脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

172.超大型冷凍冷蔵庫

2007-05-31 06:23:54 | Weblog
 またまたモンゴル出身の力士が横綱? 相撲って日本の国技じゃなかったっけ!
 ところで、つい先日、人気力士の引退表明で私は私らしい思いに可笑しくなった。
 隠れ脳梗塞という言葉はサイレントキラーを思い出せると同時に妙な事を台所に立つ私に考えさせた。30歳位で隠れ脳梗塞という診断が出るという事は20代の頃からその兆候はあったに違いない。
 台所とは如何に!と思うかも知れないが、私には幼い頃から一番親しみがあって、一番活躍する場所なのである。亡き母は屋内に居る時は殆ど台所で用事をしていた。母は暇さえあれば、主食にはならない食に腕を奮っていた! 豪州のグエンママはキッチンでコーヒーを飲みながら日本娘に異文化を教えるのに余念がなかった。実は私も殆どの時間をゴチャゴチャのひとつの部屋で過ごす事が多い。そこは台所兼仕事場、即ち、食場であって職場でもあるわけだ。金銭の出し入れも最近はここでする。なるほど、勝手である。名称は色々変っても、とにかく憩いの場であるに違いはない。
 狭い高輪の台所にはデーンと大型冷凍冷蔵庫が主のように場所を塞いでいる。我が家の台所に入ってくる人みんなに顰蹙をかっている古道具!である。誕生は30年前であるが、観音扉の巨大なフリッジは未だ々々健在なのである。とてもとてもマダマダお払い箱には程遠い。実は客人だけでなく、我が家の台所、即ち、私という金銭出し入れ係りも時折、その存在に考え込んでしまうのである。それは、単に高額電気料金に悩むからである。
 だが、このバカデカイ冷凍冷蔵庫は故障した事がない優れものなのである。その容量の凄いさ、冷凍冷蔵の威力、確かにアメリカ生まれのこの巨大冷凍冷蔵庫に感謝はするものの、その健康には今まで無関心だった。逗子から運んできた時、ヤマトの人間は無理だ、と言って尻込みした。だからと言って、Uターンさせるわけにもいかない。さすが、昔のエアラインガールは荷物の大きさを目で測るのはお手のもである。私の「大丈夫!入る入る!」の声に運び入れ始めた仕事人は設置すると「凄い女性だ!」と言ったか言わなかったか! 生活の場が逗子のリゾートから高輪に移した頃の話で、私が倒れる数年前だった。倒れた後に巨大冷凍冷蔵庫運搬の司令官は恐らく出来なかった筈だ。今頃、もし、逗子マリーナに置いてきぼりにしていたら、きっと威力も減退しているに違いない。
 とにかく、恩年30歳の巨冷凍冷蔵庫は今日も元気に働き続けている。だが、ちょっと気になる事がある。ここ数年、梅雨時になると、ちょっと哀しげな鳴き声が聞こえるのである。冷凍室と冷蔵室を掃除だけではなく、空気をちょっと変えてあげるように棚の入れ替えをしてあげるだけで泣き声は止む。そうか、あの時代に生まれたのにノンフロストだし、機能を過信しすぎているかも知れない。実は、不謹慎な私は隠れ脳梗塞の話題で、我が家の巨大冷凍冷蔵庫の空気の入れ替えを怠っちゃダメ!と思いを新たにしたのである。

