『信長考記』

織田信長について考える。

「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察⑤

2014-10-07 06:31:56 | 信長
(承前)
しかし、従来、織田方と長宗我部氏の関係悪化を示す根拠とされた史料にはその年次比定に異論もあり、それ自体を前提とした年次比定であるとの感が否めません。

今回発見された天正10年(1582)5月21日付の「斎藤利三宛書状」からは、元親が信長からの要求に条件を付け、それが原因となってか両者の間が疎遠になっていた状況は窺えるものの、従来、言われているような特段の緊張関係にあったとも思われません。
それらは、のちの秀吉の四国攻めに関わる史料※とみなすべきでしょう。

そうした従来の観念(両者の関係が悪化していたとする)は、偏に『元親記』や『南海通記』といった後代の編纂物により形成されたものでしたが、前者は「ある人」とするものの後者は康長の名を挙げ、四国での長宗我部氏の勢力拡大が天下の仇になることを信長に訴えたと記されています。
天正9年6月の三好式部少輔の件で長宗我部氏の阿波南郡半国の支配を認めざるを得なかったことは、三好氏の長老たる康長にとって忸怩たる思いであったであろうことは想像に難くありません。

天正10年(1582)の四国攻めに際して信長の三男・信孝がその康長の養子とされていたのは、康長の「巻き返し」工作によるものではないでしょうか。

※例えば、『阿波國徴古雑抄』収録「生駒親正宛秀吉書状」に対する三鬼清一郎氏の年次比定(『豊臣秀吉文書目録』)

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