去る7月19日から岡山市の林原美術館で、話題の「石谷家(いしがいけ)文書」が公開されています。
なかでもとり分け注目されているのが天正10年5月21日付の長宗我部元親から斎藤利三への書状であり、それまで信長の四国政策の転換に反発していた元親が、一転して恭順の意を示し戦闘を避けようとしていたことが窺える史料であるとされます。
ただしそうした見方に対し、それを一種の条件闘争の表れとする意見もあります(高知大学の津野倫明教授、歴史研究家の桐野作人さん、など)。
しかしそれらを含め、同書状には不審な点があります。
それは5月21日という日付です。
未だ全文の内容を知り得ていない状況下ではありますが、伝えられるところの「武田氏征伐から信長が帰ったら指示に従いたい」という内容は、その丁度1ケ月前、既に信長が安土に帰城していることからも時差があり過ぎ、また更に遡って3月初頭には武田氏も滅んでおり、条件提示としても全く政治的情勢に疎いものであると言わざるを得ません。
信長が武田氏征伐を発令したのは2月9日、実際に出陣したのは3月5日であり、当然そうした状況は長宗我部氏側にも齋藤氏から伝えられていはずではないでしょうか。
同書状が偽文書でないとすれば、考えられる日付はもっと早い時期のものであるはずです。
なかでもとり分け注目されているのが天正10年5月21日付の長宗我部元親から斎藤利三への書状であり、それまで信長の四国政策の転換に反発していた元親が、一転して恭順の意を示し戦闘を避けようとしていたことが窺える史料であるとされます。
ただしそうした見方に対し、それを一種の条件闘争の表れとする意見もあります(高知大学の津野倫明教授、歴史研究家の桐野作人さん、など)。
しかしそれらを含め、同書状には不審な点があります。
それは5月21日という日付です。
未だ全文の内容を知り得ていない状況下ではありますが、伝えられるところの「武田氏征伐から信長が帰ったら指示に従いたい」という内容は、その丁度1ケ月前、既に信長が安土に帰城していることからも時差があり過ぎ、また更に遡って3月初頭には武田氏も滅んでおり、条件提示としても全く政治的情勢に疎いものであると言わざるを得ません。
信長が武田氏征伐を発令したのは2月9日、実際に出陣したのは3月5日であり、当然そうした状況は長宗我部氏側にも齋藤氏から伝えられていはずではないでしょうか。
同書状が偽文書でないとすれば、考えられる日付はもっと早い時期のものであるはずです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます