脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

41.素直で優しい男性たち!

2005-10-26 15:24:38 | Weblog
 会えた、会えた、ホントは純粋で素直な会社人間の男性に! 根が純情で真面目だから社会人になっても子供の頃の頑張り屋さんの性格と正直な心を持ち続ける男性はしたたかな女どもと違って簡単にひたすら会社に忠実な道を歩む事になるのかもしれない。
 突然不慮の事故で障害者の仲間入りをした人、脳障害の後遺症でやむを得ず障害を受容した人、耳の不自由な人、目が見えない人、言葉が自由に使えない人、何と様々な人達の存在を短期間で知った事か。未来は自分自身が会社人だった頃、企業や社会の最前線で活躍する多くの男性仲間がいた。彼らは「適当に」という言葉を使わなかった。「ほどほどに」という言葉を使わなかった。彼らは実に誠実な姿勢で実社会にどっぷり浸かっていたのである。
 会社という縛られる団体から身を引き、自分らしい社会に身を置く事になって数十年、未来はそんな会社人から暫く遠退いていたわけだ。企業が支配する社会から師弟関係の社会という場に移って、未来は生徒という名を持つ人達と交わる事になった。長年、何故か、生徒は男の学生が多かった。彼らは未来を師と仰ぎ、真面目な気持ちでついてきた。
 そして、今、未来は障害者社会で再びかつての会社人達の男性群に時折会う事になったのである。色々な話し合いがあり、様々な悩みを聞く内に、彼らがホントにいい人間だ、という事に頷ける自分に気づいた時、未来は「素晴しい!」と心の中で叫んだのでる。
 彼らはいい事には即「いい!」と言い、素晴しい事を手放しで絶賛するのである。一方、女性は、未来自身は女である事が少し恨めしくなるのだが、ちょっと色眼鏡越しに他人を見るのではないかと懸念するのである。「世が世なら私だって!」とか「眉唾じゃない?」とかはたまた「本当かしら?」と言い、素直になれない自分がある事を多くの女性が否定できないのである。女とはつくづく悲しい性を持つ人間である! 
 未来が自分的な結論を途中報告すると「男性とは心から本音で付き合い、女性とは社交辞令を念頭に置いて近づこう」だな、と思うらしい。多くの男性は聴く耳を持ち、確かな目を持っているようだが、数多くの女性は聞こえる耳を持って見える目を持ちながら耳をかさず見てみぬ振りをするというわけだ。世渡り上手な女性と違って突然失敗したり突如不利な立場に立つと、男性は必要以上に凹んでしまうというわけである。
 外国人対象という言葉が付いていたのだが、未来は相談窓口に座っていた事がある。何故か相談者の殆どは男性だった。当時はちっとも気づかなかったが、男性は「他人の意見も聞いてみよう」と思うのだろうか。そこへいくと女性は確たる自分の思いがあるから中々他人の意見を聞く気になれないのだろうか。  とにかく男と女が生きている社会であれやこれや接している内に出した未来の途中結論は「心から優しい男性には心から思い遣りある言葉をかけてあげよう」である。女に生まれ育った未来は簡単に女性を誉めたり批判したりできる。追い詰めたり問い詰めたりしても解決策の軸は自分の中から探れる。だが、男性になった経験のない未来は誉めたり批判したりはできても、詰め寄られての解決策には途方にくれるというわけである。そして未来は異性である男は単純視できても自分を含む女は複雑に色々見え隠れするのだと思っている。


40.女同士の困った話をもうひとつ

2005-10-20 18:23:23 | Weblog
