Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その②2025年2月LCCでフィリピンへ】

2025-03-19 17:30:51 | 旅行

【その①】で私とフィリピンとの関係をご説明しておこうと思いつつ

あまりにも長い前置きとなってしまい大変失礼いたしました。😅

 

テレコ(関西弁で”入れ違い”等の意味)となってしまいますが

1987年から1989年までの二年間

JICAのフィリピン国立航海訓練所プロジェクトでレイト島タクロンバンに派遣され

その後もフィリピン通として民間企業に転職した時も

フィリピン事務所の立ち上げから、職場の連中をゴルフツアーに連れていったり

退職して独立してからはエンジニアや研修所のインストラクターなど

1990年以降だけでパスポートのスタンプを数えてみたら48回の入出国

 

そんな訳で私にとっては、世界中で一番訪れてきた国となり

心の故郷となっているのですが

それらの詳細についてはまた改めて記事にすることにして

 

今回、協力隊時代の同期でフィリピンに派遣され

現地の女性と結婚して長年日本で生活した後に

奧さんと子供さんは住み慣れたフィリピンに戻り

家を建て

コロナ前までは毎年フィリピンに行ったり

奧さんが日本に来て数か月を過ごす

そんな生活を送っていた大の仲良しが

 

久しぶりにフィリピンの家に行くと聞き

それは是非お邪魔しに行こうと決め

ついでに30年以上ぶりにレイテ島を訪れようと

急遽旅程を立て、つい先日旅してきた時の記録です。

 

この旅をするために自治会、水利組合、仕事を調整して

2025年2月18日火曜日 14:50

 

奈良から関空行きのリムジンバスが激減して1日に4本しか運行しておらず

空港で無駄な時間を過ごさなければならない上に

片道2400円もするため(近鉄と南海なら1500円)

近頃変に倹約家になってしまったようで、つい鉄道を選択

フィリピンに行くため夏服にダウンジャケットを羽織ってただけなのに

無情にも雪がちらついてました。

15:30 南海なんば駅到着

この日のフイリピンへのフライトをLCCとしていたため

またまた駅ソバ(イカ天そば大盛り)で小腹を満たし

関空行き急行に乗車

16:30 関空で交通系カードをチャージしておこうと券売機に向かうと
インバウンド観光客で大混雑

事前に日本滞在中はICOCAが便利との情報を得ているようで

それを購入しようとしてるのですが

なんせマナーの悪い人間が多くウンザリ

それでもなんとかチェックインカウンターに向かい

大行列に並んだのですが・・・

なんと乗客のほぼ95%がフィリピン観光客で

タラタラしてるのでチェックインに40分

イラチ(セッカチ)なので相当イライラさせられ

こりゃあ先行きが不安だなぁと行く手に暗雲が立ち込めていましたが

保安検査を済ませてしまったら

ボッタクリの飲食店しかないだろうなと

立ち食いそばだけじゃあお腹が空くだろうなと

2階のコンビニでオニギリとアルコールを買ってベンチで夕食

その後保安検査&入管を済ませて中に入ってみると

インバウンド観光客からぼろ儲けしてやろうとの魂胆みえみえの

免税店や飲食店だらけ

コロナ前まではそこそこ定期的に渡航していたので

10代の頃から習慣にしているコロンを切らしたことはありませんでしたが

ここ数年はめったに国外へ出ることがなくなり残り少なくなっていたので

今回は出国時に購入しようと

以前一度だけ使ってそこそこいい香りだったBVLGARIを覗いてから

結局、1979年に練習船で立ち寄ったLAで購入して以来

基本常用しているGIVENCHYを買うことにしちゃいました。

爺さんになってからは、加齢臭消しなんですけどね

今回は、LCCなので航空会社のラウンジが使えないので

カードラウンジを探し

六甲のアネックスへ

とりあえずLCCで、機内サービスを頼んでいなかったので

しっかり飲み物を補給して

搭乗ゲートに向かったのですが・・・

 

な、なんと約2時間強の遅延

慣れているのか、到着からわずか30分ほどで乗客を乗せ

2時間6分遅れで出発

普段なら夜間飛行なので窓のシェードを閉めるのですが

この飛行機ではクルーからの指示もなく全部の窓が開けたままだったので

外を眺めていたところ

オリオン座を発見

やがてマニラ上空を通過して

予定時刻より1時間35分遅れでNAIA(ニノイアキノ国際空港)に到着

 

この日はターミナル内のトランジットホテルで泊まるつもりだったので

(ターミナルに入場するゲートがいつも大混雑で、時間によっては1時間はかかるので)

その施設に向かうと 

「予約してますか?」

「してなければ満室です」と断られ

さてどうしようかとターミナル内を歩き回り

日本食チェーンのレストランができているのに驚きながら

どこか休めるところがないかと探したのですが・・・

 

結局みつけられず断念して国内線がチェックインを開始していたので

そのままチェックインカウンターに向かい

中で待つこととしたのですが

 

時間潰しがてら フィリピン食をアテにビールを飲み

ベンチでうとうとしただけの

ほぼ徹夜状態で

ミンダナオ島Dipolog行の飛行機に乗り込むこととなりました。

 

【”その③ミンダナオ島Dopologを満喫”に続く】

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の故郷フィリピンでイラチ(せっかち、気が短い)を治す旅【その①私とフィリピンとのつながり】

2025-03-05 15:53:33 | 旅行

【この①は、内容のほとんどが回顧録、なのでいつも以上にダラダラと無駄話が多いので

ですので私個人を知らない方はどうかスルーしてくださいませ。

 

さて、このブログでも何度かフィリピンについて

アレコレと書かせていただいてきましたが

 

実は、私にとってフィリピンと言う国

母の弟(叔父さん)が学徒出陣で徴兵され

地元豊橋の第15師団の下で当初関東軍(中国大陸)への派兵だったのが

戦局悪化から再編成され第23師団となり昭和19年になって台湾派遣が決まり

移動中に派遣先がフィリピンに変わり

傷病兵となったのかバギオの野戦病院に入院中に

アメリカ軍の爆撃を受け、戦死したと墓碑に書かれていたのですが

(ここから余談↓)

生まれ故郷の豊川市牛久保の母方の菩提寺(禅宗の寺)の戦没者慰霊塔に

実際には遺骨もなく祀られていたのですが・・・

 

母も亡くなり、兄弟姉妹も全て天に召され

あまりに不憫だなと頻繁に墓参に訪れていたのですが・・・

ある日訪れてみると

何やら紙が貼ってあり

遺族もほとんどいなくなって、ほとんど無縁墓地のようになっていたのは事実でしたが

この文言には怒れるやら呆れるやら

ようするに戦没者慰霊塔を整理して墓地を増やしたい金儲け主義がみえみえ

電話をかけて、ちゃんと墓参しているんだからと抗議したものの

結局更地にされてしまいました。。。

こんな銭ゲバのような寺だらけ

『乞食と坊主は三日やったらやめられない』の諺どおりだなと

こうした寺と坊主を心の底から軽蔑しています。

(勿論、とても信頼のできる寺もあるのですが)

 

話を戻しますと

母は、性格の優しい弟だったから

きっと逃げ延びて現地人と結婚して生きていると

己に言い聞かせていたようで

 

子供の頃からそんなことをずっと聞かされていたところ

 

何の因果か、航海訓練所の遠洋航海で立ち寄ったトンガで

青年海外協力隊員を知り協力隊員になろうと心に決め

 

実務経験と語学習得にと

商船学校を卒業して最初に就職したのが

フィリピンのPhilippine President Linesという船会社の

日本総代理店(実際の運航は全て日本)

 

Manilaの本社は

マニラ市街の中心地、スペイン時代のサンチャゴ要塞のあるイントラムロスや

フィリピンの英雄ホセ・リサールの記念碑もあるリサール公園にほぼ隣接した

UN Avenue(国連通り)にあり

↓の赤い屋根がそのメインビルと駐車場や銀行の建物

(↑私が入社した1979年には既に存在していたので、たぶん築50年以上の本社ビル)

とても大きなビルですが、実はほとんどがテナント用で

船会社のオフィスは、当初手前の平屋を使っていましたが

その後銀行業を始めたために、船会社部門は一階ロビーの左手に移転していました。

(日本でいうところの”海運局”や”海上保安庁”など官庁も使っていたためビルの存在は知られていました。)

 

創業者は、1925年生まれのEmilio T. Yapと言う中華系フィリピン人で

元々が中国福建省出身の華僑

 

マニラのチャイナタウンにいた祖父を頼って渡比し

その後、ネグロス島のドゥマゲッテイの雑貨屋の店員として働き

 

太平洋戦争後、どのようなツテを使ったのか

米軍の払い下げのジープを購入してU.S. Automotiveという会社を興し

それをベースに改造した公共交通機関であるジプニーが誕生したとの逸話を聞かされました。

 

その後、どのような背景があったのか

Philippine President Linesという名称の船会社を始め

1970年の大阪万博の時期には

日本をハブに台湾、フィリピンを周遊するクルーズ船を運航し

横浜港や山下公園に面したNew Grand HotelのGreen Roomを事務所として

日本総代理店を開設

その後、日本をベースに一般商船業界に参入

 

当時大手船会社のひとつであった大同海運の

(その後幾度も吸収合併の変遷を経てJapan Line, Navix Line、現在のMOL《商船三井》に)

北米航路の中古貨物船や新和海運のバラ積船をベアチャーター契約込みで購入

船籍をフィリピン(フィリピンフラッグ)とし

全フィリピン人船員で運航していました。

 

会社名のとおり、歴代の大統領の名前を船名にし

M/S President Aguinaldo

M/S President Roxas

M/S President Garcia

M/S President Quezon

M/S President Osmena

M/S President Laurel

M/S President Quirino

M/S President Magsaysay

 

(実際の運航隻数は老朽船の入れ替えがあって一定ではありませんでしたが)

 

で主に日本を拠点に北米&欧州の定期航路

東南アジアから南米向けの不定期航路

オーストラリアからの塩を運ぶ定期航路があり

基本的に修繕ドックは日本

フィリピンに寄港しなければ税金がかからないとかで

船員はほとんど日本で交替させてと

 

フィリピンがオーナーの船会社でしたが

チャーター契約から運航その他ほとんど全てを日本の代理店で行っていたため

私の職務は海務部工務担当(工務監督見習い)で

 

日本各地に寄港する際には

現地に赴いて船長、機関長と船の調子をヒアリングして

ドックオーダーをまとめたり

船用品のオーダーやその他船の保守にかかわる諸作業と

毎日各船からTELEXで送られてくる報告や要望を本社へ取次ぐのが使命で

時差で四六時中勤務時間など関係なく

その上、中古船でエンジルトラブルも日常茶飯事で

それはそれは激務の毎日を送っておりました。

 

 

その後、荷役に時間のかかるデリック(ウインチとワイヤーの装置)からコンテナ船

鉱石(バラ積)船、自動車運搬船などなど専用船が主流となって

 

それまでは船員組合が強く、日の丸フラッグ(日本籍船)は日本人の乗組員しか乗れなかったのが

便宜置籍船(船籍を税金の安い、リベリアやパナマ船籍にして乗組員も日本人の縛りがなくなった)となり

安い賃金のフィリピン人船員で運航することのメリットが無くなったことなど

私の記憶では2000年には貨物船の運航を停止していました。

 

会社自体は、やり手のYap氏だったので

銀行(Philtrust Bank)や新聞社(Manila Bulletin)を買収したり

当時、川崎重工を取り込んで大型造船所PHILSECOを作ったり

マニラの港湾の利権を取得してコンテナヤードを作ったりと

船会社以外の分野で業績を伸ばしていたのですが

 

とはいえ創業者のEmilio T. Yap氏

前述の1970年の大阪万博時代に客船を運航したことが忘れられず

1950年にイタリアで建造された当時世界4番目の豪華遠洋定期貨客船を中古で購入し

いつかクルーズ船の需要が復活するだろうと

香港にペーパーカンパニーを作りMandarin Oriental Hotelに事務所を構え

節税対策だったのか、何度も船名を変え

その後、1980年代後半から台湾の高雄の造船所で改修工事をしてから

初めてManilaに運ばれ

Manila湾で投錨した後に

 

Yap氏が経営にかかわるようになっていた伝統ある名門Manila Hotelに隣接した桟橋に係留して

Floating Hotel &restaurantとして開業したのですが・・・

 

この頃船齢は既に60年超え

あまりにレトロな内装や施設設備で需要がなかったのか

はたまた船体の老朽化(リベット船でした)に維持するのを断念したのか

わずか2年ほどでスクラップとしてインドに売却されてしまいました。

 

実は、最終的にこの船をずっと担当していた人物が

Philippine President Linesの工務部長(取締役級)のRiezaさんという方で

元々はNaval ArchtectureでYap氏が海運部門で最も信頼していたスタッフ

 

私が東京で働いていた頃は

工務監督として来日するとほぼずっと毎日一緒に行動していたこともあって

ほとんど寝食を共にするような間柄で

お休みの日曜日には敬虔なるクリスチャンだったので

教会のミサに連れて行ったりと

とても温厚で、まともな英語も話せず船の知識もまだまだの未熟者だったのに

とっても優しくして接してくれた方だったんです。

 

その後1987年にフィリピンに赴任した時に

マニラに滞在する度にPPLビルを訪ねてRiezaさんの所在を尋ねると

毎回台湾の高雄に駐在中とのことで

任期中にはとうとう会うことができなかったのですが

 

1997年頃になってゴルフで度々マニラに行く機会ができて

諦めきれずにPPLを訪ねてみたところ

 

オフィスにRiezaさんが居てビックリ

 

その時には、その客船がマニラ湾で投錨していたため

フィリピンに戻ってきていると知って思わず飛び上がりそうなほど大喜びしちゃいました。

 

私が東京で働いていた時に、既に50歳を過ぎていたので

この時には既に70歳以上となっていていたのですが

 

沖に浮かぶ船に通船を手配して乗船し船内を案内してくれ

その後、日を改めてフィリピン料理をご馳走しれくれたりと

またまた貴重な時間を過ごさせていただいたのですが

とうとう、それが最後の再会となりました。。。

 

 

すっかり船会社時代の話が長くなってしまいましたが

実際には、その時期には頻繁に寄港地で訪船したり

調査のために航海中に乗船したりとフィリピン船員とは仲良しになっていて

文化習慣、食べ物なども精通していたのですが

実際に本社を訪れる機会なく

退職して青年海外協力隊員となったためフィリピンとは関係が切れたのですが

 

実は、その青年海外協力隊員のトンガ時代

国連のFAO(世界食糧機構)の木造船建造の船大工として派遣されていたのが

フィリピン人のRosario(家族連れで赴任してました)

フィリピン人にはとても親近感を覚えていたので

よく話をしていましたが

FAOのボスがイギリス人で、当時は日本を馬鹿にしていたため

残念ながら仕事場以外で付き合うことはありませんでした

 

そんな訳で1986年までは

フィリピンとは深い繋がりを持ちながら

現地を訪れる機会をもたないまま過ごしていたのですが

 

1987年になって、突然フィリピンに派遣されることとなったのです。

 

【その②に続く】

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も年初から【老骨に鞭打って生を実感中】その③オレンジフェリーで四国へ

2025-02-03 11:20:24 | 日記

【前回の記事からの続き】

 

1月19日 久々の訪船仕事のため関空から羽田経由で横浜新子安へ

1月20日 横浜大黒埠頭で仕事してから本所吾妻橋の居酒屋で楽しい時間を過ごし

1月21日 奈良に戻ってペンディングとなった仕事の原因究明してから

メールでその原因と対策を説明

1月22日 早朝出発して名古屋港金城埠頭で再訪船し仕事を片付けたところ

日程がタイトで断っていた仕事を思い出し、気分がハイになってたので

請負を了承

1月23日 午前、横浜大黒&名古屋金城の仕事のレポートを作成

午後、準備してくれていた資料と部品をもって早退

 

 

その続きです。

 

早退して何をするかというと

先ずは缶ビールと缶ハイボールを

3缶ほど飲んでから夕方まで寝床でしっかり睡眠

 

19:00 夕食を済ませてからジムニーで自宅を出発

大阪南港のコンビニで寝酒用の食材を購入してフェリーターミナルへ

電話で予約しておいた往復のチケットを購入し

(往復割引で4m未満の車込 デラックスシングルで37,700円也)

 

20:00 この日は、滞船(目的地に到着しても1時間後まで下船しない)としていたため

乗船開始時刻に船内へ

 

部屋の鍵を受け取ってからいつものデラックスシングルへ

 

還暦を過ぎた頃から

ホテルではエレベーター近く&低層階

フェリーでは同じように移動が少ないようにとレセプションのあるフロアーで

共有トイレとなるからか、いつもトイレ近く

まあ、ありがたいなと嬉しいような、年寄り扱いされて悲しいような

 

この日は、早速展望大浴場へ直行

しっかり洗髪して身体もアカスリで隅々まで洗い流し

ジャグジーにゆったりと浸かって身体を温めて

浴衣で部屋に戻り

寝酒&夜食

 

午後、早退して少し飲んでいたので

控え目に ロング缶2本で我慢

 

年取ってから、飲み食いしか楽しみがないんですよ~

 

部屋のテレビを観ながらウダウダと酒を飲み

気づいたら明石海峡大橋の手前まで航行していましたが

 

もう見飽きてるので そこで就寝

 

翌朝、まだ船内アナウンスが開始する(05:30)前に自然に起床

 

 

船は定刻の06:00に着岸し下船開始となったのですが

滞船なので7時までのんびりしようとベッドに横たわっていたものの

車輛甲板では貨物用トレーラーの下船作業時間となるため

鉄板を擦る音が響いて寝ていられないんですよ。

この日はガスってて石鎚山は見られませんでした。

下船してからは

これまた定番の”のっけ盛り定食のご飯大盛り” 

 

