8/6発売の「歴史街道」9月号に、問題の天正10年5月21日付「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」の桐野作人さんによる訳文が掲載されています。
先に同書状の日付に疑問を指摘しましたが、それは林原美術館のプレスリリースを受けてのものでした。しかし、桐野さんのそれとは重要な点で相違があるようです。
ひとつは、プレスリリースでは既に阿波の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から退去したとされていた点で、桐野さんは長宗我部氏側からの条件提示であるとされています。
しかし原文には「明退可申候(明け退き申すべく候)」ではなく「明退申候(明け退き申し候)」とあることや、先にも指摘した様に『元親記』に三好康長の攻撃により奪われたと記されていることからも、はやはり退去したとみるべきではないでしょうか。
そして一番肝心な点は、原文の「東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候」を、プレスリリースでは「(武田攻めより)信長が帰陣したら指示に従いたい」としているのに対し、桐野さんは、信長が帰陣のうえでは指示に従っていることを述べているとされています。
こちらは「可同心候(同心すべく候)」ではなく「同心候」であることから、既に指示に従い行動していることを述べているとみるべきかと思われます。
とすれば、同書状が天正10年4月21日に信長が安土に帰城してから認められたものとみるに不都合はないと言えます。
その上で桐野さんも、『元親記』にある「土佐と阿波半国の領有しか認めない」という信長の命令の真偽にも疑問を呈されています。
すなわち、天正10年1月11日付「空然(石谷光政)宛 斎藤利三書状」にいうところの信長の朱印状の内容(現物未確認)は、『元親記』のそれではなく同年5月7日付けの信孝への朱印状にある「讃岐・阿波」からの撤退を命じるものではなかったのかということです。
今回の「石谷家文書」の発見は、『元親記』等の二次史料のみならず、従来の一次史料に対する見解にも再検討を促す切欠になるものと言えます。
先に同書状の日付に疑問を指摘しましたが、それは林原美術館のプレスリリースを受けてのものでした。しかし、桐野さんのそれとは重要な点で相違があるようです。
ひとつは、プレスリリースでは既に阿波の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から退去したとされていた点で、桐野さんは長宗我部氏側からの条件提示であるとされています。
しかし原文には「明退可申候(明け退き申すべく候)」ではなく「明退申候(明け退き申し候)」とあることや、先にも指摘した様に『元親記』に三好康長の攻撃により奪われたと記されていることからも、はやはり退去したとみるべきではないでしょうか。
そして一番肝心な点は、原文の「東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候」を、プレスリリースでは「(武田攻めより)信長が帰陣したら指示に従いたい」としているのに対し、桐野さんは、信長が帰陣のうえでは指示に従っていることを述べているとされています。
こちらは「可同心候(同心すべく候)」ではなく「同心候」であることから、既に指示に従い行動していることを述べているとみるべきかと思われます。
とすれば、同書状が天正10年4月21日に信長が安土に帰城してから認められたものとみるに不都合はないと言えます。
その上で桐野さんも、『元親記』にある「土佐と阿波半国の領有しか認めない」という信長の命令の真偽にも疑問を呈されています。
すなわち、天正10年1月11日付「空然(石谷光政)宛 斎藤利三書状」にいうところの信長の朱印状の内容(現物未確認)は、『元親記』のそれではなく同年5月7日付けの信孝への朱印状にある「讃岐・阿波」からの撤退を命じるものではなかったのかということです。
今回の「石谷家文書」の発見は、『元親記』等の二次史料のみならず、従来の一次史料に対する見解にも再検討を促す切欠になるものと言えます。
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