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5月1日の祈祷会の内容です。

2024-04-30 19:21:00 | 日記
祈祷会     ヨシュア記24:19~33「主に仕えることができますか」    2024.5.1

 今日は、ヨシュア記の学びの終りです。ヨシュア記はイスラエルの人々が神から示された約束の地に入ることと、その地を12部族で、くじ引きで分けて住むことが書かれてあります。指導者モーセが死んで、神はヨシュアに「今、あなたはこの民のすべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」(ヨシュア記1:2)と命じます。神はヨシュアに「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(1:5~6)といって励ましています。こうして、ヨシュアの働きが始まりました。そして今や、その終りを迎えようとしています。

 ヨシュアは自分の命が後わずかだと知っていました。遺言として、最後に繰り返し繰り返しイスラエルの人々にいいます。あなたたちは主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えなさいと。そして、最後のヨシュア記24章で、イスラエルの人々は「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」(16節)、「わたしたちは主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」(18節)と答えています。しかし、この時に、「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである」(19節)と答えています。更に「もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅び尽くされる」(20節)といいます。

 ヨシュアは、この最後の24章で、繰り返し、イスラエルの人々に神に従うことができるかと問うています。イスラエルの人々は何度も、主に従いますと答えているのです。人々が「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」というと、ヨシュアは「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である」といいます。人々が「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、ヨシュアは「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けない」と勧めています。ヨシュアがイスラエルの人々に、何度も神に従いなさい、律法を守りなさいといっているにも関わらず、人々の中には外国の神々があったということです。イスラエルの人々のいっていることしていることが違っています。この時に、外国の神々を捨てたのでしょうか。そのことはここでは書かれてありません。その後で、「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」と答えていますので、捨てたと思いますが、捨てたとはここでは書かれてありません。

 その日、ヨシュアはシケムでイスラエルの人々と契約を結んだとあります。人々のために掟と法を定めたとあります。ヨシュアは、これらの言葉を神の教えの書に記し、次いで、大きな石を取り、主の聖所にあるテレビンの木のもとに立てました。掟と法とありますが、これはヨシュアによって新しく作成されたものではなく、これまでの神の教えの内容を再確認したということです。再契約ということができるでしょう。大きな石にも神の教えを記したということで、ヨシュアは人々に「見よ、この石がわたしたちに対しての証拠となる。この石は、わたしたちに語られた主の仰せをことごとく聞いているからである。この石は、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる」と答えています。ヨシュアはこうして、イスラエルの人々をそれぞれの嗣業の土地に送り出しています。

 これらの後で、主の僕ヨシュアは110歳の生涯を閉じるのです。エフライムの山地にあるヨシュアの嗣業の土地ティムナ・セラに葬られます。ヨシュアがイスラエルの人々にいった言葉「あなたたちは主に仕えることができないであろう」は、まさしく、イスラエルの人々の今後の歩みになっていきます。ヨシュア記が終り、次は士師記の学びに入っていきますが、イスラエルの人々の歩みは、「あなたたちは主に仕えることができないであろう」という言葉のとおりになっていきます。それを知った上で、神が、イスラエルの人々と共に歩む意味を考えていくことになります。

 このヨシュア記の最後の話を聞きながら、私は、イエス様の弟子だったペトロのことを思い出しました。マタイによる福音書26章では、次のように書かれてあります。その時、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。(マタイ26:31~35)

 その結果、その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:74~75)ペトロはイエス様に「決してあなたを裏切りません」といいながら、最後が「知らない」といってしまったのでした。このペトロの弱さを、私たちは責めることはできるでしょうか。

 そして、そのような弱いペトロを、復活されたイエス様は「わたしの羊を飼いなさい。わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:17,19)といわれて、再び弟子として招いてくださるのです。使徒言行録で、ペトロは使徒のリーダーとして活躍していきます。神の僕としての働きを委ねられています。ここから神が人と共にあることを考えていくことになります。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時をありがとうございました。ヨシュア記の学びを終えることができました。深く感謝します。この学びを通して、人がいかに神に従っていくことが難しいことかを知ることができました。罪深い人の歩みを、神は共に歩んでくださっています。神の忍耐、愛を感じることができます。そのような神に、私たちはどのように答えていくことができるのでしょうか。いつも神が私たちと共にあることを忘れることがないようにと導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


