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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

欲張り?いえいえだたの貧乏性な旅【③乗り鉄しながら大好物の食材を仕入れて帰路につく】

2024-10-16 13:23:59 | 旅行

今回の貧乏性の小さな旅 3日目(10月13日:日曜日)

 

音花火の段雷がドンドンドンと鳴り響き時計を見ると朝6時

その後も万雷(ダダダッ、パラパラパラ)が続き

 

そう言えば、子供の頃から運動会、お祭りと

催しがある日になると鳴り響いてたなと思いだし

昔は10月10日と言えば 

実家のある橋良神社の例祭日だったなと記憶が蘇り

ネットで調べてみるとやはりそのとおり

ただ、よくよく開催場所を見てみると

神社ではない近くの広場

 

Google Mapsの航空写真を調べてみると

神社は住宅の中に埋もれ 

由緒ある村祭りの名物、手筒花火を奉納することもできない様子

 

私が子供の頃は、神社は田圃や畑に囲まれて

(↓は1961年頃)

 

普段は夜ともなると暗闇の中

ところが祭りになると、豊橋はテキヤの町なので

参道の両側にはいくつもの屋台が並び

煌煌と裸電球で眩しいほどになり

昼は神社の行事と餅投げがあるので山ほど人が集まり

広場には大きな幕が張られ

夜は映画の上演会

(子供向けの東宝のゴジラやモスラ、大映の大魔神と

大人向けは兵隊ヤクザ、森繫の社長シリーズなど)

そしてフィナーレが青年団による手筒花火の奉納

 

↓豊橋のある三河は徳川のお膝元なので

江戸時代禁制だった火薬類を取り扱えたため

花火づくりが盛んで

青年団のメンバーは祭りに備えて竹を切り

竹筒の節を抜いて火薬を詰め、破裂しないように藁縄を巻き

この筒を抱えて火をつけて火柱があがる中耐え続け

最後に底の火薬玉が爆発するまでの度胸試しなんです。

(青年団は朝から神輿を担いで町内を練り歩くのですが

家々で振る舞われる酒に酔ってみなベロンベロンになってました

 

子供達には、近所の集会場で花火のセットが配布され

特に男の子は爆竹を打ち鳴らすのがある種の根性試し

 

導火線に線香で火をつけて

いつまで持っていられるかを競うのですが

爆竹によって火の回りが違うので

指から離す前に爆発してしまい

血豆を作ってしまうのがある種のルーティン(笑)

 

1970年代まではまだ周辺には畑も残っていて

なんとか神社で実施されてたと記憶していますが・・・

 

もう騒音だとか火の粉で火事になるとか

周辺住民からのクレームで

神社ではできなくなっちゃったんだろうなぁ

そんなことを思い出しながら

『もう一泊して祭りも覗いてみようかな』とも、一瞬考えましたが

 

どうせまた、浦島太郎のように現実を知らされて落胆しちゃうだろうなと思い直し

もう奈良に帰ることを決め

 

頭の中でその日の旅程を組立て

 

9時過ぎにホテルをチェックアウト

普段なら最初の目的地には歩いて向かうのですが

この日は、実は大きめな保冷バッグと着替え類を入れた布製バックを抱えていたため

市電(路面電車)を使うことにしちゃいました

この豊橋の市電

駅前からその昔、軍都だった頃に師団や郊外の花街への足として開通したもので

全国各地の市電と比べると距離も支線もほとんどありませんが

沿線にいくつかの私学の高校があって通学での需要と

市役所や警察署、陸上競技場、野球場などの公共施設に

最近の車離れもあるのか、いまでもそこそこの利用者があるため

市民の便利な足となってるんです。

また、豊橋名物にちくわと練り製品があるため

冬には”オデン車” 夏には”納涼ビール電車”なるイベント車両も運行したりするんですよ。

 

この車両は、元都電荒川線の7000形(モ3500型)みたい

 

この日は、駅から3番目の停車場”札木”で下車

 

この札木というところ

東海道の街道沿いにあって、江戸時代以前から旅館や待合茶屋で賑わってた場所で

城下町時代からの商店街(?)もあって

そのひとつ、魚町にあるヤマサちくわの本店と

豊橋っ子の台所、スーパーサンヨネで食材を仕入れるためでした。

ちくわとオデンネタと花かつお&刺身用鰹の柵を買って

すぐさま、またまた市電に乗り込み

(T1000形 ほっトラム H.20)

 

 

 




 

急いで豊橋駅に戻り 豊橋鉄道の渥美線新豊橋駅へ

私にとっては馴染みのない

たぶん東急の中古車両(モ1800形)に乗り込み

(1997年に電圧を600Vから1500Vに昇圧したため昔の車輛が使えなくなったんです

 

田原市のやぐま台駅で下車

 

 駅から約1.5km、早歩きで15分後、次の目的地”千春うなぎ”に到着

実は、これまでは鰻もスーパーサンヨネで生鰻(但し、開いてあるもの)を買ってたのですが

あまり満足していなかったため

 

以前田原に行く途中で、国道沿いで看板を見つけ

航空写真から養鰻場の直営だろうと思い込み

一度味見してみようと

開店時間の9時に電話をかけて10時半頃取りに行きますと伝えていたのですが

移動時間の憶測を誤ってしまったため

焦って向かったのですが

焼きたて鰻を手渡されて万歳三唱

ただ、航空写真からてっきり養鰻場の直売だと思ってたら

養殖池は既にソーラーパネルに覆われて

契約養鰻場から生鰻を仕入れ

加工販売(主にスーパーなどへの卸)にしちゃったらしいです。

まあ、浜名湖周辺も、養鰻130年の歴史を持つ豊橋も

昔のように露天の養殖池では温度管理が難しく

ハウスで温度調整しながらと手間もお金もかかるようになって

浜名湖では養鰻からスッポンに変えたり

養鰻を廃業してソーラーパネルだらけになっちゃいました。

 

そんな事を考えながら”やぐま台駅”への戻り道

このところ渥美半島のほとんどが栽培しているキャベツ畑を発見

このキャベツ、栽培期間が短くて楽とか、年間を通して何度でも栽培できる様子で

収穫前の畑の横に、種なのか苗なのか植えられてばかりの畑も混在していて

驚かされます。

豊橋市内でもキャベツの栽培が盛んなのですが

道を隔てた豊橋市内側はいまも稲作が中心の様子

 

またまた15分ほどでやぐま台駅に到着したところ

渥美線のほとんど駅がパーク&ライドになっているのを発見

 

市電同様、車社会になってローカル線はほとんど存続の危機に陥ってるのに

豊橋周辺では、このパーク&ライドが成功して

市電は通勤・通学のピーク時が9本/時 その他でも7本/時

渥美線も約15分間隔で運行されて

需要と供給のバランスを保っているようです。

 

反面、路線バスはどんどん運行本数が減少し

路線が廃止されたりルート変更したりと惨憺たる状況で

『この先どうなっちゃうんだろ?』と思いつつ

傍観するしかないもんなと寂しい気持ちに

 

そしてまた渥美線に乗り込み

軍都時代の遺跡のひとつ

現在の高師緑地、軍都時代からの松並木が残されてるんです。

これらの松、根元に近いところの樹皮を剥がれ溝が刻まれた木だらけ

戦争末期、松脂を採取していた様子がわかり歴史を実感させられます。

この渥美線での移動の軌跡はこんな感じ↓

千春うなぎまでが↓

11:55 豊橋駅前着

その後、急いで金券ショップに向かい

名古屋までの切符を買ったのですが

 

名古屋では、名鉄が1,100円、JRでも1,010円なのに

豊橋で買うと920円 または830円(名鉄休日キップ)

 

前日、名鉄で豊橋に来てたので

あえてJRで名古屋まで行こうと休日でも高いJRを購入

 

我ながら面倒臭いヤツだなぁと思いつつ

 

さて、新幹線改札口にあったのが

この↓ アニメの聖地巡礼マップ

 

聖地巡礼が大好きだけどアニメには興味ないので

歯牙にもかけず

 

お昼にと立ち食いのお店へ

今でこそプラッチック(関西人風)の容器になっちゃいましたが

その昔は、駅の改札口近くの構内にあった平屋の建物で

各ホームに向かう跨線橋の袂にあって

冬になると開けられた引き戸から湯気がモウモウとあがっていて

素通りできずに暖簾をくぐり「きしめんひとつ」と注文したものでした。

 

浦島太郎は昔の記憶が鮮明に残ってるので

『今はもう別物だな』と思いつつ

ついつい立ち寄ってしまうのであります。

 

あと昔からあるお店としては

豊橋のものではありませんが

昔から人気の”知立名物の大あんまき”

 

あと、立ち食いそば&きしめんの店と同じ経営の壺屋の稲荷寿し

豊橋の名物駅弁と言ったらこの”稲荷寿し”で

豊川鉄道(豊川稲荷へ行くための私鉄で、現在の飯田線)の起点だったので

この弁当が生まれたんだと思います。

『ショボイ弁当だよなぁ』と思っていましたが

この歳になると、あの甘辛い稲荷(油揚げ)が無性に食べたくなったりします。

そしてまたまた豊橋始発の岐阜行快速に乗り込み

名古屋駅では連絡通路で近鉄に移り

13:30発の大阪なんば行アーバンライナーに乗車

お昼がきしめんだけだったので

缶ビールのロング缶2本とアテを買い込み

 

15:20大和八木で下車

京都行特急に乗り換えのため下の橿原・京都線のホームに移動したところ

近鉄の新型車両発見

10月にデビューしたばかりの「8A系」

インバウンド観光客が激増しているからか

優先座席にはキャリーバッグのストッパーがあるんですよ。

 

この新型車両に乗りたい気持ちいっぱいでしたが

乗り換えの特急に追い越されるので

諦めてビスタカーの2Fシートへ

 

15:50 最寄り駅に迎えにきてくれたチャンカーの車に乗り込み

16:00無事帰宅となりました。

この日の移動の軌跡はこんな感じ↓

 

この日、豊橋で仕入れてきた食材は

ヤマサのちくわで

特選ちくわ5本入りx2

半月(はんぺん)

上揚げ半

一口きんぴら

青じそ揚げ

野菜ソフト

(値上げしまくりでこれで約4,000円弱

 

続いて 千春のうなぎ

上から 肝焼き(100g)500円

白焼き2尾 @1,800円

タレ焼き @1,900円

クロッチとわけわけ(?)用

サンヨネのかつお削り 3袋

 

これまたクロッチとわけわけ用に 生鰹 税込み951円

 

 

因みに、今回お試しで買った 千春のうなぎ

身は分厚くて、柔らかくて、タレもメッチャ美味しくて

 

チャンカーも大喜び

 

カク一(かくいち)と言い

帰省する楽しみがまた増えちゃいました

 

ありがたや ありがたや

 

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欲張り?いえいえだたの貧乏性な旅【②時間を無駄にしたくないなと旅程変更して伊勢湾フェリー特別運航】

2024-10-15 15:01:58 | 旅行

実は、今回の旅

一番最初に日程を決めたキッカケが

ネットニュースで知らされたこの↓情報

なんせ、幼少の頃からお伊勢さん詣でと言えば

地元からの団体バス

渥美半島の付け根の故郷豊橋からバスで伊良湖岬へ行き

伊勢湾フェリーで鳥羽に渡り

二見ケ浦の夫婦岩に立ち寄ってから外宮、内宮を周り

また伊勢湾フェリーで帰るのが最もポピュラーなコース

 

なんせ当時は陸路を電車で名古屋回りするにしても

近鉄は宇治山田までしかなく

 

道路では東名しかない時代で

せいぜい国道1号線から名四国道で四日市に出てから延々と下道を走る

 

そんなとてつもなく不便で面倒な時代だったので

豊橋より東方面からの利用者(団体バス)は、東名を三ケ日か豊川ICで下りて

間違いなく伊勢湾フェリーを使っていたため大盛況だったのですが・・・

 

自分自身も中学を卒業して鳥羽の商船学校に入学し

全寮制でしたが、父が大病を患ったこともあって、母から顔を見せに帰っておいでと

月に2度ほど帰省時に利用していたため

学生時代だけでたぶん200回は乗船

 

その後も奈良から豊橋に帰省するのに度々利用してきたフェリー

何だかんだ300回くらい乗ったでしょうか。

 

高速道路も東名名古屋ICから名古屋市内の都市高速に

東名阪に繋がるバイパスができ

東名阪も年々延伸してゆき

更には伊勢自動車道も年を追うごとに延伸し

伊勢までつながったのは2005年だったかな?

 

そうして陸路からのルートも選択肢となっていたところに

あの悪夢の民主党政権時代に

休日高速道路上限1,000円なる愚策によって

 

伊勢湾フェリーの利用者が激減

 

そのうえ、2005年に師崎航路を常滑航路に変更し

伊勢にターミナルを新設する計画が頓挫するなど

経営の失敗もあって立ち行かない状態に追い込まれ

 

2010年に運航を終了して会社を清算すると発表して廃止届を提出したことから

関係自治体(愛知県、三重県、田原市、鳥羽市)が全株式を買収して

航路が存続されることになったものの

 

経営状況は、初詣やGW,夏休み、SW以外はガラガラで

そのため運賃(特に車両の航送)も高めとなってしまい

一時期は6隻もあった船も3隻となって

船齢も29年、20年、19年と老朽船ばかり

 

これからどうなっちゃうんだろう?と不安に思ってたので

このニュースは信じられないような画期的な朗報

と言うのも

蒲郡は、東名なら音羽蒲郡ICから距離にして10km弱

まもなく全通する国道23号線バイパスの蒲郡ICからならたぶん5km以内

鉄道では豊橋で新幹線から東海道本線に乗り換えて蒲郡駅までわずか10分

駅から埠頭まで徒歩5分程度なのでアクセス抜群なんです。

 

今回は、蒲郡市が積極的に動いて実証実験を兼ねた臨時特別運航でしたが

愛知県三河以東、関東方面から伊勢志摩だけじゃなく関西方面へのアクセスにも使えるルートで

勿論反対に関西方面から東海・関東方面へのアクセスも混雑する名古屋周辺を迂回できて

乗船中は身体を休めることができるし

 

乗船運賃や車両の航送運賃が納得できる額であれば

伊勢湾フェリーも復活できるかも

 

と心の底から期待してるんです

 

(現在は、加藤汽船のグループ会社らしいです)

 

そんな背景もあって

この実証実験運航に乗ってみたくて

 

何日にどこから乗ろうか?といろんなパターンで得意の妄想をしていたのですが

 

この特別運航を知ったのが8月26日

京都南座の錦秋喜劇特別公演のチケットを購入したのが9月9日で

観劇日を10月11日午前の部に決め

(稲刈りに気を揉まなくてもよい頃にと思って)

 

乗船は京都から日を置いて三連休の最終日にしようと思っていたところ

YouTubeで観たTV愛知の番組で紹介されていた

名古屋の飲食店(あんかけスパ”コモ”、香蘭園、屋台ラーメンヤムヤム)と
飲み助の投稿で豊橋の飲み屋(”カク一”、”花せん”、”喜喜”)に無性に行きたくなってしまい

 

それならとりあえずと

11日に京都での観劇を済ませてから直接豊橋に向い”カク一”の下見を終え

12日はホテルでのんびりと”母の待つ里”をネットで鑑賞して

夜、”花せん”を訪ねゆっくりと酒と肴を楽しみ

 

13日に豊橋で大好物の食材を買い込んでから蒲郡に移動して

フェリーに乗って鳥羽から奈良に帰ろうと思っていたのですが

 

”カク一”で楽しい時間を過ごせたのに気を良くして

『昼からホテルで缶詰めしてちゃあ勿体ないな』と思いだし

 

急遽、どうせなら蒲郡航路の第一便に乗ってやろうと

朝一で豊橋駅に向かい

東海道本線の岐阜行快速に乗車

蒲郡駅から徒歩数分距離の埠頭に着いたのが

出航時間の9時より30分以上前だったので余裕だろうと思っていたら

この↓大行列 

実は、ほとんどが前売り券を買っていた人達でしたが

ネットで購入するため、その確認作業が遅々として進まず

 

当日券の乗客は後回しとなって

この時すでに時刻は8:57

(中央右のGAMAの前で名刺交換してるのは蒲郡市長)

 

それでも一応8:59には乗船できましたが

船内はこの有様

三谷水産高校の漁業実習船も”賑やかし”に来てました

(↓ 蒲郡のランドマーク、蒲郡クラッシックホテルと竹島)

西浦温泉街と三ヶ根山も遠望でき

佐久島、日間賀島、篠島を横目に伊勢湾に入り

伊良湖沖からはいつもの航路

 

つい最近就航した鳥羽市営船の新造船と行き違い

答志島と菅島の間を抜けるとやがて鳥羽の町が

 

いまや廃墟となってしまった”ニュー美しま”

 

ミキモト真珠島を眺めながら

『海女の実演だけなら久慈まで行かなくてもいいんだけど、北限の海女はまた違うんだよなぁ』 

と先日、海が荒れてて中止となったのを思い出してました

11:00 蒲郡から2時間後 無事鳥羽到着

水族館の入場口へのショートカットを抜けようと思ったら

いまは通れなくなっていて結局大回り

ミキモト真珠島

学生時代の1973年頃には

まだ橋が架けられてなく通船で渡ってたんですけどご存知かな?

