9月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.57.81.197.91‣1です。
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礼拝説教 使徒11:1~10「3度あったこと」 2024.9.1
9月の最初の日曜日を迎えました。今日は9月1日です。防災の日でもあります。関東大震災から101年目を迎えました。日本に住んでいるといろいろな災害が起って来ます。地震や台風などによる被害です。台風10号の影響がまだまだ残っています。地球温高化の影響で、今年の夏は異常な熱さが続きました。台風のおかげで少しは涼しくにはなりましたが、まだまだ熱さは続くのでしょう。雨も台風も今まで以上に強く激しくなっているように感じます。そのような災害に対する意識を持つことも大切なことです。
使徒言行録の10章では、イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていくことが書かれてありました。ペトロがコルネリウスに伝えていくということでした。ここで大切なことは、使徒2章で起ったペンテコステの出来事が、ここでも起っているという事実です。ユダヤ人に起ったことが異邦人でも起っているということです。今日の使徒言行録の11章の最初の部分は、ペトロがエルサレムに戻って、教会の人々に異邦人が神の言葉を受け入れたということを報告しています。ペトロが行く前に、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人が神の言葉を受け入れたことを耳にしていました。
ペトロがエルサレムに上って来た時に、割礼を受けている者はペトロを非難して「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行き、一緒に食事をした」といいます。問題は、ペトロが異邦人にイエス・キリストの福音を伝えたことではなくて、割礼を受けていない者たちと交わり、一緒に食事をしたことです。エルサレム教会ではもともとユダヤ地方に住んでいたユダヤ人が洗礼を受けて、教会に加わっていました。いわゆるヘブライ語を話すユダヤ人でした。一方でギリシャ語を話すユダヤ人もいました。この人たちは、ステファノの殉教の時の迫害で、多くの者がエルサレムを脱出し、サマリヤやアジアの方に逃げて行くのです。もともとユダヤ地方に住んでいたユダヤ人は、それまでユダヤ教を熱心に守ってきた人々でした。割礼を受けて、律法を熱心に守っていました。
イエス様の使徒たちが聖霊を受けて、イエス・キリストの福音を理解することができたとしても、それまでの慣習をどのように受け止めたらいいのか、ある意味で過渡期だったということができます。割礼を受けたユダヤ人で、イエス・キリストの福音を受け入れて、洗礼を受けて、教会に加わったとしても、今までの慣習と、新しいイエス・キリストにある新しい信仰生活をどのように過ごしていいのか戸惑うことになっていくのです。それで、イエス・キリストを信じて生きていく生活は、イエス様の十字架を信じることと、割礼を受けて、律法を守る必要があると考えていました。ペトロに対して、割礼を受けた信仰者たちは、異邦人と一緒に食事をしたことを問題にしています。それは、ペトロ自身がいっていますが、「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」(使徒10:28)のことです。
割礼を受けた信仰者は、まだまだ律法の中に生きていたことが分かります。イエス・キリストの福音を信じることと、割礼を受けることと律法を守ることが大切だというのです。ペトロは、ここで自分が見た幻のことを話します。自分が見た幻をそのまま話しています。内容的には、使徒10:9~16とまったく同じです。ペトロは、この幻を3回見ることになりました。この3回というのがとても大切なキーワードになっています。ペトロはヤッファにいました。ペトロは祈るために屋上に上がっていきます。昼の12時ごろ、ペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思いました。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下り来るのを見たのです。その中には、あらゆる動物、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、天使が「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」といいました。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清きない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えています。すると、天使は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたはいってはならない」と答えました。このようなことが3回起っているのです。
レビ記11章には、清いものと汚れたものに関する規定が書かれてあります。地上の動物の中で、食べてよい動物は、これであると具体的に指名されています。ここで食べてよいものと食べてはならないものがはっきりと分けられています。旧約聖書の中では、神の前で、何が清いものか。何が汚れているものかをはっきりと区別することが求められていました。この食べ物に関する規定を破ることことは、律法を破ることと同じです。ある人々が神の前に汚れているものをささげた時に、その人々は神のから出た火で焼かれてしまいました。ペトロをはじめ、ユダヤ人はこの食べ物に関する規定をずっと守って来ました。その流れで、ユダヤ人は清いもの、異邦人は汚れたものと区別するようになっていて、ペトロがいったように、ユダヤ人は外国人である異邦人と交際したり、訪問したり、することは許されていないとされてきたのです。
イエス・キリストの福音が、ユダヤ人から異邦人に伝えられている流れで、このような異邦人に対する考えを乗り越えることは容易なことではなかったのです。しかし、ここでは大切なことがあります。キリスト者として生きるために、救われた者としてあるために、どうあるべきかが問われているのです。イエス・キリストの十字架を信じることと、それ以外に求められることはあるかということです。ユダヤ人にとって、ユダヤ教徒にとって大切なことは割礼を受けることと律法を守ることでした。割礼を受けたユダヤ人の信仰者がペトロに問うていることです。彼らは、教会に加わるためには、イエス・キリストを信じて洗礼を受けるとと、割礼を受けることと律法を守ることは必要であると考えていたのです。
使徒パウロは、このキリスト者として必要なことを明確にローマ書で論じています。ここからはローマ書を引用しながら考えてみたいと思います。
ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ここでパウロがいっているように、神の教えである律法を守ることは人にはできないということです。律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからですとあります。律法の役割は、人に罪人であることを自覚するためなのだというのです。割礼を受けた人々が、キリスト者として必要なことは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることと割礼を受けることと律法を守ることとなれば、救われることの意味があいまいになってしまいますし、矛盾することが起って来ます。信仰と律法は全く反することだからです。律法を守ることができないから、イエス・キリストの十字架の救いを信じるからです。では、どのように救われるのでしょうか。
ローマ3:21~26
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
人は律法を行うことによっては、神の前では正しい者とされることはできないとありました。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けることができないとされていました。しかし、ここに神の義が示されていくのです。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのです。これは神に対する大きな罪です。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活は、すべての人々の罪を贖うものでした。私たちが負うべき十字架の死を、神の子イエス・キリストが代わりに十字架について死んでくださったこと、このことは私たちの罪の身代わりとなってくださったのです。私たちは、そのイエス・キリストが十字架でしてくださったことを信じて、受け入れ、洗礼を受けて、教会に加わることによって、救いに預かることができるようにしてくださったのです。これが、キリスト者としての完全な救いの内容です。イエス・キリストの十字架だけが、救いの根拠となっているのです。このことを聞いている私たちは、私たちが神の前で救われるために必要なことは、イエス・キリストの十字架への信仰のみです。この福音によって、私たちは完全な神の救いを受けることができるようにしてくださったのです。
祈り 私たちが救われるために必要なことは何をみてきました。割礼を受けたユダヤ人とペトロの話の中で、イエス・キリストの救いがユダヤ人から異邦人に伝えられていく中で、信仰と律法の関係をみてきました。律法の役割とは何か、それがイエス・キリストの十字架の救いとどのように関係するかをみてきました。イエス・キリストの十字架のみが、私たちに必要なことであることを確認することができました。ただ、律法の役割をしっかりと受け止めることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。