4月24日の祈祷会の内容です。

2024-04-23 20:01:00 | 日記
祈祷会   ヨシュア記24:1~18「わたしたちは主に仕えます」  2024.4.24

 ヨシュア記も最後の24章となりました。少し長いのでこの24章を2つに分けてみていきたいと思います。ヨシュア記の内容はイスラエルの人々が神から示された約束の土地を得ることと、その土地に部族ごとに住むことが書かれてあります。この24章までに、そのすべてのことが完了してきました。前の23章では、ヨシュアの告別の言葉がありました。その内容は、神はイスラエルをここまで強い御手を持って導いてくださった。だから、あなたがたは神の教えを守ることが何より大切だといいます。特に先住民と交わることの警告をしています。先住民と交わることは彼らの信じている偶像を拝むことになるというのです。神を捨てることになるからです。

 そして、24章になります。ヨシュアはイスラエルの全部族をシケムに集めています。イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び集めます。ここで、ヨシュアは神の言葉を伝えます。その内容はイスラエルの歴史です。イスラエルの人々をいかに神が守り導いてくださったのかをいっています。まずはアブラハムです。アブラハムは昔、ユーフラテス川の向こう側に住み、他の神々を拝んでいたとあります。アブラハムは最初、イスラエルの神ではなく、偶像を拝んでいたという理解です。そのアブラハムを神は連れ出して、カナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えてくださいました。アブラハムからイサクへ、ヤコブへとつながっていきます。ヤコブとその子どもたちはエジプトに下って行きます。

次は出エジプトと荒れ野の旅です。神はモーセとアロンを遣わして、エジプトに災いをくだしました。イスラエルの人々の解放のためにです。出エジプトでは、葦の海の奇跡がいわれています。イスラエルの人々がエジプトを出た後、すぐに葦の海での出来事です。エジプト軍は戦車と騎兵を差し向け、後を追って来ました。人々が主に助けを求めて叫ぶと、主はエジプト軍との間を暗闇で隔てて、海を彼らに襲いかからせて覆われました。エジプト軍は全滅してしまったのです。それから、人々は長い間、荒れ野にいることになります。ヨルダン川の東側のアモリ人と戦い勝利し、その国を得ることができました。その後、モアブの王バラクが立ちはだかりました。バラクはバラムを呼び寄せてイスラエルの人々を呪うようにいいました。しかし、主が働いてくださり、バラムは呪いではなく、祝福を与えたのです。

イスラエルの人々が、ヨルダン川を渡りエリコに着いた時、エリコをはじめ、アモリ人、ペリジ人、カナン人、ヘト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人などが戦いを挑んで来ましたが、勝利することができました。神は恐怖を先に示し、剣によらず、弓によらず、アモリ人の2人の王を追い払ってくださいました。ここではもちろん、イスラエルの人々の働きもあったのですが、それ以上に、神の導きを強調しています。神は更に、人々が労せず、得た土地、自分で建てたのではない町を与えてくださった。人々はそこに住み、自分たちが植えたのではないぶどう畑とオリーブ油の果実を食べることができているといいます。神の救いを褒め称えていこうというものです。

そのイスラエルの歴史を振り返りながら、神がいかに守って来てくださったのかを確認をして、だから、あなたたちは主を畏れ、真心を込めて真実を持って、主に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさいといいます。ここでヨシュアは、イスラエルの人々に一方的に従いなさいとはいいません。逆に問うています。従うこともできる、従わないこともできるといいます。その結果として、その責任は自分のところに返ってくるということも忘れていません。自分で選びなさいというのです。向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人での神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさいと強調していいます。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えますとヨシュアは答えています。

イスラエルの人々はヨシュアに答えています。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。主は、わたしたちの先祖を、奴隷とされていたエジプトの国から導き上り、目の前で数々の大きな奇跡を行ってくださった。また、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたすべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」と。