この西条・東予・今治周辺

造船関係の工場が多いため8時前は結構通勤ラッシュで渋滞するのと

今回は目的地が今治だったので6時に下船しても

どこかで始業時間まで時間潰しするしかないので

ゆっくりできるんです。

 

07:55 プロペラのモニュメントで造船の町を自慢している今治市役所通過

08:10 今回の仕事先の造船所に到着

この造船所

東予のオレンジフェリーのターミナルの対岸にも

工場を持ち最大で26,000DWT(15,000GT)までの船を建造しているのですが

 

いまどきの造船所、事故等での責任回避から

安全教育と称して入構前にアレコレとくだらない講習と

体力測定に健康診断書や誓約書を書かされるのですが

この造船所は一切なし

 

その簡便さもあって65歳を過ぎてからも仕事を請け負っているんです。

 

どうせどこの造船所だって

外部からの作業員が怪我や死亡したって責任取らないようにしてるだけ

むしろくだらない安全教育なんかしないだけ楽でいいって感じです。

↓ 毎度のことながら、この”つっかえ棒”にはビックリ(笑)

それと、この↓ 船に乗り込むためのハシゴ

落ちたら自己責任とは思いつつ

半端な高さにビビらされます。

 

なにはともあれ

アッサリと12:30には仕事を終えて造船所を出たものの

 

帰りのフェリーも乗船できるのは20:00からなので

また高知の大豊まで走ってカツ丼を食べようかなとの思いもありましたが

 

また東予まで戻ってくる方が面倒に感じてしまい、則却下

 

どこでお昼しようかなぁと

造船所のすぐ裏手にある来島海峡の展望台へ来島海峡大橋を眺めに行くと

中国人観光客だらけ

いや~、東京蔵前のビジホも中国人だらけだったし

もう至る所インバウンド観光客だらけでちょっと辟易

 

今治市街地の古い食堂でカツ丼と鍋焼きうどんでもと車を走らせていたところ

得意の嗅覚で超レトロな食堂を見つけて目が点

こら入るしかなかんべ と早速暖簾をくぐってみました

御年90歳を超えていると思われるすっかり腰の曲がった店主で調理人と

その奥さんらしき80代後半のオバチャン

 

警察署の取り調べで出されるような、昭和なカツ丼を期待していましたが

昭和というのか何と言ったらいいのか

 

黄色い沢庵はいい感じだったかな

このお店の目の前は 今治城

たしか2017年頃だったか 火野正平さんのにっぽん縦断こころ旅で

その頃はなぜか出発がお城ばっかりで

その日は伊予三芳が目的地でしたねぇ

 

今治にはここ10年、それこそ数えるのも面倒なほど訪れていて

 

フェリーの時間まで東予だったか西条だったかのネットカフェで

休憩しようと思っていたところ既に閉業していてガッカリ

 

それなら今治にないかなぁ?と調べてみると

直ぐ近くに新しそうなネットカフェができているのを知り

 









 

すかさず向かったところ

普段よく利用している快活クラブよりも

料金はリーズナブルだしドリンクバーも充実していて大満足

そんなこんなでネットカフェでゆったりと過ごしてから

また夕食の食材をスーパーマーケットで購入し

往路と同じ船に乗船

大阪では滞船の車から載せるのですが東予ではなぜか後回し

乗船できたのは20:15でした。

この日は、金曜の夜とあってデラックスシングルも満室だったのですが

バリアフリーの再度の一部屋を使わせてくれて大助かり

もう基本的に造船所の仕事をお断りしてるから

もうしばらくオレンジフェリーに乗る機会がなくなるかな と

船内の写真を撮ってみました

 

(乗船記念写真用スペース)

(4F:エントランスホール、レストラン、デラックスシングルフロアー)

(4F休憩スペース)

(5F 休憩ロビー、展望浴室、ゲームコーナー、スイート客室他)

(スカイラウンジ)

(5F:マッサージルーム)

(6F:展望デッキ)

 

ということで、またまた大浴場でのんびりと湯に浸かってから

部屋で晩酌タイム

この日は、カップ酒に赤星の缶ビール、焼酎ハイボール2缶に

安いスーパーのお寿司、カツオの刺身、イカフライ、蟹豆腐のふんわり天、ささみ生姜の大葉巻き竜田

そして梅干しとさけのオニギリ

 

翌朝は土曜日で通勤ラッシュもたいしたことないだろうと

のんびりと06:30に下船

なぜか、この日は”なか卯”で朝食が食べたくなって

住之江公園まで大回りして

親子丼と小うどんのセットを快食

 

無事、8時前に帰宅となりました。

 

ルートヒストリーでの記録では

走行距離655.12km 時間36:36:47となりました。

 

ということで

2025年年初の連続出張もこれでひと段落

 

勢いづいてたので

『もっと出張してもいいんだけどなぁ

 

とようやくヤル気スイッチが入った次第です。

 

ただ、世話をしなければならない農地や山林

家を出た子供達も戻ってくるのかどうなのかわからないのに

広いばっかの家屋敷と村社会での生活が大問題

 

宝くじが当たってくれたら

家屋敷を更地にして

農地も山林も全て抜根したり除草シートで覆って

地元住人に迷惑をかけないようにして離村して

 

いっそのこと世界中を渡り歩いて

ノマドな生活しながら余生を満喫するんだけどなぁ

 

どうか夢が叶いますように

 

 

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も年初から【老骨に鞭打って生を実感中】その②名古屋金城埠頭

2025-02-02 08:48:59 | 日記

 

横浜大黒埠頭でやり残した仕事

 

 

こちらの機器の問題ではなく、船側が勝手に設定変更したのが原因とわかり

担当の工務監督向けに

手取り足取りの説明資料と対処方針をメールにして送り

 

次の寄港地情報を尋ねると

なんと名古屋港で翌日の朝8時入港とのこと

 

船速によりますが、東京湾から名古屋港までは

せいぜい15時間程度

 

伊良湖水道沖でパイロットが乗船する時間を事前に連絡する必要があるのと

基本的に東京湾も三河・伊勢湾も

朝一で港の岸壁に着岸して荷役を開始し

貨物量によりますが、当日か翌日、または翌々日の夕方までに出航するのが一般的

 

その船の名古屋港の代理店に確認したところ 

朝の9時から午後6時まで接岸とのことだったので

 

朝9時に名古屋港の金城埠頭に着けるようにと

朝6時10分に奈良市北西部の自宅を出発

 

6時25分奈良駅付近を通過

陸路(自動車)での奈良から名古屋方面へは

①西名阪のまほろばICから亀山経由で東名阪、伊勢湾岸線

②国道163号線で笠置経由で伊賀上野に出て、名阪国道に入り亀山へ

③京奈和自動車道、城陽で新名神、枚方で第二京阪、巨椋から京滋バイパス、草津JCTから新名神

新四日市JCTから伊勢湾岸線で名港中央(下道を走らないけど距離と高速料金大)

があるのですが

 

なんせ朝は工業団地に通勤する通勤客でラッシュアワーが延々と続くため

できるだけ工業団地のない場所を走ろうと

 

奈良公園を抜けて加茂から163号線経由で

宇治茶の産地、『日本で最も美しい村連合』で自称”茶源郷”の和束を経由して

滋賀県の信楽(高原)に出て信楽ICから新名神にのるルートを選択

 

ただ、この府道5号線(木津信楽線)

なんせ狭くてクネクネ+冬季は凍結必至の道

 

それでもなんとか7時、和束の中心部を通過

この日は奈良市内がー1℃

和束の湯船がー4℃でしたが

信楽はー7℃でした

 

 

8時、伊勢湾岸道の湾岸長嶋PA(長島温泉&スパーランド横)に到着

豚汁定食で朝ごはんとしましたが

結構ボリュームがあって美味しかったけどお腹がきつかった~

 

PAの多目的トイレで作業服に着替え

名港中央ICを下りたのが8:45

 

8:55に名古屋税関稲永支署で船陸交通許可を得て

金城埠頭へ

 

09:00には乗船するつもりだったのに

保税地域のゲートでの守衛が呆れるほど要領悪くて(人手&人材不足を実感)

よくやく09:30前々日、横浜港大黒埠頭で仕事していた船に乗り込み

 

これは本来船側の所掌ですよと説明してから作業にとりかかり

僅か10分ほどで終了

 

10:00落成書にサインを取り付けて下船となったのですが

ここはビジネスライクにと

横浜での再調査時間分とこの名古屋での経費と工賃もしっかり請求させてもらいました。

 

(↓この金城埠頭は主に輸出向けの中古車の積み込み)

因みに、ついでなので伊勢湾の自動車荷役についてお話させていただきますね

 

今回の船が荷役していたのが金城埠頭の54番バース

(レゴランドやリニア・鉄道館の近く)

名古屋駅からはあおなみ線で終点

伊勢湾岸道の名港中央ICで下りたところなので

車でのアクセスも超便利

ズームアウトするとこんな場所

 

金城埠頭は前述のとおり中古車の積出港ですが

名古屋港は至る所に自動車の積み出し岸壁があり

飛島にはたぶんホンダ車の積み出し港

潮見には日産車

対岸にはトヨタ車の積み出し岸壁があるため

この周辺ではいつも10隻前後の自動車運搬船が接岸しています。

 

続いて今度は三河湾

 

我が故郷豊橋港は

お隣の静岡県浜名湖周辺にあるスズキ、三菱岡崎工場からの輸出岸壁と

 

輸入車も

フォルクスワーゲン、ボルボ、プジョー、シトロエン

Jeepにフィアット、メルセデスベンツ

その他、ローバー、フォード、ジャガー、ダッジ、マセラッティと

1988年から一大拠点となっており

 

対岸の田原市にはトヨタ・レクサスの工場と専用の積み出し港があり

 

更にはこれまで自動車運搬船の大多数を建造してきた豊橋造船があるため

名古屋港ほどでありませんが いつも数隻の自動車運搬船が接岸しています。

実は、東京湾や大阪湾にも多数在籍していますが

特に三河湾・伊勢湾水先人組合には商船学校の同窓生だらけ

自動車運搬船に乗り組む比率が高いため

なんせ風の強い土地、自動車荷役に使うランプウエイをぶつけないようにと

接岸には気を遣うと話してました。

 

すっかり横道にそれてしまいましたが

話を戻すと

あまりにもアッサリと仕事を終えられて

『クッソ~、横浜でトラブル無かったらパーフェクトデイズの聖地巡りできてたのになぁ』

とか

『よし、それなら故郷豊橋に行って、あんかけスパか菜飯田楽でお昼して

夜は、お気に入りの居酒屋で飲み倒すか

と思ったのですが・・・

 

実は、前日東京から戻り、伊丹空港でバスを待っている間に

某社の担当者から電話が入り

「あの~、明日四国の造船所に入渠する船の整備お願いできないでしょうか?」との問合せ

 

「それでその船はいつまでドックにいるの」と聞くと

四日後の”25日日曜日まで”との事

 

「明日は名古屋港に行く予定だし、もう造船所には行かないとしているし、

そんな直前に言ってきても無理無理」と無下に断っていたのですが

 

よくよく思い出してみると

ほとんど壊れて動かなくなってからバタバタと整備の依頼をしてくる客ばかりなのに

 

ウチの会社が代理店を引き継いですぐに

就航したばかりの新造船が、前の代理店が技術力を持たず

ただ売るだけで、初期調整不良でトラブルが発生したもので

その原因を説明したところ

 

とても素直で実直な機関長と船主で

その後は、2年毎に整備を頼まれていた超優良顧客

 

実質1時間弱で問題を解決して気分がハイになってたこともあって

杓子定規に断るのも大人げないかなとの思いから

 

事務所に電話を入れ

「出渠前の明後日の金曜日で良かったら行ってもいいと連絡してくれる」と伝えると

 

「出張が連続してお疲れなのに大丈夫ですか」と気遣ってくれたのですが

 

気分がハイのうちにしっかりお仕事しないと と

相手先の了承を得て

すぐさま

着岸していた埠頭の目の前の伊勢湾岸線”名港中央IC”のゲートをくぐっちゃいました

 

『そしたらランチはどうしようかな』と

御在所PAで山本屋本店の味噌煮込みうどんにしようか

伊賀上野の大内ICまで走って ラブホの横の”第一旭の特製ラーメンかなぁ
と思っていたのですが

 

突然、伊賀で前々から気になっていながら素通りしていたラーメン屋を思い出し

丁度時刻は12:00でほぼ満席でしたが運よくカウンター席があき

その日のランチセット(麻婆天津飯+あじへいラーメン)を注文

奈良の旭川ラーメンと同じ味の素味のキムチがあり

 

実は、ランチメニューではラーメンが半玉なんですが

「ラーメンは半玉ですか?ひと玉ですか?」と尋ねられ

つい「ひと玉でお願いします」と言ってしまったのですが

 

さすがに年取って胃が小さくなっているのか

完食するのに苦労しちゃいました。

 

そのうえ、横浜での仕事が簡単に終われず

ずっと緊張状態だったこともあって

 

最近はすっかり”働かないオジサン”状態で

肉体的にも精神的にも鈍りきっていたこともあって

ペンディングだった案件が片付けられて

気分はハイテンションながら実はクッタクタ

 

朝6時過ぎに家を出発して

名古屋港で仕事を片付けて14時には家に帰ってました。

 

全行程8時間弱

距離にしてたったの280キロほど

 

マニュアル車のそれもラジアルタイヤのジムニーで

往路も復路も抜け道ばかり走ったのもあるけど

 

これくらいで疲れちゃうとは自分でもビックリ

 

 

その日は帰宅してから

お風呂に入って缶ビール数本飲んで寝床へ直行

(実は、前夜夜中に目覚めてしまい寝られなくなって寝不足でした

 

 

でも、身体を痛めつけるほど生きてる実感を味わえるんだなぁと再認識

 

もう少し頑張るか と意識を新たにしたんだとさ

 

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も年初から【老骨に鞭打って生を実感中】その①横浜大黒埠頭へ

2025-01-31 15:01:02 | 日記

昨年(2024年)12月のこと

とある官庁船の仕事の依頼を受け

実は、過去の経緯からたぶん東北方面での仕事になるだろうなと思い込み

もうお断りしている造船所での現場仕事を請け負う約束をしていたところ

 

なんと今年落札したのが大阪西成区にある造船所

 

アッチャーと思いつつ

請け負うと回答した以上仕方ないので現場に向かうと

 

65歳以上は別途誓約書が必要なうえ

両手の握力が合計で85キロ以上

両目を瞑っての片足立ち5秒以上

など面倒臭い制約だらけ

 

そんな背景もあって

『もう金輪際造船所での仕事はお断りするぞ』

と決めていたのですが

 

年が明けた途端

自動車運搬船からの仕事の依頼

 

これまでにも何隻も自動車運搬船の仕事をこなしてきて

ほとんどの船が

甲板までが高すぎるため船体の下の方に開口部を設けて

そこにギャングウエイ(一般的に呼ぶところの”タラップ”)があり

普通の貨物船よりも容易に乗下船でき

機関室と最上層の居住区までのエレベーターも備えられていたので

 

気軽に快諾して

その航海での日本国内での最初の寄港地

横浜港へ行くことにしたのですが

 

なんせもう新幹線にウンザリしているのと

65歳を過ぎてから

JALもANAも当日シニア割が使えるようになり

それを利用すれば時間はかかってしまうものの

費用的には新幹線程度で飛行機で楽々移動できるなと

 

移動日の夜中に予約を試みようとしたところ

何故か前日までシニア席も余裕で空いていたのに

その日の伊丹→羽田便のシニア席は全て売り切れ

 

JALも同様に満席で予約ができず大焦り

 

『おかしいなぁ、日曜の休日だからなのかなぁ?』

と神戸・関空と探してようやく関空便で席がとれ

 

空港までの移動が面倒だけど

(コロナ以降、奈良から関空行きの空港バスが激減しちゃったので)

それでも今更新幹線に乗りたくないな と諦めて

座席を確保しようと支払いを済ませ

 

それにしてもなんでそんなに混んでるのかなぁ

と伊丹→羽田便の予約画面を開いてみると

空席だらけ

 

 

どうやら不届きな輩が、当日の予約であれば購入期限はその日のうちだから

とりあえず闇雲に予約だけ入れてやれとしたんじゃないかなぁ

 

とはいえ、関空便を購入してしまったので

この日は、近鉄と南海電車で向かうことに

 

日曜日とあって地下街も結構混雑

南海駅は空いてる時間帯でしたが

ちょうど時刻は12:00

昔と比べるとスッカリキレイになった駅ソバに

つい、”いか天大盛り”にしちゃいました。

乗り込んだ時はそんなに混雑していませんでしたが

出発時刻には、大きなスーツケースを持ったインバウンド観光客だらけ

関空もこの有様でした。。。

 

関空の国内線も開業当時はターミナルビルの中央でしたが

インバウンド観光客が激増して南隅に追いやられ

ラウンジもショボイ安普請でした

 

この日はANAといってもスターフライヤーとのコードシェア便

ほとんどLCC仕様なんですねぇ

この日は雲が多くて富士山も厚い雲で覆われてました。

関空から羽田に飛んだことがなかったので

駿河湾沖でえらく旋回するなぁと思っていたら

こんな航跡になってました。

 

羽田へのアプローチはいつもどおりの”海ほたる”上空のコース

この日は横浜泊まりだったので京急の横浜方面行に乗車

お気に入りの 諸星は日曜日で定休日でした~

 

それから、いぜんはたしかチャンポンが売りだった食堂が

”うなぎの成瀬屋”になっててビックリ仰天

 

この急成長ぶりから、たぶんアッチ系の資本が入ってるんだろうなぁと

つい邪推しちゃいました。

でも晩御飯は、新子安で泊まり

東神奈川でレンタカーを借りる時の定番”吉田飯店”へ

久しぶりだったのと、お昼が蕎麦だけだったので

ついパーコー麺とチャーハン

レンタカーを借りに行くと

こんな但し書きが

気軽にレンタカー借りられるのもあと8年かぁ

 