 

あと、学生時代の漕艇(カッター)の時間は

学校から漕いできて真珠島を一周してましたねぇ

(夫婦岩の二見ケ浦方面も良く漕いでいってましたが、

当時は団体の観光客だらけで黄色い声援に喜んだりしてました

入場料を見たら1,650円だったかな

学生時代は鳥羽水族館もミキモト真珠島も気楽に入れる料金だったのになぁ

(もしかしたら学割りだったかも

 

こちらは、廃墟となったニュー美しまの本店 ”美しま”

倒産してこちらも廃墟となってしまいましたが

少し年上の美人の娘さん(美しまのエッチャン)に片思いしてたなぁ

こちらは、”喫茶テネシー”

ここのオーナーさん、他所から来た方で

学生時代、居酒屋でアルバイトしてた時に

毎晩のように訪れて常連になっていて

カウンターに座ってはバイトにもビールを注いでくれました

こちらも居酒屋時代の常連さんのお店

いろんな因縁を持った間柄でした

↓この通りが鳥羽のメインストリートで

道路の左の空き地に修学旅行生や団体観光客が下駄履きに浴衣姿でウロウロしてたお土産屋さん

その奥に”国際秘宝館”もできてたんですよ。(結局入ったことなかったけど

 

この↓真珠屋さん、同級生の一人がここの娘に惚れ込まれて追いかけられてましたねぇ

こちらは地元の漁師の嫁さん達が商売している飲食店

その昔、俺たち商船学校の学生の、特に若い低学年が歩いてると

「ほらニイチャン、これ見てみぃ!オ〇コそっくりやろ

とニタリ貝を手にもってからかわれたものでした。

 

それにしても、今時は大あさりが1,100円もするなんてビックリ

学生時代は200円もしなかったと思うんだけどなぁ

そんな想い出探ししながら鳥羽駅に到着

電車の運転士さんに尋ねたところ

名古屋方面の特急の乗り継ぎが宇治山田だったので

停車していた普通電車に乗車

最近、中吊り広告を含めた一切の広告を無くして

テーマでデコレーションした車両が登場していますが

これもそのひとつ

伊勢志摩のマリンリゾート車両で売り込んでいました。

やがて伊勢方面に向かって右手に海が見えたら

その反対側には我が母校が

その昔は学校の敷地ギリギリの海岸線に沿った国道しかなく

 

入り江には旧艇庫と古い大昔には陸上帆船もあったのですが

国鉄の線路ができ、近鉄も延伸して並行する線路ができ

その後線路沿いに直線のバイパスができてしまいました。

 

やがて電車は宇治山田駅に到着

 

↓この宇治山田駅前にある伊勢市民会館

丁度1年生の年(1973年)の秋にキャロルのコンサートがあり

メンバーの誰かと鎌倉出身の上級生に縁故があったとかで

ほぼ無理やりチケットを買わされて観に行きましたが

超絶頂期で痺れちゃいました

この右手の和風の建物は

宮内庁、神宮司庁御用達とも言われてる老舗割烹の”大喜”

まだ古い建物だった時代に

電車でお伊勢さん詣りをした帰りに家族でお昼に立ち寄って 

ビールのアテに伊勢名物の”サメのタレ”を注文したのですが

給仕のオバチャンが目の前で一切れ落としてしまい

 

「新しいのを持ってきます」と厨房に戻ったのですが

すぐに「新しいのお持ちしました」と言ったのですが

実は、厨房で「サッと拭いといたらええやん」と話していたのが筒抜け

 

申し訳ないけど、もう30年近く前のことなのに

すっかり脳裏に刻まれてしまいました

この近鉄宇治山田駅

その昔は修学旅行生だらけでしたが

昨今はガラガラ

でも歴史を感じさせるとても魅力ある建物なんですよ。

ほどなくして到着した特急に乗り込み 一路名古屋へ

 

名古屋駅で地下鉄東山線に乗り換えて

栄の久屋大通を横切って

そう、実は”行きたいところ”のひとつ 

名古屋のあんかけスパ”コモ”へ今回の旅の間に行こうと思いついたのが

日程&旅程を変更した理由でした

なんせ豊橋の人間にとっては

あんかけスパ=オーギヤのすぱげっ亭”チャオ”で

鉄板に溶き卵を敷いた上でジュージュー音を立ててるスパを

ハフハフ、フーフー、ズルズルと食べるものを思っているため

 

ここまで必死になって食べてみたものの

あんかけソースもパスタも、残念ながらわたくしの好みではありませんでした。

14:20 まあ、そんなこともあらーな(味が期待外れ)と思いつつ

前日の飲み疲れ+移動疲れもあって

さっさと豊橋に戻ろうと今度は名城線で金山に出ることに

金山に到着してからは

昔からのクセで、豊橋までの切符は金券ショップでと

駅近の自動販売機で購入

(JRなら1,010円、名鉄は株主優待で1,100円)

往路が蒲郡までJRだったので

子供の頃から乗りなれた名鉄にしちゃいました。

この金山~豊橋の運賃(所要時間)

いまは名鉄が1,270円(45分) JRは1,180円(51分)で

名古屋になると

名鉄1,270円(50分) JR1,340円(56分)

 

国鉄時代は、本数は少ないし所要時間はもっと長く運賃もずっと高かったため

豊橋人の頭には名古屋方面へ国鉄(JR)を使うことは考えられませんでしたねぇ。

そんな他愛もないことを思い出しながら

15:40豊橋到着

そこそこ移動疲れしていたので

とりあえずホテルに戻り

 この日の移動はこんな感じ↓

蒲郡駅前から臨時フェリー乗り場となった埠頭まで


こちらは鳥羽のフェリー乗り場から近鉄鳥羽駅まで

そして名古屋
名駅から地下鉄東山線で栄
栄の久屋大通から大津通&広小路のコモで食事して
地下鉄名城線で金山に出て名鉄に乗車


それにしても
ホテルで缶詰めになってるのがイヤだからって
こんな大回りするかなぁ
 
ああヤダヤダ
貧乏性な我が身が情けない
 
 
その後、

今夜訪れようと考えていた”花せん”に電話したのですが

まだ時間が早すぎて応答がなかったので

お風呂に入って疲れを癒してから5時過ぎに電話すると

「本日はカウンターが埋まってるので、空いたらお電話します」とのこと

 

開店が6時だったので

少なくとも2時間は空かないだろうなと見当をつけて一眠り

そろそろかなと8時過ぎにホテルを出て

繁華街に向けて歩いていると電話が入り
「遅くなりましたけど、いまカウンター空きました。来られますか」と尋ねられたので

「はい、15分くらいで着けると思います」と返事して

駅前の昭和の香り漂う一角にある”花せん”に到着

口コミで魚が美味しいとあったので

またまた鰹の刺身と

マスターが一人で厨房をこなしてると書き込みがあって

時間がかかることがあるとあったので

作り置きのオデンと肉じゃがを注文

続いて 鰆のたたきと

焼き牡蠣を注文

 

実は、この店も年末の同級&同窓会の場所にとお試しで選んだのですが

お刺身類はそれなりのネタを揃えていて合格点でしたが

”オデン”と”肉じゃが”は味が濃すぎたのと

オデンネタが残念すぎて私のクチには合いませんでした。

 

まあ、人ぞれぞれ好みがあるので

もし店主の方がこのブログを読む機会があっても気にしないでくださいね。

 

そしてこの日も疲れからハシゴする気にならなくて

アッサリとホテルに帰りました。

今回泊まったホテル

そこそこ古くからのビジネスホテルで

1泊素泊まり5,500円と超リーズナブル

夜しか使えませんが大浴場もあって

ガテン系の利用者やスポーツ系の団体が

朝・夕の食事付きで人気の宿

 

駐車場もタダなので、お得に泊まろうと思ってる方には重宝すると思います。

 

【③に続く】

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欲張り?いえいえだたの貧乏性な旅【①京都南座で観劇してから豊橋のレトロな居酒屋へ】

2024-10-14 11:39:46 | ハンマーナイフ&草刈り

【2024年10月11日~13日のいつもながらの落ち着きのない旅の記録です

 

一昨年、藤山寛美三十三回忌追善で

藤山直美さん主演の”はなのお六”

(藤山寛美の”はなの六兵衛”の女版)を京都南座で観劇してから

 

すっかり虜になってしまい

わが社の社員さん(♀)にもお母さんと一緒にと

勤続のお礼と福利厚生を兼ねて

昨年も”大阪ぎらい”をプレゼントして喜んでくれた様子だったので

今年も希望日を聞いて販売開始時にネットで席を押さえ

 

鶴橋市場への漬物類の買い出しと上本町での立ち飲みがてら

道頓堀の松竹座でチケットを受け取り

観劇日が異なるのでチケットを渡し

 

いよいよ自分の観劇日(10月11日)となったので

朝からワクワクしながら京都四条の南座へ

 

近鉄大和西大寺から近鉄京都線で丹波橋下車

連絡橋を渡って

京阪電車の出町柳行に乗車

毎度のことながら

ついつい早く到着してしまい

(開演11:00なのに10:00に到着)

ちょっと早すぎちゃったけど

『これはジャンボ宝くじを買いなさい!』との神様の思し召しかと

ハロウィンジャンボを購入し

 

お気に入りの白川沿いのコンビニのイートインで

お茶しようと思っていたら、すでに別の店になってました。。。

奥まってて隠れ座敷的存在が良かったんだけど

目立たないぶん利用者が少なすぎてきつかったんだろうな

今回は、なだ万のお弁当じゃなくていいや

近くの丹波屋で赤飯と山菜おこわと安倍川を買い 

開演30分前に入場

一昨年が一等席で花道横

昨年は特等にして左の桟敷席だったのですが

全体と俯瞰するには同じ特等席で2階席の最前列が良いかな?と

1列20番としたのですが・・・

開演してみるとテレビで観ているような全体が眺めれる席で良かったんだけど

加齢で視力が弱まったのか

ピントが合わず役者さんの表情まで見られず大焦り

最初の幕間に急いでオペラグラスを購入したのですが

千円そこそこの安っぽいのと

ちょっと上のクラスの八千円のものと

一万一千円のを試してみたところ

 

売り場に行くまではその日だけ観れたらいいやと

千円(税別)のでいいやと思っていたのに

バードウォッチングや双眼鏡替わりに使ったらいいんじゃない?と

ついつい最上級のを選んじゃいました

(ただ、藤山直美さんの厚化粧の下の皺までクッキリでした

幕間に丹波屋で買ったお赤飯食べようと思ってたのに

運がいいのか悪いのか、二階席の通路横に

今年の4月から営業を始めたなだ万茶屋を見つけてしまい

ついつい食べちゃいました~

 ただ、当然ながら”なだ万”値段でしたねぇ

 

今年の”太夫(こったい)さん”

これまでなら演目がふたつあったのに

今年は一つだけ

田村亮さんと三林京子さんの方が台詞が多かったような気がします。

 

藤山直美さんも笑わせてくれたけど

もしかしたら体力的に辛いのかも? そんな印象も

 

年齢層が高いからか、今年の錦秋公演は

ほとんどが午前だけだったり、休演日もそこそこあって

あと何年観ることができるのかなぁと、つい寂しい思いも

 

いずれにしても観劇を楽しんでから

急いで四条烏丸までインバウンド観光客だらけの歩道を

競歩で歩き地下鉄で京都駅に出て

大急ぎで15:10発の新幹線(こだま)に乗り込み

おやつに安倍川をいただいて

16:40豊橋駅到着

またまた急いでホテルに向かい

荷物を放り込んで

競歩で子供の頃から自転車で繁華街へ遊びに行く時に

しょっちゅう使ってた跨線橋(何年か前に建て替えられちゃいました)を渡り

豊橋駅は、いまでこそ

新幹線、東海道線、名鉄線、飯田線、豊橋鉄道渥美線だけになっちゃいましたが

子供の頃は、浜名湖の姫街道沿いで掛川まで結び永年SLが走ってた二俣線の始発駅で

更には貨物車の操車場もあって線路が山ほどあり

この跨線橋から電車に汽車、貨物車の操車を眺めていたものでした。

 

ここには、二俣線では昭和48年頃までSLが走っていたため

転車台があって車庫と給水と石炭の積み込みしてた場所

もう知ってる人間もあまり残ってないかもしれませんねぇ

感傷に浸るひまなく

またまた急いで水上ビルへ

この水上ビルというレトロな建造物

実は、下には牟呂用水が流れている暗渠の上に建つ建物で

小学生になりたての頃に建てられ

自分にとってもさまざまな歴史が刻まれた心のランドマーク

(ご参考までにこんな歴史があるんですよ↓)

https://www.pref.aichi.jp/site/toyogawabiyori/suijyo.html

実は、この日焦って豊橋に移動したのは

この古い割烹&居酒屋を訪れ

 

試してみて気に入ったら年末恒例の小学校5・6年の時の同級生との忘年会に

予約しようと思っていたため

(ネットでこの店を知って、いつもながらの猪突猛進)

この店、夕方の開店が17時からで

夜は特に呑兵衛に大人気で、予約しないと席が空いてないかも

と聞いていて

更に日曜日はお休みだったので

なんとしても入ろうと開店早々を狙ったからでした

流石は呑兵衛の聖地(笑)

当然のように赤星がありました。

豊橋と言えば 鰹の刺身

豊橋って土地は、渥美半島の付け根にあり

市街地は三河湾に、南は太平洋に面してるけど

漁港のないところなのに

(実は、浜名湖に舞阪漁港があり、根付きの鰹が豊橋で売られてたのがその背景)

 

なぜか鰹の刺身にはめっぽう舌が肥えていて

魚屋は勿論のこと、スーパーマーケットでも飲食店でもヘタな鰹を置けないというお土地柄

実家でも父も異母姉達も鰹が大好物で

この私もすっかり刷り込まれてるのでどうしても食べたかった一品

 

続いて、気仙沼からの生牡蠣もあると聞いてすかさず注文

続けて牛スジのドテ煮を頼み

カウンターで隣り合わせた常連さんたちとも打ち解け

ビールではお腹が膨らんでしまうなと

先日の三陸の旅からお気に入りのウーロンハイ(芋)にして

名物の出汁巻きと

豊橋なのでうずら玉子の串揚げを注文したのですが

 

さすがにボリュームがありすぎて

後から来店した常連さんにお裾分け

 

なんせ中学校卒業してから豊橋を離れ

既にしっかり半世紀ごえ

 

すっかり”浦島太郎”で昔のことばかり覚えてるのと

生まれ故郷を離れたからこそ

いろんなことを調べて雑学だらになってるため

地元民の知らない(覚えてない)ことを大熱演(笑)

 

たぶん少し年上の常連さんから

日本酒が売りの店なので美味しい日本酒飲んだらいいのに

と誘われましたが

「なんせ生ビール15杯ほど飲むのと、ビール党でなんでもビール飲みして泥酔しちゃうから」

など、会話を楽しんでそこそこいい気分で店を出て

他にも行ってみたい飲み屋をハシゴしようかなとも思ったのですが

実は翌日も朝からやり遂げたいことがあったため

深酒はやめておこうと

結局、いつもの町中華で 生ビールと餃子と〆の天津麺

この日もスマホに入れた

ルートヒストリーのアプリで移動の軌跡を残しておいたのですが

何が悪いのかGPSの受信が悪いとムチャクチャでしたが

移動距離:267.47km となりました。

 

【②に続く】

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑥Nuku’alofaでの生活編】

2024-10-08 16:01:45 | 日記

1982年 12月

ようやく鮪延縄漁業訓練船”Lofa”のNuku’alofaの岸壁での保守整備

(エンジン3台をオーバーホール)と

American Samoaでのドック入りを済ませ

 

久しぶりにNuku’alofaでの生活となり

桜井研次さんから引き継いだ家でホッと一息

 

昔の青年海外協力隊は技術を備えたプロ集団で

発展途上国の国造りの手助けできる人材を派遣するとしていたため

受入国側の条件として隊員が暮らす家を提供することなっていて

Tonga政府が協力隊員の住居として準備したのが”Government House”

そのGovernment House(FalePuleanga:官舎)のNo.39でしたが

”39=Tolu Hiva” にはどうやらおかしな逸話があるようで

『どこに住んでるの?』と尋ねられ、『39』と答えると

何故だかいつもみんな大笑い

 

オッとその前にTongatapu島と首都Nuku’alofa

その住居と水産局の位置関係をお知らせすると・・・

 

↓これがTongatapu島

Tonga=南 Tapu=俗にいう”タブー”神聖なるって意味


航空写真ではこんな感じ
(因みにMu’aとは英語で言うBeforeで昔という意味、Fa’amotuは飛行場のある場所)

Nuku’alofaを拡大すると↓
 
こちらの中心部で赤いマーカーの場所に私が暮らしていたGovernment Houseがありました。
上の海岸線の左上に写真スポットとその横に丸く写真のマークがある場所が王宮
Government Houseから勤務先である当時の水産局
(Ministry of Aguriculture and Forestry, Fisheries Division)
赤いマーカー位置までは距離にして4.5km バイク(車)で8分



 

その他、市内にはモダンな鉄筋コンクリートにアルミサッシの新築の官舎がありましたが

主に白人(欧米人)向けの家族持ち用で 

1983年以降に初めて理数科教師の女性隊員も派遣されるようになり

彼女達に提供されていました。(ウチのチャンカーもその一人)

 

それまでは、Tongaの協力隊員は初代が昭和47年で農業機械隊員、

その後はずっと水産局派遣のみで

9年目の私が12人目

この家は歴代の水産隊員が引き継いで使っていました。

 

玄関側に屋根付きのベランダがあり

12畳ほどのリビングと6畳ほどのベッドルーム

広いトイレとバスタブのあるシャワールーム

(電気温水ヒーター付きでしたが、これがまた漏電しててスイッチを入れてから水道栓を素手で触ると痺れるため木片で水量を調節と命懸け)

リビングの後ろには勝手口からも入れる

冷蔵庫とプロパンガスのオーブン付きのクッキングコンロのあるキッチンがあり

コンクリート製の雨水タンクのある中庭の後ろには

元女中部屋があり(歴代の日本人が置いていった書籍類や、

1979年にドラマ撮影があり【太陽は沈まず:竹脇無我主演、坂上忍も子役で出演のドラマ】

で使われたゴムボートを協力隊員のレジャー用に買い取ってくれたのでそれらの倉庫にしてました)

↓ 私の家にはBBQ用の網があり、休日に潜って獲ったサザエやその他貝類を焼いてBBQパーティーしてました。

こちら↓は リビングでわざとらしくポーズをとって写真撮影したもの

(日本の家族や当時のGFに様子を知らせようとカッコつけたりして)

 

↓ 手紙を書いている様子

なんせ文字を書くのが大嫌いだったので

私的な手紙以外では 

結局、合計5年弱の活動中、

レポートを書いたのは着任後と任期満了前の2度のみでしたが

(タイプライターは、日本で船会社で働いてた頃から使ってたOlivette。

主に日本のGFへのAir Mailの封筒と造船所へのドックオーダー用に使ってました。)

私の家の敷地にはココナッツの木が数本あり

たわわにココナッツ🥥が実ると毎月頼んでいた芝刈りの子供達にとって持ち帰らせていました。

↓ こちらは、鮪延縄船の乗組員がビールと食べ物を持ち込んできて

懇親会をした時の様子

 

なんせトンガ人、一人で20缶は飲むので大変でした(笑)

 

こちらは、休日王宮前の埠頭で飛び込みする子供達の様子

海に囲まれてるから泳ぎも上手かと思ったら大間違い

ほとんどのトンガ人は、泳ぎは犬かきしかできず

それでも水遊びは大好きで

こうして岸壁から飛び込んでは大騒ぎしてましたねぇ

 

私は、Tongaに派遣されるようになって

毎年、船の整備を徹底して行い、故障や操業中にトラブルを発生させない

とのポリシーで信念を持って活動していたため

 

船を推進させるエンジン(主機)は勿論

発電機や鮪を水揚げまで保存するための冷凍機も

自分たちだけで分解して清掃して組み立ててと

 

鮪延縄船、鰹の一本釣り漁船、鰯用の巻き網船に

小型漁船まで数隻を整備するのが日課となりましたが

実は、着任した直後(約4月後)

日本からODA(政府開発援助)で8年ほど前に供与された鰹の一本釣り漁船の機器が

それまで全く整備されていないのを知って

 

当時の水産局長(イギリス人)に

オーバーホールすると宣言したものの

水産局のEngineering部門の人間は誰も手伝おうとせず

 

たった一人で岸壁に係留されていたその船に乗り込み

黙々とエンジンを分解しはじめたのですが

 

乗組員の一人がスカイライト(機関室の上にある窓)から

何してるんだろうかと覗き込むだけ

 

我慢強く何日も作業を続けていた期間

水産局に部品や工具を取りに戻ると

機械のことなど何も知らない経理のクラークから

「もう何日も船が動かせなくなってるけど、お前は船を壊しに来たのか」と

多くの水産局のスタッフの面前で罵倒された時には

そんな陰口を叩かれてたのかと流石にショックでしたね~

それでもオーバーホールしてエンジンの調子が良くなった船をみて

乗組員からその様子が伝わり

ようやく整備=保守することの大切さを理解して

私の存在が認められるようになりましたが

 

今から思い出してもあの時は辛かったなぁ

 

それまでにも数名の船舶機関の隊員がいたのですが

ほとんどが船外機か小型のディーゼルエンジンを扱う程度で

大型のエンジンは隣国でのドックで造船所任せにしていたのがその原因

 

その鰹一本釣り漁船は

実は、当時あまり実務経験のなかったJICA専門家が

近隣諸国の真似をしたのか

ODAでSamoaと全く同じ鰹一本釣り漁船を供与されたものの

 

トンガの海域には年間を通して鰹が回遊しないうえ

餌のイワシを入手する術がなく

鰹の一本釣りとしてはほとんど使われず

よってドックに入る予算もなく、ほとんど岸壁で係留されてたから

 

運よく、鮪延縄実習船は

それまでは日曜日が憲法で安息日とされ出漁しても

毎週戻ってくるような操業から

日曜日は沖で流して安息日とすることにして

一度出漁したら、食料が無くなるか、搭載している水が無くなるか

または豊漁で魚倉がいっぱいになるまで戻らず

平均1~1.5月の操業となって大成功

(約3月に一度、American SamoaかFijiのLevuka島の缶詰工場で

水揚げと餌の冷凍サンマを積み込み)

 

更に機械の整備を自分たちですることになって

ドック費用も船体の錆落としと塗装

プロペラ軸の抜き出し点検と

ドックでしかできない船底弁の整備程度で

ドック費用が激減

 

約30名ほどの乗組員も

水揚げした収入から燃料費、食糧費、経費を除き

4割(6割は政府が貯蓄)を歩合制で支払われることになり

 

前述のAmerican Samoaでドック入りした頃には

船長・漁労長の収入は国の大臣クラスより高給取りとなっていたこともあって

 