このイスラエルの人々の神への信仰の応答を聞いてヨシュアは何を思ったのでしょうか。本当に、イスラエルの人々のいったとおりになればいいのになあと思います。神の導きを知り、神から離れることなく、ずっと信じて従って行こうとするその流れを大切にしていって欲しいと心から願うのです。しかし、ヨシュアの反応は冷たいものでした。ヨシュアはしかし、人々に「あなたたちは主に仕えることができないであろう」(19節)と答えています。振り返れば、いかにイスラエルの人々は、神に従うことをせずに、逆らい続けて来ました。何度も何度もです。これでもか、これでもかと罪を犯し続けてしまうのです。悲しいイスラエルの歴史がそのことを証明しています。このような神に対して、敵対するイスラエルの人々を、神は見捨ててしまうのかと思うのですが、決してそのようにはしません。関り続けるのです。導こうとされるのです。それが、旧約聖書の神の救いです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時をありがとうございました。ヨシュアはイスラエルの人々に聞いています。「神はあなたがたを守り導いてくださった。でも、あなたがたには選択の自由がある。神を信じる道と神を信じない道である。あなたがたはその両方を選ぶ権利がある。今日、自分で選びなさい。」と。人々は「わたしたちは主に仕えます」と応答しています。この人々の応答が真実であるようにと願うのですが、難しい現実を知っています。神はそれでもイスラエルの人々を愛し、導こうとされています。この神の思いを、私たちは少しでも理解をすることができますようにと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


4月21日の礼拝の内容です。

2024-04-20 20:38:00 | 日記
4月21日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.361.457.402.88です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/DFjklJ4rnsI?feature=shareです。

礼拝説教      使徒8:32~40「ここに水があります」    2024.4.21

 4月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たち1人1人の歩みがよりよいものとなりますようにと願います。今日は、礼拝後に定期教会総会を開催します。教会の2023年の歩みのまとめと2024年度の新しい歩みについて話し合います。私たちの教会の歩みがより豊かなものとなりますようにと神に祈ります。

 礼拝では使徒言行録を読んでいます。使徒言行録は初めての教会の歩みを書いています。聖霊を受けたイエス様の弟子たちが大きく変えられて、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。使徒言行録の最初に次のような言葉が書かれてあります。

使徒1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 この聖書の言葉が、使徒言行録ではその通りに展開していきます。特にステファノの殉教によって、教会はユダヤ教の指導者から激しい迫害を受けるようになって行きました。エルサレムにいた多くのキリスト者はエルサレムを離れユダヤ、サマリア地方に逃げて行きます。逃げながら、各地でイエス様の福音を伝えていくのです。教会への迫害が、教会の伝道の発展につながっていっています。これも聖霊の導きでしょう。サマリア人への伝道はフィリポによってなされていきました。そして、次が1人のエチオピア人への伝道です。ここにこそ聖霊の働きがあります。聖霊はフィリポに命じます。「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と。その道は寂しい道であるとあります。フィリポは聖霊の言葉に従い、すぐに出かけて行きます。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに来ていて、帰る途中でした。

 先週も話しましたが、エルサレムからエチオピアまで1500㎞離れています。いくら馬車での移動とはいえ、大変な距離です。このエチオピア人の宦官のユダヤ教への信仰がいかに強いかを意味しています。このエチオピア人の宦官がいかにユダヤ教の信仰を持つようになったのかは分かりません。ユダヤ人ではなく、異邦人であるエチオピア人の宦官がユダヤ教に入ることはとても難しいことでした。でも、それ以上に、この宦官はユダヤ教を通して、神への信仰が強かったのでしょう。時はユダヤ教の祭りでした。そのためにエチオピアからエルサレムに来て、礼拝に来ていたのです。そして、エチオピアに帰る途中だったということです。宦官は馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたというのです。この時に、聖霊がフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」といいます。フィリポが走り寄ると宦官が預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえました。それで、フィリポが「読んでいることが分かりますか」と聞きますと、宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分るでしょう」といい、馬車に乗って側に座るようにフィリポに頼みます。宦官が朗読していた預言者イザヤの書は、イザヤ書53章7~8節です。次のように書かれてあります。
使徒8:32~33
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。
卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

上の聖書の箇所の元になっているのが、
イザヤ53:7~8
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。

 宦官はフィリポに「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこういっているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と聞いています。そこで、フィリポは口を開いて、聖書の箇所から説きおこして、イエス様について福音を告げ知らせたのです。

