9月末に販売に踏み切ったThe Brain Ⅰの売れ行きは好調だ。10月は正に「心血を注ぐ」気持ちでありったけの力を出し切って努力したが、高血圧の私が俄かに低血圧に悩んだりもした! だが、販売が順調に進んで、今は血圧も安定状態にある。
中途障害者の私は人生、半世紀余を健常者として歩んできた。身も心も健常だったと振り返る事が出来る私は幸せ者だ、と感じている。
だが、5年前、突如、障害の身となった私は不幸を大いに嘆いたが、その期間は自分でも驚くほど短かった。「何が自分に出来るか?」より「何が自分の周りにあるか?」が素早く私の脳裏をかすめた幸いがあった。
幼い時から、「他人に出来て私に出来ない」があって「私に出来て他人に出来ない」がある事を自然に理解していた。他人といっても、私は手っ取り早くは自らの姉を想っての悟りである。
一緒に習い出したバレエのレッスンで、姉は開脚をいとも簡単にやってのけるのに、私には心血を注ぐ想いの練習も中々効果が出なくて残念な思いをしたものである。小学校での作文コンテストでは、私は毎年のように金賞を貰う事が出来たのに、姉は一度も貰えなかった。自称英語職人の父を持つ姉妹なのに、妹の私は英語という言葉を容易く操る事が出来るが、姉はさっぱり分かりません!と兜を脱いでいる。社会人になってからは、姉は地道に木漆工芸家として極める事が出来るようになったのに、私は木地を前に刷毛も彫刻刀を持つ事さえ出来ないが、姉は熟練した手で次から次へと工程を進む事が出来る。だが、そう、確かに姉の手からは力作を生む事が出来るが、私には・・・ そして、私には海外の国立美術館等で裏方に回って根回しを上手にする事が出来るが、姉には・・・
私が右手の機能を破損した時、修復不可能に気付く前に、言葉の機能が甦った喜びを感じたのである。人間にとって「手」はかけがえのないものである。確かに機能を失ったらショックだが、言葉も人間特有の機能で失うのはとても心苦しい。しかし、どうしても二者一択を強いられたら、姉は「手」を私は「言葉」を選ぶだろうと思う。私達姉妹は還暦を優に迎えて、今、互いの選択物をありがたく思っているという訳だ。
せめて、私と同じ様に突然、中途障害者になってしまった人達に、是非、私のブログを読んで夫々の中にピカッと光る何かを見つけて欲しいと思っている。
The Brain Ⅰをある中途障害の女性の家に届けに行った。彼女の家の前は私道らしく、段差があって私の自家用車は乗り上げが少し困難だ。転倒したら、すぐに救急車だと分かっているので、彼女を携帯電話で呼び出した。「今行きます」という声から結構長い時間が経って、やっと懐かしい女性の姿が見えた。車椅子で移動の私には杖だけを頼りに歩行に励む障害者の大変さは分からない。一生懸命、私に近づいてくる彼女が微笑ましかった。私が普段、親しくしている中途障害者の別の女性は片足を切断して義足をはめているが、3歳の頃の事故だという事で、とても慣れた移動をいつも見せてくれる。義足の女性はセッカチで、杖の女性はのんびり屋さんという両極端という性格からか、携帯電話で呼び出された女性は中々姿を現さなかった。常に車椅子で移動する私は改めて本来なら足が不自由な身とあらば、大変なんだ、と改めて驚いたのである。
杖の女性は言った。
「電話で貴女と話をしただけで、活気付いたのよ」
「だったら、私のブログを読んで、もっと張り切ってね」
私のブログ、脳のミステリーはきっと多くの障害者の心を揺さぶるだろうと確信している。
中途障害者の私は人生、半世紀余を健常者として歩んできた。身も心も健常だったと振り返る事が出来る私は幸せ者だ、と感じている。
だが、5年前、突如、障害の身となった私は不幸を大いに嘆いたが、その期間は自分でも驚くほど短かった。「何が自分に出来るか?」より「何が自分の周りにあるか?」が素早く私の脳裏をかすめた幸いがあった。
幼い時から、「他人に出来て私に出来ない」があって「私に出来て他人に出来ない」がある事を自然に理解していた。他人といっても、私は手っ取り早くは自らの姉を想っての悟りである。
一緒に習い出したバレエのレッスンで、姉は開脚をいとも簡単にやってのけるのに、私には心血を注ぐ想いの練習も中々効果が出なくて残念な思いをしたものである。小学校での作文コンテストでは、私は毎年のように金賞を貰う事が出来たのに、姉は一度も貰えなかった。自称英語職人の父を持つ姉妹なのに、妹の私は英語という言葉を容易く操る事が出来るが、姉はさっぱり分かりません!と兜を脱いでいる。社会人になってからは、姉は地道に木漆工芸家として極める事が出来るようになったのに、私は木地を前に刷毛も彫刻刀を持つ事さえ出来ないが、姉は熟練した手で次から次へと工程を進む事が出来る。だが、そう、確かに姉の手からは力作を生む事が出来るが、私には・・・ そして、私には海外の国立美術館等で裏方に回って根回しを上手にする事が出来るが、姉には・・・
私が右手の機能を破損した時、修復不可能に気付く前に、言葉の機能が甦った喜びを感じたのである。人間にとって「手」はかけがえのないものである。確かに機能を失ったらショックだが、言葉も人間特有の機能で失うのはとても心苦しい。しかし、どうしても二者一択を強いられたら、姉は「手」を私は「言葉」を選ぶだろうと思う。私達姉妹は還暦を優に迎えて、今、互いの選択物をありがたく思っているという訳だ。
せめて、私と同じ様に突然、中途障害者になってしまった人達に、是非、私のブログを読んで夫々の中にピカッと光る何かを見つけて欲しいと思っている。
The Brain Ⅰをある中途障害の女性の家に届けに行った。彼女の家の前は私道らしく、段差があって私の自家用車は乗り上げが少し困難だ。転倒したら、すぐに救急車だと分かっているので、彼女を携帯電話で呼び出した。「今行きます」という声から結構長い時間が経って、やっと懐かしい女性の姿が見えた。車椅子で移動の私には杖だけを頼りに歩行に励む障害者の大変さは分からない。一生懸命、私に近づいてくる彼女が微笑ましかった。私が普段、親しくしている中途障害者の別の女性は片足を切断して義足をはめているが、3歳の頃の事故だという事で、とても慣れた移動をいつも見せてくれる。義足の女性はセッカチで、杖の女性はのんびり屋さんという両極端という性格からか、携帯電話で呼び出された女性は中々姿を現さなかった。常に車椅子で移動する私は改めて本来なら足が不自由な身とあらば、大変なんだ、と改めて驚いたのである。
杖の女性は言った。
「電話で貴女と話をしただけで、活気付いたのよ」
「だったら、私のブログを読んで、もっと張り切ってね」
私のブログ、脳のミステリーはきっと多くの障害者の心を揺さぶるだろうと確信している。