171.声美人

2007-05-29 05:59:46 | Weblog
 美人と言えば容姿端麗な女性を指す。だが、実は美人は容姿の美しい男子の事も指す。尤も男装の麗人と言えば、川島芳子だが、現代っ子には馴染みがないだろう。戦後、一世を風靡した水の江ターキーでさえ、誰それ!と言われるのが関の山かも知れない。やはり一般的には、美人は美しい女性を言うのだろう。
 美には色々な漢字がつく。自然美、人工美、芸術美、美女、美意識、美男、美声、美人、きりがない。私はひと頃、性格美人という言葉を好んで使っていた事がある。これも容姿端麗と同じ様に他人からは嬉しい褒め言葉である。性格を褒められるほど、人間としては喜ばしい事はないと思っている。
 社会人になってすぐ、私を心躍らせた言葉に「声美人」というがある。日本人にも外国人にも「貴女の声は実に爽やかで、聞き易い」の評判に当初、若かった私はあまり気にもせず「ありがとう」と言っていた。昼間、大使館で働いて、夜間、ビジネスマン英会話の講師をし始めて間もない頃、私はある綺麗な女性に妙な事を言われた。
「美しく明確な英語を綺麗に話すけど、日本語も綺麗なんですね。どこで習ったんですか?」
私は答に戸惑った。何処で? 日本に決まってるじゃない! しかも生まれた時から使っている! 何処でって、東京で、湘南で! 東京の言葉は決して綺麗ではない。まして湘南言葉は押して知るべし! 昼間の仕事場でその話をすると大使館のある外交官は言った。
「多分、声のトーンが綺麗だからでしょう!」
なるほど、声のトーンね。依頼、私は声のトーンの磨きにかかるようになった。トーン、音調とか色調の事だが、私は「物事全体から感じられる気分や調子」という事を大切にしたいと思った。何をするにも自分の声のトーンで交渉相手のトーンも変わるものだと思うようになった。千差万別な交渉を様々な時に色々なところで繰り広げてきた私には有難い事に、滅多に交渉決裂とか交渉中止とかの結果はなかった、と記憶している。「あなたにかかっては・・・」と言われ、殆どがすぐにオーケーのサインが出て、更にゴーの合図が出て来たものである。とにかく、私は団体交渉は苦手で単独交渉は得意だった。今、現在もそれは頷ける。いい結果が出る度に、あの時のあの外交官のひとこと「トーンがいい!」が蘇るのである。
 著名な作家が言っていた。
「最近の歌手はボーカルの歌声がミュージカル・インストルメントのひとつになっているが、昔は歌手は夫々が特徴ある歌声で個性ある歌を披露したものである」
なるほど、声そのものに美が感じられたと言うのだろうか。
 私はこれから歩んでいく人生で美声トーンと性格美人を究めたいと想っている。出来る出来ないは別にして、このふたつを追いかけ続けて生きていきたい。

170.中途障害高齢者予備軍

2007-05-26 06:44:13 | Weblog
 今年度の高齢社会白書が明らかになった。白書は「意欲ある高齢者を就労可能とする環境づくり」を掲げている。「65歳は引退する年齢には早すぎ、長すぎる余生を過ごすことになりかねない」「若いころから健康づくりに励むなどの備えが十分自覚されていない」などと強調して現役引退年齢の引き上げを課題としている。そこで、高齢者は高齢社会を支える貴重なマンパワーと意識の転換を図り、労使双方の努力で仕事に向ける時間を増やし、健康づくりは自己責任とし、50代即ち人生半世紀を迎えたら自ら高齢期人生プランを考えると提言している。
 還暦を迎えてから「見るもの聞くもの悉く珍しい」と感じる私は、自らを未だ高齢者と認めていない。まして障害者とも認めていない。ごく普通に、でも少し不便を感じながら毎日の生活を24時間、時間が足りないと思いながら過ごしている。私は自称中途障害高齢者予備軍である。何もかもが未だ未熟で中途半端なのであるが、その可能性にはかなり手応えを感じている。
 家の近所の役所には生まれながらに障害を持つ青年が働いていた。彼はどの健常者より、仕事が丁寧で、仕事が速くて、仕事にミスがないと、私は思った記憶がある。障害を持つ者に二重丸や花丸が与えられるのは「障害」という言葉を噛み締めながらも、自らのノーマライゼーションを頭に置きながら、普通の行動を普通にやっていけばいいのである。
 それならば、高齢者然り、伊達に年を経てきているだけでなく、いいも悪いも見聞きしてきた筈の人間だからこそ、社会の第一線で経験者の良さを武器に自分にしか出来ない、又、自分だからこそ出来る仕事に自ら目と心を向けるべきだと中途障害高齢者予備軍の私は思う。経験はいいも悪いも実に貴重な事である。
 これらを実現すれば「前例のない高齢社会を安心でき、活力あるものとするのは十分に可能」と結論付けた今年の高齢社会白書が活きてくるだろう。
 格好つけの私は「高齢者」も「障害者」もそんな形容詞はいらないと言いたい人間である。私は単なる私だと言いたい。必要とあらば、いつでもその場に参上できたら嬉しいと思っている。中途障害高齢者予備軍と聞けば、興味があっても余り自ら入り込みたい層ではないような気がするかも知れない。だが、そう、簡単に言えば「生涯現役人間」でありたいと本人は願っている訳である。人間は妙な生きもので「現役」という言葉には興味を持って自分にも使用したい詞のひとつになるだろう。

169.現状の日本では無理!