翌日大黒埠頭に接岸したいる船に到着してみると・・・

自動車運搬船としては小ぶりだからか、開口部なく甲板までのギャングウエイが

この船、1999年建造の26歳

サイズは小ぶりだし、老朽船ということで

ほとんどがアジアから中近東や南米向けのドサ回り

 

この前の航海も最終の積み込みが中国・韓国で

横浜は揚げ荷だったので「何運んでんだろ?」と思ってたら

なんとテスラでした~

日本では年間で数千台しか売れてないから

たぶん韓国とかがハブになってるんだろうなぁ

隣にはたぶん普通自動車を7・8千台搭載できる

一般的な自動車運搬船が

実は、朝9時前に乗船して仕事は14時に終了したのですが

服を着替え、仕事の荷物を宅急便で送ろうとヤマトの支店に到着したところ

突然船の工務監督から電話がかかり

いま整備してきたばかりの機器の警報が鳴ったので

おかしいんじゃないかとの問合せ

 

そんな筈はないんだけど

疑念を持たれたままでは面倒だなと またまた船に戻り

レンタカー返却時間ギリギリまで対策工事をして下船

実は、この日

いつものようにお昼過ぎには仕事を終えられるだろうと

 

ついでに東京に出て

先日役所広司さん主演の”パーフェクト・デイズ”を鑑賞して

素朴で清貧な生き様にとても感動していたので

是非聖地巡りをしようと

 

まずは、浅草地下街の焼きそば”福ちゃん”で

焼きそば食べながらチューハイ飲もうと計画

そんな夢をFBに投稿したところ

学生時代の同級生で在京の仲良しが

「福ちゃん付き合うよ」と近隣の数名を誘ってくれていたのですが

 

福ちゃんを知ってる一人が「月曜日は定休日だよ」との連絡

 

それならばと、代わりに本所吾妻橋の居酒屋を予約してくれたので

アレコレ調べていろいろとアクセスに便利そうな蔵前のビジホを予約

 

船に呼び戻されるまでは(14:00頃)

1)荷物を宅急便で送ってレンタカーを返却し

2)身軽になって東神奈川から京急で蔵前へ行き、ホテルに荷物を放り込み

3)タオル一枚持ってパーフェクトデイズの聖地巡り

①主人公がお昼の休憩場所にしていた神社でサンドイッチを頬張り

②主人公が暮らしていた昭和なアパートを眺め

③毎日通っていた銭湯でのんびりとお湯に浸かり

④歩いて仲間と約束している本所吾妻橋の居酒屋へ

泥酔してホテルに戻り爆睡

⑤翌日、主人公が自転車で渡っていた桜橋を歩いて渡り

⑥開店時間に浅草地下街へ行って福ちゃんで焼きそばでチューハイを飲み

 

お昼過ぎに、大昔亡き母と浅草に行くと定番だった”三定”で

中かき丼でも食べて

適当な飛行機で帰ろうと思っていたのに大誤算

 

結局、レンタカーの返却時間ギリギリの18:00過ぎに東神奈川から電車に乗り

運悪く品川で青砥行に乗り換え

本所吾妻橋の居酒屋に到着できたのは約束の時間より30分遅れの19:00

30分前から飲んでいたので

みんな既にできあがってたので

”駆けつけ〇杯”でガブガブと生中とジョッキのチューハイを何杯も呷り

串焼き類からグラタンにメニューにもない品々を注文し

パーフェクトデイズの話題でも盛り上がり

『今度は一緒に聖地巡礼して福ちゃんで飲もうよ』となりました。

 

未だ現役で働いているので夜10時にお開き

 

そのうえ

ご馳走になっちゃったんですよ~

 

お店を出て本所吾妻橋駅に向かうと

スカイツリーが目の前

そこそこ飲み食いして満足してたはずなのに

実はお昼抜き(簡単に仕事を終わらせるつもりだったので)だったのを思い出し

閉店間際のやよい軒で鍋でご飯をガッツリ食べちゃいました。

 

その日解決できなかった問題を次の港で片付けると約束していたため

翌朝、朝食を済ませ7時にホテルをチェックアウトして

電車に乗り込んだのですが

久々の朝の通勤ラッシュは辛かった~

 

羽田に到着してラウンジに入ったのが08:00

トマトジュースと青汁オレで我慢して

飛行機に乗り込み

怖れていた遅延もなく

この日は奈良行の空港バスに乗ることができ

 

自宅でお昼を済ませて事務所に向かい

シンガポールと相談しながらペンディングとなったトラブルの原因を解決し

次の寄港地への準備を完了

 

【その②へ続く】

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっぱオラ夏ばっぱが好きだ!

2025-01-17 20:17:22 | 雑感

半年前、断食している間の時間潰しにと

再放送を録画しておいた朝ドラ”あまちゃん”を

一気に全編視聴したこともあって

すっかりドラマにはまってしまい

 

ほとんどの登場人物が大好きになってしまったのですが

 

その中でも特に気に入ったのが

”夏ばっぱ”

 

海女クラブの会長で

雲丹弁当を作ったり

駅構内で喫茶店とスナックを切り盛りし

遠洋漁業で働く夫を支え

なによりも一本筋のとおったカッコよさに魅了され

ドラマの人物に惚れ込んだのですが

 

その後、能年玲奈ちゃんが干され

苦労していた時に

陰ながら支えていたことを知り

 

 

演者の”宮本信子”さんも大好きになっていたところ

最近はネット検索したらAIが個人の嗜好を読み取って

関連した情報が目につくように表示され

 

宮本信子主演のドラマ”母の待つ里”の放映情報が届き

ワクワクしながら視聴してみたところ

あまりの名演技に圧倒され

調べてみると、この話(ドラマ出演)のオファーを受ける数か月前から脚本を送ってもらい

数か月かけて方言や高齢の老婆の仕草を身体に染み込ませたんだとか

更に、話のストーリーが50歳の時に母を亡くしたこともあって

心の琴線に触れてしまい 大感動

御年79歳とそれなりの年齢になっていたこともあって

そんなにお年を召されてたのかと

寂しい気持ちになっていたのですが・・・

 

更に、今度は民放のドラマ

”海に眠るダイヤモンド”に出演するとの情報が届き

 

”母の待つ里”での老婆姿からは信じられない若々しさにビックリ仰天

まだまだお元気そうで安心したものの

 

やはり”母の待つ里”が忘れられず

ロケ地遠野での聖地巡礼を夢見ていたため

その想いを更に深めようと、急いで原作の文庫本を買いに走っちゃいました

”母の待つ里”を何度も観なおし

 

Google Mapsの航空写真とストリートビューを駆使して

 

①ローカル線の駅

②バスを下車したところにある酒屋さん

③母の待つ曲家

④お寺

⑤夜桜を観に行った神社

⑥精一に背負われて歩いた海岸

⑦分校あとの集会所

を見つけちゃいました

 

残りは、精一を見送った場所を現地で探したら満足できるかなぁ

 

 

ロケをしていた時期は

桜が満開だったので、今年の開花予想を調べてみると

満開が5月1日頃だとか

 

GWの混雑を避けて桜吹雪の頃に訪れよっと

 

炭火焼のジンギスカンも超楽しみ

 

頑張って成就できますように

 

今年はなぜか年明けから風邪気味の体調不良で

各地で最強寒波との情報を得ながらも

極寒の北海道や、生死の境を実感できる極限の大峰山系へ

耐寒装備で出かける気力が湧かず

 

年末年始とたちの悪い風邪をひいてしまい家から出る気力もなく

そのうえ、昨年に引き続き

人間ドックで肺に怪しげな影があると精密検査をしたり

胃の横にリンパの塊があるとCT検査に腫瘍マーカー検査で結果待ち

 

気力がなくなって免疫力が低下してるんだろうなと

今年一年生き延びられるのかな

と思っていたのですが

 

夏ばっぱ&母の待つ里のロケ地を訪れようと

新たな目標ができてとりあえず一呼吸

 

 

できれば今年中に、

トンガ、フィリピン、シンガポールへ行って

友達との再会を果たしたいなと願っているのですが

 

まあ、『為せば成るなさねばならぬ何事も』(意味不明)

あとは運命に任せるしかないかなと思いつつ

 

大好きな夏ばっぱのように

カッコよく生きなければいけませんよね。

 

 

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑨劇症肝炎で生死の境を彷徨う】

2024-12-27 11:07:59 | 日記

【今回の記事は、私個人をご存知の隊員OBやJICA関係者向けの内容で

知らない方には全くつまらないのでご留意ください


あと、いつもながらの書き殴りで

読み直しせずに文法も文脈も

無茶苦茶


まだ編集中なのでご容赦ください。🙇

 

 

1985年9月

突然、ビールが飲めなくなり、目が真っ黄色と指摘され

その頃、TONGAの隊員も何人か感染していたA型肝炎だろうと

現地で自宅療養していたのですが

 

A型肝炎では、黄疸が出た頃がピークで
その後回復してゆくのに

 

私の場合は、日を追うごとに言葉では表現できないほどの

極度の脱力感と疲労感で寝起きさえ苦痛となり

何も食べられず、夜中になると身体中が痒くなって寝られず

(黄疸のビリルビンが毛細血管に詰まり血流が滞って起こる現象)

いつまでたっても小水はビール瓶の色で便は真っ白

 

日に日に弱っていく様子を目の当たりにしていたチャンカーが

「A型肝炎だからそのうち治るよ」と楽観視して言い張る臨床検査技師と調整員に

「絶対におかしいから血清を日本に送れ」と泣いて抗議してくれたおかげで

 

当時、やっとTONGAでもサービスを開始したDHLで日本に送ったところ

なんと、肝機能の数値GOT、GPTが

A型肝炎のピーク時で1500U/L(正常値は30~40以下)なのに

 

なんと3500U/L

(後で聞いたところ、異常な数値で普通なら肝性昏睡で危篤状態なんだとか

 

そんな訳で

協力隊事務局は少し前にもバングラデシュで劇症肝炎の隊員が死亡していたため

大騒ぎとなり、オーストラリア大使館の医師がTONGAに飛んで日本まで随行することが決まり

 

飛行機に搭乗する前に”機上で何かあっても訴えない”誓約書に署名して

車椅子で搭乗してNZのAucklandへ飛び

 

当時デイリーでのフライトが無かったためオークランドで1泊

(大使館の医師も年寄り古い知識しかなかったため、NZのホテルで「栄養のつくものを食べた方がいいよ」

「ステーキ食べなさい」と注文して無理やり食べようと思ったのですが・・・無理でした。

 

翌日のJALのフライトで4人掛けシートの肘掛けを上げてベッドにして

横になったまま成田に到着したのですが

 

まだ意識があったので、窓から外を眺めていると

ボーディングブリッジの下に濃紺の寝台車が待機してるのを見て

『救急車じゃないんだ』とビックリ

 

どうやら生きて辿り着けるかわからないと思われてた様子

 

飛行機の扉が開くと同時に協力隊事務局の医療スタッフ(看護師OG)が乗り込んできて

背負われてボーディングブリッジ横の階段を下りて

寝台車に乗り込んだところで点滴を打たれ

 

そのまま特別ゲートで入国手続きをして

高速道路をひた走り

白金台の東大医科研病院の個室に直行

 

ところが、無事日本に帰れたことで免疫力が回復したのか

偶然ピークを過ぎて快復期に入ったのか

 

病院食なのに久しぶりの日本食が美味しくてペロっと平らげ

 

それまでの闘病中にほとんど食べられずお腹が空いていたからか

お見舞いに来てくれる家族や友人に食べ物を買ってきてと頼むほど

(快復期の肝臓にはやはり栄養を摂るのが一番らしく主治医も許可)

 

まだ若い女医さんが主治医となってくれたおかげで

最新の医療の知識から

『肝臓が壊れている時に無理に食べるのは逆効果』

『目の粗い笊で汚れを除けない状態だから黄疸が酷くなって肝性昏睡を引き起こす』

『症状の一番重い時期に無理して長時間の飛行機での移動だったら危なかったかも』

等々、帰国のタイミングも幸運だったと聞いて

ホッと胸を撫で下ろしましたねぇ

 

入院した翌日、生死の境を彷徨う状態を言われていたのもあって

青年海外協力隊の事務局長(当時は外務省の課長クラス)と

次長がお見舞いに来てくれたのですが

 

ベッドに座り込んで売店で買ってきた週刊誌を読んでところだったので

想像とは真逆で驚いたものの、安堵の表情で帰っていかれました(笑)

 

これまた偶然にチャンカーも2年の任期が満了となって帰国し

奈良県での休職参加第一号(公立中学校の数学教師)だったので

東京での手続き後、復職となっていたのですが

何度も東京まで見舞いに来てくれて

 

学生時代の友人達や協力隊の同期達から

新卒で働いてた船会社の元同僚たちなどなど

沢山の人達がお見舞いに来てくれて嬉しかったですねぇ

 

体調はどんどん回復して

普段は、同室の患者さんのお膳を片付けたりお茶を注いだり

周りの入院患者さんとも仲良くなって

 

ある年配の男性入院患者さん(たぶん50代後半)

阪神の大ファンで(丁度1985年の優勝した時で待合室のTVに釘付けになってました)

たしか岐阜出身で自家用車のアウディを病院の駐車場に置いてて

糖尿病の食餌制限のために入院してたのに

時々娘さんに食べ物を持ってこさせ

 

私の病室に来ては

「長坂さん、娘に寿司買ってこさせたから一緒に食べない

と、何度誘われたことか

 

病院からも退院して

「診察のために東京まで出てくるのも大変だろうから東大医学部派閥の豊橋市立病院で経過観察したら

と言っていただいたのですが

 

何もかも放り出した状態で緊急帰国してしまったため

中途半端のまま協力隊活動を終えるなんて耐えられず

『残務整理してきたいからまた任地に戻して欲しい』と要求するも

 

「最低限、肝炎の抗体ができなかったらダメ」と言われ

主治医からは

「抗原は無くなっても必ずしも抗体はできないから、これだけはどうしようもない」

と諭されたものの

「協力隊事務局が抗体ができないと戻してくれないから」と訴え続けたところ

 

数か月して突然【抗体陽性】との結果を受け

 

当初の2年間の任期がほぼ満了していたため

現地の調整員に半年の延長要請を取り付けて

協力隊事務局を説得して

再びトンガに戻ったのですが・・・

 

主治医から「劇症肝炎によって肝臓の組織が、たとえば健康な皮膚に突然熱湯を浴びたような状態なので

しっかり冷やして養生すれば、また元の弾力ある健康な肌を取り戻せるけど

そのまま放置したらケロイドになって戻らなくなるから、1年間は禁酒すること」と告げられていたので

 

いろんな集まりがある度に

みんなから『一本くらいいいんじゃない』とビールを勧められましたが

 

「このオレが一度決めたことを覆すわけないだろ

と意地になって一滴たりとも飲みませんでしたが

 

あの頃はちゃんと我慢できたんだよなぁ 偉かったなぁ

 

そうしてまたトンガでの生活となったのですが

 

復職したチャンカーには

当時、特に中学校が荒れてた時代もあってか

日教組が蔓延り、学校という組織が私にとって無責任で信用できない存在

「くだらない教師なんか辞めて退職してトンガに来い」と伝えてあったため

 

実は、奈良県の公務員の休職参加第一号とあって

”最低でも2年の御礼奉公”が不文律で求められていたのですが

 

学校、教育委員会、協力隊事務局、その他もろもろの説得や圧力をはねのけて

ほぼ駆け落ちのような状態でトンガに呼び

また同棲生活を送ることとなりました。

 

後日談ですが

協力隊(シニア隊員)を終了したのが1986年8月末

その後、国内協力員としてJICA中部支部で8ヵ月

特別技術嘱託としてJICA本部(新宿三井ビル)でまた8ヶ月

その後フィリピン国立航海訓練所プロジェクト専門家(コーディネーター)として2年

その後、業務用ヘリコプターと双発機免許を取得するのを断念して

FIJI事務所長だった河西さんの口利きで、財団法人国際協力センターの職員となり

大阪国際研修センターの研修業務を請け負う仕事など

ODA関連業務に携わっていたのですが

あれは何時だったのかなぁ

 

そのODAで働いていた頃だったのか

その後、奈良県青年海外協力隊OB会の会長をしていた時だったか

 

近畿支部の職員(ほぼ現地採用な形で長年勤務していた主のような女史)と

パーティーのレセプションで雑談する機会があった時に

 

面識がなかったので自己紹介すると

「あら、奈良県で〇〇さんと言うと

長年県を説得して苦労してようやく休職参加が認められることになって

その第一号として協力隊員をしていた女性がいたんだけど

帰国して半年ほどで現地に残ってた隊員に呼ばれて

退職して追いかけて行っちゃったの・・・」

 

「えっ、その相手は私ですよ。養子になって改姓したから」

と言うと目玉が飛び出そうなほどの表情して驚いてましたねぇ

 

水産局長からは、「Masaの好きなだけ滞在くれたらいいヨ

と言っていただいていたのですが

 

とりあえずはしっかりと引継ぎができるように残務整理をと

 

Government Houseから出て専門家の増本さんの隣のフラットを借り

協力隊に迷惑をかけないように自分でバイクを購入し

(当時、隊員数が激増していた時期で、公用バイクが足りなかったので)

アフター5は、お酒も飲めないこともあって

だだっ広い家で

チャンカーが日本で買って持ってきてくれた

当時まだ売り出したばかりのファミコンしてました

↓ これは隣家で暮らしていた増本さん

鮪延縄実習船の漁労専門家で

私をシニア隊員にしてくれた恩人の一人でもある増本有三さん

 

20年前に当時の調整員で大親友の小野チン(小野浩OB)と

下田の別荘地でご夫婦で隠居生活していた増本さんを訪ねたところ

(その後、長年トンガで専門家をした後に、パラオ諸島で定年の70歳までシニアボランティアとして従事)