それまで外航商船で機関士をしていた人物が

二等機関士で乗り込んできて、一緒に保守整備をしたところ

とても優秀な人物で経験も責任感も文句なしだったので

水産局長に進言して彼を機関長に昇格させ安泰

(↓右端がその機関長)

とはいえ、なんせ”お山の大将”気質なので

エンジンの整備では相も変わらず親方気取り(笑)

そんな訳で、若干24歳頃にもかかわらず鮪延縄実習船でも一番偉そうにしてました。

 

彼等は高給取りとなっていましたが

私は青年海外協力隊隊員としての手当のみ(月額30,000円程度)

そんな訳で、船が戻ってくると

彼等の家族がご馳走を作り

ビールもOZかNZの缶ビールを何ケースも運んできて

飲めや歌えの大宴会(笑)

 

これは、ある日の出漁を見送りに行った時の記念写真
(服装からしてトンガの冬、8月頃)

(↓ 右から二等機関士、機関員、船長、機関長、私、一等機関士)

そんな風に彼等から年下なのに兄貴分にように信頼して慕ってもらっていたので

とても幸せな隊員生活を送らせていただいたなと今も感謝しています。 

 

見送りにきていた一等機関士と機関長の嫁さんとその子供

暫く夫と会えないから寂しそうでした。

 

こちらは、ドックから半年後

スクリューとプロペラ軸に巻き付いた延縄の枝縄を切断するために

スキューバした時の写真

放置してしまうとドンドン巻きついたワイヤー製の縄がプロペラ軸の軸受に入り込んで痛めてしまうので

次のドックまでの間に潜水してロープガードを取り外し

ワイヤーカッターで何十本と絡みついたワイヤーを切らなければならず

水深は浅いものの

ボンベ3本以上連続して潜っていると

窒素酔いしてしまい

上下がわからなくなって

そのまま頭から海の底に沈んでった事も良くありました。(笑)

今から考えるとホントに一生懸命だったんだなぁ

 

ここからは日常の風景など

 

こちらはトンガ警察の交通部署

仲良しの水産局のエンジニアの奥さんが勤務していたため

よくアイスクリームの賄賂を渡しては

酒類の購買許可証を発行してもらってました。

(実際には仲良しだったので、暇潰しに雑談相手してもらってたんだけどね)

 

なんの脈絡もなく

突然ですが、ある日 Joes Hotelで開催されたオカマショー

 

気持ち悪いでしょ~(爆)

 

トンガでは馬も結構飼われていて

日曜日には教会のミサへ行くための交通手段のサリオテと呼ぶ馬車を曳いたり

客船が寄港した時には観光客に乗馬させてたりしていましたが

 

子供を乗せた馬をリーフ内の浅瀬で見かけた時の風景

 

↓ こちらは、着任して約1月後の日本人専門家の送別会での一コマ

同じ水産局に派遣されていたアメリカ平和部隊のブライアン

(私よりも先に着任していましたが年齢は一つ下だったので兄貴ぶってました)

 

こちらがFijiの造船所での入渠風景

鰹一本釣り漁船のTakuoと乗組員

鮪延縄実習船LOFAの乗組員と私

 

これはFijiのLevuka島にある缶詰工場での水揚げ風景

ビンチョウ鮪で缶詰を作っていたので

それ以外の鮪(バチ、イエローフィン他)は冷凍のまま日本に送られてました。

 

 

またまた何の脈絡もなく

トンガのハンディクラフトのひとつ

タパクロス(Tapa Cloth 樹皮布)

カジノキというコウゾと同じ木から皮を剥き

水に浸してから干して乾燥させ

硬い木の上で日長一日、水に浸けては叩いて平たくして布にします

これをキャッサバなのを糊にして張り合わせて大きな布にするのですが

あるときは賭け布団だったりジュータンだったり

お葬式では遺体を包む棺桶替わりになったり

また結婚式やお葬式、行事の時は身体に巻いて正装の衣装などなど

 

我が家には、帰国する時にプレゼントしてくれたタパクロスが

たぶん畳20畳分くらいあるかも(笑)

 

鮪延縄実習船のLOFAには、その後もちょくちょく乗り込んでましたが

正直な話、酒が飲めなくて煙草が吸えなくてディスコがないので

理由をつけては陸のサポートに徹するようにしてました。

 

その後は、Vava’uに遊びに行く時は飛行機を使っていたので

よく空からリーフや島々を眺めてましたが

こちらはTongatapuとVava’uの間にあるHa’api諸島

貿易風で基本的に風向が決まっているため

滑走路もその風に向かうように作らなければならないため

小さなHa’apaiでは東西に一番長いところにギリギリに滑走路が作られていて

飛行機が来る時間になると道路を閉鎖してました。

(赤道直下のNauru島はジェット機も離着陸できる滑走路でしたが

やはり島が小さすぎて普通の国道が真ん中を走ってました)

これはいつの写真だったのかな?

1986年当時の水産局の上層部のスタッフが居るので

たぶん私の送別会のある日の一日だったのかも

青年海外協力隊隊員として最後に帰国した時には

Tongatapu、Vava’u、Ha’apaiと

そこらじゅうで送別会をしてくれましたねぇ

 

これは左端のSiotame Taunaholoという

桜井研次さんを兄のように慕っていた電気エンジニアの家

桜井さんの申請で日本へ研修に送られ、恩人だったので

口を開くといつも”KENJI” ”KENJI”と比較されてばっかでしたが

それくらい恩義を感じていたんだろうなぁ

 

桜井さんが生きてる間に会わせてやりたかったな。。。

 

 

 

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【緊急のお知らせ】“糸の切れた凧”の旅 訂正します。JALの当日シニア割ありました❗️

2024-10-07 11:19:08 | 旅行

このタイトル”糸の切れた凧”で

投稿した記事の内容に

大変な間違いがありましたので

急ぎ訂正の記事を書かせていただきました。

 

誤解を招くような記事でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

 

話が長くなるので、先に要点をお知らせしておくと

【伊丹~花巻のJAL便でも当日シニア割がありました

 

その間違いを生じた背景をご説明すると

 

今回の旅のルートを決める際に

Google Mapsの航空写真で東北地図を眺めながら

『やはり最寄り空港は花巻だな

『なら伊丹か神戸、関空から花巻への便は・・・』と

昔、関空からPeach便があったのを覚えていましたが

現在は就航しておらず

 

それならば、と花巻空港のHPから調べてみたところ

 

伊丹(J-AIR:JAL)

神戸(FDA)

名古屋(FDA)

 

が見つかり

 

 

スマホのアプリで料金を調べてみたところ

 

伊丹からのJALは

最安値で47,640円 

 

 

 

FDAはその日によって違うものの

名古屋便には最安値で16,500円があったので

とりあえず名古屋からFDAに乗ろうと思い込んでしまったのが運の尽き

 

FDAの花巻到着時刻から

当初は盛岡から龍泉洞行のバスがあることがわかり

宿泊アプリでも空きがあって比較的安価だったのと

岩手の代表的観光地の龍泉洞にも行きたいなと決めたのですが・・・

 

前の記事に書いたとおり

直前になったら団体客で満室となってしまい断念

 

それならばと旅程を変更してできるだけ三陸鉄道に乗りたいなと

花巻空港からほぼ真横に移動する釜石に行こうと計画したものの

到着時刻が遅すぎてその日は釜石で泊まるしかないかと考えなおし

盛岡に出てJR山田線で宮古に出れば

翌日には田老や島越を訪れることができるなと宮古泊まりにして

 

あまちゃんのロケ地”小袖海岸の小袖海女センター”と久慈駅に行くことにしたわけなんです。

帰路も、『JALは割引運賃がなく高い!』と決めつけてしまい

FDAで花巻から名古屋か神戸飛ぶことも考えて

ネットで料金を調べてみると

当日なら42,790円(前日でも38,000円超え)

 

そんなら同じルートも嫌いだし青森まで出ようをした次第なんですが

 

 

陸中&三陸海岸の荒々しい海と海岸線に魅了されてしまい

 

まだ視聴してないのですが

夏バッバ(宮本信子さん)の最新出演作

”母の待つ里”に絶対ハマルだろうなと予感して

 

次は”母の待つ里”のロケ地、遠野を中心に旅しようと

またまた旅の妄想をしていたところ

 

花巻は高いから仙台からかなぁ

仙台から遠野までのルートを探していたところ

 

仙台から気仙沼・陸前高田・大船渡を経由して釜石まで行くバスも見つかり

釜石から遠野に行こうとルートを決めて

仙台までならANAのスマートシニア割でいいか

料金を調べてみたところ




待てよ 
ANAがあるなら仙台までだしJALの当日シニア割もあるんじゃないか
と調べてみたところ
またまた高い運賃しかなく
 
おかしいなぁと、ようやくアプリでの設定ミスを発見
 
調べてみたら 花巻便もシニア割なら
たったの18,050円と格安なのを知って愕然としちゃいましたが
 
 
 
 
 
 
 
とはいえ、前回の旅では
めったに使わない小牧空港にも行けたし
FDAなるヘンテコリンな飛行機にも乗れたし
 
JR八戸線で潜水土木科のある種市(高校)の場所を知ることができたし
 
久慈から八戸までの陸中海岸も眺められて
久しぶりに青森駅にも行けたので
 
不幸中の幸い だったかな
 
と、”転んでもただは起きぬ”ヤツなので
思っている次第です。
 
 
みなさんは
わたしのようなオッチョコチョイなことはしないと思いますが
安易に思い込みせずに
石橋を叩いてみてくださいね。
 
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”糸の切れた凧”の旅【その⑤因縁の八戸を経由して青森に出て家路につく&旅の総括】

2024-10-05 13:15:58 | 旅行

久慈駅から9:16発の八戸行に乗り込み

45分後の10:01潜水土木科のある種市高校の種市を通過

 

ということは

高校に通おうと思ったら久慈から6:41発に乗車しないといけないわけで

三陸鉄道がその前に到着するのは始発で

堀内(袖ヶ浜)駅6:05発 久慈(北三陸)6:35着

 

『ほぉ~、あき(あまちゃん)は勿論、足立ユイちゃんは相当早起きしてたんだなぁ』

と勝手に想像して喜んでました。

 

JR八戸線の車両も

2007年の前後数年間、八戸の某造船所の仕事で頻繁に出張していた時に

何度も利用した古いキハ40系からすっかり変わっててビックリ

久慈からしばらくは内陸部を走っていましたが

陸中中野の手前からは

八戸港までずっと陸中らしい荒々しい波に洗われた岩だらけの海岸線や砂浜も眺められました。

 

さきほども書きましたが

2005年頃から2010年の約5年間

八戸の某造船所にフィンランド製の大型機器を納入していたため

頻繁に建造中の作動確認と引渡前の海上試運転の立会で

出張していた土地なので

懐かしい思いもありましたが

なんせ「ウチはこの製品はこれからもずっと〇〇さん(私の会社)ですから」と言われ

それならマンパワーも準備しなければと技術系社員を雇い

事務所を移して社宅も準備して対応していたところ

 

数か月後もたたないうちに競合の会社からの接待攻撃で

たぶん袖の下も受け取っていたのか

舌の根の乾かぬうちに失注

 

新しく雇った社員を抱え、その後数年相当苦労させられたこともあって

”八戸”と聞いただけで虫酸が走る気分

 

本八戸辺りでは苦々しい思いで造船所のクレーンを眺め

11:00 八戸駅に到着

乗り換え時間が4分しかなかったため

結構焦りましたが 無事乗車

陸奥湾沿いではまだ刈り取っていない稲穂を眺め

久慈から3時間21分、八戸から1時間33分後の12:37 青森駅に到着

ここも駅舎がすっかりモダンになって昔の面影はありませんでした。

八戸へ頻繁に出張していた頃

 

急ぎの時は仕方なく東海道新幹線、東北新幹線を乗り継いでいましたが

座りっぱなしの移動にうんざりして

いろんな方法を試していましたが

(伊丹・羽田と飛行機を乗り継いで三沢経由とか、

八戸、盛岡、仙台間を高速バスに乗ってみたりとか

当時まだあった東海道の夜行寝台で東京に出て始発の東北新幹線に乗ったり)

 

一番お気に入りだったのが

寝台特急”日本海”で京都~青森を

ゆったりと車窓を楽しみながらの移動

 

まだ東北新幹線も八戸までしかなく

八戸~青森間の特急も本数が多かったので

早朝、青森から特急で八戸に行けば

朝一から仕事ができてとても便利でした。

 

なので青森での乗り換えで何度か降りたことのある駅でしたが・・・

 

なので、青森は15年ぶりくらいだったかも

青森到着前にネットで調べた食堂に向かうと

な、なんと月曜定休でシャッターが下りたまま

その先に 暖簾の出ていた寿司屋があり

とど肉、エゾジカ、クジラなどのメニューが面白そうでしたが

暖簾の横に「急ぎの方はご遠慮ください」とあり

『なんか面倒くさいかも』と諦めて

それより先に青函連絡船眺めに行くことに

 

実は、私が商船学校を卒業した1979年はまだ就航していて

同窓生が何人も青函連絡船に就職していたこともあって

自分が乗船する機会には恵まれませんでしたが・・・

内部の見学はせず

案内板にエンジンの写真があり

大型のV型エンジンが数台搭載されてたと知り

更に CPP(可変ピッチプロペラ)だったのも面白く眺めてみました。

その後、新しく”ねぷた”を常時展示している施設ものぞいてみました。

その後、駅前で飲食店を探し回ったものの

どうにも気に入った店が見つけられず

 

結局 ランチ営業をしていた居酒屋へ入店(13:45)

2時半までの営業だったので

ビールは中瓶しかなかったので2本注文して

鮭の親子丼みたいなランチセットと

追加で リンゴ酢サワーを飲んだらもう閉店時間前になったたので

迷惑かけないように店を出たのですが

飛行機の時間までどうやって時間潰ししようと

駅前に戻ったところ

 

駅横のビルにこんなお店を発見

大好きな”昼飲み”の文字(笑)

アチャー、この店にしとくんだったぁ~ と思いつつ

真昼間からベロンベロンで飛行機に乗るのもちょっと恥ずかしいかなと諦めて

 

青森空港へ行くことに

(実は、夜中にスマートシニアのチケット購入しときました

バス乗り場に行ってみると

インバウンド観光客も多いようで

紅葉情報や”熊に注意”の注意書きもありました

(十和田湖とか八甲田山とか酸ケ湯温泉とか

奥入瀬やランプの宿の青荷温泉など自然が人気みたい)

ほどなくして

空港行のバスに乗り込み

残念ながら航空会社のラウンジはない空港だったので

クレジットラウンジで休憩

 

伊丹行はプロペラ機でちょっとビックリ

ANA系は、マイナーな航路にはIBEXの小型ジェットか

このプロペラ機なんですよねぇ

 

ということで、17:35発でしたが 定刻前に出発し

19:30には伊丹で荷物を引き取って

20:10の空港バスに乗れ 20:45に家から最寄りのバス停で下車

21:00には無事帰宅できました。

 

ということで

/////今回の”糸の切れた凧旅”の総括/////

 

現地(陸中・三陸)への移動は

 

(往路)

大和西大寺→大和八木→名古屋→名古屋空港→花巻空港

(復路)

青森→伊丹→奈良

 

陸中・三陸周辺の移動

花巻→盛岡→宮古→田老→島越→野田玉川→陸中野田→小袖海岸→久慈→八戸→青森

 

宮古

田老

島越

 

野田玉川

 

陸中野田から小袖海岸へ

 

あまちゃんロケの聖地 小袖海岸

 

久慈駅周辺

 

青森駅周辺

 

【旅の期間】

9月27日07:30出発 9月30日21:00帰宅

3日14.5時間

 

【ウォーキングの距離・歩数】

9月27日 9.7km 13,621歩

9月28日 10.6km 15,982歩

9月29日 9.1km 14,710歩

9月30日 5.2km 8,561歩

合計 34.5km 52,874歩

 

北三陸の津波の被災地を訪れ

被害の現実を知り鎮魂の祈りを捧げることができ

あまちゃんのロケ地聖地巡礼も満喫できて

 

とても有意義かつ至福の時間を過ごさせていただきました。

 

今回は

①龍泉洞温泉ホテル満室で旅程変更

②JR山田線の不通

③小川旅館満室で宿変更

④宮古~新田老 三陸鉄道不通で代行バス

④あまちゃんマラソンで陸中野田からのバス運休でタクシー移動

⑤今年最後の小袖海女センターの素潜り実演のために日程を決めてたのに海が荒れて中止

⑥久慈駅周辺の飲食店定休日

⑦青森駅前の飲食店定休日

 

と、そこそこハプニングに遭遇しましたが

それも私にとっては楽しみのひとつ

 

ハプニング中毒なので、さて次はどこへ行こうかなぁ~

 

 

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”糸の切れた凧”の旅【その④北鉄(北三陸鉄道=三陸鉄道リアス線)の北三陸駅(久慈駅)へ】

2024-10-04 14:46:08 | 旅行

9月29日

”あまちゃん”ロケの聖地【袖ヶ浜(小袖海岸)】を堪能してから

定刻14:00発上り久慈駅行に乗車

↑ 時間帯からも想像つきましたが

基本、地域住民の方のためのコミュティバス

 

朝7:00は通勤通学で

次の9:00はたぶん病院行

土日祝のみ12:00と14:00がありましたが

下りは小袖海岸着が 平日で12:37 15:22 17:56

土日祝が10:30と12:37なので

 

※休日ダイヤの下りは12:00発が7月~9月のみ

14:00発は4月から10月までの期間運行なので

それ以外の季節はタクシーかレンタカーでしか行けないのでご注意ください。

 

あと期間運行の時間設定からも

滞在時間は1時間半もあったら十分ってことなんでしょうね。

 

バスは海岸沿いの険しいワインディングロードとトンネルだらけの道を走るんですが

久慈の市街地近くまで景勝地の連続

あまちゃんのオープニングで岩だらけの小島から

たしか鵜が飛び立つシーンの岩もありました。

 

バスは、久慈駅の東側にある文化会館前を通過するのですが

やはりコミュティバスらしく県立久慈病院と

ドーナツ化現象なのか寂れて空き地だらけの駅前以外で

飲食店などのある”道の駅くじ”を経由してから

JR久慈駅(八戸線)と三陸鉄道久慈駅前に到着(所要時間約30分)

 

これこれ

この潮騒のメモリーズの看板のある駅前デパートも見たかったんだよなぁ

 

そしてドラマでは”北三陸駅”の久慈駅

とりあえず、これもまた旅の目的のひとつだった

夏バッバが作ってたウニ丼の見本となった”うに弁当”

を売ってないかなと覗いてみましたが

すでに完売

オバチャンに翌日の朝来るからと予約しちゃいました。

 

あと、あまちゃんコーナーもあり

 

ただ、残念ながら 軽食&喫茶リアスもスナック”梨明日”はないし

駅長の大吉っつぁんもブティック今野の夫婦も琥珀の勉さんもいませんでしたぁ

 

北三陸観光協会でジオラマ見たかったなぁ(笑)

 

とりあえず、予約していた旅館のチェックイン時間が16:00からだったのと

小袖海女センターの”うにごはん”だけでは足りなかったので

スナック梨明日のモデルと言われてる 喫茶モカへ直行

あまちゃんのロケでは 

クドカンから俳優さん達も入り浸ってたお店だそうで

事前にナポリタンとたまごサンドが美味しいとのクチコミがあったので

早速注文

ナポリタンは、昔の喫茶店風そのもので美味しかったですよ

ただ、愛知生まれなので鉄板で出して欲しかったなぁ

 

たまごサンドは、関東風に甘い玉子焼きタイプ

豊橋生まれで子供の頃はこの玉子焼きがスタンダードだったのに

関西が長くなると、茹で卵をマッシュしてマヨネーズ合えの味に慣れちゃったかな

 

時刻は午後3時頃と

ピーク時を過ぎていたので

店内には、あまちゃんマラソンに参加したらしきジモピーと

あまちゃんの聖地巡礼で訪れてた様子の一人旅風の若い女の子と

喫茶店定番のオシャベリ場に使ってたオバハン達がいましたが

 

マスターとその奥さん(たぶん60代の夫婦)と

ジモピーの会話を聞いてたところ

その日は、開店時間の10:30からずっと大行列で

私が入店した時がやっと一息つけた頃らしく

 

ご夫婦ふたりともヘトヘトのクタクタになってました。(お疲れ様

 

そんな会話を耳にしてたので

長居は迷惑かなと食事を終えてすぐに店を出て

駅前に戻ると 北限の海女さん風の絣姿に赤い鉢巻をしたガイドさんが

数十名の観光客をぞろぞろと連れて案内している光景にであい

 

去年の再放送で 自分同様

あまちゃんブームが再燃してるんだなぁと再認識

 

 

”あまちゃん”関連のイラストの描かれたシャッターを眺めながら

旅館に着いたのですが・・・

時刻は15:30前で入口に (Check in 16:00~)との札が下がっていて

諦めてしばらく周辺を歩いて時間潰ししてから

16:00丁度に戻りようやくチェックイン

実は、近所のビジネスホテルもあまり料金は変わらなかったのですが

(但し、この旅館は朝食付き)

やはり国内の一人旅には旅館が似合うなと決めたのですが・・・

 

今時はインバウンド観光客の需要も多いのか

コロナで感染予防に神経質になったのか

旅館らしい人情味やおもてなしの雰囲気はあまり感じられなかったかな?