 これからの話の展開は未来よりも一回りも若い女性との出逢いから始まる。腰掛けていると全く五体満足に見えたが、体の傾き具合が気になった。女性は悲しそうな笑みを浮かべていた。まさか、脳卒中! この若さで? 彼女は未来と同じ様に脳の疾患から身体の自由を奪われた人だったのである。残念だが未来の予感は命中してしまった以上、未来はどのように接して、どんな会話をしたらいいのか考えあぐねた。すると何と、彼女は自ら口を開いて喋りだした。彼女は病魔に襲われて快復はしたものの半身不随という後遺症を叩きつけられて暫くの間は引き篭り状態だったと言う。無理もない。彼女は何もかもやりかけだったのだろうから。未来はもし自分が子育て真っ最中に倒れたら、どうしていただろうかと思うとぞっとした。自殺を思い立っただろうか? それとも心中? そのいずれも出来なかったろう。何故なら、家族は必死に助けようとするだろうし、医者は自分の腕を信じて命を救おうとするだろう。患者一人が頑張って死のうと思っても、みんなが力一杯救おうと願うだろう。果たして甦った患者には自分独りが後遺症を受け入れざるを得ない事実を告げられるのである。十年若い自分を考えると未来には自信がなかった。恐らく自暴自棄になる自分がいただろう。十年若かった頃の未来には自分自身だけの希望ではなく、自分と愛する子供達が折り重なった夢が果てしなく広がっていたのだから。諦めて半身不自由を受容する事は出来なかったかもしれない。だから、安易な慰めは女性と未来の間には生まれなかった。
 女性は自ら進んで未来に語り始めた。倒れる寸前までバリバリのママ業専科の女性だったようだ。彼女は自ら教育ママを誇らしげに名乗っていた。勿論、親師会にも張り切って率先して出て行っていたという。そして突然、彼女の目前に広がる果てしない道に残酷な遮断機が降りてしまったのである。
 発病以来、家に引き篭っていた女性は少しずつ歩行可能になり、医師や看護師、介護師に促されるまま、学校の親師会に出てみたという。やっぱり出なければ良かった! これが自分の本心だったと女性は未来に語った。人がやたら親切で優しい。もっと以前のように普通にタダタダ懐かしそうに話しかけてくれればいいのに、親切すぎる、優し過ぎる、それがむしろ女性にとっては悲しかったと言うのだった。解る、よく解る、未来には女性の気持ちがよく解った。どうしてもっと普通に接してあげないのか。
 病魔は時の助けを借りて遠くに立ち去り、身体の機能は少しずつ快復するが、心は真っ直ぐに立ち直るには時間もかかり、何より本人自身の助けを必要とするのである。この愛すべき素敵な女性を未来は自分が持ち合わせている勇気と朗らかさと健全な心が凹みがちな心境から少しでも救える事が出来たら、と祈った。この女性がもし公共の場に姿を現したら、本当のノーマライゼーションを頭に置いて、バリアフリーに自ら接して貰いたいと、未来はつくづく思った。そして未来同様、この女性にも「生きていてよかった!」と嬉しい叫び声をあげて欲しいと思った。悲しいかな、日本では未だ未だ遠くて長いのがノーマライゼーションへの道であり、バリアフリーなのでる。
 人にはみんな、普通という簡単明瞭な言葉をもっと身近に置いて欲しい。女である未来には女の気持ちは少し解る。女の情けも、女の意地悪さも、貪欲な女の気持ちも、女の優しさも多少は解る。男の気持ちとは、と考えると未来には少し戸惑ってしまう。だからこそ敢えて未来は世の女性に「普通」を考えて欲しいと思うのである。世の男性に望むのはその次の事であると思うのは未来だけだろうか。
 この女性との遭遇の前に更に若い女性との出逢いが未来にはあった。彼女は病気を受け入れる前はさぞ人一倍もチャーミングな女性だったろうと未来には想像できた。病名は多発性末梢神経炎という聞きなれないものである。未来の友人から鐙骨麻痺という病名を聞いた時以上に女性の病名には「何それ?」と頭を傾げた。色々繋げたような病名は凡人の未来には意味不明で、女性の症状も何とも不可解なものであった。新婚生活が始まって暫くして発病したらしい。神様は時折、無差別に意地悪くなるのだろうか。偶々、出逢った若い障害者が女性であったせいか、キリストも仏も男性なので仕方ないか、と思う事がある。でも、だったら、愛すべき女性には救いの手を差し伸べるべきなのにと恨めしくなる。障害社会に慣れてき出すと、未来の周りには幾人かの男性の障害者も集まり始めている。これから、ちょっと彼らの研究もしてみようかしら? 見栄という言葉が殆ど女性の中に潜んでいるのと同様、多くの男性にはプライドという言葉が体内に埋め込まれていると思う。男性研究の結果が良と出たら、女神に会わせてあげようかしら? 

