフとマリアが婚約中に、マリアが身ごもることはあってはならないうことでした。十戒の中に姦淫をしてはならないとあります。この姦淫の罪は石打ちの刑に当ります。つまり、死刑になることを意味します。厳しい状況が待っているのです。そのことがマリアに起っているのです。マリアに対する受胎告知はルカによる福音書に書かれてあります。ルカは、天使ガブリエルから語られた受胎告知にマリアは不安と戸惑いで答えています。しかし、最後は、神の御心であることを告げられて、マリアは自分に与えられた受胎告知を受け入れています。マリアの妊娠は聖霊による働きであるとマタイが告げています。

 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心したと書いています。結婚前にマリアの妊娠を知って、夫になるはずのヨセフは、ひそかにマリアとの婚約関係を切ろうと考えたということです。ヨセフの正しさが強調されていますが、実際には、マリアを切り捨てるということだと私は思います。このような時に、男性は簡単に逃れることができます。しかし、女性は、その重荷を生涯背負っていくことになっていきます。マリアと婚約関係を切って、ヨセフは新しい女性と出会い、新しい結婚生活を始めることが容易です。しかし、マリアは、新しく生まれる子を育ていかなければならないのです。マリア自身も罪の女と言われ続けることになります。マリアの子も罪の子として生きていくことになっていきます。

 マリアと婚約関係を解消しようとひそかに考えていたヨセフに、主の天使が夢に現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」といいました。マタイは、イエス・キリストの誕生のことを、このすべてのことが起ったのは、主が預言者を通していわれていたことが実現するためだったといっています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 このマタイによる福音書は、クリスマスの出来事を、インマヌエル、つまり神は私たちと共にいてくださる、ことだと告げているのです。このマタイによる福音書を読んでいて、大切なことがあります。マタイによる福音書は、新約聖書の一番、最初に来ているということです。そして、マタイ1:1~17は、イエス・キリストの系図が書かれてあります。そして次に、イエス・キリストの誕生の次第はと、なっています。イエス・キリストの誕生の前に、イエス・キリストの系図を書いているのです。ここが、旧約聖書と新約聖書を結び付ける大きな役割になっていることに、私たちは気づくのです。

 このイエス・キリストの系図が、大きく3つに分けられていることに気づくのです。それぞれが14代と数えられています。マタイ1:1には、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図となっています。1は、アブラハムからダビデまで、2は、ダビデからバビロン捕囚まで、3は、バビロン捕囚から、イエス・キリストまでと、なっています。つまり、アブラハム、ダビデ、バビロン捕囚、そして、イエス・キリストへとつながっています。アブラハムは、イスラエルの人々の初めです。ダビデは、イスラエルの人々の栄光の時代です。バビロン捕囚は、イスラエルの人々の苦しみの時代です。

 イスラエルの人々の始まりであるアブラハムについて、その弱さについて触れてみたいと思います。創世記の内容となります。イスラエルの祖であるアブラハムには子どもがありませんでした。アブラハムとその妻サラです。2人は、神に子どもを与えてくださいと祈っていました。また、神の2人の祈りに答えて、子どもを与えてくださる約束してくださっていたのです。しかし、なかなか2人には子どもがうまれませんでした。そこで、妻のサラは他の女性のエジプト人ハガルによって、子どもを得ようとしました。アブラハムとハガルの間に、子どもが生まれました。それが、イシュマエルです。アブラハムは、自分の子どもが生まれて喜んだのです。しかし、後に、2人に子どもが生まれました。それがイサクです。イサクが生まれて成長していくと、アブラハムとサラは、ハガルとイシュマエルを追い出してしまいました。自分の置かれた事情によって、その時その時に必要なことが変っていくのです。ハガルとイシュマエルは、アブラハムとサラの犠牲者になります。

 また、イスラエルの黄金期にあたるダビデですがサムエル記の内容となります。ダビデは多くの妻を抱えていたのですが、ある日、1人の女性を好きになりました。その女性は、ダビデの家来の1人の妻でした。ダビデは、その家来の妻を、自分の妻とするために、イスラエルが他の民族と戦っている時に、自分の軍の将軍に密かに手紙を送ります。その手紙を妻の夫に持たせるのです。その手紙の中には、その家来を、敵との戦いの最前線に送り、家来を残して退却させよという命令でした。そのダビデの手紙の内容は、敵との戦いの中で、実行されて、その家来は戦死してしまったのです。自分の夫の戦死を知った妻は悲しみます。悲しみの時を終えると、その女性はダビデの元に行き、妻となっていくのです。このダビデの行為はすべて、神の知られていました、後に、神の罰を受けて、ダビデは大きな苦しみを持つことになっていきます。