(不愛想ではないんですよ。親切なんだけどちょっとビジネスライクな感じ)

冷蔵庫の中には無料のサービスドリンクがありますと案内していただきましたが

夜中にトイレに起きた時に喉が渇いたなと扉を開くと

ミネラルウォーター1本とファンタ2本のみ残ってました。(2階は満室でした)

 

部屋もしっかりリフォームされてるし

お風呂は大きくきれいなユニットバスが三つあり時間帯で貸切るシステムで

快適ではありましたが

部屋数もそこそこ(2階で10部屋かな)で収容人数も多いからか

昔ながらの商人宿風の旅館らしく

夜中でもトイレに行くため廊下を歩く音や隣室の話し声も筒抜けで

耳栓使うべきだったなぁとの印象でしたけど

 

これで朝食まで付けてもらって6,000円だから文句は言っちゃあいけませんよね。

 

この日も朝から移動と、あまちゃんのロケの聖地を

5時間かけて歩き回っていたため

クッタクタ

 

荷物を置いてから早めに飲食を済ませて宿でのんびり休もうと

居酒屋や食堂をネットで探してみると

 

日曜日は休業だらけ

 

旅館で尋ねると、やはり「日曜はあまり開いてないんですよ」と

少し離れた寿司屋や海鮮も置いてある和食の店を教えてくれたのですが

 

翌日、高い”うに弁当”を予約してるし
一昨日からご馳走続きで贅沢しすぎかな?

Google Mapsで駅の反対側に”つぼ八”があるのをみつけ

 

またまた駅前に戻り 

ついでに 翌日の移動手段やルートを決めていなかったので

バス停で長距離バスの時刻を調べ

また盛岡に戻って高いFDAかJALで帰るなんて芸がないよなぁ

と思い直し

 

とりあえず帰りのルートは先送りして駅前地下道で久慈駅東口へ

目的地の”つぼ八”はほぼ駅前にあって

その先には大型スーパーマーケットもあって

久慈駅前の再開発は東口を中心にするような雰囲気

まだ開店時間前でしたが

自動ドアが動いて中に入れたので尋ねてみると

大丈夫とのこと

この日も動き回って汗かきまくってアルコールを欲してたので、嬉しかったなぁ

とりあえずで生ビールを頼み

つづけて定番の出汁巻

お刺身の三種盛りで

生ビールをオカワリして

その後、冷凍レモンチューハイと追いチューハイを2杯ほど飲んだら

オヤツのナポリタンとたまごサンドでまだお腹が空いてなく

 

つぼ八に行ったら必ず注文する若鶏の半身揚げが届いたものの

(小樽のナルト本店を真似たメニュー)

もう入る余裕なく、持ち帰りをお願いして店を出たのがまだ17:45

大きなお腹を抱えながら旅館に帰る道すがら

久慈駅前のビックリするような激安の駐車場を発見

 

空き地だらけの駅前がいつ変身するのかなぁとお節介な妄想をしながら

旅館に到着

その直後、18時に時報チャイムで”潮騒のメモリー”が流れてビックリ

『久慈市ってどんだけ”あまちゃん”に依存しとんねん』 って感じ(笑)

他の泊り客は食事で出ていたようで

食休みした後にお風呂を予約して

のんびりと入浴させていただきました

 

気持ちよかった~

 

この時点で、もう早朝出発で三陸鉄道や八戸線に乗る気はなくなっていて

 

翌朝までしっかりと身体を休め

 

朝7時

夕方は”潮騒のメモリー”でしたが朝は”あまちゃんのオープンニングテーマ”の時報チャイムが鳴り響き

部屋に朝食のお膳を届けていただき 美味しくいただきました。

 

この久慈というところ

なんせ三陸鉄道もJR八戸線も 1日数本の運行のみ

 

三陸鉄道は5時代に2本と次は8時代に1本次は12時までなく

(新田老と宮古が不通で一日12本のうち3本が運休中)

 

JR八戸線に至っては1日8本のうえに

5時と6時代の通勤・通学用の次は9時代までなく

 

あとは高速バス(東京・盛岡・二戸)のみ

前日に予約した三陸リアス亭の”うに弁当”が朝7時からと言っていたので

8時代の三陸鉄道でまた宮古に出るのも面白くないし

バスで盛岡に出ても高い飛行機しかないので

 

八戸経由で青森に出て

当日シニア割で伊丹から帰ることにしちゃいました。

 

と言うことで

8時半、旅館を出て 三陸鉄道久慈駅のリアス亭で”うに弁当”を引き取りましたが

このサイズで

2,500円也

あまちゃんの夏バッバを思い出させることがなかったら

絶対に買わないだろうなぁ

 

この時は、次の電車は12:00までないため

ガラガラでしたが、実はこのあと9時過ぎに

またまた観光ガイドに連れられて数十名の団体さんが駅を訪れて

写真を撮ったりお土産を買ったりしている光景に目が点

 

”あまちゃん”が

久慈市にとってはホント貴重な収入源になってるんだなぁ

 

前日の夕方は人気の無かった”あまちゃんコーナー”では

若いオネーチャン二人が”潮騒のメモリーズ”やっていて大笑いしちゃいました。

そして隣のJR駅に入り

時刻を確認して

交通系ICカードが使えるかな?と思っていたら

なんと使えずキップを現金かクレジットカードで買うのみ

(因みに、三陸鉄道もワンマンカーで基本現金のみですが、県北バスはICカードが使えます)

その上、営業時間は朝9時以降午後3時20分まで

この時に知ったのですが

JR東日本では、大人の休日倶楽部パスなるお得なキップがあって

そういえば前日の三陸鉄道でも期間限定で使えるようで

秋の旅行シーズンもあって大盛況だったんだとわかりました。

 

待合室で改札を待つ間

久慈の名物の展示品で”まめぶ汁”をみつけて悔しかったぁ

その後、”あまちゃん”で何度も出てきた三陸鉄道のホームを眺め

”あまちゃん”の聖地巡礼旅に幕を閉じ

八戸行のワンマンカーに乗り込んだのですが・・・

 

車窓を眺めていたところ

青森との県境近くで”種市”なる駅があり

 

種市先輩を思い出してたら

駅前に変わったモニュメントがあるのに気づいたので

急いでスマホで調べてみたところ

あの南部潜りの潜水土木科がある高校が

種市高校だとわかり なんか嬉しかったですねぇ

(↓画像は借り物です)

 

 

【その⑤因縁の八戸から青森に出て家路につく編】

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”糸の切れた凧”の旅【その③いよいよ”あまちゃん”ロケの聖地、袖ヶ浜(現実の地名は小袖海岸)へ】

2024-10-03 17:07:13 | 旅行

9月28日 午後3時半

ようやくその日の宿(国民宿舎えぼし荘)からの送迎車が待つ

三陸鉄道 野田玉川駅に到着

当初は、”あまちゃん”で袖ヶ浜の最寄り駅として何度も登場した

普代村の堀内(ほりない)駅で下車して

漁港や安家川橋梁を眺めながら小野旅館まで歩き、泊まるつもりでしたが・・・

ワゴン車でわざわざ出迎えに来ていただき

それも20分弱遅延したため待たせてしまい申し訳ありませんでした。

 

野田村のマスコット”のんちゃん”は

鮭の稚魚で出っ張ったお腹には幸せがいっぱい詰まってるんだとか(笑)

宿は大きな国民宿舎でそこそこ年季が入っていましたが

結婚式場などにも使われていた様子。

基本、大浴場と共用トイレの部屋でしたがそんなに悪くなかったですよ。

大浴場は露天風呂もあって

日帰り入浴500円(回数券もあり)だからか

家で風呂を使いたくない地元の年寄りだらけ(笑)

畳みの部屋でちゃんとリフォームしてあるので

清潔でエアコンも新しくて良かったです。

料金は、ビジネス、観光、季節の幸と3コースあり

私は観光コース一泊二食9,500円を選択

これだけちゃんとしたお膳で大満足しました

 

お酒は、生ビールと地元の生酒

そしてこれもまた地元のにごり酒を注文

お昼にも発泡酒のロング缶を2本飲んでたので珍しくこれで満足しちゃいました。

 

早起きして田老、島越を訪ねて歩き回ったからか

しっかり熟睡

 

ゆっくりと朝風呂を楽しんでから

バイキングの朝食をガッツリといただいて

地元のお土産を買ってチェックアウト

7時45分に宿を出発して 7時50分には野田玉川駅に到着

前日は観光客がいっぱいで遅延していたため

乗り継ぎ時間15分に間に合わなくならないかとちょっと心配したのですが

定刻通りに発車、到着してホッと一息

”あまちゃん”で使われた古い車両でとても幸せな気分でいたのですが。

 

陸中野田駅で下車したのは、

なんせ”あまちゃん”ロケの聖地【小袖海岸】は

公共交通機関でのアクセスが超不便で

バスを使って海女の実演を見学しようと思ったら

この陸中野田駅8:30発の久慈市市民バス海岸線1便のみ

 

なんとか時間に余裕をもてたなと安心して

駅前のモニュメントを眺めてみると

野田という土地は、昔から塩づくりと牛ベコで東北の山間部まで供給していたと知り

更に岩手の観光案内図を眺めながら、次はどこを訪ねようか?と

のんびりとしていたところ

偶然、駅舎にあったポスターをみつけ

あまちゃんマラソン大会なるイベントがあって

開催日をみるとなんと、その日が当日

 

バスの発車時刻(8:30)となったため

ザックを担いでスタンバイしたのですが

8:40になってもバスが来ず

時刻表にあった連絡先に電話すると

「今日は、あまちゃんマラソンで道路が通行止めのため運休です」

と言われ、一瞬で奈落の底へ

 

駅の切符売り場でタクシーを尋ねると

「久慈から呼ぶしかなくて、回送料がかかりますけど・・・」

と説明され

久慈と小袖までの区間が通行止めとなったら

陸中野田からの路線バスのルートでしか行けないかもと

 

他の選択肢はないなとタクシー会社に電話して

小袖海岸まで行きたいと伝え、迎えを頼んで電話を切って一安心していたところ

 

駅でタクシーの電話番号を教えてくれたオバチャンが走り寄ってきて

「バス会社から連絡があって、迂回運行のバスがあるみたいです」と

そのお知らせの紙を持ってきてくれたのですが(8:39)

 

時すでに遅し

「ありがとうございます。もうタクシー頼んじゃったから大丈夫です」と答え

ほどなくして(15分ほどして)タクシー到着(8:50)

 

陸中野田駅から陸中海岸らしい険しいリアス式海岸を少し走ったのち

集落をつなぐ狭い山道を走り

回送料金が1500円と言われてたので、そこそこの出費を覚悟していたところ

メーターが3,500円になったところで支払いに切り替えてくれ

(ようするに、合計で5,000円までとなるように)

小袖海岸のバス停近くで降ろしてもらい(9:15)

(↓はマラソンで通行止めの起点)

小雨降るなか、歩いて小袖海女センターを目指しました

 

地元の漁協が経営する番屋食堂なる建物もあったのですが

観光客で賑わうシーズン(7・8月)以外はどうやら営業してない様子

バスは運休するわ、雨は降るわで

雨ガッパ代わりのジャケットを着て

少々気落ちしながら海女センターに向かい

それでも、北限の海女のマンホールや

さまざまな石碑や案内板に

ドラマで見た景色が現れて幸せな気分に戻り

素潜り実演(9月は日曜の11:00のみ&9月末で終了)が見られるかな? と

喜び勇んで海女センターに入り(9:27)

海女クラブのオバチャンに

チケットを買おうとお金を渡したところ・・・

「本日は、海が荒れてしまい中止なんですよ」と申し訳なさそうに言われ

 

『この素潜り実演に間に合うようにと

草刈りや仕事を片付けて

ようやく【糸の切れた凧】になれたのになぁ。。。』

と、度重なる我が身の不運を嘆いてしまったのですが

 

それなら、事前に調べておいた海女センターの中で”ウニ丼”を食べようと

海女クラブのオバチャンに尋ねると

「センターの食堂は8月末までで 

今日は”うにごはん”しかないんですよ。」とのこと

 

今日は【天中殺】だったのかぁ

とまたまた落ち込みそうになりましたが

 

そこはこれまで数々の辛苦を味わってきて”打たれ強いわたくし”

「じゃあ、売り切れないうちに”うにごはん”ください」と言うと

「売り切れることはないですけどね」との正直なお言葉(9:50)

 

その後も雨が降り続いていたものの

雨雲レーダーにはそんなに濃い雨雲は見当たらず

そのうち雨もあがるだろうと

海女センターの外のベンチに座って待ち続けていたところ

 

(この間に、東京からや遠く沼津ナンバーの車など、実演を期待して訪れてきた人々が”中止”と知らされ

諦めきれずにウロウロしていましたが、結局落胆して帰っていきました)

 

 

久慈市の軽自動車がセンターの横へ駐車して

女性職員らしき人物が降りてきて

そのほかにも”エフエム岩手”の腕章をつけたお兄ちゃんがきて

”素潜り実演”の看板を片付けだし

 

車から運んでいた大きなビニール袋の中に

小さな花束らしきものが入っているのが目に入り

 

素潜り実演の観光海女らしきオネーチャンも集まりだし

 

これは今年最後の素潜り実演の日だったから

実演は中止になったけど

クロージングセレモニーや写真撮影でもするつもりだな

といつもの勘が働き

 

何気ない素振りで待ち続けていたところ

(10:40)ようやく雨が止んだのを見計らって

ドラマで何度もみた 海女の実演場所、夫婦岩に防波堤

灯台などなど

ゆっくりと時間をかけて聖地巡礼してから

堤防の上や灯台は【立ち入り禁止】となっていたのと

アキ(あまちゃん)が何度も飛び込んだり自転車で海に落ちてましたが

よほど荒波が打ち寄せるのか

いまではテトラポットがギッシリと積まれていて

『今ならあのシーンはなかっただろうな』と

ちょっぴり寂しい気持ちになりました。

 

”あまちゃん”アキが夏バッバから海に突き落とされた

船らしき漁船が戻ってきたため

ヒトデを並べてたので

「写真撮ってもいいですか?」と尋ねると笑ってました。

(11:00) 海女センターの前に戻ると

たぶん広報用の記念撮影の真っ最中(関係者のみで)

ふ~ん、わざわざ最終の実演を観にきたけど

中止になって落胆してる人達には知らせようともしないのか

と、ちょっとオカンムリ

 

『訪問者(観光客)がいて自分たちの仕事があるんだろ』 と

一言いいたい気分でしたが

 

文句言ったら”カスハラ”だとか言うんだろうなぁ

 

まあ、いまどきの気遣いのできない世代の連中なんかどーでもいいや

と、ロケ地巡りを継続することに

 

まずは監視小屋を目指して古道を歩き

監視小屋の手前には、過去に北海道までイカ釣りに出漁していた漁船が

八戸から久慈に向かう途中で嵐に遭遇して遭難

多数の犠牲者がでたとのことでその慰霊碑がありました。

11:11監視小屋到着

実際に使われている監視小屋ではなくて

たぶんロケ用に建てられてものなのか

廃墟になってました。

この監視小屋までの道

なかなかの傾斜で急な坂道だったので

『春子(小泉今日子)がここまで登ってきたのかな?』と

勝手に感心していたのですが

 

実は、監視小屋のすぐ後ろには”小袖”の集落があり

昭和8年の津波の記念碑があってビックリ

(ようするに撮影時のスタッフや俳優さんはこの道を使ったんだろうな)

この小袖には湧泉(井戸)があって15戸の集落があったんだとか

 

ここに陸中野田からの路線バスのバス停があってまたまたビックリ

同じ道を歩くのが嫌いなので

そのバスの走る町道(?)を下ってみました。

 

この間、突然晴天になって汗ダク

せっかくキレイに晴れてくれたしと

海岸に下りて動画で打ち寄せる波を撮影してみましたが

うねりが凄くて驚かされました。

 

 

その後、また海女センターに戻り

お土産を買ったのですが

(あまちゃんのクリアファイルや海藻類、網で作って垢すりなど)

店番をしている海女クラブのオバチャンに

 

「今年は素潜りの実演みられなくて残念だったけど、

『また来なさい』って神様の思し召しだと思ってまた来るわ」と言うと

 

「はい。また来てくださいね。」と笑顔を返してくれましたが

 

やはり、そこは『ジェジェジェとちゃうん?』と突っ込みたかったな(笑)

館内をゆっくりと見学して

 

(12:30)屋上の展望台で

”うにごはん”をお昼に食べ

14:00小袖海岸発久慈行のバスまで、まだたっぷり時間があったので

撮影で使われた衣装や小道具、その他資料がいっぱい展示されているコーナーで

”あまちゃん”の台本をみつけ

じっくりと読ませていただいちゃいました

 

 

そうこうしていたらアラームをセットしていた13:30となり

 

バス停に向かったところ

13:45頃でしたが、少し離れた場所に停車していたのに

待たせては悪いと思ったのか

バス停に停車して乗せてくれました。(優しいなぁ)

 

朝からいろいろと困難や絶望を味わうこととなってしまいましたが

それでも夢にみた”あまちゃん”ロケの聖地を楽しませていただき感謝感謝


 

【その④北鉄(北三陸鉄道=三陸鉄道リアス線)の北三陸駅(久慈駅)へ に続く】

 

 

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”糸の切れた凧”の旅【その②北三陸津波の被災地へ】

2024-10-02 16:27:17 | 旅行

9月27日宮古到着後

にっぽん縦断こころ旅2016年春の旅

541日目のこころの風景”宮古港出崎埠頭”と

東日本大震災直後、津波動画を観てトラウマとなっていた宮古市役所跡を訪れてから

『さて、どこかで夕食でも』と市街地を歩いていたところ

 

いつもの嗅覚で歓楽街の面影が残る一角を発見

昭和な淫靡な雰囲気の漂うとても魅力的な場所でしたが

もはやすっかり時代に取り残された遺跡となってしまっているなと

肩を落としてトボトボと徘徊していたところ・・・

薪を燃やしている匂いがして

見上げてみると高い煙突とたなびく煙が目に入り

これは間違いなく薪炊きの銭湯だな と気づき

『ひとっ風呂浴びよかな』と心惹かれちゃいましたねぇ

後ろ髪を引かれる思いで煙突と煙を目に焼き付けてから

飲み屋探しを続けていたところ

なぜかとても気になる赤提灯の居酒屋を発見

『よしこれは入ってみなければ』と躊躇することなく暖簾をくぐり

大将に断ってカウンターの隅の席に座り

「とりあえず生(ビール)」と注文しながら

お品書きをみてみると

どれもこれも魅力的なメニューだらけ

この、大きな大根と糸コン、つくね団子に

海苔がたっぷり入った”突き出し”

ムチャクチャ美味しくて

『この店、正解だったな』と確信

”生牡蠣”と”しめこはだ”で生ビールを数杯飲んでから

『さて、次は何飲もう?』

と悩みながら

日本酒は飲み過ぎて早起きするのが辛くなりそうだし

甘いチューハイやサワー類じゃ肴に合わないなと思っていたところ

 

