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2月26日の祈祷会の内容です。

2025-02-25 19:21:00 | 日記
祈祷会      サムエル記上1章「サムエルの誕生」     2025.2.26

 ルツ記を読み終えて、今日からサムエル記に入ります。イスラエルの人々は、モーセに導かれてエジプトを出て、荒れ野の旅を経て、約束の地を目指して歩んで行きます。モーセからヨシュアに代って、約束の地に入っていきます。約束の地の占領と土地の分割があり、士師の時代と移っていきました。ルツ記からは1人の女性を巡って、当時の生活を知ることができました。ここではダビデの系図の関りが出ていました。そして、サムエル記です。サムエル記は、いよいよイスラエルに王の登場となっていきます。サウル、ダビデです。その王の誕生のことで大きな役割を果たすのがサムエルということになっていきます。

 サムエル記上1章は、そのサムエルの誕生の様子が書かれてあります。エフライムの山地にエルカナという人がいました。エルカナには2人の妻がいました。1人はハンナ、もう1人はペニナです。ペニナには多くの子どもたちがありましたが、ハンナには子どもがなかったのです。エルカナは毎年シロに上り、神を礼拝し、いけにえをささげていました。シロにはエリと2人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていました。いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たちと娘たちにそれぞれ分け前を与え、ハンナには1人分を与えました。ハンナを敵と見るペニナは、主が子どもを与えないことでハンナを思い悩ませ、苦しめていました。毎年のようにして、ハンナが主の家に上る度に、ペニナのことで苦しんでいました。今度もハンナは泣いて、何も食べようとはしませんでした。その様子を見たエルカナはハンナを励ますのですが、届いていませんでした。

 さて、シロでのいけにえの食事が終って、ハンナは立ち上ります。主の神殿の前で、ハンナは悩み嘆いて、主に祈り、激しく泣きます。そして、誓いを立てて「主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」と祈ります。ハンナの様子を見ていた祭司エリは、ハンナが酒に酔っていると勘違いをし、注意します。ハンナは「いいえ、わたしは酒を飲んでいません。わたしは深い悩みを持った女です。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」と答えます。エリは「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことを叶えてくださるように」と答えます。ハンナはそれから食事をしましたが、その表情はもはや前のようではありませんでした。エルカナ一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、自分たちの家に帰って行きます。エルカナは妻ハンナを知り、主はハンナを御心に留め、身ごもって、月が満ちて男の子を産みました。主に願って得た子どもなので、その名をサムエル(その名は神)と名付けたのです。

 さて、エルカナが家族と共にいけにえと自分の満願のささげものを主にささげるために上って行こうとした時に、ハンナは行こうとせず、エルカナに「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう」といいます。エルカナはハンナの申し出を了解しました。ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てました。乳離れした後、ハンナは3歳の雄牛一頭、麦粉を1エファ、ぶどう酒の革袋を1つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行きました。ハンナは祭司エリに「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたの側に立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ってことを適えてくださいました。わたしは、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられたものです」といいました。そこで、主を礼拝するのです。

 サムエルの誕生には、母であるハンナの苦しみが背景にあります。夫エルカナは2人の妻を持っていました。ペニナには多くの子どもたちが生まれ、ハンナには子どもが生まれませんでした。当時は、結婚した女性に子どもが生まれることが求められていました。ハンナのように結婚しても子どもが生まれない場合、女性としての価値がないように思われていたのです。ハンナ自身も、そのことで苦しみ、また、もう1人に妻であるペニナには多くの子どもたちが生まれたことで、苦しみは深まっていました。その苦しみがさらに重くなるのが、主を礼拝し、いえにえをささげる時です。夫エルカナから自分の分だけもらい、ペニナは自分とこどもたちのたくさんの分を受け取ります。そのことでペニナは、ハンナを苦しめるのです。ハンナにとって、自分の価値といいますか、自分の居場所がない、辛い状況が続きました。そのハンナの苦しみがあって、主の御前での激しい祈りとなっていくのです。

