前回ご紹介した上田三四二の
・ちるはなの数かぎりなしことごとく光をひきて谷におちゆく
目に浮かぶこの光景、リアルで見たいと思いつづけていた。
ある時期、名古屋でひとり暮らしをしている母のところに、5日から1週間ほど、よく訪ねていた。
遠距離介護というはどではなく、ほとんどお話相手だった。二人で一日中しゃべった。
東京へ帰る日、名古屋駅から新幹線には乗らず、近鉄で大阪へ向かった。
そこから、なにやら乗り換えて、吉野の山に向かったのだった。
知らない土地での乗り換えや歩きで、到着したころは、すっかり疲れていた。
期待の吉野山は盛りを過ぎていて、まばらに咲く桜の山々があるだけだった。
光をひきて谷におちゆくーー光景は見られなかった。
あれから、十数年経ったいま、
平忠度の
・行き暮れて木下(このした)陰を宿とせば花や今宵の主ならまし
の行き暮れてが身にしみるのである。
いつまでもあると思うな親と健康で、こんなどっちつかずの病いにとりつかれる、とは。
疼痛のために仕事も辞めた。集中力、持久力が少しずつ削がiれていく。
QOLは、落ちるばかり。いつまで生きるのだろうと、
行き暮れて、 いるのである。
長い一生のうちには、さまざまな事があり、それこそ喜びも悲しみも乗りこえて、
いま、ここにいる。
行き暮れて……
・写真がiPadに出ませんでしたので、やり直しました。