39.お婆さん、再登場! (ついつい長くてゴメン!)

2005-10-15 04:12:56 | Weblog
 老齢者の数を考えると統計の上からは勿論、路上で出会うのも女性が多い。だから、当然、お婆さんの行動が目立つのだろう。何時の頃からか知らないが、交通規則を護らないお婆さんが多くなった。二本の足で歩いていた頃の未来でも道路を、しかもバス通りを横切る時は必ずといってよいほど横断歩道を探したものだ。理由は簡単で自分の命が惜しいからだった。そんなくだらない事で大切な自分を傷つけたくないと思っていた。未来にはやらねばならない事が山積みされているのだからと思っていた。これは自分だけではない、世の中には気づかないだけで埋れた才能が沢山ある筈だと思っている。何処に埋まっているのかって? 甘えないで欲しい。自分で探すの! 人間一人ひとりが真剣に自分と向き合って探せば、自分の中に自分にだけピカッって光るものがある筈だ。折角、命という尊いものを貰っていながら磨かないなんて、そんな人は罪人と呼んでもいいのではないか。綺麗な宝石を磨く。深い美を持つ漆を磨く。自分を磨かない手はない。
 留学時代の週末の習慣に銀磨きがあった。部屋中に妙な臭いが立ちこめて手は真っ黒になり、銀磨きは大変な仕事だった。だが、新しい月曜日が来ると食卓がピカピカの銀食器で輝いてくるのである。当然、食卓を囲む人間の表情も明るく、話も弾む事になる。漆塗師の姉の口癖は「漆のよしあしは塗りで決まるのではなく、大変な作業の磨きなの」であるが、大きく頷ける。
 横道に深く入り込まない内に横断歩道の話に戻そう。
 車椅子生活になってからは無論、未来は横断歩道をそれも必ず信号つきのを使用するようにしている。理由は車を運転している人が可哀想だからだ。自分の不注意が他人のかけがえのない宝を奪うなどもっての外だと思う。横断歩道に関してはちょっと気になる事がある。これはお婆さんだけに限った話ではない。ついつい横道の話が好きな未来は立ち止まってしまうが、ここはちょっと黄信号だと思って我慢して貰おう。
 残念ながら、障害者センターの送迎バスでの経験である。後方のドアから車椅子ごと降ろされた未来は介助人に後のハンドルで操作され、いきなり思わぬ方向に連れて行かれそうになったのである。ほんの少し雨が落ち始めていた。未来は仰天して声高に言った。
「何処へ行くの?」
介助人はドキッとしたらしく、慌てて車椅子を押すのを止めた。
「何するの。何処へ行くの」
ほんの僅か前方にいつも未来が使う横断歩道がある。介助人は自分が押して急いで道路を渡れば雨に濡れないと考えたらしい。とんでもない。濡れたって砂糖菓子の未来じゃあるまいし融けるわけはない。いつものように車椅子を横断歩道の方に向けて貰い、手を振って別れた。後日、センターとバス会社から謝罪があったのは当然である。だが、僅か数ヶ月で、送迎バスは再び未来を立腹させたのである。別の運転手に別の介助人が未来を送ってきた。その時は未来の他にもう一人障害者が降りる事になっていた。迎えに出ていた母親が、おやおや、事もあろうにバス通りを斜めに渡って来たではないか。介助人が車椅子を押し、母親がすぐ脇を小走りに歩いた。しかも再び車道をだ。二人は車道と歩道の高い段差を前に車椅子を持ち上げた。何という事だ! 未来は注意する事も出来ず、ただただ腹が立って仕方なかった。二人は頭を何度も下げていた。恐らく、自分達の間だけの礼を述べていたのだろう。やがて介助人だけが又々道路を斜めに渡ってきた。
「お待たせしました」
彼は悪びれた様子もなく、未来の車椅子に手をかけた。
「ちょっと待って! 貴方、どうして横断歩道まで行かなかったの。言語道断だわ」
「すみません」
「当たり前よ。貴方、こういう仕事のプロでしょ。後ろ指刺されるような行動は止めなさいよ」
未来の声に彼はシュンとなった。
「数ヶ月前に似たような事があったのよ。あっちからもこっちからも謝罪の言葉を貰ったけど、どうかしているわ」
バス会社からの謝罪の言葉は何だったの? とりあえず謝っておこうという事だったの?
