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4月10日の祈祷会の内容です。

2024-04-09 19:26:00 | 日記
祈祷会   ヨシュア記22:20~34「大きな祭壇-間柄を示す証拠」   2024.4.10

 ヨシュア記の内容は、イスラエルの人々が神から示された約束の土地を手に入れることと、その土地を部族ごとに分けて住むことが書かれてあります。すでに、12部族の土地に割り当ては終りました。逃れの町の選定も終りました。レビ人の町と放牧地のことも終えることができました。この22章では、ヨルダン川東側の諸部族の帰還のことが書かれてあります。

 振り返れば、民数記32章で、ヨルダン川の東側はすでにイスラエルの領地となっていました。その土地は家畜を飼うには適していました。そこで、ルベン族、ガド族の人々は、この土地を自分たちの土地にしたいとモーセに申し出ていました。モーセは最初、反対しましたが、ヨルダン川西側の地を得ることを忘れることなく、他の部族と一緒に攻めていけばよいとしました。後で、北部をマナセの半部族が手に入れていきました。そのようにしてヨルダン川東岸はルベン、ガド、マナセの半部族のものとなっていました。ヨシュア記1章で、ヨシュアは彼らに一緒にヨルダン川を渡ることを確認しています。すべてのことが成し遂げることができました。ヨシュアは、彼らに感謝すると共に、ヨルダン川東岸の自分たちの領地に帰ってもよいことを伝えるのです。ヨシュアは彼らを祝福して見送りました。

 ルベン、ガド、マナセの半部族の人々はヨルダン川東岸に帰って行きます。帰る時に、ヨルダン川の西岸のゲリロトに目立って大きな祭壇を築きました。この事が大きな問題に発展していきます。彼らが大きな祭壇を築いたことをイスラエルの人々は知りました。人々は祭壇のあるシロに集まりを開き、彼らに対して軍を差し向けることにしたのです。神に犠牲をささげることにできる祭壇はシロだけでした。それ以外に、犠牲をささげることができる祭壇を築くことは大きな罪になっていくのです。過去において、イスラエルの人々は個人の罪が、イスラエル全体の罪として神から問われる体験をしていました。それはペオルでの罪(民数記25章)アカンの罪(ヨシュア記7章)です。アカンの罪のことを取り上げると、アカン1人の罪が、イスラエル全体の罪として神から問われているのです。

 ルベン、ガド、マナセの半部族の人々がヨルダン川のゲリロトに大きな祭壇を築いたことは、彼らだけの罪ではなく、イスラエル全体の罪になっていくことを知っていたのです。イスラエルの人々は軍隊を差し向ける前に、祭司ピネハス、イスラエルの10部族の長たちを派遣しました。ピネハスは彼らに「お前たちは今日、自分たちのために祭壇を築いた。それは、イスラエルの神に対する背信の行為だ。犠牲をささげることができる祭壇はシロだけだ。それなのに、お前たちはゲリロトに犠牲をささげる祭壇を築いた。お前たちの罪は、私たちの罪になることを知らないのか」ときつくいうのです。

 そして、今日の聖書の内容となっていきます。ピネハスのいった言葉に対して、ルベン、ガド、マナセの半部族の人々が答えていきます。「神よ、主なる神よ。神よ、主なる神よ。神は御存じです。イスラエルも分かってください。もし、私たちが主に背いて、祭壇を築き、焼き尽くすささげもの、穀物のささげもの、和解のささげものをささげたとすれば、神ご自身が罰してくださるでしょう。私たちがこうしたのは、1つの心配があったからです。後日、あなたたちの子どもたちが私たちの子どもたちに向かって、あなたたちはイスラエルの神、主と何の関係もない。主はヨルダン川を境とされた。あなたたちには、主の割り当てがないといって、あなたたちの子どもたちが、私たちの子どもたちに主を畏れることをやめされるかもしれません。そこで、自分たちの手で祭壇を築こうと申し合わせたのです。ささげものをささげるためではなく、あなたたちと私たち、更に私たちの子孫との間柄を示す証拠とするためです。私たちがささげものをささげて主を礼拝するのは、後日、あなたたちの子どもたちが私たちの子どもたちに向かい、あなたたちには主の割り当てがないといわせないためです。」と答えています。

 更に、私たちはこうも申し合わせました。もし、後日、私たちの子孫に、このようなことがいわれたら、私たちの先祖が作った主の祭壇の模型を見なさい。ささげものをささげるのではなく、あなたたちと私たちの間柄を示す証拠となるのですと答えます。そして、最後に「今日、主に逆らい、主に背いて、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇とは別に祭壇を築き、ささげものをささげるつもりなど、全くありません」と答えています。祭司ピネハスは彼らの語る言葉を良しとしました。ピネハスは彼らに「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知りました。あなたたちは主に対して背信の行為をすることなく、イスラエルの民が、主の手にかけられるのを免れされた。」と、いっています。ピネハスらはルベン、ガドの人々と別れ、カナンの土地のイスラエルの人々のもとに帰って、人々にこのことを報告しました。イスラエルの人々はこれを良しとして神を称えました。ルベンとガドの人々はこの祭壇を「私たちの間では主が神である証拠」と名付けました。