(帰国して緊張が緩んだのかステルス性胃癌になって大手術)

(ほぼ母子家庭のようにして育った二人の息子は医師となり、一人が医大病院に勤務していたためその病院で施術)

そんな話を聞いていたのですが

 

昔から酒に飲まれるトンガOB(松永君)が訪ねてきて泥酔して大暴れしたとかで

奧さんからあまり歓迎されなかったのにショックを受けて

その後音信不通となっていたのですが

(23歳年上だったので、もう存命ではないだろうなと)

 

この記事を書いていて

無性に懐かしくなり

その大学病院の名前を思い出し、ググッテみたところそれらしき人物があり

ダメ元で手紙を送ってみたところ

なんと返信があり 御年90歳となっていまは次男の家族と暮らしてるのを知らされビックリ

残念ながら

お酒の飲み過ぎからなのか(いまも依存症のように毎日飲んでるんだそう)

『認知症がすすんで、過去のことはほとんど覚えていないんですよ』

とのことでしたが(私の名前を伝えたものの会話になりませんでしたと

 

やがて残務整理のために延長していた期間が過ぎ

現地からは好きなだけ居ていいよと言っていただいていたのですが

 

まだ療養中でお酒も飲めなかったこと

無理やり教師を辞めさせてトンガに呼んだチャンカーと

そのまま駆け落ち状態で過ごしてゆくことに抵抗があったこと

 

それらを熟慮して1986年8月末で協力隊生活に終止符を打ち帰国することを決めました。

 

一番の要因は

なんでも好きなようにでき”トンガの主”のような存在となり

FIJIの日本大使館主催の友好イベントでは大使の通訳を任されたり

王家(主要貴族)にも直接話ができるほどとなり

 

なんせ波乱万丈な生き方に憧れ

”ぬるま湯”に居続けるのは信条と異なるなと

 

 

 

大の仲良しのAiseaは Vava’u支局長となり

(ピンクのアロハシャツを着てるのが地元の漁師Ipolito:よく鰹を一本くれた人物)

 

Vava'uでの送別会

なんと水産局の主要メンバーが本島のTongatapu島からも集まり

沖の無人島へ渡り

Umu料理(ポリネシア風オーブン料理)

Umuのため穴を掘り

サンゴ石の上で木を燃やし(普段はココヤシの殻)

さまざまな料理にココナッツミルクを加え

更には子豚の丸焼きまで

バナナの葉っぱがお皿代わり

この送別会を企画してくれた二人

右は 水産局の幹部の一人Pita Halo

もう一人はボートヤードのVava’u支局長

 

離任前にそれまで世話をしてきた船と記念写真

(↓現地の数学教師の再教育プロジェクトのために離島の教師を集めるためのボート)

 

鰹一本釣り漁船 TAKUO

こちらは、FAOの沿岸漁業振興プロジェクトのために建造した漁船

当初の設計があまりにお粗末で嵐で難破する事件が発生し

その後、積極的に設計に関わってできた船と

こちらは、一本釣り鰹漁用の餌の鰯を獲るために

送られた巻き網船(鰹漁自体がほとんどされなかった)

Vava’u時代にお世話になったMikioと奥さん

Mikioは戦前に移民した日本人の子孫で

親族にアメリカで活躍したプロレスラーもいたんですよ。

(Mikio Guest Houseの食堂前)

なんせブッフェスタイルの食事が売りで

いつもNZかOZのオバチャンが住みついてお手伝いしてました。

新しくコテージも数棟建てらえて

ますます盛況になるんだろうなと喜ばしく眺めてました。

夜はKava(笑)

水産局Vava’u支局のLangimaと

Vava’uのボートヤードのメンバーと

こちらは、Tongatapuでの送別会

左が桜井研次さんを兄のように慕ってた

電気技師のSiotame Taunaholo

こちらは水産局長 Semisi Fakahauの子供

長男Pita と 長女Mele

右から

初代の鮪延縄船”LOFA"の二等機関士Liuaki Taunaholo,

Pita Halo, Engineering 部門長のSiaosi, Siotame Taunaholo

水産局の主要メンバー達と記念撮影

(左側の椅子に座ってるのが水産局長のSemisi Fakahau)

 

水産局の船長から その後ドイツの援助で開設された海員訓練所の所長になったMalakai

 

迷彩服姿はVava’u時代のEngineering 部門のカウンターパートFalanisi

 

そして、いろんなところで送別会をしていただいたのですが

忘れられないのが 現地で一番人気の中華料理店”Fua Fua(華華)”

の高さんとスーリー夫妻(台湾人)

わざわざお店を閉めて招待してくれました。

この高さん、昔は日本でも料理人をしていたこともあって

日本人には親しみを感じてくれていたのもあるのですが

 

私の赴任した1982年に 王様のコックから独立して

首都Nuku’alofaのメインストリートに小さな小さな中華レストランを開業

 

その当時、陸にいた時はほぼ毎日ランチに通ってたのがFua Fuaだったことや

日本人関係者や旅行者が来ると夜の会食に利用していたこともあって

それこそ親戚のような親しい間柄でした。

何と言っても忘れられないのが

劇症肝炎を発症した直後

とてつもなく高価な”熊の胆”やその他の漢方薬を持ってきてくれて

とても心配してくれたこと

 

とっても仲良しだったのに

 

その後、南太平洋の国々もほとんどが台湾と国交を結んでいたのに

台湾から中華人民共和国に乗り換えてしまったため

台湾領事館も閉めて国交が途絶えて

あと、高さんも新天地を求めて中国本土で事業を始め

 

レストランも中国人に売却して家族で移転してしまいました。

 

その後、台湾へ行くたびに(高雄出身と聞いていたので)

高雄で誰か知ってる人物がいないかと探してみたのですが

(当時国交のあったTongaでレストランをしていたので領事館の記録とかないかと)

未だみつからず、台湾のTV番組に投稿してみようかと思いつつ

既に30年以上の年月が経ってしまいました。

 

↓ 1986年8月31日

任期満了して帰国した時の空港へ見送りに来てくれた協力隊とJICA関係者の面々と

(LOFAは操業で出ていたため、機関長KAFOと二等機関士Satekiの家族と奥さんが来てくれました)

 

こうして写真を観直して 

改めて、TONGA滞在中どれだけ多くの人のお世話になったんだなぁと再認識

(日本人連中は、こちらがお世話したことしかありませんでしたが

 

よし、ほとんどがNZやオーストラリアに移住してしまったり

既に他界した人だらけだけど

近々TONGAに飛んでご恩返ししてこよっと

 

 

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出張ついでに遠くへ行きたい【目論見が外れO型気質を感じた旅@北海道】

2024-12-19 16:34:44 | 旅行

2024年12月16日 月曜日

普段は自他ともに認める[働かないオジサン]

オフィスでお昼ご飯を済ませ

個室でボケボケとしていたところ

 

午後3時前、突然内線電話が鳴り

「〇〇からのメールみられましたか?

「気づくのが遅くなってすみません、訪船依頼が来てるんですけど

明日北海道の苫前とのことで、時間的に無理だと思いますのでお断りしておきましょうか?」と

 




苫前といえば、去年大寒波の下, 道北の旅で

札幌からのバスで通過した場所で

三毛別ヒグマ事件のあった場所

  

最寄りの旭川行の飛行機に空席があるか調べ

 

わが社の優秀なスタッフはすぐさま航空写真で

それなりの船が入れる港があるか調べ

現在地が釧路と聞いて

北方四島の国境からオホーツクに抜けて稚内を回るかなぁ

津軽海峡から日本海側に出て北上する?

何よりも羽幌だったらまだしも

漁港しかない苫前に行くとは考えられず

 

これはたぶん苫小牧の間違いだろうなと問い合わせたところ

やっぱり苫小牧

 

苫小牧なら千歳から目と鼻の先なので

札幌便(新千歳)なら空席あるだろうなと調べると

伊丹発の最終便(18:55発)が取れそう

 

その仕事、先月から依頼を受けていたものの

諸々の先約があって12月16日以降しか無理ですとしていたため

先送りしていた誠意をみせなければとの思いと

 

近年お気に入りの北海道、東北方面はめったに依頼がないので

快諾して

 

事務所での必要部品や書類等の出張準備を完了

(この間、わずか15分ほど)

 

 

家に帰って厳寒の北海道仕様の作業服や衣服をカバンに詰め込み

最終の注文を確認してからネットで航空券を購入し

 

最悪、伊丹まで車で移動して駐車場に停めておこうと思いつつ

16:15に最寄りのバス停発の空港バスがあったため

チャンカーに送ってもらい

まだ晩御飯には早いし、せっかく北海道まで行くんだから

現地で美味しいものでも食べようと、ラウンジでは飲み物だけにしていたところ

 

遅延のお知らせ

 

それでも新千歳空港で食べられるだろう と

楽観してそのまま飛行機に乗り込んだのですが・・・

 

新千歳空港に到着してみると

ほとんどの飲食店が午後9時で閉店

泣く泣く電車に乗り込み

南千歳で苫小牧行に乗り換え

もう閉まってる駅弁の売店のポスターを恨めし気に眺め

 

ホテルに到着したのは 既に22時40分過ぎ

(駅舎内のコンビニも閉まってました

フロントで「少し離れた歓楽街ならまだ開けてる店もありますよ」とのことでしたが

 

凍結してツルツルの歩道に恐れをなし

あえなく断念して 最寄りのコンビニですませ

ゆっくりとホテル内の人工温泉に浸かり

 

船の到着予定時刻が延期されたため

翌朝は、混雑を避け8時過ぎに朝食バイキングをガッツリと

 

その後、飛行機の移動では運べないスプレーを買いに

よくある駅前の商業施設に入ったドン・キホーテへ

ついでに、去年稚内でツルツルの道路でひっくり返って

泣く泣く旅を途中で断念して凍結した道路の怖さを学習させられたため

靴屋さんで アイス・スパイクを購入

 

そして到着予定時刻に合わせてタクシーに乗り込んでバースに向かうと

丁度着岸作業中

 

とりあえずジャコブスラダー(縄梯子)がかけられたのですが

岸壁の防舷材が1mほどの厚みがあり(船と岸壁の間に隙間があるって意味)

 

運悪く梯子の位置は防舷材のない冷たい真冬の海面

これまでの自分だったら躊躇なく飛び移って駆け上がり乗船してたのですが

 

先日、造船所で握力を計測して

両手で85kgの合格基準になかなか達しなくて大焦りしていたので

もし落水したら心臓麻痺起こしちゃうだろうなと諦め

アルミ製の梯子をかけてもらって乗船し

早速仕事にとりかかったのですが・・・

 

機器が古くて経年劣化で電子基板の故障で完全復旧ができず

これまでだったら代わりの部品(自動車1台以上の価格の代物)を持参して

その場で新替えして解決できてたのですが

 

今回は予備品の依頼を受けていなかったので中途半端で終了

 

これまでこの機器数百台を取扱い無事に作業を終えてきたので

中途半端で下船するしかない事態に落胆してしまい

 

寒空の下、携帯で呼び出したタクシーを待ちながら

『もう明日は素直に帰ることにしよう』と決めちゃいました。

仕事に入る前まで

『仕事を終えたら苫小牧からどうしようか』 と

あれこれと妄想

 

登別で温泉に浸かってもいいし、訪れたことのない室蘭を歩いて

夜行フェリーで青森に行くのも面白そう

 

それとも、他のフェリーで

敦賀や舞鶴、名古屋から船旅を楽しんで帰るのもいいし

秋田もいいし、八戸、いやいや大洗もありかな


と選択肢を表にして

妄想を膨らめてたのですが

仕事が中途半端となってすっかり撃沈

 

そういえば、何か事前に決めてるといつもダメになるんだよなぁ

と思いつつ

(それがいつも“行き当たりばったり旅”をするようになった理由なんです

 

世間ではどんな感じのかなと調べてみると

 

 

 

ありゃま、それってO型気質だったのか とビックリ

 

まあ、めげずに前向きにと己に言い聞かせ

苫小牧の夜の町へと繰り出し

 

去年、結局食べられなかったジンギスカンは絶対に達成しておきたかったので

ネットで下調べして評価の高かった このお店に向かい

独りだし、食べ飲み放題のレギュラーコースに

 

食べ放題って言うから

好きな肉を注文できるのかと思ったら

コース別のお皿が全て出てきてビックリ

ラムランプ、ラムショルダー、ラムハツ、ラムレバー、ラムソーセージ、

仔鹿ロースに野菜盛り合わせとタップリ

 

食べ物の方は、それはそれは結構なボリュームで大満足

それもあってビールがすすみ

サッポロクラッシック何杯お代わりしたのかなぁ

 

ビアグラスだったので、たぶん10杯くらいかな

 

お店のスタッフも最初は機嫌よく出してくれていたのですが

終盤は、原価割れで近寄ってくれなかったような

 

でも十分満足したので

時間内だったけど『ご馳走様』して

 

苫小牧の夜の町を徘徊してみました。

 

得意の嗅覚で場末感溢れる路地を探し出し

(残念ながら雪が少なくて情緒はイマイチでしたが

古そうなラーメン屋を発見

もうお腹いっぱいなのに、北海道に来たら外せない塩バターラーメンをいただきました。

 

その後大音量で自らの歌声に酔い痺れてるオッサンのカラオケに導かれ

このスナックの前でしばし佇み

他に場末感溢れる居酒屋かスナックがないかと夜の町を徘徊


丁度時刻は21時
ご出勤中のミニスカート姿のホステスさん達とすれ違いながら
散策を続けたのですが・・・





やはり仕事が中途半端で
気兼ねなく大酒を飲む気分になれず断念

 
早めにホテルに戻って
人工温泉で冷えた身体を温めて
眠りにつきました。
 
 
夜中にネットで帰りの航空券を購入しておいたので
またまたゆったりと朝食を済ませ
 
チェックアウト時刻の10:00にホテルを出て
気になっていた支笏湖方面の雪山
樽前山の写真を撮ろうと
 
あちこち歩き回り
 
JRの敷地横の盛り土に上ってみたところ
土が抉られた跡を見つけ興味津々
 
 
猪はいないだろうから鹿だろうな
と勝手に決めつけ
 
 
鉄ちゃんの喜びそうな【キハ40】を眺めながら駅舎に戻りました
 
 
実は、苫小牧から新千歳空港への乗り換え南千歳はわずか3つ目
特急はあるものの、普通は通勤通学時刻を過ぎると
9時代に一本、10時代は特急のみで普通はなし、11時に一本と選択の余地なし
札幌や空港方面行のバスも同様で
 
飛行機の選択をミスったなと気づいたものの
時すでに遅し
 
それなら名物の北寄貝でも早めのお昼に食べようと思っていたのですが
 
 
 
な、なんと定休日
 
泣く泣く、しばらく改札前の待合室で過ごしてからホームに向かったところ
室蘭本線で貨物列車が鹿だか線路に入っている人をみつけて運転を見合わせてるとかのアナウンス
 
前日も、南千歳駅で待っていた時に
特急が鹿を撥ねたとかで運転再開に時間がかかるので札幌方面は快速をお使いくださいとか
そんなアナウンスを聞いてたし
 
タクシーの運ちゃんも鉄分を欲してレールを舐めるのか
鹿にはねられる事故は日常茶飯事と話してたのを思い出し
 
北海道では鉄道の移動には時間の余裕を持たせておかないと大変なんだと学習しました。
 
そんなこんなで少し遅延して空港快速に乗り換え

予定時間より少し遅れてチェックイン
北寄貝を諦めて 空港でラーメンでも食べるつもりでしたが
 
またまた諦めてラウンジに向かい
機内で駅弁もいいかな と思いつつ
心惹かれる弁当がなく
またまた諦めて飛行機に乗り込みました。

機体や翼の雪や氷を融かすデアイシングカー(除雪・除氷車)が頑張って作業してくれてました。
 
 
帰りの便はほぼ定刻に離陸
 
今回の飛行ルート
 
 
佐渡上空から越前海岸沿いに南西に飛んで
丹波篠山辺りから旋回
 
普段乗り慣れてる成田・羽田や東北方面からのルートでは
生まれ故郷の豊橋を左にセントレア上空から伊勢志摩で西向きに針路を取り
信貴山上空で北西の伊丹に直進するので
 
珍しさが勝って楽しかったですね~
 



コレ↓が生駒・信貴山系を横切ったところ
 
ほぼ定刻の15:07、無事伊丹空港に着陸
乱気流と737と小型機だったので
そこそこのハードランディングでしたが
 
プレミアムメンバーなのですぐに荷物を受け取れたものの
奈良方面のバスは16:40発しかなく
 
15:30発のなんば行に乗車

 
御堂筋を眺め
16:20頃 南海難波駅前で下車
(ホントは、近鉄の乗り換えに便利なOCAT行に乗りたかったのですが20分後だったので諦め
 
トボトボと裏路地を歩いて近鉄大阪難波駅へ
 
16:32発の急行奈良行に乗車して
最寄りの学園前駅がほぼ17:00
チャンカーの迎えで家に到着したのが17:20
 
伊丹発16:40発の奈良行でも 第二阪奈生駒停留所が17:20着なので
歩いたり電車に乗り換えることを考えたら
空港バスの方が楽なんだよな と再認識

 

それにしても 今回の出張

結局、ついでに旅行することもできなかったし

本音は絶対にしたくない往復ほぼ同じルートでのとんぼ返り

 

『何かしようとすると、思惑通りにならない』と嘆くのが

O型気質なんだと知りましたが

 

まあ、今更治らないだろうな

 

さて、今季もまた極寒の北海道に行けるのでしょうか

 

思い通りにならないだろうけど、また旅のプランでも妄想しとこっと

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧知の友との晩秋の旅【2024年肥前・肥後・豊後】1/3