突如、あまちゃんで北鉄の駅長”大吉っあん”が頼む

”ウーロンハイ”焼酎抜きを思い出し注文(但し、勿論焼酎入り

 

続けて、店の売りと思われる”どんこたたき”なるものが気になって

ネットで検索してどんな魚なのか確かめてから注文したのですが

肝であえたタタキは最高でしたねぇ

この辺りで、地元の常連さんらしき客がカウンターの隣の席に座り

続けてその友達も来店した頃にはすっかり打ち解けて

 

それまでにもそこそこ飲んでいたものの

まだ飲み足らず、かと言って一人でボトル頼んでも勿体ないからと

彼等も飲むかと尋ねてから赤霧島をボトルで注文

 

続けて、宮古港まで歩いていた時に見かけた カレイの一夜干しを頼み

↓ 意気投合した大将がオマケでサービスしてくれた鮪のお刺身

これも最高に美味しかった~

『宮古の津波の動画がショックで市役所跡に行ってきた』

と話すと当時ことを話してくれて

『遺跡のような歓楽街を眺めてきたけど、その昔は漁船の乗組員で賑わってみたいだね』

『あと、火野正平さんの自転車の旅で出てた出崎埠頭に行ってきた』

とか

『この店も嗅覚で探し当てた』と話すととても喜んでくれて

彼等と大将も加わって会話も弾み

そこそこいい気分になったところでオアイソしてもらったところ

「ボトル代が入ってお高くなっちゃいました。。。」と

9千なにがし円の紙を渡されたのですが

 

生牡蠣800円

しめこはだ600円

どんこたたき800円

カレイ一夜干し800円

に生ビール4杯(600円x4=2400円)

ウーロンハイ5杯(500円x5=2500円)

赤霧島 ボトル 2700円

ですでに10,600円

突き出しを加えたらそれ以上とわかっていたので

その心意気が気に入ってしまい

 

ついついまたまたフーテンの寅さん『釣りはいらねーよ』から

この日は諭吉を二枚渡し

「今夜は良い店がみつかって美味い酒が飲めて嬉しかったなぁ。

彼等の飲み代の足しと大将に酒勧めなかったからとっといて」

と往時の藤山寛美ほどじゃないけど

つい大判振る舞い

 

受け取るのを遠慮してるので

「今度は火野正平さんの番組で観た山田町の荒神社(あらがみしゃ)に行くからまた寄らせてもらうわ」

と店を後にしたのですが

 

その後、〆のラーメンが食べたくなってしまい

ホテルに戻ったのに入らず

宮古駅方面を彷徨ったまでは覚えているのですが

その後の記憶なし

翌日、三陸鉄道が動き出した音で目覚め

外をのぞくと丁度日の出時刻

前日には気づかなかった 大煙突をみつけ

調べてみると”ラサの大煙突”だそうで

前日、出崎埠頭近くでラサの精錬所の遺構をみていたので

当時は漁業以外での代表する産業だったんだなと納得

 

いや~、何も調べずに現地で知る新たな知識 ためになりますね。

朝イチで朝食を済ませ

宮古駅に向かい

すでに新田老までは不通となって代行バスになってることを知っていたので

駅の構内で”あまちゃん”の第一回の開業記念日を彷彿とさせる写真を眺め

自販機でキップを購入

代行バスに乗り込みました

 

新田老駅で下車後は

ほとんどの乗客が三陸鉄道に乗り継いでゆく姿を見送り

 

とぼとぼと歩いて

その昔は万里の長城と呼ばれた防潮堤を訪ね

その奥に新たにつくられた防潮堤に驚きながら

 

津波遺構として保存されている”たろう観光ホテル”を眺め

 

 

標識に誘われて展望台まで登ってみたものの

木が生い茂っていて三王岩を眺めることができず

諦めてまた漁港に戻って三王岩に向かったところ

 

修復された製氷保管施設があり

港内には少し大きな定置網用の漁船もあるものの

ほとんどが小型の船外機付きのFRP和船だらけ

この辺りの主流はアワビなんだと知りました。

漁港の先は荒波が岩に砕ける音が鳴り響く海岸線となり

その先に三王岩があったのですが

津波で動いてしまった大きな岩を眺めながら

前日、居酒屋で仲良くなった常連さんが

「『津波で三王岩が一王になったらしい』って噂が飛び交ったました」との話しを思い出し

 

よく耐えたなぁと

三王岩の近くには

奇跡の一本松があり、陸前高田は枯れてしまいましたが

ここ田老は煙害にも耐えたようで驚かされました。

その後、また昔の防潮堤方面に戻り道

過去の津波の高さを教える標識がありましたが

 

田老は入り江が狭いため、

容積で押し寄せた津波が行き場所をなくして上に逃げたんだなと実感させられました。

これは、川の河口に作られた防潮堤

分厚いコンクリートの扉にビックリさせられましたねぇ

中央の狭い切り込みが海と繋がっている箇所

また昔の防潮堤をまじまじと眺めてから

 

道の駅へ向かい

ジオラマや津波の直後と現在の比較写真で

その被害の大きさを実感

この田老の道の駅には訪問者がどこから来たのかシールで残してありましたが

奈良からは3人目でした。。。

その後、新田老駅に向かい(新田老駅は津波の後新設された駅)

津波で被害を受けただろうと思われる建物もしっかり使われていて驚きました。

あと、新築の5階建てのマンションも最上階から屋上に上れる梯子があり

また津波に襲われたら屋上まで逃げられるようにしてるんだとこれまたビックリ

 

この日は土曜日だったからか

三陸鉄道も大賑わい

 

代行バスも2台体制でしたが

宮古からのバスの遅れと

新田老駅は三階がプラットホームのため

エレベーター待ちで更に遅れ

とうとう20分遅れでの出発となりました。

 

新型車両はすっかり観光仕様

 

次に向かったのが

島越(しまのこし)

”あまちゃん”で親友の足立ユイが東京に向かおうと乗車していて東日本大震災に遭遇

大吉とトンネルを出たところで津波で破壊された線路を呆然と眺めていた場所だったので

今回の旅ではぜったいに訪れなければと思っていた土地でした。

新しい駅舎は、津波で破壊された駅舎を模した宮沢賢治ゆかりの地のひとつ

t

津波前の航空写真がありましたが

現存してるのは高台にある家のみ

ここの駅舎には やはり津波前の島越のジオラマがあり

これは津波がきたら”ひとたまりもない”だろうなと実感

島越のある田野畑村には

にっぽん縦断こころ旅で火野正平さんが訪れていた北山崎のあり

断崖クルーズの観光船があるとの案内があったので

乗れないかと電話してみたところ

「風が強くて本日は欠航です」とのつれない返事

それならばと、訪問先に決めていた旧駅舎跡と宮沢賢治の碑を目指そうと歩いていたところ

橋の架け替え工事で年度末まで通行止め

そんならいいやと歩いて海岸線に出ることに

新しい防潮堤の上から海を眺め

 

迂回路で大回りして旧島越駅階段と

 

 

 

 

慰霊碑に手を合わせ

断崖クルーズの観光船のある漁港まで行ってみましたが

実は、ザックを担いでもう10キロ近く歩いていてヘトヘト

まだ次の三陸鉄道の発車時刻まで1時間以上ありましたが

駅舎に戻り

田老の道の駅で仕込んでおいた

発泡酒ロング缶2本と塩オニギリと玉子焼きとフライドチキンで昼食を済ませ

そのままベンチでうたた寝してから改札口に向かったのですが

やはり遅延していて20分遅れ

 

駅まで迎えに来てくれる国民宿舎の方に申し訳ないなぁと思いつつ

支援のつもりでお土産を買わせていただきました。

 

【その③いよいよ”あまちゃん”ロケの聖地、袖ヶ浜(現実の地名は小袖海岸)へ】

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”糸の切れた凧”【その①目指せ陸中】

2024-10-02 10:54:06 | 旅行

なんせ社会人になって以降

出張漬けから、長期海外派遣を何度も繰り返し

連続TVドラマはほとんど観れない生活が続いたため

 

すっかり縁遠い人生となってしまったことから

某国営放送の朝ドラ”あまちゃん”が面白いと耳にしながら
視聴するのを諦めていたのですが・・・

去年だったかな? BSで再放送すると知って

全編録画設定して保存していたものの

なかなか余裕を持って観る機会がなく、半ば忘れていたところ

 

このブログでも記事にした

7月末に断食することを決めた際

録画したブルーレイとパソコンを持ち込んで

個室で誰にも邪魔されることなく見続け

(150回x15分=2,250分[37.5時間])

家に帰ってからも数日間、毎夜仕事を終えて寝るまでの楽しみとなり

残りの回数が少なくなると

今度は”あまちゃんロス症候群”が怖くなり
わざと1話、2話だけ観ることにして完結しないようにしたのですが

それでも最終回を迎えてしまい

 

その時にはいつものことで

直ぐにでもロケ地へ飛んで行きたい気持ちに駆られてしまったのですが

 

いかんせん8月は水利組合の池の水管理当番

9月は環境整備の委員長もあり

それまでにそこらじゅうの土地の草刈りをしなければ

後ろ指を指されるなと

 

Google Mapsの航空写真を眺めながら

ルートや旅程を空想しながら

旅程を組み立てて

悶々としながら過ごしていたのですが

 

9月22日、ようやく環境整備を終え

とりあえず近所の空き地の草刈りも終えて

 

会社と家族に旅に出ることを伝え

最も楽そうな花巻空港へ飛ぶこととしたのですが・・・

関西からは以前はピーチもあったのですが

今はJ-AIRのみ

競合のない航路もあってシニア割もなく

片道40,000円超え

 

他に方法がないかなぁ?と花巻空港への乗り入れフライトを調べてみると

FDA(フジドリームエアライン)の神戸と名古屋便があり

神戸は一日1便のみで到着時間からせいぜい盛岡泊まりしかできず断念

名古屋便は4便あって昼頃のフライトなら現地移動も楽とわかり

他の選択肢はないなと自分に言い聞かせ即決

事前に調べておいた時には、早割だったのか片道16,500円程度だったのが

前日だったので28,500円

(但し、当日だと40,000円ちかくなってJALの方がお得)

 

悩ましいなぁと思いつつ

新幹線に乗るのは絶対にイヤなので

ネットでチケットを購入

 

さて、飛行機が確保できたし

宿も予約しよ と

宿泊予約サイトで龍泉洞温泉ホテルを探すと

どうにも出てこず大焦り

 

それならばと直接宿に電話したところ

団体客が入って満室なんですとのこと

 

周辺の宿も全くとれず

これはヤバいぞと二日目の宿

あまちゃんで何度も登場する

袖ヶ浜の最寄り駅で、安家川橋梁の眺望も楽しもうと

”堀内(ほりない)駅”に近く

食事もよさそうな”小野旅館”に電話してみると

「すみません。満室なんですよ」とのこと

 

急いで小野旅館の先にあった”国民宿舎えぼし荘”に電話すると

「風呂・トイレ共用のお部屋ならあります」とのことだったので

 

 

アチャー

これは旅程から見直さないとと

花巻から 釜石線で釜石に出るルートも考えたのですが

どうにも不便

 

盛岡からJR山田線で宮古のルートも考えて

いずれにしても初日は宮古泊まりにしようと決め

駅近くのホテルを予約

 

当初は、とりあえず”あまちゃん”ロケの聖地

袖ヶ浜(小袖海岸&小袖海女センター)と北三陸駅(久慈駅)を訪ねてから

帰路、東日本大震災の津波の被災地【宮古】【田老】そして【島越】で

鎮魂の祈りを捧げようと思っていたのを急遽変更

 

急いで国民宿舎えぼし荘に電話して予約を済ませ

「堀内から歩いて行けますよね?」と尋ねると

「野田玉川へお迎えにあがりますよ」とのこと

堀内駅で下車できないのが残念でしたが

旅程を組みなおし

 

当日、朝7時30分に家を出て

大和西大寺から特急で大和八木に向かい

大和八木からは 特急ひのとり(8:29発)

平日の朝だからかビジネス客がほとんどで 

それもほぼ満席

10:08 近鉄名古屋駅到着

地下街を抜けて

ミッドタウン前のバス停から

県営名古屋空港行バスに乗車(10:35)

(11:00)県営名古屋空港到着

その昔、セントレアができる前は

名古屋からNZのオークランド行とかに乗ったこともあったなぁと思い出していたところ

 

三菱重工の建屋を発見

例の大失敗したMRJの工場みたいでした

その後、花巻空港や盛岡でのんびり食事する時間がないので

つい、ランチを注文して大焦り

断食してからお酒はやめられないので

食事は思いっきり節制してたのに

どうしよう と思いつつ完食しちゃいました。

その後、搭乗口へと向かったのですが

いまや定期便はFDAのみなんですねぇ

 

でもって、なんといまどき紙のチケットのみ利用可能

それでも、福岡、高知、丘珠、山形、新潟、花巻など

そこそこ本数もあってビックリ

FDAって、フジの名前のとおり静岡空港がハブで

どうやら鈴与が関与した会社で

JALと提携したLCCみたいでした。

てっきりANA系のIBEXみたいな小型JETかと思ってたら

ずんぐりむっくりした機体で

機内はゆったりとしていて乗り心地は良かったですよ。

ただ、相当使い込んだ翼をみてると『そうとう古そうだなぁ』との印象も

花巻空港への航路は 北アルプス上空から富山、新潟と

佐渡島を右手にみて針路を変え山形上空から花巻に進入してました。

予定時刻より少し早めに花巻空港到着

13:50発のバスしかないかと思ってバスのチケット売り場に行くと

13:20発の盛岡行バスが待ってますといわれ大助かり

宮沢賢治ゆかりの花巻農業高校横から

花巻空港駅を経由して花巻ICから東北縦貫自動車道を走るのですが

周辺に民家のない山裾には”動物注意”の標識の絵が”熊”

 

場所によって、狸だったり、猪だったり、猿や鹿は良くみるけど

さすがは陸中 熊が普通に棲む土地なんだなぁと納得しちゃいました。

14:10 盛岡駅東口到着

前述のとおり当初予定では

盛岡からバスで龍泉洞に向かい

龍泉洞温泉ホテルに泊まり

翌日龍泉洞を見学してから岩泉小本に出て三陸鉄道に乗るつもりだったのが

ホテルが団体が入って満室と断られ

 

花巻から釜石線で釜石に出ること

それよりも素直に盛岡から宮古に出ようとJR山田線に乗るつもりでいたところ

台風5号の大雨で被害を受けて不通となっていたことを知り大ショック

 

ネットの乗り換え案内サイトで月日時刻まで入力して調べたのに

そんな不通の情報は全く知らされず

 

(いまどきはGoogle Mapsで経路を調べた方が正確なのを再確認しました

 

調べてみると盛岡~宮古のバスがあることを知り

切符売り場できっぷを買って

車内にトイレがあるかと尋ねると

「トイレがないので、1時間後にトイレ休憩します」とのこと

薬のせいもあって、頻尿気味なので

JR駅のトイレに向かうと

久慈の琥珀のお店や

”紅生姜かき揚げそば”なるとっても美味しそうなそばを発見!

少し離れたところに ”わんこそば”のお店や

”盛岡冷麺”の店など

後ろ髪をひかれる思いでバスに乗り

 

14:36 宮古行特急バスに乗車

途中でみかけた履物屋さん

一本歯の下駄や高下駄、雪駄類もいっぱいで

いつか店に入ってみたいなぁとの印象(笑)

こちらは岩手県公会堂

生まれ故郷の豊橋にも昭和レトロで名物となっている公会堂があるので

つい目にとまってしまいました。

お次は、盛岡の象徴”岩手銀行”の建物も見ることができました

盛岡の市街地を抜けてからは、途中の停留所をまわるため

細い山道となりましたが

しばらくして盛岡・宮古横断道路に合流し

途中、道の駅”やまびこ館”でトイレ休憩して

16:30 宮古駅前到着

16:40 宮古に向かうことを決め急いで予約したホテルにチェックイン

駅近で決めた宿でしたが

三鉄(三陸鉄道の線路沿い)の車輛もみれて気分はウキウキ

とりあえず荷物を放り込んで

 

”釣瓶落とし”の季節なので 日没までに動かないと

最寄りのバス停から港方面に行き

 

にっぽん縦断こころ旅 2016年春の旅【541日目】で紹介された宮古港の出崎埠頭へ

 

当時はまだ工事中だった場所には

津波用に新設された防潮堤ができてました。

撮影当時は、まだ昔の魚市場があった場所には新しい防潮堤ができ

お手紙の主のお父さんが機関長をしていた内航船の接岸していた埠頭も

いまや漁船の水揚げ岸壁となっているようでした。

その後、津波到達地の碑をみつけ

 

東日本大震災直後、ボラバスで気仙沼へ行き共に活動した仲間(♀)から

2011年5月頃にメーリングリストで周知してもらった津波の動画を思い出し

 

https://www.youtube.com/watch?v=Run7WrfCgRE&t=618s


 

【宮古=津波の被災地】と刷り込まれていたため

撮影された市役所跡(いまは公園になってます)に立ち寄り

 

鎮魂の祈りを捧げてさせていただきました。

 

 

【”その②北三陸津波の被災地へ”に続く】

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑤Vava’uの続きとその後】

2024-09-25 15:14:13 | 日記

さて、前の記事【その④突然Vava'u島へ転勤辞令】

の続きをさせていただこうと思ったところ

 

いつもながらの、その時の気分で思いつくまま書き記してしまうため

読み直してみるとあまりに適当すぎて大汗

 

前の記事を訂正したらいいのですが

なんせ画像貼りまくりで、文字数の限度を超過してるため

加筆するのは到底無理

 

と言うことで

『まあ、ほとんど人目に触れることもないからこれでいいか』

と思いつつ

とりあえず順序が逆となってしまいましたが

Vava’u島と登場する場所の位置関係をもう少し説明させていただきますね。

 

↓ こちらがVava’u諸島の地図


(Google Mapでは発音がいい加減なので間違いだらけ、
Laimatuaはレイマツア、Hungaはフンガなんですよ)
 
航空写真だとこんな感じ

ノッペリした首都のあるTongatapu島とは全く異なる
そこそこ起伏のある地形で
それもあって深い入り江や複雑な半島が連なる島なんです。

とはいえ、所詮隆起サンゴできた島なので高い山はなく
↓でもおわかりのとおり
サンゴ石と赤土に覆われた土地なので
緑の部分もしっかりと畑として開墾されています。
(ココナッツ、バナナ、パイナップル、ヴァニラ、カヴァ、タロ芋など栽培)


 
Vava’uの中心Neiafuは、
最も深い入り江の奥深く、
いくつもの半島に囲まれ風や波に影響されない場所にあります。

↓のほぼ一番下がParadise Hotel
上の方の埋め立てられた場所が港で
水産局のVava’u支局は”Tro”の位置
Bellavista Cafeの下の写真スポットが住居の掘っ立て小屋のあった場所
これは現在の航空写真なので
観光地らしくCafeや家も沢山ありますが
1982年当時は、レストランと言えばParadise Hotelのみ
あとはスタンド式のTake awayというテイクアウトの店がある程度でした。
 
海岸に沿って浮かんでいるのが世界中から集まった
太平洋横断中のヨット
 
Neiafuと飛行場、近隣のBeachを結ぶ主要道路以外は
こんな↓感じ
 
これはVava’u本島の西端の村 Tu’anukuにあるClarkのLangimaの家へ
バイクで遊びに行く時に通過した坂のひとつ


これは青年海外協力隊の最初の2年の終わりごろ

クリスマス休暇を過ごすために飛行機で訪れた時の写真

右下がNeiafuで、右側に続く半島の先にParadise Hotelがありました。

 

これは、前の記事でもちょっとだけ紹介した

年に一度、王様が来島した時の様子

年に一度の”Royal Agriculture show”という催しで

王様に農作物や水産物の出来を見てもらうもの

この時はほとんど全島から人々が集まるお祭りのようなイベントなんです

仲良しだった警官や地元の人々

 