 このようなハンナの苦しい状況があったから、「神に、どうか男の子を与えてください。そうすればその子を主にささげます」という祈りにつながっていったのでしょう。ハンナの置かれた苦しい状況があって、神への信仰、神に仕える子どもとして、サムエルの誕生となっていくのです。私たちもいろいろな苦しみを背負って生きています。どうして、このような苦しみを負わなければならないのかと神に問いたい時もあるでしょう。私たちがその苦しみと向き合う時に、次のような聖書の言葉があります。

1コリント10:13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 この聖書の言葉を、私たちはそれぞれの苦しみの中で、どのように受け止めることができるでしょうか。私たちの人生の課題だと思います。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ハンナの苦しみとハンナの祈りをみてきました。ハンナは自分の苦しみを、そのまま神に祈りました。必死に、全力で祈りました。その祈りを、神は聞いてくださり、実現してくださいました。私たちもハンナのように、自分の苦しみを負う中で、そのまま祈ることができる信仰を持つことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


2月19日の祈祷会の内容です。

2025-02-18 20:31:00 | 日記
祈祷会       ルツ記4章「タマルからルツへ」    2025.2.19

 ルツ記も最後の4章となりました。ルツはモアブの女性でした。ルツの姑のナオミはもともとユダのベツレヘムに住んでいました。夫エリメレクと2人の息子がいました。ナオミの住んでいたベツレヘムに飢饉が起り、一家はモアブの野に逃れていきました。ナオミはそのモアブの野に約10年間住んだことになります。このモアブの地でナオミの2人の息子たちはモアブの女性と結婚することになります。その1人の嫁がルツでした。ナオミに悲しいことが次々に起ります。まず夫エリメレクの死です。次に2人の息子たちの死です。ナオミは深い悲しみの中で、故郷のユダのベツレヘムは飢饉が終って、食糧があることを聞きましたので、帰る決心をするのです。ナオミは2人の嫁たちを連れて帰ろうとしましたが、思い直して、嫁たちに自分たちの故郷に帰るように説得するのです。1人の嫁は故郷に帰って来ましたが、ルツは帰ろうとはしません。姑のナオミと一緒にユダのベツレヘムに行くことを切望していました。そして、ナオミはルツと共にベツレヘムに帰って行きます。その時は大麦の刈り入れの始まる時だったのです。

 ユダのベツレヘムに戻ったナオミは、町の人々に自分の悲劇を語ります。また、ルツは落ち穂を拾うために出かけて行きます。ルツの行った先がボアズの畑でした。ボアズはルツの境遇を知って、深い愛情を寄せ、丁寧に対応します。ボアズはナオミの夫エリメレクの親戚にあたります。ルツは大麦と小麦の刈り入れが終るまで、ボアズの畑で落ち穂を拾うことができました。ボアズの対応を知ったナオミは、ルツに「私の娘よ。私はあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。あのボアズは私たちの親戚です。ボアズは今晩、大麦をふるい分けます。あなたは体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に行きなさい。ボアズが食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。ボアズが休む時、その場所を確認して、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことはあの人が教えてくれるでしょう」といいます。聞いたルツはその通りに行います。ボアズはルツに気づきますが、冷静に対応するのです。

 ボアズはユダのベツレヘムの町の門の所に上って行って座ります。ボアズよりも責任のある親戚の人がいて、ボアズはその人に声をかけて話し合いを始めます。ボアズは町の長老から10人を選び、一緒に話を聞いてもらいたいと願い出ます。ボアズはその親戚の人に「モアブの野から帰ったナオミがその一族の畑地を手放そうとしています。あなたはその畑地を買い取ってくださいますか。もしそうでないなら私が責任を負います。土地を買い取る責任を負っているのはあなたです。私は2番目になりますから」といいます。親戚の人は「それなら、私が責任を負ってその畑地を買い取りましょう」と答えます。すると、ボアズは「あなたはナオミの畑地を買い取ることは、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。個人の名をその嗣業の土地に再興するためです」といいますと、その親戚の人は「そこまで私は責任を負うことはできません。あなたが責任を負ってくださいませんか」と答えます。

 かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていたというのです。その親戚の人は「どうぞ、あなたがその人をお引き取りください」とボアズにいって、履物を脱ぎました。ボアズは、長老たちに「あなたがたは、今日、私がナオミの遺産から買い取ったことの証人になったのです。ルツも引き取って妻にします。個人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、そのことの証人になったのです」といいました。門の所にいた長老たちは「そうです。私たちは証人です。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のようになり、ご家庭が恵まれるように」といってくださいました。

 ボアズがこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産みました。名前をオベトと名付けました。ベツレヘムの女性たちはナオミに「主をたたえよ。主はなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ人を与えてくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、7人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから」と賛美しています。ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育ています。その子オベトから後にダビデが生まれます。ルツ記の最後にペレツの系図で終っています。ペレツ→ヘツロン→ラム→アミナダブ→ナフション→サルマ→ボアズ→オベト→エッサイ→ダビデとなります。

 ルツ記の最後がペレツの系図で終っている理由ですが、創世記38章にユダ物語が書かれてあります。ユダには3人の息子たちがいました。その長男と結婚したのがタマルでした。まもなく長男は死んでしまいました。律法によって、タマルは次男と結婚しますが、その次男もまもなく死んでしまいます。流れでは三男と結婚するはずでしたが、父のユダは三男がタマルと結婚すると、また死んでしまうのではないかと恐れ、タマルと結婚させずにいました。そこで、タマルは遊女に化けて、ユダの前に現れて、関係を持って、子どもを得ようとします。そして生まれたのがペレツでした。ユダの結婚相手はカナン人のシュアという人の娘と結婚して、3人の息子たちが生まれています。(創世記38:2)ペレツの母親はタマルで、その息子の父親がユダでした。ユダの妻はカナン人でした。ユダとタマルのことはどのように考えたらいいのでしょうか。いろいろなことがあって、ペレツの系図が書かれ、ボアズと、ダビデとつながっている、それがイエス・キリストの系図となっていく、これに神の救いの計画の中にあるということです。罪人である人間の歩みの中に神の子が来てくださったということです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。ルツ記の4章の学びをすることができました。深い悲しみになったナオミ、そのナオミと共に過ごしていくルツ、ナオミとルツの歩みを通して、神の導きがあり、ナオミもルツも悲しみが喜びに変わり、絶望が希望と変わっていきました。ルツの歩みを通して、私たちもルツのように神を信じて、神から豊かな恵みと希望を与えられますようにと願います。これらの願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


2月12日の祈祷会の内容です。

2025-02-11 19:55:00 | 日記
祈祷会    ルツ記3章「イスラエルの人々の生活を守る律法」   2025.2.12

 ルツ記を読んでいますと、当時のイスラエルの人々を守るために律法が大きな役割をしていることが分かります。その3つをみていきましょう。

レビ記19:9~10
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。

レビ記25:25
もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。

申命記25:5~6
兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。

 ルツはモアブの女性でした。姑ナオミは、ユダのベツレヘムで夫と2人の息子たちと暮らしていました。ベツレヘムで飢饉があり、家族でモアブの野に逃れていきました。ナオミはモアブの地で約10年間過ごしたことになります。2人の息子はモアブの女性と結婚します。その1人がルツでした。ナオミに悲しみが訪れます。夫の死、2人の息子の死です。その悲しみの中で、ナオミは故郷ベツレヘムではもう飢饉が終って、食べる物があることを知り、故郷に帰る決心をしました。最初は、死んだ2人の息子たちの嫁たちと一緒に出発しましたが、途中で嫁たちに自分の故郷に帰るように説得します。1人は帰りましたが、ルツは帰ろうとはしませんでした。ルツは姑のナオミと一緒にユダのベツレヘムに帰ることを願い、そのようになりました。