2007-05-25 06:12:25 | Weblog
 ある地区の警察が「夜間のライトは上向きが基本で、状況に合わせてこまめに下向きと切り替えてほしい」と呼び掛けを続けてドライバーへの浸透を図るという。無理じゃない!
 一方、東京の真昼間のJR駅での出来事;電車が赤ちゃんの乗ったベビーカーの前脚を扉に挟んだまま発進した。ベビーカーはそのままの状態で約20メートル引きずられ、若い母親は転倒して腰を打ち、軽傷を負った。男性客が追い掛けて赤ちゃんをすくい上げたが、転倒し、2人は怪我を負った。別の客がホームの非常停止ボタンを押して車両は停車した。 こんな事故が昨日あった。
 同じ日、同じ山手線に私は車椅子で乗り込んでいた。混雑している時は仕方ないが、駅員が誘導して車椅子が乗ろうとしているのにへっちゃらな顔で乗り降りする乗客がいっぱい。挙句の果てに、歩みが遅くなってただ覗き込むだけで邪魔になる人もいる。ベビーカーだ! 車椅子だ! という配慮はあまり感じられないのが日本人の公共のマナーである。車内では車椅子は何と妙な笑顔で向かえられる! 何これ! ただ興味の笑顔? 残念ながら、そんな笑顔が多いのは否定出来ない。口の辺りは笑っていても、目は笑っていないのだ。目は口ほどにものを言い!を思い出して欲しいものである。
 車のマナーも然りで、自然に譲り譲られという気持ちはあまり感じられない。長い列にどうしても割り込みざるを得ない時、一台譲る車がいると我も我もと続く。一台ずつでしょ! 一台が譲ったら、次はチャンスを逃して、次の一台に譲って貰うのがマナーだろう。続いて続いて次から次に車が割り込んできたら、折角譲った車が後列車から顰蹙を買うことになる。
 ライトの切り替えだって、警察に呼びかけられなくても、人間としての常識だと思う。煌々とライトを照らされたら、直視出来ないのは当たり前なのだから!

168.ビバ!障害者!

2007-05-24 22:29:21 | Weblog
「若い美術学生が日本に行くから宜しく頼む!」
豪州の美術館から依頼を受けたのは凡そ1ヵ月前の事だった。私のパートナーの博士はいつもこうだ。思い立ったら、すぐ行動に移すという性格である。私は博士を怒らせない数少ない人なんだそうだ!
 20数年前、日本の伝統工芸に興味を抱いた博士があれよあれよという間に無名の女流漆芸家の個展を開催する事になった時、美術館は驚きで響いた。確かに、その漆芸家は蕾が開き始めているところだった。木漆工芸で新人賞を貰い、その後、神奈川県展で5年連続入選を果たし、更に文部大臣賞、続けて神奈川県教育委員長賞と、立て続けにラッキーが舞い込んできていたのは事実だった。だが、賞が何?と言いたいほど、日本では無名だった。そして、今も? でも、その実力は見る人が見れば解る芸術だったのである。メルボルンのNGV美術館は前代未聞とでも言えるほど珍しい現役の女流漆芸家個展を開催したのである。個展のみならず、美術館は彼女の作品を買い上げた。女流漆芸家にとっては正に青天の霹靂であった。女流漆芸家は何を隠そう、私の実姉である。
 それから20年後、NGV美術館は再び、女流漆芸家に白羽の矢をたてた。美術館がアート・オブ・禅という展覧会を企画したのである。
 その年は奇しくも左脳内被殻出血で倒れた私が再起を正に図らんとし始めていたのである。「再出動!」のメールを発信した私の所へ長年来のパートナーである博士から嬉しい知らせが返信として、送信されてきた。「協力して!」の言葉に私は心が躍った。閃きの異名を昔から持ってきた中途障害者の私は俄然ハッスルする事になった。即、禅から茶の湯を連想した私は茶道具の展示を語ったのである。斯くして、美術館はあの時の女流漆芸家の手による漆の茶道具を購入して展示する事にした。四半世紀前と異なり、漆の英語名ジャパンはかなり浸透してきている。嬉しい事に、更にその翌年、「漆ジャパン」の展覧会を豪日友好三十周年記念として開催された。この時は、漆塗の工程を説明する教材とテキストを私が担当する事になった。
 そして、今年、再び、私は私なりに縁の下の力持ちとして脚光を浴びる事になる。
 先ず、漆に魅了された若き豪州人の受け入れ準備に取り掛かる事になった。若い美学生は来年留学を目的に下見にやってきたのである。初対面で彼女は私の障害を知った。取敢えず、帰国の途にあって彼女はメールを通して言ってきた。
「次から次へと移動するのに決して不便を躊躇わず、自ら電動車椅子を動かしてくれた事に感謝します。多くの人がこのような行動を取ってくれる事はないと私は思いました」
美学生の言葉はどんなお土産よりも私には嬉しかった。車椅子の事は事前に彼女に知らせていなかった。待ち合わせの時、私は目安として車椅子を持ち出した。その方が私を見つけ易いと思ったからだ。
 来月は更に大変な来客の話がある。
 私は先ず、自ら「ビバ!障害者!」と言いたい! そして、多くの障害者仲間に「めげずに自分なりに活きること!」と言いたい!