 バビロン捕囚です。旧約聖書の中で、イスラエルの人々にとって、一番に苦しい出来事となっていきました。バビロン捕囚は、紀元前6世紀に起った出来事で、ユダヤ人がバビロンに連れて行かれた期間をいいます。この出来事は南ユダが滅び、エルサレム神殿が破壊された時に始まったのです。バビロン捕囚は約70年間続き、多くのユダヤ人がバビロンに強制移住させられたのです。この間に、ユダヤ人は自分たちの宗教を保つために努力しました。エルサレムに帰還してから、エズラ・ネヘミヤ時代に、神殿の再建を成していくのでした。バビロン捕囚はユダヤ人の歴史において非常に重要で、悲劇的なことであり、ユダヤ人自身の存在と信仰を強化する役割を果たしたといえると思います。

 イスラエルの人々にとって、旧約聖書は大切な部分です。その上で、イエス・キリストの誕生による新約聖書が形成されていきました。マタイによる福音書の最初にあるイエス・キリストの系図は、イスラエルの人々が自分たちの歩みを振り返っているものです。自分たちの存在の根拠となっているものです。アブラハム、ダビデ、そしてバビロン捕囚が、イスラエルの人々の存在そのものなのです。それは、苦難の歴史そのものでした。また、罪の歴史の繰り返しそのものです。そのイスラエルの人々の歩みの中に、神の子イエス・キリストが誕生していくのです。

 そして、その続きとして私たちの歩みの歴史ということになっていきます。私たち日本の歩みを振り返ってみると、イスラエルの人々と違う歩みがあるでしょうか。神の前に素晴らしい歩みということができるのでしょうか。日本だけでなく、人間の全体の歴史を見ていても、同じように戦争の歴史です。敵意と憎しみと戦争の繰り返しの歴史といってもいいと思います。神は、イスラエルの人々を選ばれたました。その理由は、最も数の少ない民であったからといわれています。でも神は、私たち人間に対して、愛することを止めることはしませんでした。それが、クリスマスです。マタイは、インマヌエルといいました。神は私たちと共にいてくださるということです。神は、私たちに、独り子イエス・キリストを送ってくださいました。これが、神が私たちと共にいてくださるという意味です。クリスマスは、神が私たちと共にいてくださることを意味しています。クリスマスを心からお祝いしようではありませんか。

祈り 神よ。クリスマスの礼拝をこのように守ることができましたことを心から感謝します。神はイスラエルの人々を選び、神の救いの業を行ってくださいました。イスラエルの人々の歩みは罪の歩みそのものでした。そのために多くの苦難を味わっていくことになっていったのです。そして、そのイスラエルの人々の中から、神の子イエス・キリストの誕生を成し遂げてくださいました。イスラエルの人々の罪を赦すために、やがて、私たちすべての人間の罪を赦すためです。あなたの救いの業を改めて、このクリスマスの時に受け止めることができました。この感謝を、忘れることなく、過していくことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


12月18日の祈祷会の内容です。

2024-12-17 10:53:00 | 日記
祈祷会    士師記19:1~15「悲しみの記録を読む」   2024.12.18

 士師記19~21章は、イスラエルの12部族のうち、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれないと危機に遭遇します。士師記19章は、1人のレビ人が登場して来ます。彼は、ユダのベツレヘムから1人の側目として迎え入れました。その側女は一時的に、彼の元を離れて、自分の父の家に帰って行きます。レビ人は、その側女を連れ戻しに行きます。連れ戻すことができて、自分の家に帰ろうとしますが、ベニヤミン領のギブアという場所にやって来ました。そこではなかなか彼を泊めてくれる人はいなかったのですが、1人の老人が声をかけて泊めてもらうことができました。しかし、その老人の家に町のならず者たちが襲って来て、「お前の家に来た男を出せ」と騒ぐのです。老人は拒否しますが、レビ人は自分の連れていた側女を外に出してしまいます。ならず者たちは、その側女を一晩中もてあそびました。朝になると、その側女は死んでしまったのです。レビ人は朝起きて、死んだ側女をろばに乗せて、自分の故郷に帰って行きます。そこで、レビ人は側女をつかみ刃物でその体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送るのです。これを見たイスラエルの人々は驚き悲しみ、集まって来ます。

士師記20章では、イスラエル全体で40万の歩兵が集まり、ベニヤミン族に「あのならず者たちを出せ。ならず者たちを殺して、イスラエルから悪を取り除こう」といいました。すると、ベニヤミン族は受け入れず、兵を集めて、イスラエルの人々と戦おうとするのです。激しい戦いになって行きます。双方とも多くの被害を出すことになってしまいましたが、数にまさるイスラエルの勝利となっていくのです。この時に、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれない危機に訪れるのです。イスラエルの人々は、ベニヤミン族と戦う時に、自分たちの娘はベニヤミン族に嫁としては与えないという誓いを立てていました。

