『信長考記』

織田信長について考える。

「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察①

2014-09-01 12:36:24 | 信長
なかなか解釈の難しい天正10年5月21日付「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」ですが、来月発売の「歴史読本」11月号に桐野作人さんの論考が掲載されるとのことで、「歴史街道」9月号からより進んだ考察がなされているのか興味と期待のあるところですが、その前に気付いた点もあるので考察を進めたいと思います。

まず同書状が難解なのは、冒頭にある追記の
  尚々、頼辰へ不残申達候上者、不及内状候へ共
  (なお、頼辰へ残らず申し述べた上は、内々の書状には及ばないのですが)
が全てを物語っていると思われます。

すなわち同書状は、元親が「頼辰に残らず話した」ことを前提に認められた私信であり、「(わざわざ)内状を認めるにまでには及ばないものの」とあることからも、後々気になる点もあり思いつくままに書き記したものであろうことが窺え、一部の語句や脈略におかしな点があっても当事者同士にはそれで通じていたと考えられます。
その為、それを解読するには「頼辰に残らず話した」というその内容が不可欠なのですが、残念ながら直接それ窺わせる史料は伝わっていません。

ただ、通説ではこのときの石谷頼辰は、天正3年に信親への偏諱とともに認められたとされる「四国の儀は元親手柄次第に切取り候へ」との約定を反故にし、伊予・讃岐を返上のうえ阿波もその南郡半国の領有しか認めないとの信長の朱印状を拒絶した元親の説得にあたるために派遣されたとされています。※『元親記』ほか

しかし同書状の第2条には、
  南方不残明退申候、応 御朱印、如此次第を以、
  (南方からは残らず退去しました。御朱印状に応じたこのような次第をもって、)
とあり、その南郡からの退去こそが信長の朱印状の要件であったことが窺わせられます。 

先にも述べたように、『元親記』ほか後代の史料でそれら南郡の諸城は、信孝の四国討伐軍に先駆け勝瑞城に先着した三好康長によって攻撃され奪われたと記されています。
康長にそれ程の戦力があったとは考えらませんが、武田氏滅亡の報に一転して四国で長宗我部氏への反旗が翻り窮地に陥った可能性もあります。

もし元親がそれを偽り自発的な「退去」として記していたとすれば白々しさは否めず、追記に
  不可過御計申候
  (お考え過ぎありませんように)
とあるのは、暗に窮状を訴え利三に対処を求めたものとの解釈も出来そうです。

とはいえ、そうした陰謀論議は別として、同書状における阿波南郡からの退去が信長の朱印状の要件であったという文面は信じてよいのではないでしょうか。
その朱印状について、同年1月11日付「空然(石谷光政)宛 斎藤利三書状」には元親の懇請に基づき発給されたものであり、それに従うことが元親の為にもなることであると記されています。


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