 私は、この聖書の箇所を読んで、驚きました。新しい発見をした思いです。フィリポはイザヤ書53章とイエス様のことを結び付けています。それが私にとって驚きなのです。イザヤ書53章は、苦難の僕のことがいわれています。苦難の僕とは何でしょうか。今、祈祷会ではヨシュア記を読んでいます。まもなく終えようとしているのですが、先週は、ヨシュアの告別の言葉が内容でした。ヨシュアは、イスラエルの人々に繰り返し、神の教えである律法を守ることをいっています。ヨシュアの前の指導者であったモーセも同じようにいっています。神の民として生きるイスラエルの人々にとって、大切なことは約束の地で平和にそして幸福に生きるためには、神の教えを守ることにつきます。そして、イスラエルの人々に、神の教えを守ることによる祝福があり、それは、約束の地で平和で幸せに生きることができることを意味しています。豊かな収穫があり、家畜の子どももたくさん生まれていく、子どもたちもたくさん生まれてくる。平和に豊かに生活することができるのです。一方で、守らない場合には神の呪いが与えられるというのです。祝福とはまったく反対のことが起ります。実際にはイスラエルの人々は神の教えを守ることができず、様々な苦難を味わうことになっていきます。ここで苦難の僕の考えが出てきます。苦難の僕は、イスラエルの人々が味わう苦しみを代わりに負ってくださる存在です。

 イザヤ書53章に書かれてあるように、主の僕は、イスラエルの人々が味わうべき苦難をすべて身に負っていき、苦難の僕は、羊のように屠り場に引かれていきます。毛を刈る者の前で黙している小羊のようです。僕は卑しめられて、その裁きも行われていません。僕の命は地上から取り去られるからです。フィリポは、イザヤ書53章の苦難の僕は、イエス様ご自身であるといっています。これはまさしく、イエス・キリストの十字架を指しているというのです。聖書はイエス様について、次のようにいいました。

使徒2:23~24,36
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 フィリポの語るイエス様についての福音はエチオピア人の宦官の心にしっかりと入っていったのでしょう。道を進んで行くうちに、彼らは水のある場所に来ました。宦官は「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」といいます。そこで馬車を止めさせ、フィリポと宦官は2人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けました。彼らが水の中から上がると、聖霊がフィリポを連れ去りました。宦官はもはやフィリポの姿を見ませんでしたが、喜びにあふれて旅を続けていくのでした。フィリポはアゾトに姿を現し、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行きました。エチオピアに帰った宦官は、自国の人々に、イエス・キリストの福音を語っていったのでしょうか。そして、教会が誕生したのでしょうか。宦官のその後のことを聖書は書いていませんので、分かりませんが、おそらくそうだったと想像することができます。

 フィリポによるサマリア人への伝道、そしてエチオピア人の宦官への伝道、そして異邦人伝道者パウロの登場と使徒言行録は進んでいきます。聖霊の働きはとまることなく、その活動を続けていくのです。やがて、瀬戸永泉教会にも働きてくださり、この教会を通して、多くの人々に、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。それは、私たち1人1人を聖霊が用いてくださり、伝道してくださるということです。私たちは希望と信仰を持って、2024年度の歩みをスタートして行きましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。フィリポのエチオピア人の宦官への伝道の様子を見てきました。ここには不思議な聖霊の導きがあります。苦難の僕は、イエス・キリストでした。私たちのすべての罪をイエス様は十字架で負ってくださっています。それはずっと前から約束されていたことでした。神の御心を知ると共に、神は私たちを用いてくださり、救いの御業を成し遂げてくださいます。私たちは喜んで仕える者となることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


4月17日の祈祷会の内容です。

2024-04-16 20:28:00 | 日記
祈祷会       ヨシュア記23章「ヨシュアの告別説教」   2024.4.17

 まもなくヨシュア記の学びを終えようとしています。ヨシュア記の内容は、イスラエルの人々が神から示された約束の地を得ることと、その土地を12部族で、くじ引きで分けて住むことです。すでに土地を得ることができました。土地を部族ごとに分けて住むようになりました。逃れの町も6つ置くことができました。レビ人に町とその放牧地を12部族の中に置くこともできました。ルベン族、ガド族、マナセの半部族は役割を果たしたので、ヨルダン川の東側に帰って行きました。ヨシュアにとってすべての役割を終えようとしています。