こちらは、日系人のMikioという人物が

TongaとNew zealand, Australiaを結ぶ貨物船

Warner Pacific Lineという船会社のVava'u支店長をしていて

自宅では奧さんがMikio’s Guest Houseという宿を経営していたのですが

奧さん(左端)が料理上手で

素泊まりではなく、1泊2食付きだったため

NZやOZの年金暮らしの長期滞在者に大人気で

いつもほぼ満室の宿でした。

右側が末娘のEiko

私が任期を終えて帰る前の1986年頃には

コテージを何棟が建ててましたが

現在のGoogle Mapsでは宿として出てこず

Mikioや奧さんも亡くなってGuest Houseをやめちゃったのかも

こんな感じで宿泊者もBuffet Styleで食べられました。

この日は、Paradise HotelでもCarpenterとしてオーナーの手伝いをしていたPita

たしか、この日は誕生パーテイーのFiestで

子豚の丸焼きから伊勢海老にその他もろもろ大ご馳走が並びました。

 

 

ある日水産局支局で働いていると

現地の子連れの家族が私と話したいと訪ねてきて

これ(天然の黒真珠)を誰か買ってくれないだろうかとの話

実は、1980年頃、日本の田崎真珠が

Vava'u島で黒真珠の養殖を試みたことがあって

(隣国のFijiやTahitiでは黒真珠養殖に成功してた)

結局は定住して養殖に携わるスタッフが得られず

断念してしまったのですが

 

たぶん生き残った黒蝶貝から獲れたものらしいもの

 

たったひとつだけなのと、あまりに小ぶりなのと

ビール代でキチキチの貧乏協力隊員だったので

お断りしちゃいました。

 

続いては、客船が来たときの

ハンディクラフト市場の様子

私が赴任していた1980年代前半は

普段の生活ではラジオ(国営のRadio Tongaのみ)は全国民が聴いていて

そこで流されるポリネシアンな曲と歌

あとは、ニュースと公報、それとOngo Ongoという伝言番組があり

離島には電話など繋がらない時代だったので

離島と首都のTongatapuとの連絡といえばそのOngo Ongoのみ

 

『どこそこ村のナニガシが来週のOlovaha(フェリー)に乗るから出迎えに来て』

『〇日の〇時に無線連絡するから無線局で待ってて』などなど

個人情報ダダ洩れどころか筒抜け(笑)

 

Vava'uも町の中心に無線局があって

1台だけの無線で本島との連絡を取るために

毎日朝から夕方まで大行列で

私は、日本人と話さなくても全く気にならなかったので

一度も無線を使ったことがありませんでした。

 

あと、雑貨屋のOtoの二階に島で一軒だけの映画館があって

時々Muuliと観に行ってましたが

 

なんせ世界中を回ってきたFilm

映写機が時々止まると強いライトでFilmが溶けるのも日常茶飯事

 

1本まともに観れないのが普通でした

 

そうそう、Vava’uだけじゃなく首都のNuku’alofa でも

古い映画館は木製のベンチが座席だったからか

南京虫だらけ

 

映画鑑賞は貴重な娯楽で楽しかったけど

虫刺されで痒くて大変でもありました(笑)

 

あと、たまーに教会裏の広場の木を使って

大きな布をスクリーンがわりに張って

そこで入場無料の映画会もありましたが

 

その時は、それこそ全島から人が集まったのかと思うほどの盛況ぶりで

楽しかったですね~

 

おっと、またまた話が横道にそれてしまいましたが

そんな訳で普段の夜の生活は

家でラジオを聴く程度だったので

 

内職があたりまえ

みんな家でタパクロスや籠を作って観光客に売っては

生活の糧を得てましたね。

 

そしてVava'uに転勤して2月が経過した1982年10月後半

本島Tongatapuに出張するようにとの連絡があり

 

運悪く定期フェリーのOlovahaがNZでDock入りしていたため

古い鮪延縄漁船を改造した旅客船に乗り込んだのですが

(↓ 元は水産局で使っていた鮪延縄漁船のEkiaki号)

Vava’u島のNeiafuを出航してから

途中Ha’apai諸島の島々に立ち寄ってから数日かけて

首都のNuku’alofaに到着するもので

 

船を推進させる主機エンジン以外はほとんど壊れていて

船内の照明は勿論、レーダーも無線機も航海灯もつけずに

サンゴのリーフだらけの海でも夜間航行してて

それはそれはスリル満点の船旅でした

(そんなEkiaki号も1984年頃にハリケーンが直撃した時に座礁してしまいました。。。

 

実は、首都のNuku’alofaに呼ばれた理由が

当時、Tongaには青年海外協力隊員が4名居たのですが

2名が昭和56年度3次隊の私と同期の漁具漁法隊員

そして残りの2名が昭和54年度2次隊の冷凍機隊員の桜井研次さんと養殖隊員の倉松さん

その二人が任期満了で帰国するため

 

その二人の送別会と

Vava’u転勤まで暮らしていた水産局横の家から

桜井研次さんが暮らしていた街中のGovernment Houseへの引っ越しのため

 

↓これは、客船を眺めてる桜井研次さん

服装からしてたぶん7月頃(Tongaの冬)に

水産局に供与された小型のFRP漁船で週末に沖の無人島へ遊びに行った時のもの

正面の船は、オーストラリアを起点に英国のクルーズ会社P&Oの運航で

定期南太平洋クルーズに就航していた

当時は名の知れた客船S/S”Oriana”号(1959年建造)

その後フローティングホテルとして売却され1986年には別府にあった時期もありました。

 

そしてすぐさま送別会が催され

桜井さんの家の隣の同期隊員の部屋に

水産局の同僚が食べ物を持ち寄り(ビールは日本人が提供)

無礼講でのドンチャン騒ぎ

桜井さんは、当時トンガ語が一番上手で

兄弟のように慕っていたカウンターパートもいて

とっても楽しい歓送会となりました。

 

その後、桜井さんの暮らしていたGovernmemt House #39 (Fika Tolu Hiva)に

Tongatapuに置いておいた私物の荷物を運びこみ

今度は、外航貨物船でVava'uへ戻ることとなったのですが

 

桜井さんがVava’u島でたった一人の日本人で苦労してると同情してくれたようで

港まで見送りに来てくれて

手作りのニンジンでキンピラと卵焼きとご飯のお弁当を手渡してくれて

ありがたかったですねぇ

 

その後、またしばらくVava’uで面白おかしく勤務していたところ

11月中旬、Nuku’alofa の本局に戻るようにとの辞令

 

実は、その時が前述した王様が島々を周るイベントの時で

Vava’u島のあと、Ha’apai諸島に立ち寄ることとなり

定期船のフェリーは王様専用で使われていたため

(↓ Ha’apai諸島はほとんど砂洲のような島々で接岸できる岸壁がないため

王様は上陸用舟艇に乗り換えて上陸してました)

(↓ これは、桜井さんの送別会でTongatapuに戻る際に乗ったEkiaki号での様子)

水産局の鰹一本釣り用の漁船(Takuo)も王様のサポートで同行していたため

その船に乗り込んでの移動となりました。

 

それにしても、Vava’uでの生活はそれなりに楽しかったけど

なんせ食生活はあまり恵まれてなかったからか

その時に撮った我が身があまりにもゲソゲソでちょっとビックリ

 

Tongatapuに戻ったところ

着任早々機関長として乗船していた鮪延縄漁業練習船(Lofa)を

American Samoaで入渠することになり

 

ようするに

Dockでの仕事など経験のないJICA専門家(大滝なにがし)が

自分でこなす自信がなく呼び戻されたわけだったんです

 

まあ、私は青年海外協力隊に参加するまで

外資系船会社の工務監督見習いをしていて

入渠前のドックオーダーを作成して

入渠中は工務監督の補佐でアテンドと

まあその道のプロだったので

 

船体の洗浄から塗装

船尾管とプロペラの点検、ドックでしか整備できない

船底弁のオーダーなどを作成して見積もりを取り

造船所との打ち合わせも全て担当

 

そうしてAmerican SamoaのPagopagoを訪れた時の写真が残っていました。

 

Samoaは、西サモアを含め 火山でできた島

Tongaでは見られない急峻な山々が眩しかったですねぇ

ロープウェイで展望台に行けることを知って

ドック仕事の合間に登ってみた時の一枚(セルフィで)

なにやら慰霊塔があったので 説明書きをみてみると

ロープウェイのロープにひっかかった飛行機の犠牲者の慰霊碑でした。

American SamoaもSamoa同様、

緯度的にはTongaより相当赤道寄りのため

暑くて堪りませんでしたが、展望台は高台にあって少し楽。

↓ この写真のほぼ中央にあるのが造船所のSlip way

American SamoaにはアメリカのStar kistという缶詰会社があるため

巻き網船や鮪延縄船が獲った魚の水揚げに寄港する基地で

このアメリカの巻き網船は、小型ヘリコプターが搭載されていて

上空から魚の群れを見つけて一網打尽にしてしまうもの

 

延縄漁や一本釣りのように

餌を食べた魚だけ釣る漁法と異なり群れの全てを獲ってしまうため

資源を枯渇させてしまうんだそうです。

(二隻の巻き網船の後ろがTongaにODAで供与されたLOFA)

この時は、操業を終えてからTongaの岸壁で

機関室の主要機器

(プロペラを回すための低速ディーゼルエンジン:主機)

(冷凍機と船内の電源をまかなうディーゼルエンジン:補機(発電機))

(延縄漁の餌(冷凍サンマ)や獲った魚を保存するためのレシプロ式コンプレッサー:冷凍機)

その他、機器類のほとんどを整備してからAmerican Samoaに向かったため

それまで機械類の整備もドックオーダーしていたものを

ドック費用を極限まで抑えられるようになって

ようやく私の存在意義が認められるようになりました。

 

【またまた文字数が20,000字を超過してしまいましたので、その⑥Nuku’alofaでの生活編に続く】

↓(Nuku’alofaでの住居:Governement House #39)

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その④突然Vava’u島へ転勤辞令】

2024-09-15 12:31:00 | 日記

 

先日のこと、偶然にもトンガ王国に派遣されていた協力隊の先輩隊員OBが

この記事をみつけ、懐かしくご覧いただいたとのコメントをいただきました

 

日々の生活に追われ、続きを投稿せずブランクができてしまいましたが

またTongaの続きを記事にさせていただきたいと思います。

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【これまでの要約】

1982年1月末に日本を出発し FIJI, SAMOAを経由して

ようやくTongaに赴任したところ

アナカン(別送荷物)も届いてない状態で

現地訓練との名目ながら、実際には機関長として鮪延縄漁船に乗り込み

2航海目の操業の途中

 

Tonga史上最大とも言われたハリケーンに遭遇し

首都のあるTongatapu島は高潮で島のほとんどが壊滅的被害を受け

その復旧作業に忙殺されることとなったものの

陸上での生活が送れるようになってカルチャーショックを受けながらも

それなりに日々の生活を楽しめるようになったのでした。

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その後、当時付き合っていたGFが

女子中高の進学校で働いていたため夏休みを使って

格安航空券などない時代に夏のボーナスをはたいてTongaまで遊びにきてくれ

島内の名所を案内したりと
 
Tongatapu島の南側にある
’Oholei Beachという海岸の洞窟の中で
トンガ料理とFire Danceなどのショーが観られる場所




こちらは、当時2軒しかなかったHotelのひとつ
Joe’s Hotelの屋上レストランで
コックをしていたオカマの自称Sukiyaki Sakamoto(通称スキ)と
 
このオカマ、以前お話した17年トンガで専門家をしていた
川上晋さんの家で女中をしていたため
日本料理もどきをつくってくれるし
日本人のことをとても良くわかってるので
ちょくちょくレストランを訪れては雑談してました。
 
 

そんな風に

限られた時間の中で精神的にも安らぎの時間を過ごしていたのですが

 

GFが帰国した途端

突然、首都のあるTongatapu島から北へ366kmほどの位置にあるVava’u島(Neiafu)への

転勤を命じられ

ビックリしながら辞令に従いフェリーに乗船

とはいえなんせ

当時、協力隊員としては初めてのVava'u転勤

 

鮪延縄漁船もあるし、その他にも鰹の一本釣り漁船に巻き網船もあり

ただでさえ、大型商船の船乗りだったため

それまで触ったこともないような小型のエンジンや機器に呆れてたのに

 

離島では 数十馬力の漁民のエンジンや船外機と聞いて

いったいどうなることやらと思いつつ赴任したのですが

 

住居は、アメリカ平和部隊あがりで

SPC(South Pacific Community)という組織で働いていた人間が

休暇で一時帰国するため、その間彼の家で住んでくれと言われ

眺めの良いコテージに掃除から洗濯、賄いまでしてくれる女中さん付きで

Vava’u勤務も悪くはないなと喜んでいたのですが・・・

Vava'uに着任して1・2週間

そんな風に気楽に過ごしていたところ

休暇で一時帰国していたアメリカ人が戻ってきて

『もう出ていってくれ』と冷たく言われ

(ようするに現地人にあまり好まれてない人物だったので、

帰国中に泥棒に盗まれないように番人代わりにしたかっただけ)

 

実は、転勤もそれが理由で当時のイギリス人水産局長に交渉して辞令を出したとわかり怒り心頭

 

職場は、Neaifu港の端の水産局のVava’u支局

(右側の建物は、援助で建てられた冷凍庫と漁具倉庫)

事務棟は小さな平屋の建物に支局長室と会議室

中央にトイレとビニールホースでシャワーと小さな倉庫があるのみ

 

そこの手前にWorkshopがあり、小型エンジンの保守整備というよりも修理業務が私の任務

私にとってはオモチャのような小さな漁船のエンジンを

現地のメカニックと一緒に油まみれになって整備するのが日常となったのですが

 

なんせその頃、初めて島で暮らす日本人

(Tongaにも首都のNuku’alofa には戦前から移民してきた日本人が居て、

短期間でしたがVava’uにも、百貨店もどきの雑貨屋があって

そこへマネージャーとして日本人が雇われてた時代がありました。

田中邦衛さん主演の”トンガ冒険家族”のモデルとなった方)

 

人格者で心優しい支局長のサポートもあって

何もない僻地での不便な生活でしたが精神的には癒されてましたねぇ

↑ 左端が支局長のNaita 右端が助手のメカニックのFalanisi

あと水産局で見習いスタッフだった若者のMa’afuと

 

 

 

↓ 彼女は事務所のクラーク Langimaa

とても優しい性格でお世話好きで

金曜になると『洗濯物出しなさい』って言われ

渡すと週末家で洗濯してくれてました。

 

↓ここが半島の先っぽの彼女の自宅

日曜日にウム(休日のご馳走)を食べにおいでと誘われて

道なき道のオフロードをバイクで訪問していた時の一枚

 

話を戻して、そんな訳で糞ったれのアメリカ人から追い出され

支局長がなけなしの予算から

別の貸しコテージを借りようとしてくれたのですが

どうにも毎月の費用を捻出するのが大変そうだとわかり

 

かわりにと

漁具倉庫兼、ローカル職員の寝泊りに使ってた掘っ立て小屋を改造して

提供してくれたのですが・・・

(一番下の紺と朱色に塗ったトタンの小屋が住居、

その上の段にトイレとシャワールームを作ってくれたのですが

それが完成するまでは肥え溜め式の小屋しかなく

小は夜だけ海に向かって立ちショ〇ベン

〔夜中の真っ暗闇でも目敏いトンガ人から「Masa!昨日海にオシッコしてたろ」とからかわれながら〕

大は便意を催すと堪らず水産局までバイクを走らせなければならず、苦労しました。)

引っ越した時にはまだ電気がなく

なんとかランプを買ったもののホヤがなく

炎を大きくすると真っ黒な煙が出るので

こんなマッチの灯りのような中で夜を過ごしていました。

それでも、一応キッチンに水道、冷蔵庫にテーブルやタンスまで置いてくれて

ありがたいなぁと感謝しましたねぇ

寝室側はこんな感じ

この写真を撮った時には なんとか電気も通してくれて

裸電球でもありがたかったなぁ

別の水産局のスタッフが独り暮らしじゃあ寂しいだろうと

子猫をくれ、それ以降大切な家族の一員となりました(笑)

なんせ島でたった一人の日本人

動物園のパンダ状態で、毎日子供達が集まってきて大変でした(笑)

右手の人物は、近くの漁具小屋で寝泊まりしてた離島の人物でたしか名前はMuuli

毎日映画に誘ってくれたり雑談の相手をしてくれるのですが

毎晩我が家に入り浸って帰ろうとしないため

ある日、玄関の扉に『何人も入室禁止!!!』と貼り紙をしたのに

『この”何人”って、オレは入ってないよね?』と馬耳東風

まあ、それでも彼のおかげで面白おかしく過ごせるようになりました。

 

(↓この日は年に一度の王様が来島してのお祭りイベントの日)

(トンガ風に巻スカートとfalaniという飾りをつけて正装)

(真ん中のお兄ちゃんが子猫をくれたHenma)

オンボロの掘っ建て小屋でしたが

現地人がいつも気軽に遊びに来てくれて

”これぞ協力隊員”って気がして、辛さよりむしろ嬉しかったですねぇ。

 

 

さて、それではまたVava'uのことに話を戻すと

大型の客船が来ると

上陸する観光客を狙って島中の車が大集結

(ただのトラックで荷台がバス代わり)

Vava'u島は、入り組んだ入り江と島影で風や波が遮られ

Port of Refuge(天然の避難港)と呼ばれる、世界中のヨット乗りの憧れの土地のため

いつもたくさんのヨットが訪れていました。

 

これはさっきの掘っ立て小屋からの夕陽

こちら↓は、Vava'u島のランドマーク Mt. Talauと

見えにくいですが放し飼いの黒豚

こちらはTongatapuにある Tonga Club, Yacht Club, Nuku’alofa Club同様

それなりにハイソなメンバーだけが入場してビリヤードや酒を楽しめる

Vava’u Club

協力隊員も外国人特例で入れることができたので

町のスーパーのビールが売り切れると、焦って駆け込んでました。(笑)

 

こちら↓は、月に一度ほど週末になるとバナナ倉庫が生バンドのディスコになるのですが

大切な社交場なので おばあちゃんから孫娘まで、家族揃って来場してましたねぇ

(要するにチャラい男にナンパされないようにオバアチャンが監視係)

 

↓ これがそのディスコ

蛍光灯の下でしたが、大事な男女の出会いの場所(笑)

基本は男性が女性に声をかけて踊るのがマナー

同期隊員は女性に声をかけられず、でも踊りたかったようで

水産局の仲間(男)に声かけてましたねぇ(笑)

 

お次は、ボートでしか行けないのですが

観光名所のひとつ”Ana Pekepeka”

英語で言うと Swallows Cave

自然にあいた鍾乳洞のような洞穴で蝙蝠やツバメの棲家

小型ボートなら中まで入れるんです。

 

お次は、Ana Uku (英語でMariners' cave)

 

↓ 中央の色の濃い部分が穴になっていて

潜ってその穴を10mほど進んで浮上すると

内部には空気のある大きな空洞あるので

息ができるのと、外側から入る光に照らされて

内側から外を眺めるとまさに青の洞窟

そんな景色に魅了されてお気に入りの場所だったので

日曜日になると住居の掘っ立て小屋の前に係留していた

水産局のボートで、毎週のように潜りに行ってました。

日曜日はトンガでは憲法で定められた安息日

なので、いつもお供は子猫のみ(笑)

ついでに素潜りでサザエや高瀬貝(ボタンにする巻貝ですが、これが結構美味)を獲って酒の肴に

 

あと、オフの時間に過ごしていた場所のひとつが

島で最もモダンな施設だった Paradise Hotel

たしかアメリカ人の年寄りの大富豪が、若いオーストラリア女性と結婚して

半分趣味のように経営していた五つ星級リゾートホテル

いくつものコテージの客室とアメリカンスタンダードなレストランがあって

定員10名ほどの双発のプロペラ機を所有して

海側にはマリーナがあって

モーターボート数隻とスキューバ、水上スキーなどの貸し出し。

 

共同経営者が、グリーンベレーあがりのPieterというドイツ系アメリカ人で

彼も飛行機の操縦免許をもってたので

チャーターで隣国のアメリカンサモアやフィジーからの

お客があると送迎したりしてました。

(Pieterはマリーナ経営と飛行機の操縦が担当)