 故郷のベツレヘムに帰ったナオミは深い悲しみを、故郷の人々に訴えています。2人が、故郷に帰った時は、ちょうど大麦の刈り入れが始まる時でした。ナオミの夫エリメレクの一族には1人の有力な親戚がいてその名をボアズといいました。ルツはナオミに「畑に行って、誰かに厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」といって出かけます。これも人々の生活を守る律法の1つです。上の聖書の箇所に出てくる内容です。貧しい人々や寄留している人々の生活が困窮しないようにするためです。ルツは、その落ち穂を拾うことによって、日々の生活をすることができていくのです。ルツがナオミと一緒にベツレヘムに帰るということは、そのような厳しい生活を覚悟していたのです。ルツが行った畑は、ボアズの所有のものでした。ここでルツとボアズの出会いが起ります。不思議な神の導きを感じます。ボアズはルツに対して、深い思いを持って接しています。その接し方は愛する者に対してのものという感じです。ルツはボアズの厚意によって、多くの食糧をナオミの家に持って帰ることができました。ルツが帰って来た時に、多くの食糧を持っていたことに驚き、その畑がボアズの者だった知り、ルツにボアズが自分たちと縁続きの人であることと自分たちの家を絶やさないようにする責任のある人の1人だといいます。ルツは大麦の収穫が終るまで、ボアズの畑から落ち穂を得ることができました。

 ナオミはルツに「私はあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。ボアズです。ボアズは今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。あなたは体を洗い香油を塗って、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ボアズが食事をし、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。ボアズが休んだ後、側に行き、ボアズの衣の裾に身を覆って横になりなさい。その後すべきことはボアズが教えてくれるでしょう」といいます。ルツはナオミのいわれたとおりに麦打ち場に下って行き、ナオミに命じられた通りに行います。ナオミがルツに命じたことは私たちにすれば驚くことですが、この行為は当時とすれば普通のことだったのでしょうか。

 夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを捜しますと、ルツに気づきました。ボアズは驚きますと、ルツは「どうぞあなたの衣の裾を広げて、私を覆って下さい。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」といいます。ボアズは「私の娘よ。心配しなくていい。きっとあなたのいう通りにします。確かに私も家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実は私以上にその責任がある人がいます。その人に聞いてみましょう。そして、その人が責任を果たさないというなら、私が責任を果たします。今夜はここで過ごしてください」とルツを説得します。ルツは夜が明けるまでボアズの足もとで休みました。大麦6杯計ってルツに持たせます。まだ暗いうちにルツは家に帰ります。ボアズも町へ戻って行きました。ルツがナオミの所に帰ると「どうでしたか」と聞きます。ルツはボアズがしてくれたことを伝えると「この6杯の大麦は、ナオミの所へ手ぶらで帰すわけにはいかないといってくださって、あの方がくださったのです」と答えます。ナオミは「娘よ。成り行きがはっきりするまではじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ落ち着かないでしょう」といいます。この後、ボアズが交渉の末に、ルツと結婚することになります。ルツは異邦人でありながら、イスラエルの家の1人として受け入れられています。新しい家庭を築き、子どもを産み育っていきます。その家系からダビデが生まれ、やがて、イエス・キリストにつながっていきます。ルツ記を読んでいると、イスラエルの人々の生活を守る律法があることに気づきます。そのために、ナオミもルツも守られてきたのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ルツ記を読みながら、聖書の教える律法は、イスラエルの人々の生活を守るものであることに気づきます。落ち穂拾い、土地や家族のことをいかにして守っていくかを知ることができました。神の教えである律法がどのような役割をしているのかを知ることができたことを感謝します。神の教えの豊かさをもっと知ることができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


2月9日の礼拝の内容です。

2025-02-08 15:56:00 | 日記
2月9日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.155.194.361.24です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/9fKOabd9V1M?feature=shareです。

礼拝説教      使徒14:8~15「生ける神に立ち帰る」    2025.2.9

 2月の第2日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝の恵みによって、私たちの1週間の歩みがより豊かになりますようと祈ります。

 最近、心を痛めることがあります。それは、今まで熱心に信仰生活をして来た人が、病気や高齢のために、来ることができなっていくということです。思い返せば、いつもそのような状況があったと思いますが、特に最近、思うようになっています。教会の礼拝や祈祷会に、ほとんど毎回出ておられました。それが病気やしょうがいのために来ることが困難になっています。そのような方々のために、教会として何ができるのだろうかと日々悩んでいます。ある人はできるだけ入所している施設を訪問していきたいと考えています。相手があることなので、その方や家族のことを考えながら、よりよい対応ができればと神に祈っています。

