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7月7日の礼拝の内容です。

2024-07-06 21:51:00 | 日記
7月7日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.210.402.458.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/YF9ngTcYEoQ?feature=shareです。

礼拝説教       使徒10:9~11「何を食べますか」     2024.7.7

 あなたの大好きな食べ物は何ですかと聞かれたら何と答えますか。私はいろいろとあるのですが、あさりの味噌汁でしょうか。あとラーメンでしょうか。大好きな食べ物を食べている時は、本当に幸せを感じる時です。では、嫌いなものは何でしょうか。それぞれ、いろいろです。

 使徒10章は、ローマ人の百人隊長コルネリウスの回心の話です。キリスト教がユダヤ人から異邦人に伝えられていく最初の話です。最初、神の救いはユダヤ人だけのものと考えられていました。それが、ここから大きく変っていくのです。大きな変化が起ってきます。旧約聖書から新約聖書と変わっていくのですが、一番大きな展開は、イエス・キリストの十字架です。この十字架によって、神の救いの内容が大きく変化していくのです。

 使徒10:1~8には、神の天使がカイサリアにいる「イタリア隊」よ呼ばれる部隊の百人隊長だったコルネリウスに現れます。コルネリウス自身は信仰心があつく、一家そろって神を畏れ、ユダヤ人に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。午後3時ごろのことです。神の天使が「コルネリウス」と呼びかけるのです。コルネリウスは怖くなって「主よ、何でしょうか」といいました。神の天使は「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられていた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」と答えます。天使がこう話し立ち去ると、コルネリウスは2人の召使と側近の部下で信仰心のあつい1人の兵士を呼び、すべてのことを話してヤッファに送るのです。

 神は、イエス・キリストの福音をユダヤ人から異邦人に伝え始めようとしています。そのために、最初の準備として、天の使いをコルネリウスに送り、ペトロと会うことをしようとしています。今度は、ペトロの番です。異邦人コルネリウスの伝道のために使徒ペトロが用いられるのです。そのための準備も必要でした。この異邦人への伝道では、ペトロ自身大きな壁を乗り越える必要に迫られます。

 旧約聖書では、律法の中で食べてよいものと食べてはならないものとはっきりと区別されていました。レビ記11章にそのことが具体的に書かれてあります。その前に、神の教えを守ることの厳しさを見ていきたいと思います。神はモーセを通して十戒を始めとする神の教えである律法を与えています。また、幕屋を造るように命じています。幕屋とは、神と人が出会う場所です。具体的な幕屋の構造の話も出ています。また、幕屋に仕える祭司のこともいわれています。祭司はアロンとその子らが受け持つことになっていきます。祭司の役割は「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」(レビ記10:10)です。レビ記8章では、祭司の聖別の任職式が行われました。レビ記9章では、アロンによるささげものが初めて執行されました。その後、アロンはイスラエルの人々を祝福しています。その後で、アロンにとって厳しいことが起って来ます。

 それがレビ記10章に最初に書かれてあります。アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主のみ前にささげましたが、それは、主の命じられたものではなく、規定に反した炭火でした。すると、主の御前から火が出て2人を焼き、彼らは主の御前で死んだのです。このアロンの子らの死は、神の教えを守ることの意味をはっきりと示しています。

 そして、レビ記11章の清いものと汚れたものに関する規定です。清いものと汚れたもの、それは、食べていいものと食べてはならないものが具体的な指示がここで書かれてあります。動物、魚、鳥、昆虫、爬虫類などです。食べていいものは、ひづめが分かれ、反すうするものです。牛や羊ややぎなどです。食べてはいけないものは、らくだ、いのししなどです。魚はひれ、うろこのあるものは食べてもいいのです。魚としてひれ、うろこのないものはたべてはいけないとされています。本当に細かく指示されています。 この食べてもいいものと食べてはいけないものをユダヤ人はずっと守って来たと考えられます。神の前に、清いものと汚れているものとのはっきりとした区別がされていたのです。その神の教えをユダヤ人はずっと守ってきたのです。