 

ホテル側のオーナーは

建物の資機材をアメリカやオーストラリアから輸入して

ローカルの若者に手伝わせ、自ら率先してカーペンターのごとく

溶接したりコテージの増設してました。

 

その後、Paradise Hotelは、オーナーが幼い子供たちの将来のことを考えてなのか

Tonga政府に売却してその後国営となったのですが

20年ほど前に失火によるものなのかメインの建物が火事で焼失し

いまは廃墟のような施設になってしまったようです。。。

 

ドイツ系アメリカ人のPieterとはとても仲良くしていて

休日モーターボートでお客を案内している時に

自分が水上スキーしたくなったからボート操縦してと頼まれたりしてましたねぇ。

(学生時代、ヤマハのリゾート”合歓の里”のマリーナでバイトしてた時

観光用&白浜海水浴場への送迎で一日中モーターボートの操縦してたので得意でした)

 

その後、ホテルが売却されたときに

水上飛行機に買い替え

Vava’uを拠点に首都のあるTongatapu島や

Tongaの北端の諸島

もうSamoaの方が近い Niuatoputapu島やNiuafo’ou島

トンガ富士と呼んでたKao島やTofua島への観光飛行とかしていましたが・・・

 

年齢的にももう引退しちゃっただろうなぁ

(たしか私より20歳以上年上でした)

 

 

その他、なんせVava’u島は

王国の中でも比較的自由な空気で

(Tongatapuは王家や貴族に支配されてる感あり) 

風光明媚なうえに常夏の地だったので

 

特にオーストラリアやニュージーランドからの移住者や

年金生活を気楽に過ごしているOZ,NZの年寄りも住みついていて

ほとんどは、Guest Houseと呼ぶ最も安価な宿(当時は素泊まり一泊T$3~T$5:当時の為替でT$1=250円くらい)

を利用していましたが

 

こんな瀟洒な家を建てて暮らしたりしてる移住者もいて羨ましかったですね。

(とはいえ、外国人は土地を買うことはできないので借地)

 

↓は、以前日本人マネージャーを雇っていた雑貨屋

通称Otoと呼ばれていたお店

私の住んでいた掘っ立て小屋がこの店の横から下った場所にあって

お隣さんだったのと 

店の経営者の娘と仲良しだったので

食料品を買いにいっては、値切り交渉しながら談笑してました(笑)

 

島のメインの外貨収入源はなんといっても

世界中から寄港するクルーズ客船の観光客が落とすお金

接岸できるような港はないので

水深のある湾内に錨をおろし

救命艇兼用のボートでお客をピストン輸送

荷台に幌をかけ、木製のベンチを置いただけのトラックが観光バス代わり

クルーズ船が入港すると島中のトラックが港に集結してました。

客船が来るとわかると

事前に燃料を補給しておこうと

島にひとつだけのガソンリンスタンドに集まるのですが

なんせ手動のポンプ一台のみ

(透明のガラスの容器にハンドポンプで地下の燃料を汲み上げて

注文した量にセットしたパイプに届いたらオーバーフロー。 

その後ホースへのコックを開けて給油する仕組み)

 

こちらは、舗装された滑走路を持つ新飛行場

ジェット機が離着陸できるほどの長さを持たないため

基本プロペラ機のみで

当時は、首都のNuku’alofa (Ha’apai経由)からの国内便と

American Samoaへの国際線のみ

 

(近年は、Whale Watching観光が人気となってFiji便もできたそうです)

こちらは、新飛行場ができる前まで使われてた赤土の滑走路の旧飛行場

島の北端に滑走路ギリギリで作られたため延伸ができずそのままで放置されてました。

↓これは国内線のTonga Airの1982年当時の一機

(Tonga冒険家族のドラマ撮影隊(田中邦衛さん)が帰る時に撮影した一枚)

 

Vava’u島での交通手段と言えば

道路が本島の比較的平坦な部分だけしかなかったため

 

ヒョロヒョロした半島の先っぽや離島へは

 

船外機のボートが主要交通手段

そんな朝夕の通勤・通学時の風景です。

 

トンガ冒険家族のドラマ撮影隊が来ていた時のひとこま

撮影がお休みの日にAna Ukuを案内した時に中原ひとみさんと

 

ドラマの監督(工藤栄一さん)

学生時代夢中になって視聴していた”傷だらけの天使”の監督さんなんですよ。

この集合写真の一番奥の中央が田中邦衛さん

(Paradise HotelでのVava’uロケクランクアップのパーティーで)

実は撮影隊がVava’u島に到着した時に

助監督さんが臨時で雇われコーディネーターをしていた

川口正徳OB(その③で紹介した現地人と結婚して移住してた人)に連れられて

Vava’uのことを一番知ってる日本人として私のところへ挨拶に来たのですが

 

それがあの”掘っ立て小屋”

茣蓙に座って一緒に瓶ビールのラッパ飲みをオススメしたのですが

 

あまりの環境に衝撃を受けて絶句

『撮影期間中は、ホテルの隣でCateringを頼んでるので

三食ずっと食べおいでよ』

『夜は田中邦衛さんや撮影スタッフで飲み会するのでそこにも是非』

とお誘いしてくれ

 

2週間くらいだったでしょうか

その期間は毎晩田中邦衛さんの話が面白くて

ビールも好き放題飲んで リッチな食事が食べられて

 

Vava'u生活の中でも忘れられない思い出を作っていただきました。

 

 

【その⑤に続く:たぶん

 

 

 

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9月11日になると思い出す【私のトラウマ《9.11》】

2024-09-12 16:41:49 | 雑感

はじめに

同時多発テロで犠牲になられた方々のご冥福の祈りと

ご遺族の方々へ追悼の意を捧げさせていただきます。

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さて、運がいいのか悪いのか

 

これまで”何度も命拾い”させてもらってきた人生と

独りで勝手に自負(?)しているのですが

 

そんな思いにさせられた経験のひとつが

2001年9月11日に発生したアメリカの同時多発テロ

 

備忘録をかねてその時に遭遇した出来事を記事にさせていただきたいと思います。

【当時のデジカメで撮影した画像は、動かなくなったパソコンのHDにしかないため

パスポートのスタンプ以外は借り物ばかりでごめんなさい

 

 

2001年は起業した翌年で

まだ安定収入を得られる事業を模索していた時期

時折、手っ取り早く現金収入となる海外での出稼ぎ仕事を請け負っていたところ

 

香港の船会社が所有するタンカーの発電機が致命的な事故を起こし

その大修理を監督する仕事の依頼を受け

 

8月25日

関空から香港に飛び

香港に入国

香港島の湾仔にあった請負元である日本企業の香港駐在事務所に向かったところ

そのタンカーはアメリカのヒューストンに寄港して

修理用の部品一式を積み込むので

アメリカのサービス代理店のワーカーとそこから乗船し

修理完了してから次の寄港地で下船して帰国の途に就いてもらうとの事

 

航空券は香港の船会社の手配で

香港出発が8月28日なので

その前に家族(駐在員夫人とその子供達)が

深圳のアミューズメント施設に行きたがってるので

深圳まで同行して欲しいとの依頼

(深圳でもまだ治安が悪くタクシーなど信用できない時代だったのもあって)

実は、その依頼元は

起業する前まで働いていた会社で

駐在員は元同僚

元々は大の仲良しで彼の誘いでその会社に中途採用で入社し

その後も毎晩のように仕事帰りに飲み歩く間柄で

 

依頼元というよりも友人のような関係だったので承諾して

 

8月27日 

高速船ターミナルのある尖沙咀から高速フェリーに乗り込み

香港出国

その頃から海路での深圳の最もポピュラーな玄関口となった

蛇口に渡り

深圳経済特区での特例観光ビザを受けて

勝手知ったる深圳から中華人民共和国へ入国

タクシーでアミューズメントパーク近くのホテルに送り届け

私はたしか国境近くのホテルに泊まり

のんびりと中華料理を堪能して仕事に備えて身体を休め

翌日の8月28日

今度は陸路で昔からの中国・香港の国境

羅湖から香港に入国

その昔

まだ深圳が未開の地のような荒地だらけだった頃

この橋を渡って香港に入った途端

ホッと安堵の息をついたものでした。

そして羅湖駅から地下鉄に乗って湾仔に戻り

預けておいた荷物を引き取って空港に向かい

香港出国

たしか満席の747のエコノミー席で

太平洋を横断して

LAX(ロスアンゼルス)到着

 

国内線に乗り換えてHoustonに向かい

現地の代理店が予約しておいてくれたホテルに投宿

実は、私が前の会社で管理職だった頃

何度か北米市場開拓でHoustonの代理店を訪問してたり

技術研修で来日していたその代理店の共同経営者の一人と顔馴染みだったこともあって

この時は、DownTownのHilton Hotelを予約してくれてたので

(それ以前は、よくNASAの宇宙センター前にあったHiltonが定宿でした)

 

夜遅くに到着しながら時差ボケと香港からの長旅の疲れを癒そうと

ルームサービスでポンド(煉瓦)サイズの血の滴るレアステーキをルームサービスで頼み

お腹もパンパンとなって大満足

 

翌日の8月29日は

その会社の共同経営者と

(地元南部訛りのアメリカ人と

元”デトロイトディーゼル”で働いてたイギリス人
そしてたしかギリシャ系の移民で技術者ではない出資者の計3人)

 

Houston郊外の風光明媚なSea Food Restaurantに招待してもらい

歓談しながら楽しいひとときを送らせていただきました。

アメリカらしいハイカロリーなワンプレートで

お腹いっぱいになりましたね~

(↓画像は借り物ですが、こんな感じ)

 

「熟練のワーカーを派遣するから安心して」との言葉に安堵しながら

夜、ホテルに戻り

船(タンカー)の入港を待っていたところ

 

突然、別れたばかりの共同経営者の一人から電話がかかってきて

トルネードが直撃する予報で船の入港が遅れそうとのこと

 

慌ててホテルの部屋のTVで竜巻の緊急速報を観ていたところ

次々と新しい巨大な竜巻が発生して

Houstonのど真ん中を直撃するとの進路予想図が映し出され

警報が発令されて高層階の部屋から外を眺めると

道路が閉鎖され、人気がなくなってさながらゴーストタウンの様相

 

しばらくしてホテルの窓ガラスが強風で割れそうになったと思ったら

突如停電となって真っ暗闇

 

非常灯だけはついてくれましたが空調も止まって辛かったですねぇ

(↓Houstonは竜巻銀座なんです)

 

そんな大変な一日もありましたが

竜巻も通過して乗り込む予定のタンカーも入港するとの連絡を受けて

9月2日午後 ようやく乗船

致命的なエンジンの損傷で

重さ数トンの大型部品の積み込みに半日以上費やし

船は予定通り出航したのですが・・・

 

実は、タンカーという代物

勿論、発電所への供給等定期航路に就航している船もあるのですが

ほとんどが先物として取扱われ

荷主(だいたい商社)が市場価格の変動で売買するため

とりあえず積み込んでから

揚げ地が変更するのがざら(ようするに不定期船)

 

この時もHoustonのGalvestonで積み込んだものの

とりあえずメキシコ湾の変針点まで向かうとのことで

 

通常でも組立だけで約1週間はかかる修理工事だったので

気楽に構えていたところ

 

揚げ地がプエルトリコの先のアメリカ領バージン諸島の

St Croixに決まり

入港予定は5日後と伝えられ

 

乗組員も会社からの命令を受けて焦りだし

総勢十数名での突貫工事となりその後の3日間ほぼ徹夜

 

なんせ普段でも高温多湿の機関室なのに

酷暑のメキシコ湾航路とあって気温45℃以上の環境での作業

 

そのうえなんせ香港の船

船内で提供される食事は三食いつも油だらけの中華料理で

アメリカ人のワーカー2人は口に合わずグロッキーになってたのですが

 

一人のフォアマン(職長)はそんな事態も想定してたのか

鰯のマスタード漬け缶詰を持参していて

『油だらけで食べられないよな。良かったら食べて!』と渡してくれ

南部訛りの酷い白人ワーカーだったけど、無口で黙々と作業をしてくれる

頼れる人材で良かったぁと思ってたら

そんな心遣いもしてくれる人柄が嬉しかったなぁ

 

因みにもう一人は、中南米系の明るくてお調子者

どうやら技術者としての技能を持たない単純労働のみのワーカーで

乗り込んだ当初は元気溌剌だったのが

あまりの3K仕事にほぼ倒れる寸前

 

そんなこんなで生き地獄のような数日でしたが

なんとか4日目に試運転を済ませ

 

5日目に港に入港すると乗り込んできた船級協会の検査官の立会いの下

負荷試験や耐久試験をクリアし落成書にサインを取り付けたところ

 

なんせケチケチな香港オーナー

すぐさま帰りの航空券を手配してシャワーを浴びただけで下船することとなり

アメリカ人の二人も一刻も早く逃げ出したかったようで

急いで身支度を済ませ

9月9日午後

数時間後に出発するマイアミ行の航空券が渡され

空港へ直行となったのですが

 

地獄のタコ船から下船してホッとしたのもつかぬ間

このあと空港でひと悶着

 

当時のアメリカは、出国時に航空会社のカウンターで

入国時に入管で渡される入国カードの一端を保存しておき

それを渡すだけで入管の出国スタンプ等はなく

 

この時は、Houstonを出航する時にそのカードを渡していて

一度は出国したことになっていたのに

またまたアメリカ領で上陸することとなり

 

港の代理店が私の再入国手続きをしていなかっため

アメリカ人の二人は問題なく通過できたものの

入管が『あなたは書類不備だからダメ』と言い出し

 

『Houstonから出航した時に出国カードを渡していたのが

またアメリカ領で上陸することになったからだ』と主張して

 

『問題があるんだったらSt CroixかHoustonの港の代理店に連絡してくれ』と伝えるも

時差もあってなかなかHoustonと連絡がつかないのか遅々として動かず

先に搭乗手続きを済ませたワーカー2人が

搭乗の締め切り時刻が迫って心配そうに眺めるなか

 

入管のカウンターを叩いて

『いいかげんにしろ!乗り遅れたらどうすんだ!』と怒鳴ったのが功を奏したのか

ようやく飛行機に乗り込めたのですが・・・

 

マイアミに到着すると

ワーカー二人はHouston行の航空券が手渡され

 

私は、連日の徹夜作業で疲れ切ってるし

東海岸のニューヨーク辺りで休んでから帰ろうと思っていたところ

 

香港の船会社が手配したという

ロスアンゼルス経由で香港行の航空券をマイアミで手渡され呆然

 

(実は、船会社には特別な航空運賃のタリフがあって信じられないような低価格で乗れるんです)

(このような船の機械の大事故では保険で費用が求償できるため技師はビジネスが普通)

(同様に移動にかかる宿泊費や経費もしっかり請求するのが一般的なのですが・・・)

 

たしかカリブ海のSt Croixを出発したのが9月9日の夕方で

夜マイアミでロスアンゼルス行に乗り換え

LAX(ロス空港)に到着したのが9月10日の早朝

 

久しぶりのロスだったのでBroad Wayあたりを歩きたいなと思っていたのですが

疲れ果ててDownTownに行く元気もなく

航空会社のカウンターで翌日のフライトにしてもらう交渉をする気もおこらず

数時間後に出発するジャンボ機に乗り込み

時差で9月11日の朝 

すし詰めのエコノミー席で仮眠することもできず香港到着

香港での乗り換え時間が長かったので

一度は入国手続きをしたものの

やはりDownTownまで行く元気なく

 

再び出国手続きをして

日本(関空)行の飛行機に乗り換え

ようやく関空に到着しリムジンバスで奈良の自宅に帰り

 

ヘトヘトになりながら食卓に座り

TVを横目に晩御飯を食べていたところ

あのマンハッタンのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込む

衝撃の映像が何度も繰り返して流され 目が点

その後に判明したテロでハイジャックされた飛行機は

ボストン発が2機、NJのニューアーク発1機と

ワシントン近郊のダレス空港発の1機

 

実は、帰国の途についている間

あまりの待遇の酷さに

『金輪際、こんな劣悪な条件の仕事は断ろう

と心に決めていたのですが

 

もしもあの時

①入管が許可せずSt Croixで一泊していたら・・・

②マイアミから東海岸経由にしてDCかNY辺りに泊まっていたら・・・

③LAからのフライトを一日遅らせていたら・・・

 

たとえマンハッタンに泊まってたとしても

そんな朝早くからワールドトレードセンタービルに行くことはないだろうし

散歩に出て惨事に遭遇することは万に一つもなかっただろうけど

 

もしかしたら自分の乗る飛行機にテロリストが乗り込んだか

ハイジャックされた飛行機に乗ってた可能性はゼロじゃないなと背筋が凍る思い

 

あのテロの後、アメリカ国内では全ての航空機が飛べなくなり

一週間以上足止めされていつ帰れるかわからない状況に追い込まれててたかも

 

まあ、それ以前に

*Houstonで竜巻の直撃に遭遇してなかったら

*タンカーの揚げ地がSt Croixじゃなかったら

(それでもカリブ海の島だったら大体マイアミかLAX経由での帰国になるんですけどね)

 

どうなっていたことか

 

そんな運命に導かれてたのかと

9.11になる度に思い出す自分史の一頁です。

 

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高脂血症薬の副作用による【横紋筋融解症】を疑って緊急で断食した旅

2024-08-05 17:40:33 | 旅行

2024年6月のとある日の真夜中

 

ここ数年眠りが浅いのか

いつごろからか早寝

(帰宅直後の午後6時過ぎに晩御飯を食べ、TVも観なくなって午後8時過ぎには就寝)

が習慣となってしまったことや

 

糖尿病の薬(ジャディアンス)が排尿と共に糖を排出する薬効により

頻尿と喉の渇きのために夜中に何度も目が覚めてしまうようになり

 

時計代わりについでにスマホを覗いては

そのままFBやYouTubeを開いて数時間

そんなクセがついていたのですが

 

偶然開いたYouTubeのトピックが

”高脂血症治療薬の副作用による横紋筋融解症”

というもの

 

現在服用している高脂血症治療薬を調べてみると

 

 

 

それらの症状があまりにも最近の我が身に現れていたのに気づき

思い起こしてみると・・・

 

1月5日 

中性脂肪値が規定範囲を超過し

好き放題飲み食いしている日常生活を自制するのが難しそうなので

無理しなくても良いように薬で抑えませんかと勧められ投薬開始

 

その後、十分な睡眠時間を取っているのに目覚めが非常に悪くなり

朝起きることがなんとも苦痛

 

更に脱力感と階段で2階にのぼるだけでも筋肉痛を感じるようになり

脱力と倦怠感に加えて、兄のように慕っていた桜井研次さんの訃報にショックを受け

気力も無くなり 66歳となって老化現象なのかなと諦め気分でいたところ

(時々尿の色がコーラ色になったこともあり)

 

1月19日

突然右腰から背中にかけて激痛が走り

寝床から起き上がるのも困難となり

腎臓か尿管結石かもとCT撮影するも原因不明

その後、胃の内視鏡するもやはり原因不明

【胆石に似た症状】

 

なんとか気力を振り絞り

友人達に会うために上京したり、出張仕事の依頼をこなすものの

 

例年の雪山歩きに行く元気はなく

サンチャゴ巡礼の旅(Camino de Santiago)に挑戦するつもりだったのに

体力作りもせずにスペインに渡るのは無謀と断念

 

その後も自分で処理しなければいけない仕事が無ければ

出勤してもほぼオフィスの自室で居眠り

 

なんせ身体を動かすのが億劫で

我が人生もそろそろ終止符なのかもと諦め気分でいたのですが

 

【副作用=横紋筋融解症】なのかも?との疑問が湧いたため

6月末毎月HbA1Cを検査のために受診しているクリニックを訪れた際

主治医に「どうにも副作用が疑われるので一度薬をやめて様子見したい」と伝え

 

その代わり自力で中性脂肪値を下げる努力をしなければと

ネットで断食道場を探していたところ

(これまで利用していた信貴山が火事で閉業してしまったため)

 

愛知県の奥三河にある断食センターを発見

クチコミから体験者のブログ記事がみつかり

ちょっと怪しいなぁ(韓国系キリスト教施設?)