 今日の聖書箇所は、パウロによる第1回伝道旅行の中で、リストラでの出来事が書かれてあります。ここでは、パウロによる初めての異邦人に対する対応を見ることができます。そのきっかけになった出来事が最初に書かれてあります。リストラに、足の不自由な男が座っていました。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかったとあります。この人が、パウロの話すことを聞いていました。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声でいいました。その人は躍り上がって歩き出すのです。

 この様子を見ていたリストラの群衆は、「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りて来てくださった」と声を張り上げていいます。町に外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって、パウロたちにいけにえをささげようとします。パウロたちは、すぐに服を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んで「皆さん、なぜ、このようなことをするのですか。私たちも、あなた方と同じ人間に過ぎません。あなた方がこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです」と答えています。このようにいって、群衆が自分たちにいけにえをささげるのをやっと止めることができたとあります。

 ここで、私が考えたいことは、リストラで足の不自由な男が、パウロによって癒され、躍り上がって歩き出すのですが、その癒される理由として、パウロが、その男に「いやされるのにふさわしい信仰を認めた」ことです。この「いやされるのにふさわしい信仰」とは、どのようなものでしょうか。私にはよく分からないのです。この使徒14:8~10の記事の内容は、使徒3:1~10の内容と似ています。違うのは、3章はユダヤ人であり、14章では異邦人であるということです。3章では、神殿の境内の入り口にその男は座らせていました。神殿の境内に入る人々から施しを乞うためでした。この男も、生まれながら足の不自由な状態だったのです。ここではペトロによって癒されていくのですが、その理由として、ペトロたちをじっと見つめていたのです。それは、ペトロたちから何かの施しをもらえるかという期待があったからでした。私の考えることでは、この男に「いやされるにふさわしい信仰があった」とは思うことはできません。しかし、癒された後で、躍り上がって立ち、歩き出します。そして、歩き回ったり踊ったりして、神を賛美して、ペトロたちと一緒に神殿の境内に入って行きます。神を礼拝するためです。この男は、最初に「いやされるのにふさわしい信仰はなかった」けれど、足を癒された後では、神を賛美したのです。結果として、いやされるのにふさわしい信仰となったのです。

 聖書の中には多くの奇跡物語があります。新約聖書の4つの福音書にも、イエス様による多くの癒しの奇跡物語が書かれてあります。イエス様によって癒された病気の人々やいろいろなしょうがいをもっていた人々は、イエス様の目から見て、「いやされるのにふさわしい信仰」を持っていたのでしょうか。もちろん、そのような信仰を持っていた人もいたでしょう。しかし、癒されてもそのままで神を賛美したことをしなかった人々もいたのです。聖書は、どうしてこのような癒しの奇跡物語が書かれてあるのでしょうか。ある教会では、「癒しの実践」を大切にしているのもあります。礼拝の中で、癒しを行います。実際に、病気やしょうがいを持っている人が癒されていくのです。この教会の癒しの業を完全に否定することはならないと私は考えています。実際に癒されている人々にとっては、大きな喜びだからです。

もし、私に癒しの力があれば、教会に来れなくなった方々を癒し、教会に来れることができるようになればうれしいです。先日、ホスピスでこのような会話がありました。私とある方の会話です。「私はガンで、いつ死が来てもおかしくありません。でも、私は死が怖いのです。どうしたらいいですか」といわれました。私は答えることができませんでした。その方に何もいえなかったのです。どう答えたらいいのか、分かりませんでした。もし、私に癒しの力があり、その方のガンを癒すことができればと思いましたが、そのようなことは無理だと思ってしまいました。神への信仰が足りないのでしょうか。

私は「いやされるのにふさわしい信仰」とは何かにこだわっていますが、パウロはどうなのかと考えました。パウロも重い病気を持っていたといわれています。その重い病気が何であるかは分かっていません。でも、パウロの伝道旅行をしばしばストップさせていたのです。パウロは自分のその重い病気をどのように受け止めていたのかが分かる聖書の箇所があります。