 なんか久しぶりにホッとする内容でした。イスラエルの中で戦いにならなくてよかったです。事前に、ルベン、ガドの人々がヨルダン川の西岸にいる人々に、自分たちのすることを伝えていればこのようなことはなかったと思いました。きっと別れた後で、自分たちのすべきこととして行ったのでしょう。だから、このような結果になったのでしょう。大きな問題にならなかったのは、問題の処理が速かったこと、適切な調査団だったこと、12部族は1つであるという意識がはっきりしていたことなどがあげることができると思います。誤解が誤解のまま終わることなく、適切な判断によって、誤解を解くことは大切なことです。私たちの中でも、いろいろなことが起って来ます。その時に適切な対応をすることができますようにと神に祈ります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの中で起った誤解を適切に判断していることをみることができました。私たちの中でもいろいろなことが起って来ます。この時に適切な対応をすることができますようにと神に祈ります。この祈りをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


4月7日の礼拝の内容です。

2024-04-06 20:27:00 | 日記
4月7日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.194.394.430.91(1)です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/rm-Cenx4tqI?feature=shareです。

礼拝説教     使徒8:20~25「神さまからのプレゼント」     2024.4.7

 4月最初の日曜日です。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと祈ります。振り返ると2023年度が終りました。4月に入りましたので、2024年度になったのです。

 先週も台湾を中心に大きな地震がありました。自然の大きさを改めて感じます。今年の最初に能登半島でも大きな地震がありました。3ケ月が過ぎても、地震の被害がそのまま残っています。3月18日の月曜日に、災害ボランティアとして輪島市に行ってきました。活動をしながら、多くの家々が倒壊していました。輪島朝市の火災現場も見てきました。輪島教会の被害も見てきました。自然災害の前では、人間は本当に無力だと感じました。

 現代は科学万能の時代だともいわれています。生成AIが出てきて、私たちの未来は一体どのようになってしまうのだろうと考えてしまいます。それでも、人間は不安を感じています。大きなビルの中に神棚が設置されてあることがあります。車を運転している人に交通安全のお守りがあります。星占いや風水などのいろいろな情報があります。どんなに科学技術が発展しても、人間には何か不安があり、そのようなものを必要としているのでしょう。

 使徒言行録を読んでいます。今日の箇所はフィリポによるサマリア伝道のことが書かれてあります。そこにシモンという魔術師が出てきます。このシモンは以前から魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人と自称していたとあります。それで、小さい者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」といって注目されていたとなっています。サマリアの人々がシモンに注目していたのは、長い間その魔術に心を奪われていたからだと説明しています。どのような魔術だったのでしょうか。おそらく、病気を癒したり、傷を治したり、人々の前で不思議な現象を見せていたのでしょう。そのサマリアの町にフィリポがやって来たのです。ここにはフィリポの行った不思議な業が書かれてあります。フィリポはサマリアの町に入って、人々にキリストを宣べ伝えていきました。人々はフィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入っています。実際に、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人も癒していったのです。このフィリポの働きに人々を大変喜んでいます。

 魔術師シモンにしてみれば、フィリポの行う魔術が自分のよりもすごいのでびっくりして、どうしてこのようなことができるのかを思い、フィリポに近づいていきます。フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせると多くの人々が信じ、洗礼を受けていきます。シモン自身もその流れで信じて洗礼を受けています。シモンはいつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いています。シモンには自分もフィリポのような力がぜひ欲しいと思っていたのでしょう。そこにエルサレムからペトロとヨハネが来たのです。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、人々は聖霊を受けるのです。人々が聖霊を受けたことは実際に目に見える形だったのでしょう。人々は預言状態になったのだと思います。

 魔術師シモンは、フィリポの働きにびっくりし、更にペトロとヨハネの働きも、よりびっくりしたのでしょう。シモンはペトロたちが手を置くことで聖霊を与えるのを見て、自分もそれができるようになりたいと思ったのでしょう。すぐに行動して行きます。魔術師シモンはお金を持ってきて、ペトロたちに「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにその力を授けてください」といっています。

 そして、ここからが今日の聖書の箇所に入っていきます。するとペトロはとても厳しい言葉を語っていきます。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何の関りもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような思いでも、赦していただけるかもしれない。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている」(20~23)と。