 ここから、今日のヨシュア記23章の内容ですが、ヨシュアの告別の説教が語られています。主は周囲のすべての敵を退けてくださいました。イスラエルの人々に安住の地が与えられました。その時から長い年月が流れていきました。ヨシュアは多くの日を重ねて老人となりました。ここで、ヨシュアは、長老、長、裁判人、役人を含むイスラエルのすべての人々を呼び寄せました。ここからがヨシュアの告別説教です。「わたしは年を重ねて、老人となりました。あなたたちの神、主があなたたちのためにしてくださったことをあなたたちは見てきました。主は御自らあなたたちのために戦ってくださった。見なさい。わたしはヨルダン川から太陽の沈む大海に至る全域、すべての国々をくじによって、あなたたち各部族の嗣業の土地として分け与えた。あなたたちの神、主は御自ら先住民をあなたたちのために押しのけ、あなたたちのために押しのけてくださる。主の約束されたとおり、約束の土地を占領することができた。これらはすべて神の導きによるのだ。」といいます。

 ヨシュアは、約束の土地に入って、ここまでの歩みを見ると、いろいろな困難がありました。ヨシュアの努力がありました。ここでは自分のことは一切いわず、神が導いてくださったことのみをいっています。そのために大切なことをヨシュアはイスラエルの人々にいいます。それは「あなたがたは、右にも左のもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。」と強調していいます。これが、何よりも大切なことです。神の教えを守ることです。それで注意することは「あななたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々に名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏して拝んではならない。主を固く信頼せよ」といいます。

 更にヨシュアは主の導きをいいます。「主が強大な国々をあなたたちのために追い払ってくださったから、あなたたちの行く手に立ちはだかる者は、今日まで1人もなかった。あなたたちは1人で1000人を追い払える。あなたたちの神、主が御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。」といいます。そしてまた警告することを忘れません。「しかし、もしあなたたちが背いて離れ去り、あなたたちのうちに残っているこれらの国民と慣れ親しんで、婚姻関係を結び、向こうに行ったり、こちらに迎えたりするなら、あなたたちの神、主はもはや、これらの国民を追い払われないことを覚悟しなさい。彼らはあなたたちの罠となり、落とし穴となり、脇腹に打つ鞭、目に突き刺さるとげとなり、主が与えられたこの良い土地から滅ぼることになる」といいます。

 ヨシュアはイスラエルの人々に「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている」といいます。ヨシュアは自分の時がまもなく終えることを知っています。そして「あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知ることがあります。主はあなたたちに約束されたすべての良いことはすべて実現しました。もし、あなたたちが主に背くなら、あらゆる災いをあなたたちにくだして、主があなたたちに与えられたこの良い土地から滅ぼされる。それは、あなたたちの神、主が命じられた契約を破り、他の神々に従い、仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りが燃え上がり、あなたたちは与えられた良い土地から、速やかに滅び去る」と結びます。

申命記32:45~47
モーセは全イスラエルにこれらの言葉をすべて語り終えてから、こう言った。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」

 ここは、モーセの最後の勧告の内容です。モーセがイスラエルの人々に語った告別の言葉の内容です。神の教えである律法を忠実に守ること、これがあなたたちの言葉になることと約束の土地に長く平和に暮らすことになるということです。ヨシュアの告別の説教もまったく同じ内容です。律法を守るということ、それが平和に暮らすことができるということとなり、律法を破ることは、平和に幸福に暮らすことができないということにつながります。

 私たちがこのヨシュアの告別説教を聞いて、神の教えである律法に込めてある神の愛を学ぶことが大切だと思います。律法はイスラエルの人々の生活に基づいて作られています。ですから、私たちの生活には合わない部分もありますが、その精神を知る必要はあります。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ヨシュアが語ろうとしたこと、それはイスラエルの人々が平和で幸せに暮らすために必要なことでした。すべてはイスラエルの人々のためにあるのです。神の思いが、このようにイスラエルの人々の上にあることを知ります。その上で、私たち人間が、本当に平和で幸福に生きるために必要なことを神は考えて、イエス様の十字架を行ってくださったのです。神の御心を知ることができますようにと祈ります。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                          」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