2024-12-16 14:40:53 | 旅行
これまでにも度々記事にさせていただきましたが
 
青春時代、青年海外協力隊で
隊員候補生として共に訓練時代を過ごした仲間達は
 
我が人生にとってまさに《刎頚之友》
 
1981年の9月下旬から10月下旬までの一か月間を東京の広尾で
その後の二か月半を長野県の駒ケ根訓練所と
合計約100日間だけの間柄ながら
 
純粋な気持ちだけで集い
名誉もお金もなんの見返りも求めず
ほとんどが未開の地で危険やさまざまな病気の蔓延する土地と知りながら
派遣国での活動を夢見てた心の底から繋がっているからか
 
すでにもう43年もの歳月が経過しているのに
未だに親兄弟や妻や子供達よりも心が通じている気がして
再会する度に訓練所時代に戻ってしまうんです。
 
個別には時折数名が集って会食しながら旧交を温めていたのですが
いまから13年前の2011年に30周年を記念して
懐かしの駒ケ根訓練所で同期会を開催したところ
 
同期隊員103名
うち当時連絡先不明25名物故者3名で
75名中34名が遠くはアメリカから2名が帰国しての参加を得て
 
懐かしい思い出だらけの訓練所に宿泊し
翌朝は訓練中毎朝の日課だった講堂での音楽隊員のピアノ伴奏での
協力隊の歌”若い力”を合唱したのですが
 
つい訓練当時の追憶の日々の情景が甦り
みな目頭が熱くなって歌えなくなるほど感動したこともあって
 
その後もほぼ毎年のように全国各地でプチ同期会を開いていたのですが
一昨年、奈良の我が家で猪鍋を囲む会からは
ほんの一握りのメンバーとなってしまいましたが
年に2回のペースで開催
 
 
本日は、そんな旅の記録を記事にさせていただきました。
 
 
 
今回は、関東から2名、関西から1名、地元九州から1名の計4名
移動は愛車のベンツでとのオファーをいただいたのですが
 
荷物もあるし、4名ではゆったりできないかなと
ミニバンをレンタルするから 
 
ワイワイ楽しく旅を楽しもうと提案
 
当初は、また当日シニア割で伊丹から空路で福岡に飛ぶつもりでしたが
 
当日、もし空席が無くなってたらどうしよう
飛行機が遅延したら大変だなと
博多で前泊することも考えたのですが
 
お気に入りの西中洲の居酒屋で泥酔してしまうのを恐れ
得意の瀬戸内航路のフェリーを使うことに

実は、名門大洋フェリーは

船のスペック(仕様)や食事がバイキングしかないのであまり好きくなかったのですが

大阪南港からとアクセスが便利なことと

大阪17:00発 新門司05:30着の便があり

余裕で博多に到着できるからと

 

個室は既に売り切れていましたが

ツーリストベッド(片道6,600円)の席をネット購入

最近は二段ベッドといっても

上下を交互に配置しているため一番端のベッドにすると

ほぼプライバシーが守られて快適に過ごせるんですよ

食い意地を張って食べ過ぎてしまうため

売店で何か買って夕食にしようかなとの考えていたのですが

バイキングも1,800円とリーズナブルな価格なので

ついバイキングレストランに決めちゃいました (意志弱すぎ

 

その上、旅行中は飲み過ぎちゃうだろうなと

乗船後に売店で発泡酒のロング缶を買って飲んでおき

お酒も控えるつもりだったのに

 

レストランの入り口に置いてあった

900mlの芋焼酎の紙パックが1,100円だったので

ついつい『お得なんちゃうん』と購入

とりあえず、バイキングのほぼ全メニューを並べ

ウッシッシと喜んで独り酒を楽しんでいたところ

隣に座った年配のオジサン(昭和24年丑年生まれの方でした)

から声をかけられ

 

お話してみると、仕事上でも関係のある会社のOBで

更に奧さんを亡くされてヤモメ生活の中

旅行会社のツアーで国内フェリーの旅を楽しまれているとお聞きして

 

「良かったら焼酎飲みませんか」とお誘いして

自分が経験してきた国内各地のフェリーの旅の情報をお伝えしながら

とうとうレストランの終了時刻まで歓談しちゃいました。

 

そんな訳でしっかりと酔いが回ってしまい

夜中に目を覚ますと、服を着たままベッドに倒れ込んでたのに気づき

 

大反省

 

まあ、泥酔してお風呂に入るのは危険なので

それで良かったのかも と思いつつ

 

下船前に朝風呂に入るつもりでしたが

この船は朝はシャワーだけだったので面倒臭くなって

着替えだけして下船

小倉駅までの無料連絡バスに乗り込み

05:50新門司港出発

06:25 門司駅を経由して小倉駅に到着

小倉駅の南北に置かれている

無法松の一生を彷彿とさせる小倉祇園太鼓像を眺め

改札口へ急ぎ

普通電車や在来線特急のソニックでも間に合うようでしたが

普通運賃 1,310円 所要時間1時間38分

在来線特急 1,910円 所要時間54分

新幹線 2,160円 所要時間18分

 

朝の通勤通学ラッシュ時間帯だし

選択の余地なしだなと新幹線に乗車

小倉~博多間は、早朝はこだまのみで

ほぼ通勤通学客だらけなんですよ~

朝ごはんは、九州に行ったら定番の”ゴボ天うどん”

もうね、歯が要らないどころか歯茎のいらない クタクタのうどん最高なんです

博多駅から地下鉄に乗り込み

福岡空港でレンタカーを借りたのですが

これがなんとド新車

パーフェクト保証に入ってるのに

車内を汚したら、匂いが残ったら

ノンオペレーションチャージ25,000円と脅されて

面倒臭いなぁと思いつつ

待ち合わせ時間まで余裕があったので

 

先日、急逝された訃報にショックを受けながら

この福岡を訪れることが決まっていたため

大好きな”にっぽん縦断こころ旅”の録画をみなおし

2014年384日目に訪れた埴安神社までの旅のトレースをしたのですが

それは前々回の記事にさせていただいたので端折らせていただいて

 

そして待ち合わせ時間の午前11時過ぎ

関東からのメンバーを空港近くでピックアップして

中央区在住の一人の自宅へ立ち寄ってから

 

一路唐津の呼子に向けて車を走らせたのですが・・・

 

実は、この日の宿は

佐賀県唐津市呼子沖の小川島

 

フェリーの時刻が15:00発なのにカーナビでは到着予定時刻14:45と表示され

大焦り

 

ところが実際には14:30前には無事呼子に到着できてホッと一息

最新のカーナビだからか、短くてクレームがこないように設定してあるので

所要時間を少し多めに予想しているようでした

 

そうして無事フェリーに乗り込み

沖の小川島に渡ったのですが

さすがは荒波で知られる玄界灘

 

数日続いていた低気圧の影響もあってか

なかなかのうねりで

 

船乗りのわたくしは平気でしたが

他のメンバーは辛そうな様子

 

つい無法松の一生の歌を思い出しちゃいました

♪小倉生まれてで 玄海育ち♪

♪口も荒いが 気も荒い♪

 

この宿(民宿クジラ支満)

実は、前回エガチャンネルにハマって呼子の朝市を訪れた時に

泊まるならどこがいいかなぁとネットサーフィンしていて

魚介類を満喫できそうな画像に釘付けとなってのですが

 

4人以上との条件が難しいなぁと半ば諦めていたところ

今回、偶然幹事の女史から『呼子に行きませんか』との提案があり

それならばと、この宿をお知らせしたところ

みなから快諾されて決めていただいた次第なんですよ。

呼子は鯨漁で栄えた地で
 
小川島はその鯨漁の前線基地だったらしく
見張り所や供養塔がありました。

今回選んだ民宿”クジラ支満”

訪れた時期が運悪く海が荒れていたため
普段より種類が少なかったようですが
鯛の煮つけに
 
伊勢海老のお造り(1匹で二人分)
ムール貝に烏賊に河豚の天ぷらに
 
鯨のお刺身に

その他もろもろ山ほどの魚介類

鯛と平目の姿造り、サザエのお刺身

大きなアオリイカの姿造り

ゲソと頭は後で天ぷらにしてくれたのですが

この量

そんなこんなで魚貝類でお腹いっぱい

旅館なので隣室とは襖で仕切られているだけ

雑魚寝のような環境でしたが

我々だけの貸し切りだったのでのんびり寛がせていただきました。

 

翌朝、まだ暗い頃に目が覚めてしまったため

縁側のカーテンの隙間から外を覗いてみると

堤防にいくつものヘッドライトをつけた人達がいる様子

 

釣り客で賑わってました

朝は、前日の残りのお刺身がお茶漬け用に漬けにされ

更に、漁港ならではの充実の朝ごはん

伊勢海老のお味噌汁

美味しかった~

 

8:50分のフェリーに乗るため

8:30に民宿を出てフェリーに乗船

(往路でも乗っていた別の民宿に泊まってた団体さんも同じようにたぶん魚貝類を堪能した様子)

 

前日同様、玄界灘の荒れた海でしたが

少して湾内に入り一安心して

下船しようとしたところ

 

乗客、乗員全員のスマホが大音量で鳴り響き

『玄海原発で事故発生!半径5km以内では”安定ヨウ素剤を服用してください』

とのメッセージに大焦り




 

『これは放射能漏れが発生したんだな』と

急いで駐車場に停めておいたレンタカーを取りに向かいながら

呼子が原発から半径5km以上離れているのを確認し

さて、北風だしどうやって逃げようかと思案しながらメンバーの待つフェリー乗り場に戻ると

 

荷物の見張り番をしていてくれた幹事の女史以外は朝市に行ったとのこと

で、よくよく話を聞くと【緊急速報の訓練】だったとの事

 

 

どおりで駐車場までの道路にいた人達も落ち着いてたわけだ

とホッと胸を撫で下ろしましたが

 

 

東日本大震災の避難者の支援ボランティアをしていて

相馬から避難してきた人から

福島原発の水素爆発直後、放射能漏れの情報で大慌てで逃げ出した時の話を思い出し

慌てましたねぇ

 

で、1年9ヵ月ぶりに呼子の朝市を歩いてみました。

前回は、3月初旬の平日だったので

ほとんど朝市とは信じられないほど店もなく静かでしたが

この日は土曜日とあってそこそこの店と

そこそこ賑わっていましたが

前日、魚貝類三昧だったのと

レンタカーが新車で匂いがついたら

ノンオペレーションチャージと脅されていたので

買い食いも土産も買わず終いでした。

ご参考までに

小川島の民宿、1泊2食付き税込み12,100円

この日は、瓶ビール数本と熱燗を飲んで

一人当たり13,000円でした

 

呼子から小川島までのフェリーが片道520円

新鮮な魚貝類三昧で大満足しました。

 

因みに呼子へのアクセスですが

公共交通機関なら

福岡空港(博多経由)→唐津:

①鉄道JR筑肥線(空港線地下鉄直通)1時間30分

②高速バス(福岡空港、博多、天神経由)1時間30分

 

唐津→呼子:

バス 唐津駅から所要時間25分

毎時2本運行しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

【2/3:肥前から肥後へに続く】

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火野正平さんの訃報に接し”にっぽん縦断こころ旅のトレース旅”を回想中 その①

2024-12-13 13:11:08 | ”にっぽん縦断こころ旅”の軌跡を辿る旅

こころ旅が大好きで

正平さんの歩いた場所を訪れて

こころの風景は勿論のこと

食べていた食事をしたり

そこで出会った人達と会話を交わす虜になって

あちこち彷徨って旅の記録です。

 

とりあえず画像が探しやすかった旅の思い出を貼り付けました。

 

【2016年春の旅】

541日目 岩手県宮古市

『宮古港の出崎埠頭』

(2024年9月28日訪問)

 

【2016年秋の旅】

564日目 奈良市

『航空自衛隊幹部候補生学校にあるプール』
(2017年6月3日訪問)

 

 

567日目 大阪和泉市

『光明池大橋』

(2016年10月9日訪問)

 

 

571日目 兵庫県たつの市新舞子海岸

『二人で行けなかった海岸』

(2016年12月20日訪問)

 

572日目 兵庫県相生市

『皆勤橋の有った辺りの景色』

(2016年12月20日訪問)

 

581日目 山口県岩国市

『鉱山の跡地にかかる小さな橋ときれいな川』

(2017年4月22日訪問)

 

 

 

 

586日目 福岡県北九州市

『曲里の松並木』

(2017年1月訪問)

 

 

587日目 福岡県北九州市

♪オリオリオ~♪と歌いながら通過した折尾駅

 

 

588日目 福岡県志免町

『志免の竪坑櫓』

(2017年1月訪問)

 

591日目 熊本県三角

『三角西港の護岸』

(2017年1月訪問)

 

595日目 鹿児島県鹿児島市慈眼寺公園

『新婚の寂しさを乗り越えさせてくれた場所』

(2017年1月訪問)

 

604日目 沖縄県宮古島

『下地島空港の滑走路の北側』

2019年秋の旅

903日目 沖縄県宮古島市

『佐和田の浜』

(2022年7月訪問)

 

 

【2017年春の旅】

605日目 高知県土佐清水市

『深谷』

(2017年GW)

 

 

606日目 高知県四万十市

『佐岡の薫的神社』 

(2017年GW)

 

607日目 高知県黒潮町

『父と最後に見た黒潮町の海』

(2017年GW)

608日目 高知県四万十町

『川をせき止めて造ったプールの跡』

(2017年GW)

609日目 愛媛県鬼北町

『愛治小学校の校庭の楠』

芳(2017年GW)

 

610日目 愛媛県大洲市

『長浜大橋』

(2017年4月訪問)

 

612日目 愛媛県西条市伊予三芳

『もう一度見てみたい光景』

(2017年4月訪問)

2017年秋の旅

高知県大豊町

『父の思い出土讃線豊永駅』

(2021年1月訪問)

615日目 広島県三原市

『爆雪の滝』

(2017年7月17日訪問)

 

616日目 広島県三原市

『久井の岩海』

(2017年7月17日訪問)

 

620日目 岡山県岡山市東区

『九蟠周辺の防潮堤に並ぶ四つ手網と小屋』

1日目 京都府宇治市

『宇治市 塔の島』 

625日目 京都市

『跨線橋から見る風景』

(2017年5月訪問)

 

 

【2017年秋の旅】

651日目 秋田県北秋田市(鷹ノ巣)

『小猿部川と八幡神社』

(2020年9月訪問)

 

2017年秋の旅

669日目 三重県伊賀市

『伊賀市比土”あまたに”を見下ろす所』

(2018年5月訪問)

 

687日目 愛媛県三方町

『亀ケ池越しに女子岬を見渡せる場所』

(2022年3月22日訪問)

 

 

688日目 愛媛県愛南町

『蘇家神社の長くて急な階段』

(2022年3月22日訪問)

 

【2019年春の旅】

811日目 三重県いなべ市

『おじいちゃんの柄杓と養父川』

(2018年11月23日訪問)

 

【2020年秋の旅】

941日目 岩手県宮古市田老

『田老の防浪堤とその上から見た街並み』

(2024年9月28日訪問)

(120日目 三王岩:正平さんが訪れた頃はまだ津波で遊歩道に入れず高台から眺めてました)

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火野正平さんを偲びながら【384日目 福岡市中央区 埴安神社のお賽銭投入口】へ

2024-12-12 16:57:05 | ”にっぽん縦断こころ旅”の軌跡を辿る旅

このわたしく

過去に何度もこのブログでも記事にさせていただいたとおり

自他ともに認める”にっぽん縦断こころ旅=火野正平さんの大ファン”

 

出稼ぎだらけの人生だったのでリアルタイムで視聴することはほとんどなく

録画しておいた放送を後日じっくりと観ていたのですが

 

先日、三陸の旅で”宮古港の出崎埠頭と”田老の防浪堤”を歩き
初日の投宿地にした宮古の居酒屋でも

 

『何の目的で三陸に来られたんですか』と尋ねられ

『今回は、メインが”あまちゃん”のロケ地なんだけど、

とりあえず旅先を決めてから”にっぽん縦断こころ旅”を観なおして

火野正平さんの自転車旅で訪れた場所も旅先にしてるんですよ』と

話したところ『へぇ~面白いですね』と感心されたばかり

 

出崎埠頭への旅で、宮古のおばちゃんから「ウチでお茶飲んでいって」ってシーンがあったんですよと話すと

「はいはい、覚えてます」との言葉も嬉しくて

 

気を良くして家に戻ってから春までに岩手を再訪して

宮古から山田町の荒神社、安家川橋梁から北山崎、

龍泉洞と岩泉線の旅のトレースをしようと思って旅程を作ったばかり

 

 

 

そんな風に次の旅を楽しみに夢に描いていた矢先

 

11月20日

突然スマホにチャンカーからメッセージが届き

見てみると


ビックリ仰天
 
 
今年は春の旅が一週目の鹿児島の旅で腰痛で中断とのお知らせが届き
大丈夫かなぁ、でも無理しないで欲しいなと心配しながら様子を見守っていたところ
 
秋の旅の前に「”骨折”で引き続き治療が必要」とのお知らせに
 
近年、体力を考慮して
出発地点も丘の上などからの下り坂が多くなり更に距離も短くなって
あと何年続けられるだろうかと不安に思っていたところ
 

電動アシスト自転車となったと知り

正平さんが67歳の時に当時80歳になってた野際陽子さんとの対談で

「こんな歳になってまだ自転車こいでるんだよ」みたいに言ったら

 

「視聴者の方達も嬉しくて、自分も楽しくて、製作側も喜んでくれて辞める理由なんてないじゃない」

と言われて

番組の製作スタッフのことも気遣いながら

ライフワークにしようと決意したんだろうなと思ってたので

 

急逝してしまったことは、とっても悲しいけど

本人的には悔いは残らなかったかもと

 

『長年の間、大変お疲れ様でした。

視聴者に安らぎと癒しと幸せなひとときを届けてくれてありがとうございました。

どうぞ安らかにお眠りください』

と、目を瞑って手を合わせお礼の気持ちを伝えながら

 