 カイサリアからヤッファへ、コルネリウスから送られた3人がやって来ます。そのころ、ペトロは祈るために屋上に上がりました。昼の12時ぐらいでした。ペトロは空腹を覚え、何かを食べたいと思ったのです。下の階では、人々が食事の準備をしているところでした。ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見たのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」という声がしたのです。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えました。すると、「神が清めたものを清くないなどと、あなたはいってはならない」という声がありました。その入れ物は急に天に引き上げられました。

 また、しばらくして、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見たのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」という声がしたのです。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えました。すると、「神が清めたものを清くないなどと、あなたはいってはならない」という声がありました。その入れ物は急に天に引き上げられました。

 また、しばらくして、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅に吊るされて、地上に下りて来るのを見たのです。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、「ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい」という声がしたのです。ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と答えました。すると、「神が清めたものを清くないなどと、あなたはいってはならない」という声がありました。その入れ物は急に天に引き上げられました。

 このようなことが3回起ったのです。思い出せば、ペトロがイエス様を知らないと否定したのも3回でした。復活したイエス様が、ペトロに「わたしを愛しているか」と問うたのも3回でした。3回という回数は、聖書では大切なものだと考えられます。この3回で、神がいわんとすることは、レビ記の解釈が大きく変っていくということです。レビ記11章で書かれていた清いものと汚れていたものを区別すること、食べてもいいものと食べてはならないものの区別がなくなったということです。旧約聖書で区別されていたものが、新約聖書に入って、その区別がなくなったということです。神がペトロに幻を通して、そのことを伝えています。

 もう一度いいますが、旧約聖書のレビ記で、神がモーセを通して、清いものと汚れたものを区別せよ、食べてもよいものと食べてはならないものを区別せよと、いわれていたことが、ユダヤ人がずっと守って来たことを、ここで、神はペトロを通して、大きく変更しているのです。清いものと汚れたものの区別、食べてもよいものと食べてはならないものの区別がなくなっていくことです。この変更には、イエス・キリストの十字架があったのです。このイエス・キリストの十字架は、聖書の考えを大きく変えていくものになっていくのです。

 この聖書の内容の大きな変更はペトロ自身も教会の人々も受け取るまで、きっと時間がかかったと思います。ユダヤ教の人々の間では、そのことを受け止めることができないでいました。教会は、この変更を受け止め、実行する時に、ユダヤ教の大きな抵抗を受けることになっていきます。神の救いはユダヤ人だけのものと考えられていました。実は、それは一時的な理解に過ぎなかったのです。神は聖書を通して、すべての人々神の救いを与える計画を最初からしていました。それが分かる聖書の箇所が以下の通りです。

使徒1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

創世記12:1~3
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。神の救いはユダヤ人から異邦人に伝えられていく様子をみることができました。大きな変化ですが、それはもともとあなたが計画されていたことでした。神の救いの大きさを知ることができました。深く感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


7月3日の祈祷会の内容です。

2024-07-02 19:53:00 | 日記
祈祷会    士師記5:19~31「デボラの歌-母の悲しみ-」   2024.7.3

 士師デボラの歌の後半の部分です。イスラエルの人々は、カナン人と戦うことになりました。カナン人は戦車900両を持っています。圧倒的な軍事力を持っていました。その敵とイスラエルは戦うことになるのでした。神の助けによって、イスラエルの人々はカナン人に勝利することができました。その戦いの勝利を歌ったのがデボラの歌です。歌の前半は、戦うための準備のことが歌われていました。そしての今日の後半の部分は戦いとその勝利、カイン人へベルの妻ヤエルがカナン人の将軍シセラを暗殺したことを褒め称えています。そして、シセラの母の悲しみを歌っています。

・5:19~23、イスラエルとカナン人の戦い、そして勝利。
 キション川で戦いが始まっていきます。イスラエルはカナン人に夜襲をしたのかもしれません。カナン人には戦車900両もあったのですが、平野での戦いならば、勝利するはずでした。しかし、カナン人にしてみれば、予想もしていなかった大雨が降り、地面はぬかり、戦車は車輪が泥にはまって動くことができなくなり、逆に戦いの邪魔になってしまいました。このようにしてカナン人は敗北してしまったのです。シセラの軍勢はすべて剣で倒れ、1人も残らなかったとあります。(4:16)シセラだけが生き残って、逃げて行きます。逃げた先がカイン人へベルの妻ヤエルの天幕でした。カナン人の王とカイン人へベルの一族の間では友好的だったとあります。シセラは安心して、ヤエルの天幕に逃げて行ったのです。