そして、士師記21章で、イスラエルの人々は、自分たちの中の一部族であるベニヤミン族がなくなってしまうことを深く悲しみ、何とかして存続させるために努力をしていきます。ベニヤミン族が生き続けるために、嫁として、戦いに出て行かなかった部族を捜します。そうすると、ギレアドのヤベシュからは誰も戦いに出ていないことが分かりました。そこで、イスラエルの人々は兵を出して、ギレアドのヤベシュの町の人々を攻撃し、娘400人を見い出し、自分たちの陣地に戻って来ました。そうして、ベニヤミン族に妻として与えていくのです。まだ、女性の数が足りませんでした。イスラエルの人々はベニヤミン族に、シロの娘たちがぶどうの収穫の時に、踊って出て来るから、そのシロの娘たちを捕まえて、自分たちの嫁としなさいといいました。そこで、ベニヤミン族は、踊っている女性を奪い、その中から自分たちの数だけを連れ帰って、自分たちの嗣業の土地で、町を築いてそこに住んでいくことになります。イスラエルの人々は、その様子を見て、自分たちの嗣業の土地に帰っていくのです。これが士師記19~21章の流れです。

この流れを確認して、今日の聖書の箇所と見ていきたいと思います。士師記19章の前半の箇所です。イスラエルには王がなかったその頃から始まっていきます。エフライムの山地の奥に1人のレビ人が滞在していました。彼には、ユダのベツレヘムのから1人の女性、側女として迎え入れたのです。しかし、その側女は主人を裏切り、自分の父の家に帰って、4ケ月ほどそこにいることにしました。いったい、2人に何が起ったのかは分かりません。この側女にとって、とても辛いことが起ったと考えてしまいます。このレビ人は、そのままにしてはいませんでした。レビ人は若者を伴い、人軛のろばを連れていで立ち、側女の後を追い、その心に話しかけて連れ戻そうとしました。側女がいる家に行くと、側女はレビ人を父の家に入れるのです。受け入れたということでしょうか。具体的なことは分かっていません。側女の父はレビ人を見て、喜び迎えています。そのしゅうとと父が引き止めるので、レビ人は3日間、そこに留まり、食べて飲み、夜を過ごしていきます。4日目の朝早く、レビ人は起きて出発しようとしましたが、側女の父が「パンを一切れ食べて元気をつけ、それから出かけた方がいい」というので、2人は一緒に座り、食べて飲みました。側女の父は婿に「どうか、もう一晩泊まってくつろいでください」といいます。レビ人は立ち上がって出発しようとしたが、しゅうとがしきりに勧めるので、また泊まることにしました。

5日目も朝早く、レビ人は出発しようとしたが、娘の父が「元気をつけた方がいい」というので、2人は日の傾くまでゆっくり食事をしました。レビ人が側女と若者を連れて出発しようとすると、そのしゅうと、娘の父は「日もかげってきて、もう夕方です。ここに泊まってくつろぎ、明朝早く起きて旅路に着き、家に帰ることにしてはどうですか」といいました。しかし、レビ人は泊まろうとはせず、立ち上げって出発し、エブスすなわちエルサレムの目の前にするところまで来ていました。彼らがエブスの近くに来た時、日は大きく傾いていました。若者はレビ人に「あのエブス人の町に向かい、そこに泊まることにしてはいかがですか」と聞きましたが、レビ人は「イスラエルの人々ではないこの異国人の町には入るまい。ギブアまで進むことにしよう」と答えました。更に「ギブアかラマに泊まることにしよう」といいました。彼らは旅を続け、ベニヤミン領のギブアの近くで日は没しました。彼らはギブアに入って泊まろうとして進み、町の広場に来て、腰を下ろしました。でも、彼ら家に迎えて泊めてくれる者はいなかったのです。

レビ人が側女を迎えに行って、なかなかその家を出発することができなかったのは、本当はしゅうとや父は、娘を出すことを躊躇していたのではないかと思うのです。レビ人によって自分の娘は側女という立場でもあるからです。その後、側女にとってとても辛い状況が待っているのです。この聖書の箇所を読みながら、どうして、このような悲しい話があるのだろうと考えます。逆に、それが聖書の書かれた目的でもあるのでしょう。人間の罪の現実を知らせるためなのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記を読みながら、人間とは何者かと考えました。人間の罪の現実を知ることになります。とても辛い内容となっています。そこから目を背けることなく、歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)