天寿を全うしたんだと己に言い聞かせてました。

 

また別の記事で書きたいと思いますが

実は、その訃報を耳にしてから

 

全ての放送をエクセルを使って

旅別に年月日、都道府県、旅のルート、食事内容を記録し

録画しておいた膨大な放送を観なおして

(元気な頃の正平さんを観ながら泣き笑いしてました。)

 

これまで正平さんのおっかけで訪ねてきた場所や

こころ手紙の内容で心の琴線に触れていつか訪ねてみようと思っていた土地

旅の途中で出会った人々やレストランを探して

正平さんの話題で往時を偲びライフワークにしようと思っていたところ

 

半年前から旧知の仲間と九州を旅する予定があったため

とりあえず、メンバーと合流するまでの時間を使い

旅のトレースをしようと決め

 

2014年秋の旅

【384日目 福岡市中央区 埴安神社のお賽銭箱】

のルートを辿ってきた時の記録を書き記させていただきました。

 

この時の旅のスタートが

博多港のポートタワーのエレベーターの中からだったため

とりあえず、空港で借りたレンタカーで朝の大渋滞の中

博多港の博多埠頭に到着

 

朝、9時になってたので

『ヨシヨシ、あさイチでスタート地点からトレースができるぞ』と喜び勇んで

向かったところ

 

な、なんと営業時間は10時から

 

仕方なくポートタワーに登るのを諦めて

中洲川端から櫛田神社に向かったのですが

 

さすがは大都市、道路は渋滞してて

自転車で走っていたルートを辿るのは困難だなと諦め

 

博多埠頭~川端通商店街~櫛田神社~中洲~天神をスキップして

大濠公園へ

正平さん達が通った駐車場入り口から入って車を停め

Boat House前の錦鯉を眺め

観月橋へ

正平さんが元気に自転車で渡ってた光景が忘れられません。

 
散歩中の大型犬”ワイマラナー”を見つけ
犬好きの正平さんも自転車を降りて懐いてきた犬を撫でていた場所

 
それにしても正平さん
生き物全てが警戒心を持たずにデレデレになってしまう
ホントに不思議な人でしたよねぇ
 
毛虫から蛇から蛙からトカゲ、赤とんぼにアナグマも
逃げずにジットしてましたよね
 
女性は勿論、オッサンたちもどんだけ正平さんの事が好きだったか

 

そしていよいよ目的地の

鳥飼にある埴安神社へ

実はこの道、ムチャクチャ狭くて一方通行で

車では大回りしないといけないとわかり

少し離れたコンビニで買い物をしたついでに駐車させてもらい

歩いて向かったのですが・・・

慌てていたため財布も小銭入れも車に置いたままだったため

正平さんがしていたように

一円玉から五円玉、十円玉、百円玉、五百円玉と準備してたのに

滑り落ちてゆく音の違いを実感できませんでした~

たぶんまた博多を訪れることがあると信じて

 

次回は

自転車で走っていた那珂川沿いの道

川端通商店街、櫛田神社と

中洲から天神まで歩いてから

 

親不孝通りの狭い路地

舞鶴766号線にあった”がブリチキン”

(正平さん達が休憩していたカフェレストラン、現在はお寿司屋)

 

と 元兼平鮮魚店天神店前の”西郷南洲翁隠家乃跡”を眺めて

大濠公園から埴安神社までを辿り

今度はしっかりと小銭を順番にお賽銭箱に投入して

正平さんと同じ気分に浸りたいなと思っているところです。

 

それにしても今回目印にと思っていた

カフェレストランと日本家屋風の店(兼平鮮魚店)が無くなっていて

ストリートビューから探すのも大変でした。

 

やはり特に都会の飲食店は存続さえ大変なんだろうなぁと実感

 

さて、残りの人生でどれだけトレースできるでしょうか

 

正平さんのこと我が人生が尽きるまで忘れませんからね

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これもある種の終活?(古い写真やビデオをデジタル化して保存してみました)

2024-11-19 16:30:35 | 日記

【自分流、昔のビデオや写真の保存方法のご案内】

 

1989年のほぼ大晦日前にフィリピンから帰国して諸手続きを済ませ

その時には年明け早々渡米して

双発のプロペラ機&ヘリコプターの免許を取るつもりだったのが

 

業務用免許でも30代後半での取得となると

就職先はないと知らされ

 

将来の計画が音もなく崩れ

愕然としてとりあえずチャンカーの実家の奈良で暮らすことを決め

 

帰国から約2月半後の1990年3月に第一子が生まれ

喜び勇んでビデオ撮影機を購入し

 

 

嬉しくて子供がらみの行事やイベント、家族旅行と

主に子供達が高校生の頃まで

まめにビデオ撮影していたテープが山ほど溜まっていたものの

 

さて、これを子供達にも残してやろうと思ったものの

長年放置してテープは劣化してるしカビも生えてどうしようかと悩んでいたところ


ダビングサービスがあることを知り
 
VHSCと
miniDVも全てDVDにして

DVDとして子供達に渡すことにしたところ

 

 

トンガ王国で暮らしていた当初の1982年~1984年の間に撮影した

こちらも膨大なスライドフィルムもカビが生えたり

プロジェクターを使うのが面倒になってほとんどお蔵入りで

 
もう帰国報告会やいろんな場所でお見せする機会はないだろうなと思いつつ
還暦を過ぎて若い頃を思い出す懐古趣味に喜びを感じるようになっていたところ
 
桜井研次さんが急逝してご遺族にトンガの写真をお見せしようと四苦八苦していた時に
ネガ、ポジ、スライド、プリント写真をスキャンできる装置があることを知り
 
すかさず購入
 

フィルムのサイズ別のトレイがあり

そこに挟んで

セッテイング

画像を確認してSDに取り込むだけ
(↓は、1983年にSamoaで同期隊員の配属先(高校)を訪れた時のスライドフィルム)



ネガフィルムも簡単にデジタル化できちゃうんですよ
(↓ NZ旅行の時のネガフィルム)
(

 
写真プリントも中に置いてデジタル化できちゃうんです
因みに、古い昭和のアルバム写真もこれでデジタル化しちゃいました。
 
ほんの一部をご紹介すると・・・
 
 
1979年 運輸省航海訓練所練習船”青雲丸”の遠洋航海実習で
環太平洋航路でトンガに寄港した時の写真
(Ministry of Tourismの観光案内所にて)
 
(王宮近くを歩いていたたぶん公務員の女性達と)
 
名所のひとつBlowholls(潮吹き岩)にて珍しい日本人を見に集まってきた小学生たちと
 
1973年商船学校に入学後の一年生の時に
三重国体が開催され全日本陸連の役員だった父と伊勢神宮を参拝した時の写真
(当時、一年生は制服以外での外出ができない時代でした)
 
夏の高校野球大会へ応援に行った時の写真や
(右端の赤い鉢巻がわたくし
 
古い父の写真もデジタル化して取り込み
(大正3年生まれだったので、たぶん昭和一桁時代)
 
たぶん父が高校を卒業して鐘紡の実業団選手となった頃
 
生家で二歳上の兄と
(ムッチャ昭和でしょ~(笑)
 
小学校6年生の修学旅行
 
小学校5年生の林間学校
 
 
などなど
とりあえず身近にあったフィルムや写真をデジタル化してSDに保存して

 

更に、テレビで簡単に観られるようにと

ハードディスク【バッファローの”おもいでばこ”2TB】と

バックアップ用のSSDでこちらも2TBメディアを購入し

この”おもいでばこ”2TBもあるため

たぶん1万枚以上の画像と数十時間分のビデオを入れても

まだディスク容量の15%程度

 

 

デジカメやスマホであれば撮影日時別にしっかり保存してくれるので

とっても便利

(ネガやポジフィルムとプリント写真は日付登録する必要がありますが)

 

いつでも簡単に観られるので

もっぱら一人で目を細めながら昔の画像やビデオを鑑賞しては

思い出に浸ってる次第です。

 

 

最近、昔を回顧した記事を残すようになったのも

実は、この”おもでばこ”のおかげなんですよ。

 

とりあえず、同じように昔のビデオや写真等を残すことをお考えの方の

ご参考になれば幸いです。

 

 

まだスキャナーで取り込まないといけない古い写真が山ほどありますが

 

とりあえず一旦満足しちゃってるので

スキャナーいつでもお貸ししますのでお気軽にご連絡くださいね。

特にネガフィルムからの取り込みは簡単でとっても便利ですヨ

 

※終活だったら断捨離で処分しないといけないのかなぁ と思いつつ

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万年浦島太郎【後悔先に立たず】を痛感させられた旅の備忘録

2024-11-12 14:56:05 | 日記

 

約一月前の10月中旬

伊勢湾フェリーの蒲郡航路実証実験の乗船と

豊橋の戦後の歴史的建造物”水上ビル”の老舗居酒屋”カク一”他

忘年会の下見を兼ねて旅した時に

 

これまた前々から気になってた元養鰻場の直売鰻を試食がてら買って帰ってみたところ

これがまた超美味

 

すっかり虜になってしまい

早速文化の日の三連休を使って

まだ訪れてみたかった居酒屋と

食料品の買い出しに出掛けようとホテルを探すと

 

何故かまたまた超高額設定で

普段なら7ー8,000円で泊まれるホテルが20,000円弱

 

いつもの安宿が最後の一室だけ残っていたので

すかさず予約を入れようとすると

何故か『システム障害』で受け付けてくれず

 

やり直してみると、既に”空室なし”(要するにクリック遅れ)

 

仕方なく、何かイベントでもあるのかなと検索してみると

11月2日(土)に”炎の祭典”なる手筒花火の催しが見つかり



 

ガックリ

 

それなら仕方ないなと翌週に順延したのですが

今度はホテルから確保しようと宿泊サイトを開いてみると

特に目立ったイベントはなさそうなのに

またまた土曜日は普段の倍以上

 

ABホテルごときがなんと土曜日は17,800円 

 

 

全く同じ部屋が平日なら7,200円

 

 

田原のABは、もっとひどくて

土曜日が21,000円 

 

土曜日だったからなのか、秋の行楽シーズンだったからなのか

もう待てないな 

と金曜日に休みを取って

11月8日(金)の朝

 

名古屋方面への奈良公園向きは

朝9時までは県庁や市役所の通勤ラッシュで大渋滞するのでと

9時半に家を出たところ

 

まだ阪奈道路が大渋滞

よくよく考えたら紅葉の季節は奈良観光のハイシーズンで

あれこれと迂回路を探してようやく名阪国道、東名阪、湾岸線、国道23号バイパスを抜けて

蒲郡ICを下りれたのは13:00過ぎ

 



 

13:30 ようやく豊川のメガモールにできた”あんかけスパ”の新店舗に到着

いつもの”バイキング(チキンカツとミニソーセージ)”鉄板Lサイズを注文したのですが

粉チーズを口頭で伝えると

タッチパネルで操作しろと面倒臭そうにあしらわれ

その上、あんの味もどうにも昔とは異なり

”空腹は最高のスパイス”の筈なのに全く美味しく感じられず

期待を裏切られてガッカリ

以前は本店で食べてたのですが

この店もTVで紹介されてから全国から客が訪れるようになって

昼時ともなると大行列でウンザリしてしまい

 

その上、どうやらオーナーも代替わりして経営方針も変わった感じで

何十年も働いてた熟練のオバチャンウエイトレスも定年になったのか

それ以外の顔馴染みのスッタフも居なくなり

まだ20代そこそこの若いスタッフだらけ

 

それなりにテキパキと働いているのですが

愛想もなくまるでロボットを相手にしているような感覚

 

今時はどこに行ってもこんななのかなぁ

 

その後、両親が眠る墓に手を合わせてから

今回の旅で一番楽しみにしていた居酒屋を開店時から訪れるために

ホテルにチェックインして荷物を放り込み

 

その居酒屋の”口コミ”を調べてみると

『人気のお店なので事前に予約した方がいい』とあったので

16時半に電話して予約を入れ

期待に胸膨らませながら

時間調整しながらお店に向かいました。

 

豊橋駅の西口は、東海道新幹線ができて改札口もできたのですが

長年”裏側”の存在で怪しげな戦後のバラック時代から残る

少し怪しげな飲み屋(たぶん売春とかも残ってた)街だったのですが
最近は、”わんぱく通り”と呼ばれる若者にも人気のグルメ通りになってるんです。

豊橋駅には、南北に走る線路の両端にそれぞれ古い跨線橋があって

実は、この跨線橋のおかげで 

たしか東海道新幹線では三つしかない地上にある駅のひとつなんです。

(品川と米原がその残りで、その他はみんな高架駅)

元々は1930年に伊勢電気鉄道の宮川を渡るための鉄橋だったのが

1942年に鉄道が廃止されて橋梁も不要となったのですが

大部分は近鉄名古屋本線の揖斐川、木曽川、立田川に転用され

その一部が豊橋にも転用されたもので

以前は、この高架下にも古い飲み屋(座布団売春してる店だったとか)が並んでいたのですが

支柱の耐震補強工事をした時に全て撤去されちゃいました。

 

そうこう想い出探ししながら時間潰しして17:00に店に到着

喜び勇んで暖簾をくぐり

とりあえず瓶ビールを注文

 

オススメの1000円セットを注文して

店内を眺めてみると酒も肴も凝ったメニューだらけ

いや~、最高だなぁと喜びながら

四種の利き酒セットを飲んでから

お刺身の盛り合わせ、焼き鳥とツクネの串焼き

 

そしてこの日のマスターのオススメの鳥ハムで

 

よし、焼酎を飲もうとボトルで注文

続けてとろとろレバーと砂肝の串

砂肝はさておき、レバーは最高に美味しかった~

そして鯵フライを頼み、マスターと常連さんとの会話を楽しんでいたのですが・・・

そこそこ酔いが回ってきた頃

常連らしき女性客(たぶん50前くらい?)が来店し

カウンターの中でマスターのヘルプとフロア係の同じような年頃スタッフ2名との会話が聞こえ

 

なにやらつまらない世間のネタ(マスゴミに踊らされたデマ)を大声で

話だしたのに我慢ができなくなって

つい焼酎を注いでは飲み続け

 

とうとう空になってしまい

堪忍袋の緒が切れて『くだらない馬鹿な話ばっかするな』と大説教

 

すると、マスターにとっては大切な店のスタッフと常連の方が大切なんでしょう

こちらが咎められてすっかり興醒め

 

浦島太郎なので

三河人はそんなミーハーで薄っぺらい人間じゃない筈だぞ‼️

と怒りが収まらず

 

仕方なく清算して店を出て

前回気に入った居酒屋に向かってみると

既に時刻は9時半を過ぎていて「もう閉店です」と告げられてしまい

(10時閉店なので)

 

それならお酒はもういいやと

〆のラーメンが食べたくなって、いつもの裏駅の町中華に向かうも

同じく「すみませんもう閉店です」とのことで
また表駅に戻り

餃子の王将でタンメンと餃子でお腹を満たしてから

 

すっかり泥酔状態でホテルに戻ったものの

この辺りから記憶が定かではなくなってしまい

 

気がついたら服を着たままでベッドに横になってました。(深夜2時ごろ)

 

記憶が無くなる状態まで泥酔するなんて

ほぼ67年間の生涯で片手も経験無かったのですが

 

この時ばかりは大後悔

 

とても素敵な居酒屋だったのに

もう行けなくなっちゃったなぁ と大反省

 

実は、つい最近、団塊の世代のマスターが脳塞栓になってしまったらしく

営業は週にたった二日の金曜日と土曜日だけ

 

よくよく考えたら店内のポップも全て女性のもので

あの女性スタッフが書いたんだろうなと気づき

 

あれだけ毒づいちゃったら”出禁”で当然だし

何よりこちらの言動で不快な思いをさせてしまったと思うと

もう暖簾を潜るのも遠慮しなきゃダメだよなぁ。。。

 

その後も、その時のことを思い出し頭を抱えて溜息ばかり

 

『覆水盆に返らず』な事をしてしまいました。。。

 

そんな出来事もあり

用事を済ませて家に帰ろうと

 

チェックアウト時間ギリギリまでホテルで酔いを醒ましてから

牛丼屋で朝ごはんを食べ

小学校同級生の女子の職場でカレンダーを渡してから

田原城跡の近くにある異母姉の墓参をすませ

鰻をたっぷり買い込んでから

実家に立ち寄って焼きたて鰻を渡しほんの少しだけ雑談してから

小学校同級生の家に立ち寄ってカレンダーを投函し

御年たしか93歳になる小学校高学年時代の恩師のお宅に立ち寄って

カレンダーを手渡すと

とても嬉しそうだったので

「先生、それではまた年末に同級生の有志を連れてご挨拶に伺わせていただきますね」と伝えると

ご夫婦で「是非お願いします。楽しみに待ってます。」と笑顔で答えられ

年末に再訪する楽しみができました。

 

 

その後、城下町時代からの東海道脇の魚町にあるスーパーで生鰹と

豊橋名産のちくわ屋でオデンネタを土産用に買い

8月上旬に断食センターから戻ってからも

朝は茶粥、昼もお茶漬けと粗食で体重を維持しているため

老舗の佃煮屋にも立ち寄り

 

その後、この日は何故か口が”うどん”になってたので

老舗のうどん屋に向かうと駐車場が満車で諦め

 

帰り道にどこかで入ったらいいやと思っていたのですが

どうにも近場で見つからず午後2時近くとなってお腹ペコペコ

 

ようやく一軒のうどん屋がみつかり

最初は、味噌煮込みうどんを食べるつもりだったのに

ついガッツリのカキフライ丼のセットを注文しちゃいました。

 

その後、またまた国道23号線バイパスで帰ろうと蒲郡に向かい

IC近くのG.Sでガソリンを満タンにして(なんとリッター159円なんですよ)

 

豊明ICから湾岸線、東名阪、亀山から名阪国道をひた走り

早く家に着けたらいいなと西名阪で帰ろうと思っていた矢先

 

