昨夜、あるお寺の坐禅会で、師匠(本師)と隣合わせで一炷坐りました。しょっちゅう顔は合わせて言葉も交わしているのですが、並んで坐禅をするのは数年ぶりのことで、なにか久しぶりによい意味の緊張を覚え、身も心も引き締まる思いがしました。
誰しも人生において恩人といえる人が少なくとも数人、人によっては数十人も挙げられるかと思いますが、私にとってこの師匠はその筆頭で、在家の私を拾って僧侶の世界の中に居場所を与えて下さり、なおかつ様々な智慧や力を授けて下さった、親にも並ぶほどの大恩人であります。
若い頃から峻烈かつ綿密な指導で有名だったようで、今に至るも、後輩の方々や当時の大衆(だいしゅ)の方々からは畏怖の念を持って接せられている感がありますが、身内贔屓になって恐縮ながら、その分昔から世話好きで面倒見もよい。小生などに至っては受けた恩恵の量りようもありません。
昨夜は、その恩をしみじみと顧みながら、彼岸の棚経で檀家さんを40軒ほど廻った疲れがじわじわと解きほぐされていくような、心地よい一炷を坐らせて頂きました。
(写真は師寮寺の聖僧像)
誰しも人生において恩人といえる人が少なくとも数人、人によっては数十人も挙げられるかと思いますが、私にとってこの師匠はその筆頭で、在家の私を拾って僧侶の世界の中に居場所を与えて下さり、なおかつ様々な智慧や力を授けて下さった、親にも並ぶほどの大恩人であります。
若い頃から峻烈かつ綿密な指導で有名だったようで、今に至るも、後輩の方々や当時の大衆(だいしゅ)の方々からは畏怖の念を持って接せられている感がありますが、身内贔屓になって恐縮ながら、その分昔から世話好きで面倒見もよい。小生などに至っては受けた恩恵の量りようもありません。
昨夜は、その恩をしみじみと顧みながら、彼岸の棚経で檀家さんを40軒ほど廻った疲れがじわじわと解きほぐされていくような、心地よい一炷を坐らせて頂きました。
(写真は師寮寺の聖僧像)