4月14日の礼拝の内容です。

2024-04-13 20:09:00 | 日記
4月14日の礼拝の内容です。讃美歌は、211.484.493.579.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/42HKmYRUFJU?feature=shareです。

礼拝説教      使徒8:26~31「エチオピア人への宣教」    2024.4.12

 4月の第2の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと願います。

 礼拝では使徒言行録を読んでいます。使徒言行録はキリスト教の最初の様子を書いています。イエス様の弟子たちに聖霊が下り、教会の活動がスタートしました。聖霊が下さったことによって、イエス様の弟子たちは初めて、イエス・キリストの福音を理解することができたのです。また、この聖霊の力によって、イエス様の弟子たちは力強く、イエス様の福音を語っていくのです。多くの人々が、イエス・キリストに触れ、信じて洗礼を受けて、教会に加わっていきました。その一方で、教会の活動に反対する人々もいました。ユダヤ教の指導者たちです。彼らの迫害によって、教会の指導者の1人であったステファノが殉教しました。ステファノの殉教をきっかけに教会に対する迫害が本格化して行きました。エルサレム教会は、イエス様の弟子たちだけは残っていましたが、それ以外のキリスト者は、ユダヤやサマリア地方に散って行きました。驚くべきことは散りながら、各地でイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくのです。

 教会の指導者の1人であったフィリポの働きによって、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人への宣教がなされていきました。サマリア人はフィリポの語るイエス様の福音を受け入れて行き、多くのサマリア人が洗礼を受けて、教会に加わっていきました。魔術師シモンとの出会いもありました。フィリポのサマリア人への伝道が成功したことを知った弟子のペトロとヨハネがサマリア地方に来て、人々の上に手をおきますと、聖霊がくだりました。彼らは主の言葉を力強く証して語った後、サマリアの多くの村で福音を語ってから、エルサレムに帰って行きました。

 そして、ここからが今日の聖書の箇所になります。フィリポによるエチオピア人への宣教です。この聖書の箇所は、教会での初めての異邦人伝道といってもいいと思います。聖霊はフィリポを導きます。聖霊はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道に行け」といいます。そこは寂しい道であるといいます。聖霊は1つの使命をフィリポに与えます。サマリアでの宣教活動していたフィリポにエルサレムからガザに下る道に行けといいます。ガザといえば今、イスラエルと戦っているガザです。その道を行けといいます。その道は寂しい道だともいいます。この時には、寂しい道だったのでしょう。普段、人の往来が少ない道だったと想像します。そこに行けと命じていますが、何が起るというのでしょうか。聖霊の言葉を受けて、フィリポはすぐに出かけて行きます。

 折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムの礼拝に来て、帰る途中であったとあります。宦官は馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたとあります。エチオピアとはクシュともよばれています。カンダケとはエチオピア人の女王の称号です。エジプト王のパロと同じものです。この人は女王の全財産の管理をしていたのです。創世記の後半に出てくるヨセフと同じような立場です。日本だと総理大臣ということもできると思います。身分の高い人物でした。そのエチオピア人は女王に仕える宦官だというのです。宦官とは男性の生殖器官が切除されていました。その上で女王に仕えていくのです。

 しかし、当時の世界で、エチオピアからエルサレムまで、約1500キロはあります。それをよく移動したなあと思います。それが、エチオピアの女王に仕える宦官がエルサレムを訪問するです。本来なら、ローマ総督かヘロデ王が出迎えることでしょう。そうでなくても、ユダヤ教の大祭司が出迎えてよい話です。ただ使徒言行録は、エチオピアの女王に仕える宦官が、エルサレムに来ていて、帰る途中だったと書いてあります。この宦官は、エチオピア人でありながら、神への信仰はあついことが分かります。エチオピアからわざわざエルサレムまで来ていることで分かります。そして、この宦官は馬車の中で、預言者イザヤの書を手にして朗読していたのです。その立場からすれば、イザヤ書を手に入れることもできたのでしょう。でも、それは簡単なことではなかったと思います。それほどに、神への思いが強かったということができます。

 では、エチオピアの宦官でありながら、エルサレムで礼拝に来ていたというので、エルサレムの神殿での礼拝に参加することができたのでしょうか。宦官とありますので、それは難しかったと思います。次のような聖書の箇所があるからです。

申命記23:2
睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることができない。

 ですから、宦官であるがゆえに、神殿の中に入ることが許されませんでした。また、異邦人がユダヤ教の回心する方法もありますが、そのためには割礼を受ける必要がありました。しかし、この宦官は、割礼を受けることもできなかったのです。このエチオピア人の宦官のユダヤ教への強い信仰があっても、宦官であるがゆえに、ユダヤ教を信仰することが許されなかったと考えられます。このエチオピア人の宦官は、どのような思いの中で、帰る道の中にあったのでしょうか。ユダヤ教に対する深い失望感の中にいた。悲しみながら帰っていくのでしょうか。このエリオチア人の宦官が、ユダヤ教への信仰を強く持ったのか、その事情は知ることはできません。でも、その行動だけで、すごいと私は思います。決して簡単なことではなかったと思います。その立場があってなお、エチオピアの地を離れて、遠いエルサレムに旅をしていく、すごいことです。

 でも、帰りながら馬車の中で、預言者イザヤの書を朗読していたのですから、神への信仰心は弱くなったということはできません。ユダヤ教からの仕打ちがあってもなお、神への信仰は強くなっていったのでしょう。そのようなエチオピア人の宦官に対して、聖霊は動くのです。フィリポを用いるのです。聖霊はフィリポに「追いかけてあの馬車と一緒に行け」といいます。フィリポは走って寄って行きます。フィリポはそのエチオピア人の宦官が、預言者イザヤ書を朗読しているのが聞こえてきます。フィリポはエチオピア人の宦官に、「読んでいることが分かりますか」と聞いています。すると宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」といって、馬車に乗って側に座るようにフィリポに頼むのです。ここにエチオピア人の宦官とフィリポの出会いがあります。不思議な導きです。この後で、宦官はフィリポによって、イエス・キリストの福音を聞くのです。そして、洗礼を受けていくのです。ここに、教会の歩みの中で、最初の異邦人への伝道がなされていくのです。やがて、使徒パウロのよって、本格的な異邦人伝道がスタートして行きます。その最初の異邦人伝道のことがここに書かれてあるのです。

 先日のイースターの礼拝の中で、1人の若い方の洗礼式を行いました。聖霊が今も働いているのが分かるのです。振り返れば、私自身は、キリスト教の環境とは程遠いところにありました。それが、聖霊の導きによって、高校1年生との時に、教会に行き洗礼を受けることができました。それから半世紀が過ぎて行きました。今は、瀬戸永泉教会の牧師として働くことが許されている。これはまさしく奇跡だと、私自身思っています。ただ、聖霊の導きがあった。それだけです。ここにいる皆様、1人1人も、いろいろな人生があり、神の出会いがありました。この神との出会いは、自分たちの力によってではなく、ただ神の働き、聖霊の働きによって、です。

 これから先、聖霊はどのような働きをなされるのでしょうか。それは私たちには分かりません。でも、きっと驚くべき働きをなしてくださるのでしょう。この瀬戸永泉教会を通して、そして、ここに来ている私たち1人1人を通して、働いてくださるのです。聖霊の働きは人を用いられることが分かります。このエチオピア人の宦官へはフィリポが用いられました。この宦官は、自分の国に帰ってから、どのような働きをしたのでしょうか。聖書には何も書かれてありませんので、分かりませんが、きっと大きな働きを成していったのでしょう。エチオピアにも教会があります。もしかしたら、この宦官の働きがあったのかもしれません。私たち1人1人も、神は、聖霊は用いてくださるのです。

祈り 神よ。このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。フィリポによるエチオピア人への宣教のことをみてきました。不思議な聖霊の働きがありました。宦官とフィリポの出会いによって、イエス・キリストへの信仰へと導かれていきます。やがて、ユダヤ人から異邦人への伝道へと進んでいきます。聖霊の働きの素晴らしさをみることができます。聖霊の働きの中で、私たちが用いられることを思います。良き働きをすることができますようにと祈ります。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。