福住ICを過ぎたところで

”事故 福住~天理東 7キロ渋滞”との表示にガックリ

 

福住の前だったら下道で帰れたのにと、

地団駄を踏みたい気分でしたが

名阪国道の名所(?)魔のオメガカーブの難所で

とうとう抜けるのに1時間以上かかってしまいました。

 

今回の旅は 距離にして約500km 時間にして34時間弱

 

今回のお買い物は

伊賀上野のギュートラ(伊勢志摩のスーパーマーケット)で

のりの佃煮

豊橋 魚町の佃煮屋 濱金であさりとしじみの佃煮3種

生鰹

そして会社の社員さんと我が家でワケワケのお土産

 

そして焼きたて鰻(白焼きと蒲焼)を各3尾と

 

真空パックを各4尾

 

 

つい最近、薬師寺の近くにできたチェーンの鰻屋が安いと耳にして

それまでは年に一度食べるか食べないか程度だった鰻を

月イチから隔月くらいで食べていたのですが



 

 

正直に打ち明けると

価格は上うな重(一匹分)2,800円

上白焼膳(一匹分)2,800円

でも他と比べてリーズナブルで良いなと思いつつ

蒲焼のタレがどうにも安っぽいのと

国産鰻が売りだけど 泥抜きが足りないのか

臭みを感じていたものの

それくらいは我慢しなきゃいけないかなと思っていたのですが

 

 

今回みつけたこの元養鰻場のうなぎは

サイズも大きくて肉厚で臭みは皆無なうえに

タレも尾を引く美味さで

白焼き(一匹)1,800円

蒲焼き(一匹)1,900円

 

食べてる間じゅう『美味しいねぇ』と何度も呟いてしまい

食べ終わってからもまだ食べたいほど尾を引く美味さで

この値段だったらもっとちょくちょく食べたいなと

保存のきく真空パックを買い込んでしまった次第です。

 

店のまわしものではありませんが

コンビニ後払いや代引き、銀行振り込みもあるので

興味あれば一度ご賞味してみてくださいね。


 

さて、それにしても返す返すも、我が身の愚かな所業で

楽しみにしていた居酒屋に金輪際訪れられない

とても残念な結果となってしまい大反省

 

酒に飲まれるようなっちゃあダメですよねぇ

 

そんな失敗を忘れないように

備忘録として残しておきたいと思います。

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑧再赴任とそれから】

2024-11-07 13:30:46 | 日記

【その⑦からの続き】

初回の任期を満了し日本に帰国して僅か約2・5ヵ月後の1984年5月

青年海外協力隊シニア隊員としてTONGA王国に再赴任させていただいたのですが

 

その前に

このタイトルにしてるのは、昨年末に桜井研次さんが急逝したのを知り

協力隊員としてトンガに派遣されて以来

大恩人の一人だったので

桜井さんの知り合いや遺族の方々に

桜井研次さんがどんなところで青春時代を送っていたのか

知っていただこうと思った次第

 

また、想い出写真の一枚が見つかったので

先にその説明をさせていただきますね。

 

1982年10月

桜井研次さんの送別会と官舎への引継ぎを済ませた後

転勤先のVava'u島に戻るのにオセアニア航路の貨物船を使ったのですが

 

と言うのも、一般のトンガ人が船酔いし易かったのか、船の構造が悪かったのか

1981年にドイツで建造され国内フェリーとして

首都Tongatapu島のNuku’alofaとHa’apai諸島のNomuka島とPangai島

そしてVava’u島のNeiafuの間を週一で運航していたMV Olovahaがあったのですが

 

一般のTONGA人が船酔いし易かったのか

はたまた船の構造の問題で横揺れ縦揺れが酷すぎたのか

要するに”ゲロ船”だったので

 

耐えきれずNuku'alofaからNeiafuまで直行で移動時間も少ないこの船の存在を知り

その後Vava’uへの移動はこの船を利用

 

夕方出航してNeiafuには翌早朝に到着するのですが

なんせ乗客は貨物と同じ扱いで、座席もない雨ざらしの甲板で過ごすので

それを不憫に思ったのか、桜井研次さんがニンジンでキンピラをおかずにしたお弁当を作ってくれて

届けがてら見送ってくれた時の写真

(後日、桜井さんが日本に帰国してから郵便で送ってくれたもの)

桜井さんも米どころ、酒どころの新潟生まれだったので

お酒は好きでしたが、私のようなアル中ではなかったのと

 

しっかり自己管理できる人だったので

任期中の手当を貯めて、たしか任国外旅行はNZ

帰路変更では、Tongaからどこを経由したのか

Tahitiに飛び、アメリカ本土のLAの知人に会いにゆき

その後PhilippinesのManilaにも立ち寄ったと聞いたのですが

たぶんもっといろんな国を周ったんじゃないかな

 

生前にもっとその時の話も聞いとくんだったなぁ

 

 

さて、それでは話を元に戻しますね

 

協力隊員として赴任した時は

FijiのNadiからSamoaのApiaに飛び

駐在員(着任時は伊藤英明という人物)への赴任前の挨拶とブリーフィングを済ませてから

Tongaに飛んだのですが

 

この短い間に(たぶん1984年4月から)

Fijiの首都SuvaにJICA事務所が開設されたため

Samoaで赴任の挨拶をする必要が無くなり

 

更に、SuvaからNuku’alofaへの直行便があったので

日本出発から僅か4日で着けたんじゃなかったかな

 

当時Tongaに就航していた海外からの航空機は

FijiのAir Pacific、SamoaのPolynesian Airway, NZのAir Newzealandがそれぞれ週3便ほどと

American SamoaのSPIA(South Pacific Island Airways)

そして当時はリン鉱石の輸出で大金持ちの国だったNauru共和国からのNauru Airlines

 

面白かったのは、Air PacificとPolynesian Airwayが

Fiji, Samoa, Tongaの三ヵ国を

トライアングルで飛ぶ便があって

(時計回りと反時計回りがありました)

 

時としてFijiからTongaに帰るのに

いちいちSamoaを経由しなければならない事もありましたが

せいぜい半年に一度程度しか飛行機に乗れなかったので

むしろ喜んでましたねぇ。

↑これはTongaのFa’amotu airportのある日の風景

偶然、Air pacificとAir Newzealandのフライトが重なった時でした。

 

1984年の5月はシニア隊員として着任したのですが

あまりの短期間で決まったため住居の準備ができず

 

しばらくは、アメリカ平和部隊と協力隊員用に水産局が建てた

木造、ブリキ張の平屋で暮らすこととなりましたが

まだ大恋愛中だったチャンカーと一緒に過ごせるだけで幸せでしたねぇ

 

鮪延縄実習船LOFAの乗組員も

遠洋漁業から戻ってまたまたすぐに歓迎会をしてくれ

Tongaに戻るために尽力してくれた大恩人の漁労専門家の増本さんに

同期の漁具漁法隊員と後任の隊員、そしてチャンカーも勿論ご招待

(我が家の掘っ立て小屋の空き地でBBQ)

 

少しして、またLOFAに乗り込むこともありましたが

(漁労長の増本さんと船長のHene)

その頃は、後任の船舶機関隊員が気を遣ってくれたのか

積極的に船に乗り込んでくれていたため

その船に乗るのはFIJIでのドック入りの時くらいになりました。

 

前にも書いたかな

鮪延縄では、平均1日に35匹程度のビンチョウ鮪と

それ以外のバチ、イエローフィン、ブルーフィン、カジキ鮪が獲れるのですが

 

鮫は、その倍以上かかるので

(↓延縄にかかってる間に鮫に食べられたカジキマグロ)

 

可哀相に生きている時は角が怖くて近寄らないだろうに

縄で身動きが取れないとわかるのか食べられ放題

鮫は、利用できる

肝臓(病院の入院食にしてました)と鰭を切り取って

鰭は天日干しして乾燥させ、水揚げ地にいる中国人ブローカーが

買い取ってくれるので乗組員の副収入源になっていました。

 

これは、これまた大恩人のAisea Tuipulotu(右端)が

家に呼んでくれた時の一枚

 

再赴任から数か月後

ようやく水産局の官舎(日本政府がODAで水産局の施設を建てた時のもの)が空き

ブリキの掘っ立て小屋からお引っ越し

主にチャンカーと二人で暮らしていましたが

2ベッドルームもあって贅沢だなと、その後ようやくトンガにも調整員が赴任することになって

彼の住居が決まるまで、三食昼寝付きで居候させてましたねぇ(笑)

 

 

お隣さんが、水産局長のSemisi Fakahau氏の住居(Government house)だったので

彼の家族ともとっても仲良しで

長男のPitaとは伯父さんと甥っこのような間柄でした。

Semisi Fakahauは、その後農林省から水産局を独立させ水産省となってから

大臣まで務めた優秀な人物だったのですが

若い頃にPNG(パプアニューギニア)で研修を受講していた時に知り合った

看護師さんと結婚していたので

良く肝炎ワクチンの接種などもお願いしてましたねぇ

 

仕事は、前述のとおり、LOFAへは後任隊員が乗り込んでくれていたため
その他の船の整備と

当時、開始されたばかりのFAO(国連の世界食糧機構)とJICAの

小型漁船建造プロジェクトの様子を観察していたところ

(船体等の合板や接着剤等はFAOが、エンジン、無線機その他の艤装品は日本のODAで

漁業者は開発銀行からのソフトローンで購入して長期で返済するシステム)

この水産局のBoatyardには

長年、FAOの専門家として英国人とVSO(イギリス版平和部隊)の若者Devid

そして新たにイギリス流木造船の欧州人の技師がいたのですが・・・

一見良さげな設計(沖合ではポールとセールで帆走して燃費を節約する)でしたが

セーリングするための帆柱まで合板を接着剤で張り合わせたものだったり

数日間沖合での漁を過ごせるようにキャビンがあるものの

エンジンは簡単な箱を被せるだけ

 

私の天敵である大滝某は、ヨットが趣味でどうやらこの設計にも助言した模様

遊びの船ならそれで良いけど漁をするための漁船で

沿岸警備隊も海上保安庁もない絶海の島々で

気象庁も天気予報もできない場所で

もし荒天に遭遇したら

こんな船じゃあもたないだろうなと想像したとおり

 

引き渡されたばかりの一隻が嵐に遭遇し

浸水してエンジンは停止し海に放り出され乗組員全員行方不明

この↓中心の黒い丸いのが手動の排水ポンプ

こんな船体で浸水したら沈没するのがわかりきってるだろ

と、私の所掌ではありませんでしたがどうにも我慢できず

船体からエンジンの設置その他もろもろ大改造をする陣頭指揮をとってしまいました。

 

それからも大滝某

ど素人のクセに馬鹿な提案ばかり

 

ある日、水産局長のSemisiが相談に来て

どうしたのかと話を聞くと

欧米人とばかりと仲良くしていた大滝が

Vava’uにできたヨーロッパ人が始めたヨット用のスリップを

水産局の船のドックで使って欲しいと頼まれ

安請け合いしたものの、私を信頼しているSemisiには言えないので

農林省の上層部にドック経費を軽減できると進言し

農林省からSemisiに指示があったらしく

『Masa, 本当に大丈夫だろうか?』との問合せだったので

 

「現地で調査してくるから待ってて」と伝え

Vava’uへ飛び 確認したらこの有様↓ 

狭くて、短くて

満ち潮になったら海水に浸かってしまうので

プロペラ軸を抜くこともできないし

喫水下の船体塗装も勿論無理

 

その上、こんなチャチな船台が重量に耐えられるわけがなく

たぶん転倒してクレーンもないVava’uではそのまま廃船になるだろうなと

ど素人の浅慮な発想にビックリ

水産局に戻って

使えない理由を箇条書きにして渡し

ことなきを得ましたが

 

もし自分が戻ってなかったらどうなってただろうかと

背筋が凍る思いにさせられました。

 

因みにそのスリップに入れようとしたのが この鰹一本釣り漁船

 

この大滝某は、延長を続けてトンガに居座るつもりだったので

その後、JICA事務所長に『使えないどころか大問題を起こしそうな専門家は不要です』

と進言してたしか3年ほどで帰国させたのですが

 

縁故で専門家にさせたJICA職員(伊藤英明元駐在員)が

何を思ってかSAMOAにまた専門家として派遣したのですが

(現地に専門家派遣要請を無理やりさせた様子)

 

私がその昔、船会社で働いていた頃に

大型貨物船の船尾管のパッキン交換をするために

潜水士を頼んで船尾管に防水処理を施し

接岸中に交換したことがあったと話していたのを思い出したのか

 

↑の鰹一本釣り船と同型船を

岸壁に係留したままで聞きかじりだけの知識で防水処置して

パッキンを取り外したところ浸水して沈没

そのまま廃船にしてしまったと伝聞したのですが

 

ど素人を専門家にして派遣した伊藤英明氏にも責任があるし

糾弾されなければならないと思ったものでした。

 

 

おっと、つい怒りに燃えて吐露してしまいました。

 

 

【ここからはランダムにトンガでの生活風景を貼り付けさせていただきますね】

その後の現地での生活に話を戻すと

長年、日本からのODAは水産局関係の援助だけだったのが

チャンカーの教育関係も始まり

その後、国立病院の臨床検査センターのプロジェクトも開始して

厚生省の臨床検査技師の専門家も数名赴任して

その家族も暮らすようになって賑やかになりました

(医療プロジェクトの調整員の子供と)

↓は、チャンカーと黒い服の女性がトンガ外務省のキャリア

日本へも高級研修員として受講していたため少し日本語も話せてとっても助かりました

こちらはまたまた仲良しだったトンガ警察の交通課

FIJIのJICA事務所長の河西さんとその後ろが医療プロジェクトのリーダー(ホダテさん)

元東京大学医科学研究所の院長で協力隊の顧問医だった大谷さんが来トンした時の記念写真

(Capt. Cock landing tree碑にて)

右端から家政隊員の西澤範子さん、理数科教師の千田さん

大谷さん、調整員の小野チンと私

 

チャンカーと同じ、小学校教師への再教育で派遣されていた理数科教師の深谷さん

調整員が派遣され、隊員の連絡事務所にした建物と敷地

調整員の小野チン

シニア隊員で再派遣されて約1年後の1985年4月

またまたLOFAに乗船してた時

乗船中は海水シャワーしか浴びれられないため

針路に雨雲を見つけると

石鹸とシャンプーを手に甲板に上り

急いで洗髪して身体を洗って髭剃りをと凌いでいたのですが

 

ある日雨雲が小さすぎて途中で雨が止んでしまい

仕方なく甲板に溜まった水で髭剃りをしたのが悪かったようで

傷口から黴菌が入ったらしく左顎が化膿してしまい

腫れあがって抗生物質を飲んでも治らずにいたのですが

 

半年毎の健康診断でFIJIへ行く予定があり

現地で懇親会にご招待していただいていたところ

 

レストランのトイレで在FIJI大使館の書記官だった穴田浩一さんと

すれ違ったところ、シルエットで私の顔が変形しているのに気づき

『大丈夫ですか?』と心配されたのに驚き

 

その時に専門家としてFIJIへ派遣されていた協力隊OBの高野さんの家にお呼ばれした時に
看護師OGだった奥さんに相談したところ

針を焙って中の膿を出すのが良いかもとのアドバイスで

その施術をしてもらったのですが

化膿している場所が奥深すぎて膿が出ず

仕方なく健康診断を終えてTONGAに戻り

 

国立病院の外科で簡単な切開手術をしてもらうことになり

当初、手術室でと言われたのを

「この程度だから外来の施術室で大丈夫」と断って

注射器で麻酔をしてからメスで切開して膿を取り出して

一安心して、前々からチャンカーと予定していた任国外旅行に出発し

 

約一月、NZをほぼ一周して旅行を楽しんだのですが・・・

(当時のNZの公共交通機関は国鉄のみだったので、決めた期間内乗り放題のチケットがありました)

この時は、2週間乗り放題のチケットで有効的に周遊しようと

Aucklandから首都のWerringtonまでの寝台列車とWerringtonからChrist church経由でMt. Cockに飛び

Queens' Townからパスを使ったんだったかな?