未来はもうバス会社にもセンターにも忠告をする気にはなれなかった。
 毎年、四月になると可愛い片手が横断歩道であちこちに挙がる。あの風景はあの一ヶ月間だけなのか? だったらあんな行事みたいな事は止めて欲しい。だったら横断歩道に頼らず、どんな時も何処ででも右見て左見て自分の確かな判断を身に付ける練習でもさせたらいいのに。子供は大丈夫、いい事でも悪い事でもすぐ習慣になるんだから。それに信号無視の車だってあるんだから。「みんなで渡れば怖くない」なんて誰が言ったの? みんな信用できるの? 確かな自分を信用して渡れば一人だって混雑した道路だって怖くないと教える方がよっぽどましだと考えるのは未来だけだろうか。
 かつて豪州で豊かな牧草を求めて引越しする羊の群れに出くわして、移動が終わるまでのそりのそりと車を動かして思わぬ渋滞のど真ん中に入った事があったっけ。渋滞? 車の渋滞? いいえ、羊の渋滞! 一茶の俳句に「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」というのがあるが、か弱き小さなものは自分の身を護るべきだろうし、余裕のある人間は護ってあげるべきなのである。
 お婆さんの話題に戻ろう。
 お婆さんには自分は大丈夫だという妙な自信があるのだろうか。その上、妙に他人の事が気になるのだろうか。やはり、高齢になったら、ご自分の事だけ気くばりしてくれればいいのに、とつくづく思ってしまう。今まで挨拶もした事のないような人ににっこり笑われて「大丈夫ですか?」なんて聞かれて妙に変な気持ちになるのは未来だけではないらしい。そんな老婆にはしばしば優越感のようなものが潜んでいる事があるようだ。もっと以前から会う度に会釈でもしていた仲ならねえ・・・決して、障害者たる未来は僻みで言っているのではない。そんな批判を買うお婆さんの中には障害者のレッテルを堂々と貼って外出している未来のほうがずっと確かに思えるような明らかに危なっかしい人もいるのである。
 未来が海外で出会ったお婆さんに好意を持つきっかけを語ってみよう。十代の頃から海外生活を始めた未来には嬉しい出逢いがある。六十年代の海外生活は未だ未だ珍しく、未来は自分の留学時代には日本人に一人も会わなかった。そんな時代に日本娘が好意を持ったお婆さんとはどんな人だろう?
 かの地では道ですれ違うお婆さんの殆どが挨拶代わりの笑顔を未来にくれたのである。目が合えば必ず笑顔のお返しがあった。お節介なヘルプは全くなく、スマイルだけがあった。未来は感激した。嬉しかった。それは留学先の豪州が好きになった一番大きな理由である。留学中、ホームシックにもならず学生生活を満喫する事ができた最大の理由である。
 こんな微笑ましくも可笑しな話がある。未来がメルボルン市内の電車に乗っていた時の事である。留学生同士で街に出かけた時の事だった。日本娘の相棒は香港からの留学生で、二人はボックスシートに並んで座っていた。突然、彼が漢字で何やら紙に書いて未来に見せた。未来は無言でこれまた漢字で答えた。彼が、未来が、彼が、未来が、若い二人は面白くなりだし、ゲームのように続け、目的地まで退屈せずに時間を過ごした。やがて二人がゲームを止めて降りる用意をし出すと目の前に二人のお婆さんの笑顔があった。お婆さん達は二人の漢字のやり取りを黙って嬉しそうに見ていたらしい。
「降りる?」
「ああ、終点だから焦らなくていいよ」
若い二人の英語の会話に「オー!」と驚いた二人のお婆さんは口を揃えて言った。
「口が不自由でお互いに書いているのかと思ったわ。どうして?」
「僕はホンコン・チャイニーズで彼女はジャパニーズ。漢字は同じ様でも発音は全く違うし、意味も漢字自身も違う事もあるんです」
「そうなの、共通語は英語っていうわけね」
別れ際に二人のお婆さんは若い二人に言った。
「ありがとう。愉しかったわ」
日本でもあんなお婆さんに会いたい会いたいと思っている内に未来自身がお婆さんの年齢に近づいてしまったというわけである。

38.とかくお婆さんは?・・・だから何?

2005-10-08 10:47:57 | Weblog
 還暦を迎えるという事はいかに多くの社会に触れてきたかという事である。赤ちゃんの社会、子供の社会、学生の社会、一般社会、障害社会、高齢社会と考えれば実に様々な社会がある。これらは常に必ず家庭という社会と実社会を繋いでいる。家庭は自分と密接な関係にある事は誰もが知っているが、実社会は自らが絶えず触れていかない事には遮断機が降りて、自分は阻害されてしまう。間もなくお婆さんの仲間入りをする私は家庭と家族という社会にとても興味を持っているので近い将来、私の思いを綴って残しておきたいと考えている。
 ところで日本にはかつて鎖国という言葉があった位だから、座敷牢じゃないが引き篭りはお手のものなのかもしれないと思うとちょっとゾッとする。無論、外へ出なければ、危険度は低いかも知れない。だが、外での冒険があってこそ素適な出会いや目っけ物や新しい発見がある。冒険者がいたからこそアメリカ大陸が発見され、オーストラリア大陸にユニオンジャックが掲げられた訳である。未来は思った。
「障害社会で冒険してみようかしら?」
新米障害者だった頃は道路での未来の口癖は「すみません」だったが、次第に慣れてきて「ありがとう」に替わってきた。
 だが、ごく最近、積極的に生きている未来は躊躇いをどうする事も出来ない自分にジレンマを感じる事がある。
 元気な高齢者が50人いたら、未来がホッとして好意を寄せる人が1人いる。本当だ。これは男性より女性の中で感じる事ではないだろうか。高齢者の予備軍に近づいてきた頃、未来はこんな話をよく耳にした。
「うちの主人、社会の第一線から退いて何をしたらよいか分からないから困ってしまうわ」
「うちもよ。私達、忙しいじゃない、だから昼食を用意してチンして食べてねって、出てくるの」
「そうそう、夕方だって家が気になってゆっくりしていられないの。会社に勤めている頃は始終、主人が午前様だったのにね」
「今は私達がご主人様よね」
「そうそう、亭主元気で留守がいい、って誰だったかしら、いい事言ったわ」
「でも、粗大ごみはちょっと可哀想よ」
「でも、確かにお金のかかる粗大ごみで棄て難いのよね」
「出かけても留守番がいると思えば気が楽だわ」
企業マンだった日本男性が先ず一番大切だと思ったのが仕事であり、妻は二の次だと長年思っていた自分に大きなツケが回ってきたと思うべきだろうか。日本独特の夫婦の在り方である。正しいか、正しくないかはさて置き、定年までは男性が外出先から一向に帰宅しないで夫婦の会話も侭ならず、定年を迎えると女性が留守がちになるのである。長い間、会社人間だった男性はご近所と顔見知りも多くはいなくて家の周りでは社会人として失格者に成りうる羽目になる。
 これまで会社人間としての社会人、男性はもしかして社会的ルールは百も承知なのに残念な事に家庭に引き篭ってしまうのかもしれない。そこへいくと、女性は子育てが一段落すると自分の好みで社会を選んで外へ出て行く傾向にあると思われる。そこで未来が出した数字の意味が分かる。だが、未来の経験から男性よりそんな女性にウンザリする事があるのは否めない。何故なら男性は不器用だが、女性は如才なく生きていけるからだ。
 女性はお節介だが、男性は気後れしてしまうような気がする。車椅子に乗り始めて、未来は他人を観察する事が多くなった。そこで、出来れば好い例を自然に自分に取り入れたいと思っている。
「大丈夫ですか?」
別に助けを求めているわけでもないのに、未来は時折、挨拶代わりにこんな言葉をかけられる。私、何か危なっかしい事やっていたかしら? 不思議に思って声の方に顔を向けるとそこには哀れみをいっぱいに表した熟年女性がいる。
「はあ? 大丈夫ですよ。ありがとう」 
「何か、お手伝いしましょうか?」
「いいえ、結構です」
「お気をつけてね」
「ありがとうございます。あっ、危ない!」
不自由に見える車椅子の私をいつまでも気にして振り向いてばかりいるからよ。人の事を気にする前に自分の事でしょ。覚束ない足腰で人の事を気にしているからよ。あらあら、貴女、そんなとこを横断するの? ちょっと先に横断歩道があるのに! この辺の道には慣れているからって? それは貴女だけよ! 車の運転手さんはご近所の人ではないのよ。道になれていないの。ほら、クラクションを鳴らされたわ。貴女よ。   つづく・・・

37.豪州で出遭ったバスと車椅子

2005-10-05 10:35:32 | Weblog
 未来が倒れる半年前の事だった。未来は17年ぶりに豪州を訪問していた。その日はレイト・ショッピング・ナイトを愉しんで夜の帰宅になった。シドニーの中心街でバスに乗った未来はバスがショッピング・センターを出てすぐのバス停に車椅子の男が手を高々と挙げて乗車のサインを送っている姿を発見した。運転手はスゥーッと車椅子に近寄って止まった。バスが大きく傾き、ドアが開いた。
「サンキュー、ドライバー」
車椅子の男の声がした。未来は真ん中位に座っていたので男を確認する事ができた。
「サンキュー、オフ・ユー・ゴー!」
バスは元の体勢に戻って、男は運転手に合図を送った。
「ウェイト!」
運転手の声がした。運転席での操作でドアの開閉ができる筈なのに閉まらない。何度やってもドアが閉まらない。
「ポンコツじゃないの?」
男の声に他の乗客が笑った。
「冗談じゃない、新車だよ」
「じゃあ、あんたの腕が悪いんだ」
「とんでもない、長い事この路線を走っているよ」
「じゃあ、メインテナンスが悪いんだ」
車椅子の男と運転手の会話に客達は更に笑った。
「代車を呼びますので、暫くお待ち下さい」
運転手が詫びながら、乗客達に伝えた。乗客達は「オーライ!」「ノー・ウォーリー」を夫々が口にした。やがてバスが到着した。あれ!乗客がたくさん乗っている。続行のバスが到着する時間になってしまったのだ。何人かの人は乗り移った。空のバスが続いて走ってきた。殆どの客と車椅子の男がそのバスに乗り換えた。未来もその仲間の一人になって動いた。
「ラッキーだよ。こっちのドライバーは美人だよ!」
車椅子の男の声にどっと一斉に笑い声が返事をした。バス停にはドアが開いたままのバスと運転手が残された。
「グッド・ラック!」
男は運転手に挨拶をした。代車のバスは軽くクラクションを鳴らして走り出した。未来は終点に近い所まで乗っていくつもりだった。客は降りるだけで途中で乗ってくる人は誰もいなかった。車椅子の男は客が降りる度に「ソーリー、気をつけて!」と声を掛けていた。やがて男の降りる番がきた。豪州人らしからぬ風貌の客が未来ひとりだったせいか、男は未来に声を掛けた。
「ソーリー、気をつけてね」
男が笑い、未来が笑った。バスが傾き、ドアが開き、男は暗闇に消えた。
 車椅子の障害者とバスの運転手と家路に急いでる筈の乗客の寸劇にも似た場面に、未来はノーマライゼーションという言葉の微塵も思い浮かばなかった。ユーモアを以ってノーマルに立ち振る舞い、言葉のキャッチボールを愉しむ人達が素適だった。この話はかつて『新聞にも載らない小さな事件』として未来は筆名で書いた事がある。