167.私を取り巻くふたつの優れもの

2007-05-23 05:58:46 | Weblog
 快晴! 外のお天気は素晴しい! それに引き換え、私の内のお天気は荒れ模様! 1週間ぶりにリハビリに行った北里では何とも歩行が覚束ない。「やっぱり漆の杖を持ってくればよかった!」と思いながら、ごく極普通の既成の杖のせいにする私! でも、これは少なからずも本当!
 左側のストレッチが済んで、次にボールを使う上下屈伸運動をやっている内に僅かながらだが、いつもの右片麻痺の状態に戻ってきた。例え右半身が思うように動かなくても、痺痛がせめていつものような襲い方なら、許せるとさえ想った。数分の休憩の後、リハビリ病院で購入した杖を頼りに歩き出す私を急襲した痺痛はハンパな状態ではなく、上腕の内反も顔面の硬直も最高潮に達していった。右半身、正常に感じるのは僅か額半分と頭だった。額も左手で触ると、右と左に触感は確実に違う。だが、それは無感覚に近い痺れ(?)で、目尻から下の部分、広範囲に襲っている痺痛とは全く違う。
 重田療法士が平然とした面持ちで特製の知覚支援装置付コルセットを手に私が歩み寄るのを待っている。疑心暗鬼で近づいた私にコルセットを付けると、療法士は「これでどううでしょう!」と言った。コルセットを付けて一往復、二往復、続けていく内に痙性麻痺という診断を受けた私の身を襲ったと思われる弛緩性麻痺が遠退いていくのが感じられた。暫らくしてコルセットを外した私の方向に少し満足げな療法士の顔に笑みが浮かぶ。
「先生、これってやっぱり優れ物ですよ。早く一般化できるようにして下さいよ」
療法士は苦笑いした。
 来週は私が信頼する漆の杖を持ってリハビリにいこう! 

166.自然の引力と私の悩み

2007-05-19 05:48:42 | Weblog
 以前にもニュートンの引力の法則に触れた事がある。
 極最近、私は自らの意志ではどうにもならない痺痛を伴う内反にとても悩まされている。日夜、仕事と睡眠の合間に私の頭を占領するのは何と「痺痛を伴う内反」という事で、即、私の脳に登場するのは『自然界での引力』という事になる。
 最近の私の握力はかなり弱い事が先日の脳神経内科の診察時に判明した。No wander! 毎朝、新聞の束を玄関から部屋の中に持ち運ぶのがしんどくなってきた訳だ。大事な物を落として壊したりする事もあるだろうから、充分注意して生活していかなければ、と自らに言い聞かせる。
 大きく宇宙規模で考えてみよう。潮の満ち引きを起こしている起潮力が、月と地球、太陽と地球夫々のお互いに対する引力と、夫々お互いの周りを回る公転運動によって引き起こされる遠心力、この二つの力の差によって生まれる事は私にも少しは分かる。
 話は反れるが、私は日中始終サングラスを使用しているので視覚障害者かと聞かれる事がしばしばある。有難い事に視力は結構いい方だが何しろ波脆くて・・・ 実は涙腺が異常に細くて涙が溢れ出てしまうのだが、骨盤が普通より狭かったり、涙腺が・・・、と私は何故か見えない場所だけが細いようでがっかりという訳である!
 気を取り直して、引力の話を続ける事にする。
 そう、目の話に脱線したのは、太陽は直視出来ないが、月は出来ると私は言いたかったのである。月は神秘的で、日本では月に纏わる御伽噺の方が俄然多いような気がする。その月の引力が地震と何らかの関係を持っていると言われて来ている。何故、この様な話を持ち出したかと言うと、私の強度の内反も凄い痺痛も引力に強く引っ張られて、耐えられないような痛みなるのだ、と思うからだ。 
 古来、月の引力は地震と何らかの関係を持っているといわれて来た。地震が月の引力によって何らかの影響を受けているものであれば、地球に働く月の引力の大きさを知ればよい訳である。月の引力を求めるには、月と地球との距離に依存する筈だが、月が地球を回る軌道半径は常に一定となっているわけではなく、また、月ばかりでなく、太陽の回りを廻る地球の公転半径も絶えず変化している。そして、地震の多くが満月や新月の近辺で頻繁に発生している事実がある。過去の断層地震の主なものが、月と地球、また、太陽との相互の位置関係に何らかの影響を受けているのである。満月も新月も、太陽と月と地球が一直線状に並ぶ時に注意したらいい。互いに近づけようとする引力と互いに遠ざけようとする斥力は天体で二つの物体の間で働く訳で、潮の干満は月の引力に原因する。そして、月の引力が地殻を引っ張る力は時に、地震の引き金になる事がある。
 引力と言えば、天体を相手にするとgravitation、磁気だとmagnetism、原子間になるとaffinity、更に一般的に物体間というとattractionだが、一般的に「引く力」と言えば英語はattractive forceという事になる。中々素敵な英語である。
言葉は素敵だが、肝心の私の悩む所は、そんなこんなで自然界の引力の法則が大きく関係していると思う。しかも、私を襲った病魔の名は何と「被殻出血」だったのだから・・・
 地球の断層が地震を起こす程の影響を引力は及ぼすのだから、ひとりの小さな人間に震えがきたり、内反が起きたりしてもおかしくないと言えるのではないだろうか。

165.母の日直前の惨事!

2007-05-12 05:38:44 | Weblog
 母の日を前に、ふたつもの大惨事がその後、都会の夜に哀しい雨を降らせ、朝に強い風を吹き込んだ。ひとつは夜11時過ぎの火災発生の末に二つの幼い命が奪われた事故で、5月9日水曜日の事だった。もうひとつは夕方、一方通行の道で母親の目前で車に小さな命が奪われた事故で、翌日10日木曜日の事だった。共に、人災である。子供の日を無事に楽しく過ごし、この年の母の日を白いカーネーションでおくるとは誰が想像しただろう。5歳、7歳、そして5歳と言えば、可愛い盛りで何にでも興味を持ち、何でもお手伝いしたくなる年頃だ。可愛い一方、興味深々の年齢で一番注意が必要な年齢である。10日の現場は私の住居がある高輪、11日の事故は、車椅子に頼らずに二本の足で歩いていた頃によく訪ねた目黒川沿いの五反田での出来事である。我が家のすぐ側で目の当たりにした火災の惨事は、恐らく私が中々簡単に忘れる事は出来ないだろう。幼い女の子達と交わした言葉は少ないが、笑顔は時折会う度に交わした記憶が蘇る。二つの惨事は日本社会での家族のあり方を私に色々考えさせる事になった。
 戦後、日本の経済は自然を省みずに猛突進してきた。人間社会も追いつけ追い越せとばかり、欧米化に急いだ節があるような気がしてならない。日本は、直径家族の他に傍系家族までも含む多人数の家族が一般的だった。祖父母は今ほど寿命が長くはなかった。現に、私が生まれ育った家庭も、祖父母が早くに他界して自ずから核家族だった。だが、母親は恰も大家族の裏方を忠実に守ってるが如く振舞っていた。大家族の名残が潜在的に存在していた。母という女の存在は母親の何物でもなかった。私の家庭でも私が幼稚園に行くようになって、行く時はいつも門まで母が見送ってくれた。帰宅すればいつも母が出迎えてくれた。おやつも母親と一緒に待っていてくれた。お買物は母と一緒に近所を回り、商店は自然とあの子は何処の子って知るようになっていったものである。小学校に行くようになっても、例え日中出かける用事があっても帰宅時には母親は家で私を出迎えてくれた。今、私達日本人は家族という問題も踏まえて社会というものを考えてみる必要があるだろう、と思うのは私だけだろうか。
 人間は生まれた瞬間から、読んで字の如しで互いに寄りかかりながら生きる人になって、社会に身を置く訳である。社会には必ず長がいる。ここからは私らしい考え方が私の中には浸透していく事になる。
 私が若い頃身を置いた英国系の家族という社会では面白い事を教わった。この世の中には男と女がいる。これは、私の日本の家族社会でも、豪州の英国系家族社会でも同じである。呼び方を豪州人のグエンママが面白可笑しく教えてくれた。女の子は生まれた時からレディだけど、男の子は9歳まではマスターで、10歳からはミスターって言うのだという説明だった。成る程、だからヤングレディはいてもヤングジェントルマンなんて言い方はしない。そして、男女共に10でちょっと立ち止まって11、12と数えて13から19迄は語尾にteenがついていく。20twentyは10tenと同じ様に節目で21からは30、40、50、60と規則的に進んでいけばいいのである。
 高輪の惨事は四人の子供を巻き込んだ。長女はあと一歩でティーンエージャーの仲間入りで、長男はやっと10、即ちテンの節目に辿り着いたばかりである。二女、三女は生まれてきただけで未だ一度も節目にさえ立った事がない訳である。そう考えると、この家族という社会では、母親という長が席を立っただけで舵取りがいなかったという現実を現代の日本の社会で捉えるのは難しいのだろうか。
 私は英語を指導する時、私なりに数字を年齢に重ねてみる事にしている。ワン、トゥーと来てスリーには日本人が不得手とするTHの発音がある。Threeの次のフォーのFも難しい。ファイブの中のFもVも日本人には苦手のようだ。私らしい考え方は、三つ子の魂百までという事で無事スリーまで来たら、four、five それにsevenでfとvに注意しながらtenまでふらつきながらでも歩いて来れるだろうという訳である。テンからは正に数字でも二桁になって立っているのが安定してくるという訳で、11、12では再びVの練習に磨きをかけるという事である。確かに日本語で説明されると、しち面倒臭いものだが、英語のレッスンとなると結構、みんな理解するものである。
 四人きょうだいは12歳を頭に、10歳、7歳、5歳という話である。こんなまどろっこしい話をゆっくり時間をかけて、あの賢い12歳の長女にもっと始終会っていれば、話して聞かせてあげたかったのに・・・ 母親は長女が賢いから、長男は頼り甲斐があるから、食事を済ませた後に、のっぴきならぬ事情で外出したのだろう。それも緊急事態にすぐに戻れるような場所にいたようだ。あり得る、これはあり得る事である。まだ、本当の原因は分かっていないらしい。とにかく現時点では、私はふたりの少女が無事に昇天する事を祈る。
 この時期には珍しく強い風は一日中吹いた。あたかも幼い姉妹の死を悼むと言うより恨んでいるかのように風神の怒りをかった強風があっという間に二人を連れ去ったような気がしてならない。