いずれにしても、丸々1ケ月NZの隅から隅まで堪能させてもらいました。

南島の田舎では、何度もこんな場面に出くわし

定期バスの運転手が新聞配達も兼ね

窓から放り投げて配達する光景に目が点(笑)

 

そんな楽しい時間を過ごしてからTONGAに戻り

また普段の日常生活を送っていたのですが

 

たしか8月末だったか

また海に潜ってLOFAのプロペラ軸に絡まった枝縄を除去して

連絡事務所で”おつかれさま”ビールを飲もうとしたところ

口元まで缶を持っていってるのに

どうにも唇をつける気(飲む気)になれず

 

『おかしいなぁ』と思ったところ

居合わせた隊員から「長坂さん、目が真っ黄色ですよ!」と言われ

大焦り

 

その頃、何人かA型肝炎にかかっていたので

てっきりA型肝炎だろうから急性期を過ぎたら治るだろうと高を括っていたのですが

 

【その⑨劇症肝炎で生死の境を彷徨う】

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑦任期満了で帰国するつもりが】

2024-10-29 17:39:00 | 日記

いつまでも思い出話ばかりですみません。

 

最近、友人や知人もこのブログを閲覧してくれてるようなので

当時の事を知ってもらいたいなと

備忘録を兼ねて記事を続けさせていただきますね。

 

さて、鮪延縄実習船に乗船していた時の様子

(↓操舵室の隣の機関長室での執務風景)

前述したとおり、寄港した時に船の保守整備を徹底していたので

操業中にトラブルが発生することはなく

機関室での当直業務はエンジニアに任せて

乗船中は、専ら部屋でドックオーダー作り

こちらは、またまた前述のとおり

トンガ王国は憲法で日曜日は安息日として労働が禁止されているため

沖では操業を休止して趣味と実益を兼ねて乗組員個人の底釣り日

そもそも広い海域にもかかわらず沖合に出る漁師も漁船もないため

延縄で使った餌のサンマを使うからかいつも豊漁

首都に戻った時の家族へのお土産や市場での販売用に売れて個人収入となるため

みな喜喜として底釣りに励んでました。(安息日なのにいいのかな?と思いつつ

その後、現地での活動と生活を送りながら 

派遣された翌年の1983年の8月にも

当時交際していたGFがその年はFIJIまで来てくれて

私も年に1月与えられる休暇を利用して

隊員に許されていた任国外旅行としてFIJIに飛び

首都Suvaのアパートメント式ホテルに滞在して

久しぶりの再会を楽しんだのですが・・・

 

実はこの時、GFのふるまいから自分が覚えている様子と異なることを不審に思い

更に、ある日どうにも寂しくなって高額な電話代を払って国際電話をかけた時に

なぜか彼女の代わりに普段別居している妹が出て

(彼女は)どこにいるのかと尋ねると、即答できずに狼狽した時があったのを思い出し

直感で別の男性と付き合ってるなと気づいてしまい

問い質すと「(あなたが)居なくなって寂しさを紛らわすためだった」と白状したものの

「それだったら、なんでわざわざFIJIまで来たんだ。」と突然の告白に呆然自失

 

「旅の予定をキャンセルして、もうトンガに帰るから日本に帰れ」と告げたものの

泣いて謝る彼女をそのまま見捨てられず

「しばらく時間を置いて考えよう」と結論を先延ばし予定の日まで過ごしたのですが

 

実は、協力隊で派遣されることとなった時に

「私たちの関係はどうなるの?」と聞かれ

「2年の任期が満了するまで付き合っていられたら結婚しよう」

と話していたのですが

 

たぶん何かのキッカケで将来諍いとなったら

このことを苦々しく思い出して責めちゃうだろうなと

「やはり無理だったか。。。」と諦めをつけ

 

トンガに帰国してから日本へ別れの手紙を送り

彼女の送ってくれたAir Mail、たぶん百通以上ありましたが

未練を残さないようにと全て燃やし

辛い別れとなって傷心の日々を送っていたのですが

 

 その心の傷を癒やすように

現地では超可愛子ちゃんで有名だった

鰐淵晴子似の娘と恋愛したり

精神的な安らぎを求めて

彷徨っていた最中

 

トンガ🇹🇴王国初の

女性隊員として赴任してきたのが

いまのチャンカー🤣 

 

これは前にも載せた乗組員が食べ物を持ち込んでくれての

我が家での懇親会の一日(たぶんクリスマスかな?)

チャンカーと、何度も鮪延縄船に一緒に乗船していて仲良しだった専門家の増本さんと

この時はご馳走の子豚の丸焼きも持って来てくれた時の写真の一枚

 

実は、私の最初の任期が満了する3月前の1983年10月

トンガ教育省へ小学校の教師向け理数科教師として派遣されてきた

(なんせ当時は学校の先生も”数の概念”を理解しておらず
算数も指導要領を黒板に板書するだけで、子供達への理解ができていなかったため

日本政府のODAで首都のあるTongatapu島の東西二箇所に小学校を建設し

併せて教師を再教育するプロジェクトが開始)

その数学教師隊員と恋に落ちてしまい

 

公然と付き合うようになっていたのですが・・・

 

それでも任期がきたら帰国するしかないなと思っていたところ

[↓この辺り、もしかしたら自分に良いように記憶変えちゃってるかも

[チャンカーと大恋愛してるの知ってたアイセアが慮って次長に延長の話を持っていってくれたような

[いずれにしても、延長を申請しなかった経緯を話した記憶はありますねぇ]

 

ある日、水産局の次長のTaniela Koloaが話があるとのことで部屋に行ってみると

「Masa, もうすぐ任期満了だけど、MasaはTongaの事が嫌いだったのか?同期のHiromiは延長するのに」と問われ

「ん?今頃どうしたの?1年前に大滝(どうしようもない専門家)から任期延長するのか聞かれた時に

『自分の意志よりもトンガ側がどう思ってるかで決めたい』と尋ねたら

”どっちでもいい”と言われたと聞いて『そんなつもりなら2年で帰る』と答えたんだけど?」と伝えると

 

実は、この大滝明という一応名目は”漁船エンジン専門家”

ただの三流私学大の工学部卒で

船舶の免状も持たず、船舶機関など取扱い経験もないし

全くのど素人のくせにJICA職員の縁故で高給取りの専門家になった人物で

その道のプロを自認していた私が疎ましかったようで

面と向かっては何も言えないので陰で嫌がらせばかりしていた輩

 

「水産局は、Masaが来てとても感謝していてできれば延長して欲しいと願ってるんだよ」と言われ

大仰天

 

実は、兄弟のように仲良くしてたAisea Tuipulotu(通称アイセア)が

チャンカーと大恋愛中してて離れがたい想いでいると察知して

次長に進言してくれたらしく

 

「そこまで言ってくれるなら、延長してもいいよ」と快諾

次長はすぐに外交文書を作成して正式ルートで任期延長の申請をしてくれたのですが

(Tonga水産省=農林水産省→Tonga外務省→在FIJI日本大使館→日本の外務省→協力隊事務局)

 

当時、トンガには大使館もJICA事務所も駐在員も調整員もおらず

隣国のサモアの駐在員(豊島一郎さん)が3月に一度訪れて隊員の様子を窺ったり

トンガ政府との調整をしていたのですが

その要請を受けて確認と状況説明のために来トンしてきて

現場の状況を良く知る専門家の増本さんを交えて面談したところ

 

①交替要員の協力隊候補生が訓練所で、1月末には派遣される予定になっている

②在FIJI日本大使館の担当書記官が、大滝専門家から彼女ができて延長したくなったと聞いていて難色を示している

③いずれにしても時間切れで延長申請は受け入れられない

なので任期延長は諦めてくれとの話だったのですが

 

※この辺りも少し補足説明しますね。

当時、日本側の管轄が複雑で

TONGA王国はFiji大使館の管轄

SAMOAはNewzelandの管轄

但し、協力隊員は派遣人数の多いSAMOAにしか駐在員を置いていなかったため

 

隊員業務(報告書の提出先とか現地との調整)では問題ないものの

そうした外交上のルートではTONGAはFiji管轄だったので

SAMOAの駐在員は口出しができなかったのです。

 

 

同席していた増本さんが、駐在員の豊島さんに

「長坂君がどれほど水産局、ひいてはトンガに貢献してくれてるか説明させてください」

「彼のおかげで鮪延縄船がトラブルなく操業できるようになって、

その上自分達で整備してくれるからドック費用も激減して巨額の外貨収入に貢献してくれてるんです」

「それにも関わらず青年海外協力隊の僅かな手当だけで、遠洋漁業の鮪船に乗り組んでくれているんですよ」

「延長がダメなら、専門家として再派遣してください」

「大滝が邪魔して長坂君が戻ってこれないなんて我慢できないんです」

と、涙ながらに怒りを込めて訴えてくれたこともあって

 

駐在員の豊島さんも、納得してくれて

まだ若干25歳とあって、JICA専門家は無理なので

青年海外協力隊のシニア試験(主に語学試験)を受けてシニア隊員として再派遣できるようと尽力してくれて

 

実は、英語なら英検一級並みの語学力でないとシニア試験にパスできないため

わざわざトンガ語での受験ができるように事務局に話をつけてくれたのですが

 

実は、その漁船エンジン専門家なる輩と

私の交替隊員(船舶機関隊員)が派遣されるため

私が戻ってきたら同じような職種の人間が狭くて小さな国に3名は不要だと

先に述べた在FIJI日本大使館のODA担当書記官が難色を示し
私の派遣要請書を差し戻ししていたんです。

 

駐在員の豊島さんがそれらを含めた状況を

水産局長のSemisi Fakahauにその旨を伝えてくれていたため

水産局全員が参加してのFarewell Party(歓送会)では

「私のいま一番の仕事は、Masaを日本から呼び戻すこと」と宣言してくれ

 

さて、いったいどうなっちゃうのかな  と不安に思いつつ

当時は、任期満了のご褒美のように与えられていた帰路変更をせずに

帰国限度日までトンガで過ごし離任日を迎え

チャンカーと増本さんに見送られての旅立ちとなりました。

(↓は、トンガを離れる日にチャンカーの暮らしていたGovernment house前にて)

 

TongatapuのFaamotu Airportにて再派遣への道を作ってくれた

漁労の専門家増本有三さんと

この時、日本への帰国ルートとして

TongatapuからAmerican SamoaのPagopagoに飛び

そこからHawaiian AirでHonolulu経由で成田から入国するのが

最も移動時間も少なく安価だと勧められ

 

Tongatapuから双発の小型機でAmerican Samoaに飛び

大型ジェット機に乗り換えてPagopagoを飛び立って数時間

2年ぶりに見る眩いばかりの光の洪水の夜景に見惚れながら

Honolulu空港に到着したのですが・・・

チケットを手配してくれた航空代理店で

Hawaiiは乗り換えのTransitだけだからVisaは不要と聞いてたのに

 

Honolulu空港で成田行きの飛行機に乗り換えようと思っていたところ

入管で入国を拒否されて別室に連れていかれ

結局不法入国扱いとなって、飛行機会社負担で成田便に搭乗するまで警備員が貼りつくことに

 

トイレの中まで離れずについてこられたのには困りましたねぇ

たしかJALの747だったと思うけど

ボーディングゲートで日本人観光客が山ほど待ってるその前を

警備員に連れられてCA以外誰も乗り込んでいない機内に移され

『犯罪者の移送?』と訝しそうな視線を浴びながら

成田に到着

 

Honoluluでも突然文明社会に放り込まれたような衝撃だったのに

2年前に出国した成田空港のターミナルビルがあまりにモダンで嬉しくて動けなくなり

数時間、施設内を彷徨ってから東京駅行のリムジンバスに乗り込んだのですが

窓にかじりつくようにして外を眺め続け

 

東京駅に到着してからも、協力隊に参加するまで働いていた船会社が八重洲にあったので

かってはランチで良く使ってた飲食店が懐かしくてまたまた八重洲界隈を徘徊

(この日、東京は大雪で歩道を歩くのも苦労するほどの積雪)

 

ようやく気持ちを落ち着けてタクシーに乗り込み

広尾にあった協力隊事務局に到着したのですが

成田空港に昼頃到着したのに 広尾では既に夜8時頃

それも週末で職員は誰もおらず警備員のみ

 

どこか泊まるところはありませんか?と尋ねると

「帰国隊員は、いろんな病気持って帰ってくるから泊めてくれるホテルなかなか無いんですよ」

と言われたものの

雪の積もった中で放っておくこともできないと思ってくれたのか

直ぐ近くにあった”麻布高知寮(高知県の東京出張者のための宿泊施設)”に連絡を取って許可をもらい

和室の部屋で荷物を広げたのがこの写真↓

その後、とりあえず晩御飯と言うよりも居酒屋に行きたくて

訓練中によく訪れてた広尾商店街の赤提灯に飛び込んだのですが

 

演歌が流れ、お品書きで埋まった壁を眺めながら

全部食べたい衝動に駆られ

「それじゃあ、とりあえず熱燗の大徳利2本とそのお品書きの端から順番にお願いします」

と注文しちゃいましたねぇ(笑)

 

その後、帰国後の健康診断や事務局での報告や再就職の進路相談などの手続きで

数日広尾で過ごしたのですが

 

前述のとおり、私はシニア試験を受ける事となっていたため

進路相談課でその旨を伝えると

 

実は、チャンカーはその隊では有名な女子隊員だったらしく

赴任したそうそう悪い虫がついたと噂されてたようで

「そんな現地語の試験、誰が問題を作ってヒヤリングや採点できるんだ」と

苦々し気に冷たく突き放すように嫌味を込めて言われたのですが

 

 

それでも別部署でトンガ語でシニア試験を受験できると告げられ

トンガを離れる前に急遽手に入れた”トンガ語の教本”

INTENSIVE COURSE IN TONGANで猛勉強

実は、アメリカ平和部隊の語学用に作られたもので

なんとレッスン130を含めて723ページの本なのですが

全て丸暗記してしまうほど何十回も復習したんです。

 

それも実家では子供の頃から宿題を一度もしたことがなかったので

集中できないなと 

上京して都内のビジネスホテルに泊まりこみで猛勉強

私の人生で、あれだけ必死になって勉強したのって

あれが最初で最後だったかも

 

Tonga語は、Polynesia語のひとつで

日本語と同じように母音との組み合わせのため

発音や読みは苦労しませんでしたが

 

なんせ1777年にCapt. Cookによって発見されるまで

文明から取り残された未開の地で

文字もなく口承伝承だけ

 

なのでボキャブラリーも少なくて一見楽そうなんですが

文法は複雑怪奇そのもので

前置詞と後置詞があって

所有代名詞、複数所有代名詞、二重不定詞、

その上人称(一人、二人、三人)で変化と超複雑

更に庶民の一般会話では必要ありませんでしたが

平民語、貴族語、王族語があるんですよ。

 

そしてようやくシニア試験を受験することとなったのですが

実は、たった一人では実施できないとの条件があったため

 

そこで事務局の担当者が既に1年以上前に帰国して

横浜で暮らしていた桜井研次さんに依頼して

一緒に受験してもらうことで実現となったと聞き

 

桜井さんにお礼方々

その後再派遣となるまでの3ケ月

お休みの前日は桜井さんのアパートに泊めてもらい

ほぼ毎週のように歓談しながら居酒屋で盃を交わしていただきました。

 

桜井さんは、新潟の南魚沼の出身で

専門学校で冷凍機技術を習得して

協力隊に参加するまでも横浜の企業で働いていて

 

帰国してからもまた古巣の横浜(浅間台)のアパートに住み

仕事を終えてから

渋谷の鍼灸の夜学の専門学校に通い

数年かけて鍼灸師の資格を取ったのですが

 

結局独立するのが難しいと

資格を取ったものの、その後もずっと空調と冷凍機関係の仕事に従事してました。

 

 

さて、駐在員だった豊島一郎さんのことも少しお話させていただきますね。

 

実は、豊島さんは元広尾訓練所の所長で、大酒飲みで

訓練生達と本音で語り合いたいと訓練所内で酒を飲ませたところ

泥酔した訓練生が宿舎を壊すなどの大事件を起こし

 

それが原因で、訓練所長を辞めさせられ

辞職を覚悟して家に帰ったところ

奧さんから「あなたが信念を持ってしたことでしょう?だったらそれでいいじゃない」と言われ

 

その後、左遷でケニア駐在員となって

普通ではありえない、ケニアからサモアにそのまま転勤となった不遇の人生を送ることになったのですが

”男豊島”と隊員から慕われた人物で

 

1983年に中曽根首相がアセアン諸国を歴訪した時に

『将来の国造りを担う青年をわが国に約1ヶ月間招聘し、友好・協力関係を培う』

”21世紀のための友情計画”を提唱し

豊島さんの実力が認められその初代のアセアン青年招聘室長に任命され

ほぼ私と同時期に栄転帰国していたんです。

 

その前に、トンガ水産局長のSemisi Fakahauに

邪魔をする日本大使館を飛び越えるウルトラCを伝授してくれたようで

 

通常の外交ルートである在FIJI日本大使館を通さなくてもよい

トンガ王国の外務大臣から日本の外務大臣への”大臣親書”を送ってもらい

 

当時の外務大臣”安倍晋太郎氏”から

なんと外務省の特殊法人だった国際協力事業団(JICA)傘下の

青年海外協力隊事務局へ通達がなされていたのでした。

当時の派遣担当部署のトンガ担当者から

「外務大臣から直々に派遣の指示書が送られてきてビックリしたよ」

と聞いて、こちらもそれ以上にビックリ

 

 

実は、豊島さんの奥さんが陰の支援者で

トンガ出張の時や半年毎の健康診断でサモアを訪れた時に

私の事をとても気に入ってくれてたため

豊島さんからトンガ水産局が再派遣を切望してるとの話を聞いて

『絶対に実現してあげて』と頼んでいてくれたのを

後日知ったのですが

 

飛び上がるほど嬉しかったですね~

 

(↓1984年9月定期健康診断のためトンガ派遣中の隊員とサモアに出張した時の一枚)

(私の右隣の車に座っているのが豊島夫人)

とはいえ、シニア試験に無事合格できたのか不安でいっぱいだったところ

 

ある日サモアの協力隊OBとOGの結婚式があり

披露宴に招待していただいていたため会場に向かったところ

 

豊島さんご夫妻もいらしゃって

奧さんの方から歩み寄ってきて

「長坂君、シニア合格おめでとう」と言っていただいたのですが

 

正直、合格に至ることができたのか不安だったので

「いえ、それが合格点に達することができたのか自信がないんですよ」と答えると

 

「あら、心配いらないわよ。あのね、試験前から決まってるのよ

「だって、長坂君のためにトンガ語の試験をわざわざ作ったんだから

と笑いながら話してくれて、目玉が飛び出しそうになりました 

 

数日後、合格通知が届き、即座に派遣日も決まり

帰国から約二月後の1984年5月

 

2年半前と同じ

FIJI経由でTongaに向かいました。

 

青年海外協力隊のシニア隊員とは

現地手当も国内積立金も現地での待遇もその他の条件も(妻帯者は帯同も可能)一般隊員とは段違い

 

この時は、FIJIの首都Suvaでいつか泊まってみたかった

GPH(Grand pacific Hotel)に泊まり

大使館での表敬訪問を終えて

ワクワクしながらトンガ行のフライトを待ちました

 

辛いことも山ほど体験しましたが

それ以上にいろんな人に助けられて

信じられないような幸せな人生を送ることができて

いまでも思い出すたびに

あの時期はこの世の春を謳歌させていただいたなぁと感謝している次第です。

 

【その⑧に続く】

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする