祈祷会 ヨシュア記24:19~33「主に仕えることができますか」 2024.5.1
今日は、ヨシュア記の学びの終りです。ヨシュア記はイスラエルの人々が神から示された約束の地に入ることと、その地を12部族で、くじ引きで分けて住むことが書かれてあります。指導者モーセが死んで、神はヨシュアに「今、あなたはこの民のすべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」(ヨシュア記1:2)と命じます。神はヨシュアに「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(1:5~6)といって励ましています。こうして、ヨシュアの働きが始まりました。そして今や、その終りを迎えようとしています。
ヨシュアは自分の命が後わずかだと知っていました。遺言として、最後に繰り返し繰り返しイスラエルの人々にいいます。あなたたちは主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えなさいと。そして、最後のヨシュア記24章で、イスラエルの人々は「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」(16節)、「わたしたちは主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」(18節)と答えています。しかし、この時に、「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである」(19節)と答えています。更に「もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅び尽くされる」(20節)といいます。
ヨシュアは、この最後の24章で、繰り返し、イスラエルの人々に神に従うことができるかと問うています。イスラエルの人々は何度も、主に従いますと答えているのです。人々が「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」というと、ヨシュアは「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である」といいます。人々が「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、ヨシュアは「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けない」と勧めています。ヨシュアがイスラエルの人々に、何度も神に従いなさい、律法を守りなさいといっているにも関わらず、人々の中には外国の神々があったということです。イスラエルの人々のいっていることしていることが違っています。この時に、外国の神々を捨てたのでしょうか。そのことはここでは書かれてありません。その後で、「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」と答えていますので、捨てたと思いますが、捨てたとはここでは書かれてありません。
その日、ヨシュアはシケムでイスラエルの人々と契約を結んだとあります。人々のために掟と法を定めたとあります。ヨシュアは、これらの言葉を神の教えの書に記し、次いで、大きな石を取り、主の聖所にあるテレビンの木のもとに立てました。掟と法とありますが、これはヨシュアによって新しく作成されたものではなく、これまでの神の教えの内容を再確認したということです。再契約ということができるでしょう。大きな石にも神の教えを記したということで、ヨシュアは人々に「見よ、この石がわたしたちに対しての証拠となる。この石は、わたしたちに語られた主の仰せをことごとく聞いているからである。この石は、あなたたちが神を欺くことのないように、あなたたちに対して証拠となる」と答えています。ヨシュアはこうして、イスラエルの人々をそれぞれの嗣業の土地に送り出しています。
これらの後で、主の僕ヨシュアは110歳の生涯を閉じるのです。エフライムの山地にあるヨシュアの嗣業の土地ティムナ・セラに葬られます。ヨシュアがイスラエルの人々にいった言葉「あなたたちは主に仕えることができないであろう」は、まさしく、イスラエルの人々の今後の歩みになっていきます。ヨシュア記が終り、次は士師記の学びに入っていきますが、イスラエルの人々の歩みは、「あなたたちは主に仕えることができないであろう」という言葉のとおりになっていきます。それを知った上で、神が、イスラエルの人々と共に歩む意味を考えていくことになります。
このヨシュア記の最後の話を聞きながら、私は、イエス様の弟子だったペトロのことを思い出しました。マタイによる福音書26章では、次のように書かれてあります。その時、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。(マタイ26:31~35)
その結果、その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:74~75)ペトロはイエス様に「決してあなたを裏切りません」といいながら、最後が「知らない」といってしまったのでした。このペトロの弱さを、私たちは責めることはできるでしょうか。
そして、そのような弱いペトロを、復活されたイエス様は「わたしの羊を飼いなさい。わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:17,19)といわれて、再び弟子として招いてくださるのです。使徒言行録で、ペトロは使徒のリーダーとして活躍していきます。神の僕としての働きを委ねられています。ここから神が人と共にあることを考えていくことになります。
祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時をありがとうございました。ヨシュア記の学びを終えることができました。深く感謝します。この学びを通して、人がいかに神に従っていくことが難しいことかを知ることができました。罪深い人の歩みを、神は共に歩んでくださっています。神の忍耐、愛を感じることができます。そのような神に、私たちはどのように答えていくことができるのでしょうか。いつも神が私たちと共にあることを忘れることがないようにと導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)