2コリント12:7~10
それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 私の個人的な思いですが、パウロこそ「いやされるのにふさわしい信仰」がある人だと考えます。そのパウロは自分の重い病気を神に祈り、癒されたのでしょうか。実は癒されなかったのです。この聖書の箇所にありますが、パウロは自分の病気の癒しのために、3度神に祈ったといっています。3度ということは、3度かもしれませんが、私は何度も何度もだと考えています。何度も何度も神に、自分の病気の癒しを祈っても、そのパウロの祈りが神に聞かれなかったのです。癒されることはなかったのです。その癒されたなかったことを、パウロなりに受け止めています。ここで私がいいたいことは、あの信仰者パウロは癒されなかったということです。パウロこそ、「いやされるのにふさわしい信仰」がある人だと、私は思いますが、神によっては「いやされるのにふさわしい信仰」は、パウロになかったということになります。

 最初に戻りますが、パウロによって「いやされるのにふさわしい信仰」があるとされて、癒されたリストラの生まれながらに足の不自由な男は、癒されてから躍り上がって歩き出しました。でも、その後で、神を賛美したとは書いてありません。パウロの「いやされるのにふさわしい信仰」とは、どのようなものでしょうか。聖書の書いてある奇跡物語ですが、それは神の力を示すために用いられるのです。イエス様が行った奇跡物語も、イエス様が神から遣わされた方であることを示すためでした。ペトロの奇跡も、神の栄光を示すためでした。パウロの奇跡も、リストラの人々に神の栄光を示すためだったのです。聖書が書いている奇跡物語は、私たちに神の栄光、イエス・キリストの十字架の力、復活の力、永遠の命に導くことができることを示すために、用いられています。私たちにとって大切なことは、神はイエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たち1人1人に、完全な罪の贖い、罪の赦し、復活、永遠の命、神の国があることを、信じることです。神への信仰と希望を持って、それぞれの人生を全うしていくことです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちの1週間の歩みをどうか守ってください。よりよい1週間となりますように願います。私たちはいろいろな病気やしょうがいに苦しんでいます。どうか、そのような病気やしょうがいを癒してください。どうか、私たちの持っている苦しみを取り除いてください。私たちが苦しむことなく、喜びと感謝を持って、日々を過ごすことができますようにしてください。これらの願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


2月5日の祈祷会の内容です。

2025-02-04 19:50:00 | 日記
祈祷会       ルツ記2章「ルツとボアズの出会いから」    2025.2.5

 モアブの女性であったルツ、ナオミが家族と共に飢饉のためにユダのベツレヘムからモアブにやって来て、ナオミの息子と結婚しました。ナオミはモアブに約10年間いたといいます。この間に、ナオミには悲しいことが続きました。夫を早く亡くし、次には息子たちも亡くなってしまうのです。深い悲しみにいたナオミがユダのベツレヘムでは、すでに飢饉が終って食糧があることを知りました。ナオミは決心しました。10年間いたモアブから、故郷のユダのベツレヘムに帰ることです。ナオミは息子の妻たちと最初一緒にベツレヘムに向かって帰って行こうとしました。ナオミはすぐに気づいて、2人の妻たちに、それぞれに自分の家に帰るように促すのです。1人は帰って行きました。しかし、ルツは帰ろうとはしなかったのです。強い決意を持って、ルツは姑ナオミと一緒にベツレヘムに行くことにするのです。1章では、ナオミの悲しみとルツの決意をみることができました。ナオミとルツがベツレヘムに帰って来たのは、大麦の刈り入れが始まる時でした。