 魔術師シモンが、フィリポやペトロとヨハネの働きを見て、自分にもそのような力が欲しいと思い、お金を持ってきて、その力をお金で買おうとした結果、このようにペトロの厳しい言葉となっています。シモンが持ってきたお金を指して、「このお金は、お前と一緒に滅ぼしてしまうがよい」といっています。問題は、シモンが聖霊を与える力をお金で買えると思っているところです。お金の誘惑といいますか。お金があれば何でもできると考えていることに対して、強い批判が出ているのです。しかし、よく読んでみると、ここには回復の部分があることが分かります。自分の悪事を悔い改め、主に祈れといっています。そうすれば赦していただけるかもしれないとペトロはいっています。

 シモンはペトロに「あなたのおっしゃったことが何一つわたしの身に起らないように、主に祈ってください」といっています。この後、どのようになっていたのか書いていませんので、わかりませんが、よい展開になっていったと思いたいです。この後、ペトロとヨハネはサマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰っていったとなっています。

 ペトロが魔術師シモンに、このように強い言葉を語った背景には、自分の犯した過ちがあったからだと私は考えます。かつてのことです。イエス様がガリラヤからエルサレムに行こうとした時に、ペトロたちに尋ねました。「あなたがたはわたしを何者だというのか」と。その時に、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、イエス様に喜ばれています。しかし、その後で、すぐにイエス様はペトロたちに受難予告を語ったのです。するとペトロは、イエス様をわきにお連れして「主よ、とんでもないことです。そのようなことあってはなりません」といさめ始めました。イエス様は振り向いてペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しくいわれたのです。(マタイ16章)

 次に、最後の晩餐の後で、イエス様が弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」といいますと、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」といいます。イエス様は「はっきりといっておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」と答えます。ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」といっています。その後で、イエス様は逮捕され、大祭司の庭に連行されて行きます。ペトロもイエス様の後を追って行きます。その大祭司の庭で、三度、イエス様のことを知らないといってしまったのです。すると、すぐに鶏が鳴きました。ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」といわれたイエス様の言葉を思い出して、外に出て激しく泣いているのです。(マタイ26章)

 先週はイースターの礼拝を守りました。その礼拝の中で、1人の若い兄弟の洗礼式がありました。教会にとって、私たちにとって、本当に大きな喜びです。

 ここで、魔術師シモンやペトロのことを考えます。自分も神からの力である聖霊を授ける力があればと考えたことがあります。瀬戸永泉教会に多くの人々が来て、多くの人々がイエス・キリストを信じて、洗礼を受ける、そのようなことが起きればなあと思うことがあります。でも、そのことは大きな間違いです。聖霊は神から贈りものです。聖霊は、聖霊ご自身が働かられるのです。1人の若い兄弟にも聖霊は働いてくださいました。私たちの力ではなく、神の力、聖霊の御自身の働きによるのです。私たちはその聖霊の働きに仕える者です。私たちには聖霊が働き安くする奉仕が求められています。聖霊の働きは、神からのプレゼントです。

祈り 神よ。2024年度の歩みをスタートすることができましたことを心から感謝します。魔術師シモンから聖霊の働きについて考えて来ました。聖霊の働きによって、人々をイエス・キリストの救いを信じることができるのです。それは人間ができることではなくて、あなたご自身が働かれることです。私たちは聖霊の働きを邪魔することなく、働くことができますように、私たちの歩みを守り導いてください。聖霊の働きがより豊かに働くことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


4月3日の祈祷会の内容です。

2024-04-02 20:26:00 | 日記
祈祷会      ヨシュア記22:1~20「目立って大きい祭壇」    2024.4.3

 ヨシュア記はイスラエルの人々が神から示された約束の土地を得ることと、その土地を12部族で分けて住むことが書かれてあります。すでに、12部族の土地の割り当ては終りました。逃れの町の設定も終りました。レビ人の町とその放牧地も与えることもできました。

 今日のヨシュア記22章は、ヨルダン川東岸諸部族の帰還のことが書かれてあります。モーセの時代に、イスラエルの人々はヨルダン川東岸地域を占領していました。この地域は家畜を育てるのは適した地域でした。そこで、ルベン族、ガド族はこの地域を自分たちの土地にしたいとモーセに申し出ます。モーセは最初、反対しましたが、彼らがこの土地を得た後でも、ヨルダン川を渡り、先頭になって戦いに出て行くといいましたので許可しました。その後で、マナセの半部族も東岸の北部を手に入れていくのです。(民数記32章)ヨシュアは、イスラエルの人々がヨルダン川を渡る前に、ルベン族、ガド族、マナセの半部族に、モーセとの約束を思い出し、それを実行するように促します。すると、彼らはもちろん実行するといいます。(ヨシュア記1:12~18)