164.休みも無事に・・・

2007-05-08 09:12:59 | Weblog
 ゴールデン・ウィークも終わってしまった。メーデー、プラスワンの休暇を確保すればその名の通りの1週間が送れた筈だ。会社人間だった頃が懐かしく思い出される。年末年始と5月の連休時、俄かに「単身者争奪戦」が始まったものである。航空会社は共に掻き入れ時で大忙し!と思いきや、多忙はその前日までで、休暇中は結構社内は和気藹々暇に優雅に過ごせたものである。だが、家庭持ちは違う。何としても連休を貰いたいものだ。私は子持ちになるまでの長い期間、彼ら妻帯者にとっては「金の卵」だったらしい。
 障害持ちになった私は争奪戦こそ無関係になったが、今年は珍しく、どこにも出かけなかった二人の子供が早々と母の日サービスを連日やってくれて、いささか疲れた。そんな予感がした私は、事前にA WEEK-OFF をメールで流し、パソコンのメールもブログもオフにしておいた。
 休み明けにメールを開いてみたら、事前のお知らせが行き届いていたせいか、仕事関係からのメールは皆無だった。ところが、一件だけ「会いたい」というメールが入っていてギョッとした。開いてみて、先ずは一安心、帰国直前の5月末に東京に戻ってくるのでその時にという但し書きがあった。それにパートナーの博士は4月いっぱい米国に出張だったし、今週からいよいよスタートし始めるみたいだから・・・
 そうか、休みはこうやって思い切って、パソコンの電源だけでなく、私の電源も切らないと、本当の休みにはならないのか!
さあ、6月は国民祝日はない! 元気いっぱい、仕事に、リハビリに頑張ろう!
さあぁ、と思って休み明け2日目になったら、大変、大変、山積みだったらしい仕事が雪崩れ込んできた、きた! プライベートなメールの返事はマタマタお預け状態、ゴメンなさい! でも、便りのないのは元気な印!