 今日のルツ記2章では、ルツとボアズの出会いのことが書かれてあります。ルツがナオミの故郷であるユダのベツレヘムに行くことは、自分の故郷ではなく、誰も知らない土地に行くことでした。そのような不安がある中でも、ルツはナオミと共に行動することを選んだのです。ここで登場するボアズは、ナオミの夫エリメレクの一族の有力な親戚の1人でした。ルツはナオミに「畑に行ってみます。誰か厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」というと、ナオミは「行っておいで」と答えます。ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後をついて畑で落ち穂を拾いましたが、そこはたまたまボアズの畑でした。ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに「主があなたたちと共におられるように」というと、農夫たちも「主があなたを祝福してくださいますように」と返します。

 ボアズは農夫の監督をしている召使の1人に聞きます。「そこの若い女性は誰の娘か」と。召使は「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。刈り入れする人たちの後について麦畑の間で落ち穂を拾い集めさせてくださいと願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いていましたが、今、小屋で一息入れているところです」と答えます。ボアズはルツに「私の娘よ。よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾うことはない。ここから離れることなく、私のところの女性たちと一緒にここにいなさい。刈り入れする畑を確かめておいて、女性たちについて行きなさい。喉が渇いたら、水がめの所に行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい」と優しくいいます。ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して「よそ者の私にこれほど目にかけてくださるのは。厚意を示してくださるのは、なぜですか」と聞きます。ボアズは「主人が亡くなった後も、姑に尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように」と答えます。ルツは「あなたのはしための1人にも及ばないこの私ですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました」といいます。食事の時に、ボアズはルツに「こちらに来て、パンを少し食べなさい。一切れずつ酢に浸して」と声をかけます。ルツが刈り入れをする農夫たちの側に腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えます。ルツは食べて飽き足りて残すほどでした。ボアズのルツに対する深い思いがあふれ出ています。ルツが腰を上げて、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に「麦束の間でもあの娘に拾わせるがよい。止めてはならない。刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならない」と命じています。

 ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めました。取った落ち穂は1エファほどにもなりました。麦を背負って町に帰ると、姑はルツが拾い集めてきたものに目をみはります。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出しました。ナオミがルツに「今日はいったいどこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いて来たのですか」というと、ルツは「今日働かせてくださった方は名をボアズといっておられました」と答えます。ナオミはルツに「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主は、その人を祝福してくださるように。その人は私たちと縁続きの人です。私たちの家を絶やさないようにする責任がある人の1人です。」といいます。ルツは「その方は私に、うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでください」といってくださったのです。ナオミは「私の娘よ。素晴らしいことです。あそこで働く女性たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、誰かからひどい目に遭わせられることもないし」とルツにいいます。ルツは大麦と小麦の刈り入れが終るまで、ボアズのところで働く女性たちから離れることなく落ち穂を拾うことができたのです。

 ルツ記を読んでいると、そのまま、その時の情景が浮かんできます。下手な解釈はいらないです。2章では、ルツとボアズの会話、またはルツとナオミの会話を通して、深い愛情を読み取ることができます。ナオミにしても、夫と2人の息子を失い、失意の中にあってモアブの野から故郷ユダのベツレヘムに戻って、ナオミ(快い)ではなく、マラ(苦い)と呼んでくださいといいました。ルツにしても、夫を失い、深い悲しみにありました。それまでに飢饉があり、家族の悲しみがあり、そこでも生き続けていく中で、ボアズとの出会いがあり、これから希望と愛に満たされる予感があります。ルツにしても、故郷のモアブから初めての地であるユダのベツレヘムに来て、誰も知らない人ばかりで、そして、落ち穂を拾うという厳しさの中にあって、目の前にある様々な苦難を乗り越えていく姿勢に驚きます。神の恵みがあったということになるのでしょうか。人にはいろいろな苦難があります。それを悲しみだけでなく、そこから前向きに生きていく力がルツには見ることができます。私たちもルツのような勇気を持ちたいものです。

1コリント10:28
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ルツ記の学びから、目の前に起る様々な苦難がありました。それをルツは前向きに歩んでいます。夫を失う、全く違う場所に移住する。それでも、その場その場で、できることを精一杯やっています。神はルツを導き、イスラエルの救いの歴史の中に入れてくださいました。私たちもいろいろな苦難の人生の中にありますが、神の導きを信じて、勇気と信仰を持って、前向きに生きる力を神からいただきたいと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)