 ルベン族、ガド族、マナセの半部族の人々はモーセと約束したこと、またヨシュアと誓ったことをその通り実行してきたのです。今日のヨシュア記22章で、ヨシュアは、ルベン族、ガド族、マナセの半部族を呼んで「あなたたちは、主の僕モーセが命じたことをことごとく守っただけではなく、わたしが命じたすべてのことにも聞き従った。あなたたちは、今日に至るまで長い間、同胞を見捨てず、あなたたちの神、主の命じられた言いつけを守ってきた。しかし今や、あなたたちの神、主は約束されたとおり、同胞に安住の地をお与えになったのだから、あなたたちは主の僕モーセから受けたヨルダン川の東側にある自分の所有地の天幕に帰るがよい。」(ヨシュア記22:1~4)といいました。しかし、「ただ主の僕モーセが命じた戒めと教えを忠実に守り、あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守って主を固く信頼し、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい。」(5節)ということを忘れてはいません。

 ヨシュアは彼らを祝福して送り出すのです。ヨシュアの祝福の言葉は「多くの財宝、多数の家畜、金、銀、銅、鉄および数多くの衣服を天幕に持ち帰りなさい。敵から分捕った物は、兄弟たちと分け合いなさい。」(8節)というものでした。ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの土地のシロでイスラエルの他の部族と別れて、モーセを通して受けた自分たちの土地、ヨルダン川東岸に帰って行きました。これで一件落着かを思いましたが、ここである事件が起ります。これは、イスラエルの人々にとって、とても大きな事件に発展する可能性があったのです。

 ルベン族、ガド族、マナセの半部族の人々がヨルダン川のゲリロトについた時、そこに1つの祭壇を築きました。それは目立って大きい祭壇でした。これが問題の発端です。ヨルダン川の西岸にいるイスラエルの人々は、ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの自境、ヨルダン川のイスラエル側のゲリロトに祭壇を築いたとの知らせを聞きます。これを聞いたイスラエルの人々は、シロに集まって協議し、彼らに対して軍を差し向けることにしたのです。でもその前に、イスラエルの人々はまず、ギレアド地方にいるルベンとガドの人々、およびマナセの半部族のもとに祭司エルアザルの子ピネハスを遣わしました。同行者は、イスラエルの各部族から10名の指導者たちでした。いずれもイスラエルの部隊の家系の長でした。

 ピネハスたちは、彼らルベン族、ガド族、マナセの半部族の人々に「お前たちは今日、イスラエルの神、主に背いたこの背信の行為はいったい何事か。お前たちは、今日、自分たちのために祭壇を築いて、主に逆らっている。」(16節)と強く批判しています。主にささげものをする祭壇は、主の許しのもとで行われるべきで、この時はシロ以外では許されないものでした。これには過去の苦い経験がイスラエルの人々にはあったからです。1つには、かつてペオルで犯したあの罪は、我々にとってささいなことであっただろうか。あのとき、主の共同体全体に災害がくだり、今日に至ってもまだ清められていないではないか。(17節)といっています。ペオルでの出来事は民数記25章に書かれてあります。シティムという場所で、イスラエルの人々はモアブの娘たちに従って背信の行為をするのです。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるためにイスラエルの人々を招き、人々はその食事に加わって娘たちの神々を拝んでしまったのです。このイスラエルの人々の罪によって、主は激しく憤り、イスラエルに災いを送りました。その災害で死んだ者の数が24000人あったのです。更に、アカンの罪のことがいわれています。これはヨシュア記7章に書かれてあります。イスラエルの人々がエリコの町を攻撃した時に、主はヨシュアを通して、イスラエルの人々にすべてのものを滅ぼし尽くせと命じていました。それなのに、アカンは美しいシンアルの上着、銀、金の延べ板を盗み、自分の天幕の地下にそれらを隠していたのです。このアカンの罪によって、イスラエルの人々は、アイの町の攻撃に失敗してしまいました。1人の罪は、イスラエル全体の罪になるということです。罪の結果として、アカンだけではなく、家族も一緒に石打ちの刑になってしまいました。

レビ記17:8~9
また、彼らに言いなさい。イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、焼き尽くす献げ物または和解の献げ物をささげるとき、それを主にささげるのに臨在の幕屋の入り口に携えて行かない場合には、その者は民の中から断たれる。

 当時、シロに幕屋が置かれていました。シロ以外で、ささげものをささげることはできなかったのです。彼らが目立って大きな祭壇は、それに反するものだったからです。すぐに軍隊を差し向けるとありますが、この危機に、イスラエルの人々は丁寧な対応をして乗り越えていきます。詳細は次回に触れていきます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。1人の罪が、イスラエルの人々全体の罪になっていく。とても厳しい内容です。人の罪に対する神の思いが出ています。ここからイエス・キリストの十字架のことを考えます。神の御心を少しでも知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)