との疑念を抱きつつ

 

愛知県生まれながら、足助&香嵐渓方面を訪れたことがなかったのと

格安で質素な施設が自分好みだったので

すかさず予約を入れ

 

※時期と日程決定の背景

①前々から約束していた協力隊同期の友人との会食できる日

②実家(兄夫婦)訪問と墓参(両親と異母姉夫婦)

③会社のスタッフに約束していた豊橋産の西瓜とメロンを買うこと

④赤味噌と花かつお、生鰹、ちくわ&練り製品を買うこと

⑤豊橋市美術館で開催中の”市電と渥美線”拝観

⑥水利組合の池の水管理当番(8月1日~)に間に合わせること

 

そうして

協力隊同期の友人との会食を7月25日と約束していたため

断食センターを7月26日~31日(5泊6日)とし

 

手土産を買わなければと

出発前日の7月24日 大阪鶴橋へキムチを買いに出かけたところ

商店街の定休日(水曜)で空振り

 

転んでもタダでは起きないヤツなので

以前大阪在住の学生時代の親友と

サムギョプサルでソジュを呷りまくったシクタン(食堂)へ行き

テンジャンチゲ(味噌汁チゲ)でお昼をすませ

 

出発日の翌7月25日

商店街が午前9時から営業するのを調べておいたので

車で鶴橋に向かい、戦後の闇市そのままの迷路に入り込んで

ナッパ(シロ菜)とカクテキ(大根)、キュウリとゴマの葉のキムチを買い

 



 

数年前から西名阪に通じる阪神高速が橋梁大規模更新工事で通行止めとなっているため

疎開通りから平野を抜けて松原JCTから西名阪で名古屋方面に向かい

 

11:50 伊賀SAでトイレ休憩

名阪国道、東名阪、湾岸線からR23号線で蒲郡ICへ 13:30

14:30 豊橋あんかけスパ チャオ本店で

バイキング(チキンカツとウインナ)鉄板Lサイズランチ

昭和なレーコー(アイスコーヒー)を飲み干して

実家に立ち寄ってキムチを手渡し

久しぶりに兄夫婦と雑談を楽しみ

 

豊橋駅西口のホテルにチェックインしてから

会食のため予約していた居酒屋へ

友人のご家族も招待していたため(奥さんと娘さんとその子供)

鯨は一品だけであとは”おばんざい”を全品注文

日付が変わる前にホテルに戻り

翌日は朝食をすませてから 両親の眠る市営墓地で線香を手向け

これまたネットニュースで知った”市電と渥美線”展へ

10:18 拝観開始

(ジモピーしか面白くないと思いつつ、またいつかブログネタにしてご紹介しますね)

11:45 美術館を出て

12:40 旧南設楽郡作手村(新城市作手)のお寺へ

異母姉夫婦が眠る永代供養塔で線香を手向け

道の駅でランチ(ついハヤシライスの大盛りを注文して大後悔)

その後、長年道路崩落で通行止めとなっていた県道を抜けて

”鳴沢の滝”へ

この欅 全長5.8m 直径70cm 販売予定価格180万円との表示

正直な話、『こんなん買うヤツおるんかいな』

(今時は樹の価格と言うよりは伐採して運搬してきた費用がほとんどかも)

14:18 香嵐渓(落部)到着

15:00 断食センター東海リラクゼーションオアシス到着

いくつもの建物があって

オ〇ム真理教のサティアンみたいで怖いなぁとの印象も持ちましたが

考えてみれば信貴山断食道場も宿泊棟がいくつもあって

仏教なのか神道なのか訳のわからないところだったので

それでもそれなりの需要があって増設してきたんだろうなと納得

今現在は、一応朝ハーブティの時間やゴズペルの時間があるものの

自由参加なので、結局滞在中それらのプログラムへは一度も参加しませんでした。

これが男性棟の私の部屋

プレハブに安普請で防音も断熱も全くない環境でしたが

そんなに気になりませんでしたよ。

こちらが集会(元礼拝)室で

真夏で誰も使っていませんでしたが

ロデオマシン、マシンバイク、ダンベル他運動器具があって

気候さえよければ断食中の運動も楽にできそうでした。

冷蔵庫内には販売用の炭酸水が入れてありますが

空きスペースは自由に使えるため

いくつもの保冷剤とペットボトルの水やお茶を凍らせてました。

 

それ以外にも、断食中に無理しないようにと黒糖&生姜ホットドリンクや

酵素ジュース、果物等も自販機のチケットで購入することができるので

精神的にもとても楽にFastingができる環境でした。

こちらは談話室

自由に使えるスペースですが真夏はちょっとキツイかな(冷房がないので)

標高550mほどあるようで

下界と比べたら温度は低いはずなのですが

日中の30℃超えはやはり辛かったですね。

(夜間は22℃まで下がるので、掛け布団が恋しかったです)

ということで、翌日豊田の市街地まで出て

ネッククーラーと床で寝そべられるようにと茣蓙を購入

足助ではアユ釣りしている光景を見かけましたが

それでも暑そうでしたねぇ

翌日は本断食(水以外抜き)2日目でしたが

まだ元気だったので近辺をドライブしてみたところ

 

動態保存しているボンネットバスを発見

名古屋から足助、飯田を経由して塩尻までつながっているR153号線で

愛知県、岐阜県、長野県の県境の町、稲武の道の駅まで行ってみました。

今回の断食センター

ちょっと不便なのがお風呂がないこと

 

そのため、水曜日以外はセンターの車で

足助にある公共の宿の日帰り温泉(300円)への送迎をしてくれるのですが

それ以外に選択肢としてこの”どんぐりの湯”がオススメだったので

その下見を兼ねて訪れてみたのですが・・・

そこそこ人気のある道の駅の様子で

飲食類が充実しすぎてて

意志の弱い自分としては断食中は避けたいなと思いました。

ただ、夏場はこの稲武の観光案内コーナーで涼めるのが超オススメ

いつもながらの同じ道を単純往復したくないなと

伊勢神トンネル手前から県道に入り

足助川沿いの県道33号線で断食センターに戻ったのですが

 

途中で渓流に折り畳み椅子を置き

木陰で足を水に浸けながら天然のクーラーで涼んでるオッサン発見

 

もし真夏に行かれる方は、折り畳み椅子を持参されるようオススメします。

 

こちらは水曜日以外毎日送迎してくれる豊田市の公共の宿&日帰り温泉”百年草”

この”百年草”(標高たぶん250m)

標高550mの断食センター(栃平)から

五反田町の集落を抜け距離にして約10キロ

標高差300mの下り道なので

 

リピーターの入所者は毎日歩いて足助や香嵐渓、百年草に向かい

入浴(断食中は危険なためシャワー)して迎えの車で戻る

そんなルーチンで行動してました。

 

こちら↓は、愛知県では紅葉の名所として有名な香嵐渓

家族連れが川に浸かって水遊びしてました。

 

断食センターの周辺には民家がなく樹木に囲まれているだけ

そのため夏は朝の4時と夕方の4時になると蜩(ヒグラシ)の大合唱が始まりますが

30分ほどでおさまってウグイスやその他の鳥の鳴き声が響いてました。

これは回復食(初回)

回復食(2回目)

回復食(3回目)

回復食(最終日朝)

 

今回の断食は

7月26日 午後3時到着後断食開始

27日 全断食 (市街地へ買い物&稲武道の駅下見)

夜、好転反応で腹痛(普段の暴飲暴食のツケ)

28日 全断食 朝から週日好転反応で眠気

但し、午後百年草へ(入浴)

29日 午前 断食 好転反応で眠気 午後4時 回復食(初回)

30日 朝、夕回復食 午後百年草でシャワー

31日 朝、回復食 10時30分 センター出発

体重:3.5kg減  血圧: 110/70(平均) 投薬なし

糖尿病薬は投薬中止(8月2日にクリニックでHbA1C6.4しばらく様子見)

 

なにより普段全く休肝日が設けられず毎晩缶ビール6~8本家飲みしてたのを

断酒できて体調はバッチリ回復

 

前日まで断食と好転反応でフラフラだったため

退所日に豊橋経由で奈良まで運転できるだろうかと不安でしたが

 

いつものように断食直後は身体が軽くなってるのと

リセットされて元気溌剌

 

いや~、これだから断食やめられないんですね~

 

帰路は、やはり往路と同じ道を走りたくなかったので

県道33号線で設楽に出て 

ほぼ対向できる場所のない険道365号線で田峯方面を南下

 

豊川の源流のひとつ寒狭川の元栗島川を渓流を横目に

河川公園を横切って

元南設楽郡(現新城)に出ると 久々の35℃超え

豊橋市内の元吉田城下町で食材を仕入れ

遅めのお昼に 三河っ子のソウルフード”にかけうどん”としたのですが

胃が小さくなってて食べるのに相当苦労しました。

その後、鰻でもと

最近有名になった豊橋産養殖うなぎの店に行ってみるも

小売りはお休みの日で断念

めげずに予定していた西瓜とメロンを買って

午後6時15分 奈良の自宅に到着

 

本日は8月5日で、断食から戻って5日目ですが

高脂血症治療薬をやめ

糖尿病治療薬も一時休止してることもあって

 

喉が渇くこともなく、頻尿もなくなり

なんといっても睡眠時間が5時間未満でも元気溌剌

 

以前のように活動的にもう少し生かせていただけそうな感じです。

 

 

 

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出張ついでに遠くへ行きたい【常磐線&磐越東線】

2024-05-09 17:19:10 | 旅行

2024年のGW前半は

数か月前から依頼を受けていた仕事が入り

 

4月28日に前泊のため北関東へ行くこととなり

近くの空港バスの停車するバス停(大和西大寺駅前)に向かうと

大阪を結ぶ阪奈道路が行楽客の車で大渋滞というかノロノロ運転

 

普段より早めに家を出てたのにこのままでは間に合わないなと

裏道を使って大和西大寺に向かうも

数百メートル先ですでにバスが停留所に停まっているのが視認され

時刻は定刻出発時間1分前

『このままじゃ乗り遅れるな』とバスの先回りして

第二阪奈道路をぶっ飛ばし

第二阪奈生駒バス停から乗車することができて事なきを得たのですが

いや~、久しぶりにハラハラした~

 

大阪方面は特に混雑もなくバスはスムーズに空港に到着

 

調べておいたゴールドカードで利用できるLounge Osakaで小休止して

今回は神座のラーメンじゃなく美々卯でお昼にしてみました。

天丼&きつねうどんセット 

そこそこ美味しかったけど、女子向けなのかシャリは少ないし

味も薄めでオッサン向けじゃないなと学習

今回は、東京での電車の乗り継ぎに余裕を持たせようと

機材がB767の便を選択

(JR東、乗り継ぎ時間無く飛び乗って車内で特急券買うと高いのが超不満)

機材は古かったけど、富士山側の席に座れて良かった~

手荷物を預けなかったので羽田到着後

楽々で京急に乗り込み品川駅の常盤軒でお口直しにイカ天蕎麦

(ようするに美々卯が物足りなかったわけ

余裕でスーパーひたちに乗り込み

17:20 大甕駅に到着(自宅を出てから6時間30分)

投宿予定のホテルも1k未満だったので運動がてら歩いて向かい

とりあえず荷物を部屋に放り込んで

この宿に決めた理由の 大浴場へ

サウナと水風呂もしっかり堪能して

ネットで調べておいた海鮮が売りの食堂に向かったのですが・・・

GWでほぼ満席『すみません無理です』とすげなく断られ

仕方なくトボトボと海岸線に向かい

この白波の様子じゃあ、仕事先の船は翌日接岸できないかも

と直感したとおり

その後延期とのメールが入り大ショック

 

よさげな飲食店もみつからず

あっても”本日貸し切り”の貼り紙があったりと
GWでレストラン難民状態

地図アプリに出ていた中華にするかと向かってみたところ

そこそこ混んでたものの席に案内され

とりあえず生大

レトロ感満載の老舗の中華料理店で

期待に胸躍らせてたのですが

土日・祝日限定の海鮮ソバ(揚げソバを選択)を注文したのですが

完全に期待外れ

 

泣く泣くコンビニで寝酒を買い込んでホテルに戻り不足分を補い

 

翌日、口がすっかり魚貝類となってたため

お昼は日立おさかなセンターにしようと決め

 

運動と肝臓の活性化😅を兼ねて徒歩で時間調整して

日立灯台に立ち寄り

GW中で大混雑している日立おさかなセンターに到着

小皿のさまざまな魚貝類を買い自分好みの丼にしたかったのですが

この行列

 

ビールも飲みたかったので

まだ開店したばかりでガラガラそうな

2階にあるレンストランにしたのですが

 

メニューにあった写真とは大違い

この桶、海鮮なんちゃら桶で2,500円もするんだけど

桶の底に海苔巻きくらいのシャリが半分

残りの半分は大根のツマのみ

刺身のネタも地物じゃないし

薄くて100円の回転寿司なみ

 

待機日となって特にしたいこともなかったので

のんびりと魚貝類を堪能しながら昼酒でも楽しもうと思ってたのに

騙された気分でそそくさと店を出ちゃいました

その後いつもながらの同じルートで帰りたくなかったので

往路の海岸線沿いをやめて周回しようと思ってたところ

 

なんせ日立グループ(地元では日立製作所=日製[ニッセイ]と呼んでます)のお膝元

町のど真ん中に大きな工場があって

 

突っ切ることができず大回り

 

ホテルに帰ってサウナでサッパリしてから昼寝して

さて、晩御飯でもと夕方起き出して

また前日フラれた飲食店や別のトンカツ屋、寿司屋、同じ中華でもと思ってたのに

月曜日が定休なのか行きたい店は全滅

 

仕方なくお昼時に行列ができてたラーメン屋に行き

その店の名物”スタミナラーメン”を注文してみたのですが・・・

たっぷりの白菜に豚バラ肉をニンニクと豆板醤が定番の

奈良や天理のスタミナラーメンとは大違い

申し訳ないけど、もう二度と頼まないだろうな。。。

 

翌日は、風も波もおさまり予定通り仕事先の船が日立港に向かってるのを確認して

(以前にもネタにしましたが、Marine TrafficとかVessel Finderといった

船の現在地を調べることのできるアプリがあるので到着予定時刻がわかるんです)

この日はホテルに頼んでタクシーを呼んでもらい現場に向かったのですが

いまどき田舎のタクシーも”GO”でビックリ

(実際にはシニアドライバーで会社からの無線連絡で動いてましたが)

 

仕事の依頼元からSNS等で情報を流さないようにと釘を刺されてるので

その辺りは割愛させていただきますが

12:00~16:30で問題なく仕事を終えてホテルに戻り

またまたサウナで汗を流してから

『さて、晩御飯はどうしよう?』と思案

 

おさかなセンターがあまりにも残念すぎて

口が魚貝類のままだったので

面倒になってスーパーマーケットで飲料と食材を買い込んで

ホテルで独り打ち上げとなりましたが

お刺身三昧で大満足

 

当初は仕事を終えてからまた東京に戻り

谷中の同級生達を飲みに誘おうかな?と思っていたのですが

 

なんせ同じルートで往復するのが大嫌いな天邪鬼

 

これまでにも、この常陸辺りに出張した時に

水戸から鹿島臨海鉄道で鹿島経由とか

水戸から小山を経由して日光・鬼怒川温泉とか

前回は茨城空港から飛行機でひとっ飛びもしちゃったし

 

どうしようかなぁ❓ と考えていたところ

閃いたのが 福島空港の存在

 

考えてみると、福島は船の仕事で45年前以降何度か小名浜へ行ってたのと

1987年に東京に勤務していた時に

当時TVで何度も紹介された喜多方ラーメンを食べにレンタカー借りて

猪苗代湖、会津若松城、喜多方を周ったくらいで

近年は新幹線や東日本大震災後のボラバスで素通りばかりだったので

 

遠回りになるけど、とりあえず北へ向かおうと

ホテルを6時過ぎに出て徒歩で駅に向かい、ほぼ始発の常磐線下りに乗車

でも通勤、通学のお客でそこそこ賑わってましたねぇ

 

茨城県内は日立製作所関係や三菱などの大企業があって

駅舎もそこそこモダンで面白くありませんでしたが

 

勿来の関を越え、福島に入った途端

レトロチックな駅舎になって気分はルンルン

湯元には旧常磐ハワイアンセンターの看板もあり

途中下車しちゃおかな?とも思いつつ

とりあえず終点の”いわき”駅に到着

 

実は、そんな早朝の電車に乗り込んだのは

磐越東線なる1日に数本しか運行しないローカル線に乗りたかったわけ

平日でガラガラの気動車に乗り込み

しばらくすると峠に向かう景色に変わり

渓谷沿いのトンネルや橋だらけの線路を

ディーゼルエンジンを噴かせながらひた走り

 

1時間40分後 福島第二の都市 郡山に到着

東北本線の主要駅のひとつらしく

バリアフリーでエスカレーターやエレベーターが設置されるようになっていましたが

昔ながらの貨物用のエレベーターと跨線通路があって

目がハート(笑)

とりあえず、改札を出て(磐越東線では交通系ICは使えないので要注意)

 

上層階がガラス張りで不思議な球体のある高層ビルを眺めながら

とりあえず駅前探検

古そうなアーケード商店街をみつけ

 

歩いてみましたが

ほとんどが飲み屋だらけで

午前中は人気なくガッカリ

ほぼ朝食抜きだったので

11時から営業のラーメン屋に飛び込み

叉焼とメンマをアテに🍻を飲み

一応その店の売りのブラックラーメンなるものを注文してみましたが

残念ながら好みとは違って残念😭

あてもなく、古い商店街が取り壊されて駐車場だらけのアーケードを抜け

レトロ好きなわたくしには、とってもよさげな居酒屋や

食品サンプルの並ぶ食堂に

何故か、肉屋なのに

キャロルにアグネスラム、サタデーナイトフィーバーのジョントラボルタのポスターが貼ってあり

たぶん同年代の店主なんだろうなと とっても興味を持ったものの

突然、家の帰るのを1日先延ばししたら

GW後半に突入して身動き取れなくなるかもと思いだし

疲れてそのまま旅を続ける気力を失ってしまい

その場でスマホで航空券を買い

空港行の連絡バスに乗り込んじゃいました。。。

 

この空港行のバス

所要時間45分程度なんだけど

ビール飲んでたのでトイレ無しで大焦り

阿武隈川を渡り

平日の昼間でガラガラの道路なのに

あまりにもノロノロ運転にイライラさせられましたが

なんとか無事(❓)漏らす事なく福島空港に到着

至る所にウルトラマンが飾ってあって

何か所縁があるんだろうなと想像

空港内の土産物屋にもウルトラマン&円谷プログッズだらけ

ブースカに

ピグモンに

バルタン星人

カネゴン

ガラモンもありましたよ~

週一で台湾からのフライトや札幌(千歳?)便もあるみたいでしたが

基本はほとんど伊丹行ばっかし(1日4便)

 

留守番してくれてる社員さんに

赤べこか起き上がり小法師のお土産でも買おうかな と思いつつ

かえって迷惑かもと思い直し

手ぶらで飛行機に乗り込んじゃいました

機材は利用客が少ないからかIBEX

その昔は、成田→伊丹便も午後のアメリカ東海岸からの乗り継ぎがIBEXで

年に何度も東海岸を往復してたので

狭くて小さくてヤダなぁと思ってましたねぇ

 

そんなわけで

今回の出張も結局大回りしただけとなってしまいましたが

 

あとで調べてみたところ

円谷英二ミュージアムに同じ円谷姓の円谷幸吉さんも

同じ須賀川市の出身で

メモリアルホールの存在を知り

 

円安でこの時期に海外旅行するのも気分的に楽しくないので

年内にまた福島を再訪問しようと計画中

 

円谷英二ミュージアムに円谷幸吉メモリアルホールを訪ねてから

喜多方でラーメン食べて

磐越西線か、只見線の秘境ローカル線で新潟に出て

奥只見湖や尾瀬辺りと周回するもの面白そうだなぁ

 

楽しみ楽しみ

 

 

 

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