・5:24~27、カイン人へベルの妻ヤエルの祝福。
 女たちの中で最も祝福されるのはカイン人へベルの妻ヤエルと歌っています。シセラが安心してヤエルの天幕に逃げて行きました。ヤエルから水を求められた時に、貴人にふさわしい器でミルクを与えたのでした。シセラは安心して熟睡してしまったのです。その時に、ヤエルは手を伸ばして天幕に使う釘を取り、職人の槌を右手に握って、シセラの頭に打ち込んで砕きました。こめかみを打ち、刺し貫いたのです。ヤエルの足もとに、シセラはかがみこみ、倒れ、伏しました。ヤエルの足もとに、シセラはかがみこみ、倒れたのです。かがみこみ、そこに倒れて息絶えたのです。カナン人とイスラエルの戦いでしたが、カナン人の将軍シセラを殺したのが、カイン人へベルの妻ヤエルだったのです。自分たちの命を守るためだったということですが、イスラエルにしてみれば、ヤエルは敵の将軍シセラを打った英雄ということになるでしょう。そのために、ヤエルのことを最も祝福されると歌っています。

・5:28~30、シセラの母の悲しみ。
 それまで、カナン人の将軍シセラは、戦いに勝利続けていたのでしょう。戦いに負けるということを経験していなかったと思われます。いつもは戦いの勝利を報告してくれていた息子のシセラが、今度のイスラエルとの戦いでは、なかなか戻って来ないのを心配している様子を歌っています。シセラの母は、窓から外を見て、格子を通して嘆いているのです。「どうして彼の車は遅れているのか。どうして馬のひづめの音は遅いのか。」と。近くの賢い女官たちが答えて「戦利品を獲て、分けているのでしょう。兵士それぞれに1人か2人の女性を与えようとしているのでしょう。シセラには染めた布が戦利品、刺しゅうした布、染めた布、その首には刺しゅうした布2枚、これが戦利品」といったのです。母も同じ言葉を自分に何度も言い聞かせたと歌っています。

 このデボラの歌の特徴としては、敵の将軍シセラの母の悲しみを歌っているところだと思います。戦争によって勝利と敗北とあります。でも、戦争の結果として多くの戦死者が出ていることは、敵に味方関係なくあります。この戦争の結果として、どれだけの母の悲しみがあったのでしょう。カナン人の何人の人が亡くなったのでしょうか。何人の母親が悲しんでいるのでしょうか。イスラエルの人々の中で、何人が亡くなったのでしょうか。何人の母親が悲しんいるのでしょうか。戦争は悲しみを多くもたらします。多くの苦しみをもたらします。それが分かっているのに、どうして、人間は戦争を繰り返すのでしょうか。

・ルカ7:11~17のナインのやもめの話から、
 ルカ7:11~13
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。

 イエス様の奇跡物語の1つ、ナインのやもめの話です。母親と1人息子がいました。母親にとって大切な1人息子が亡くなってしまいました。ちょうど亡くなった1人息子の葬儀が行われていました。イエス様は悲しんでいる母親に「もう泣かなくてもよい」と声をかけられ、死んだ1人息子をよみがえらせてくださったのです。母親は喜びました。ナインの村の人々は神を賛美したのでした。戦争が起ると、何人の母親が悲しむのでしょうか。かつての日本も多くの母親の悲しみがありました。そして今も、戦地では多くの母親の悲しみがあります。世界に起っている戦争に対して、私たちは無力に感じます。何もできない、どうすることもできないという思いがあります。「神よ、世界に戦争がなくなり、悲しむ母親がいなくなくなることを願います」と祈りたいと思います。

祈り 聖書の学びと祈り時を与えてくださり、ありがとうございます。人間の歩みの中で、いつも戦争がありました。そして今も、これからも戦争が起っています。少しでも世界の平和のために祈りたいと思います。ただただ、あなたに向かって祈ります。「平和な世界が来ますように」と。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)