蓬 窓 閑 話

「休みのない海」を改題。初心に帰れで、
10年ほど前、gooブログを始めたときのタイトル。
蓬屋をもじったもの。

内モンゴルの悲劇

2017年08月27日 | 満洲
国境というものが見たいと、中国東北部の満州里まで飛び出して行ったことは、何か月か前に書いた。
 大興安嶺の列車の窓から手を伸ばせば届くような星空に感激し、満洲里でロシアとの国境も目の当たりにした。
 ハイラルのホテルできれいなお嬢さんたちとの小さな交流があり、関東軍が戦時中に造ったという地下要塞も覗いてきた。

 国境が見たいだけで参加した、この旅の名目は「興安蒙古を訪ねる旅」で、終戦時に興安(蒙古)地帯で戦死した人たちへの慰霊の旅であった。
 
 内モンゴルは、ほとんどがチベット仏教(ラマ教)である。

ホロンバイル盟庁だか商工会議所だかの建物にもチベット文化を感じる。

 バス二台で、一行はシニヘーという場所へ行くらしい。が、道路はこんな悪路。

 私たちの乗っていたバスはパンクし、動けなくなった。先導車が近くの村までタイヤを取りに行った。一番近い村でも、往復1時間だという。早めの弁当を食べ、私も草原を楽しむ。

 やがてタイヤは直り、道なき道、橋のない川を渡って、旅は続く。

 
 着いた場所は、シニヘーという所。ハイラルから南、距離はノモンハンまでの4分の1くらい。
 そこでは、終戦時に叛乱が起こり、30名ほどの日本人が殺された。首謀者は、第十軍官区の参謀長ジョンジュルジャップとされている。
 あの川島芳子が結婚したカンジュルジャップの弟である。
写真は[別冊1憶人の昭和史ー日本植民地史続満洲]より 

そもそも満洲国ができる前から、モンゴルは清からの独立を願っていた。この兄弟の父親パブジャップ将軍は、独立運動を起こし、戦闘死している。

 満洲建国前後は、蒙古独立のためと2人は利用され、戦闘に参加している。
 のち興安軍が作られ、興安軍官学校も作られていくが、
 ーー蒙古独立主義を排すーー
 と、満洲国の方針は変わっていく。
 終戦時は、各地で反乱が起きた。
 シニヘーでも当然両方に死亡者が出た。死体はそこここに埋められ、そこに塚が建てられていた。花束や酒、日本から持ってきた水をかけて冥福を祈る人びと。

 近くのシニヘー廟でも日本人死者も祀ってくれているというので、御礼に「般若心経」の経本が日本人から贈られた。

 ラマ教の坊さんとツーショット。ポラロイドをあげれば、もう1枚くれと。
 
 
 戦中、国共合作で日本と戦った蒋介石と毛沢東は、戦後は互いに戦うことになった。国共内戦である。
 共産党が中国を制覇したのは1949年であったが、内モンゴルはそれより2年早い1947年5月1日に共産党と組んだ。
 この建物は、その記念になるもので、五・一会跡として残されている。


 しかし『墓標なき草原』ー内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録ーや『チベットに舞う日本刀』の著者楊海英(静岡大学教授)は、満洲国時代のモンゴル族のほうが幸せだった、今は内モンゴル自治区として漢族に支配されているという。
 共産党主義の国って、どうして自由がないのだろう。 

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