脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

芸術家の脳

2014-02-28 05:41:14 | Weblog
芸術などは「右脳」が関わっている、というのは一般的にも言われていますよね。
音楽家の脳は、五感の内でも特に「聴覚」が非常に発達している、と言われています
最近の醜い話題が気になりますが・・・
聴覚野が普通の人より、脳の皺や溝が深く、脳細胞の数も多くあることが考えられています。
また、音楽家は、ピアノなど弾きながら聴覚だけでなく、視覚も刺激されるという実験結果があります
普通の人がピアノを弾いた時には、聴覚や触覚の一部だけが刺激されているのですが、プロの音楽家は、聴覚はもちろん、触覚、更に視覚までもが刺激されている、というのです。
ピアノを弾きながらオーケストラが視覚的に脳の中で見えて、複数の楽器の音が忠実に頭の中で浮かんで作曲する時にはオーケストラが脳の中で演奏状態に入って、メローディーも脳の中でイメージとして湧いてくるのでしょうか
恐るべき音楽家の脳
また、前頭部皮質下部、この部分は新しい記憶に関わっており、過去の体験や記憶を参考にしながら曲をイメージしているのだそうです。
「空間認知」に関わっている脳をコントロールするって凄い
普通の人では、このように自己の脳をコントロールすることも出来ないし、イメージしただけで音や楽器のイメージまで浮かばないけど…音楽家は違うのですね
これらの感覚は、日々の鍛錬や訓練によって生まれる感覚なのですが、一般人が鍛錬しても簡単にできる感覚ではないし、特別な能力だと思います。

また、多くの芸術家や音楽家には「共感覚」という、感覚があります。
共感覚とは、五感のうち二つ以上の感覚が同時に働く脳現象を意味します。
この共感覚は創造性とも深い関係にあり、共感覚の持ち主には、芸術的な能力、つまり音楽や美術に能力を発揮しているのです。
共感覚は、一般人が鍛錬したり、訓練しても育たない感覚です。
これは1歳ぐらいまでは誰でも持っている感覚なのですが、生活環境や体験、学習などによって多くの人達の中では忘れられてしまう感覚なのです。

全く横道に行ってしまいますが、私が近年幾度か会って、会う度に感激する英国人の画家がいます。
マッケンジー・ソープ氏です。
彼は広く英国人に、また英国の王室に応援されている画家です。
実はソープ氏は発達障害ですが、実に心温まる絵を描きます。
彼の絵を見詰めていると私も酷い痺れや痛みを本当に忘れるのです。
その彼の絵に登場する子供は異常なほどの頭の大きさを維持する子供です。
曰く、彼が描く子供の頭は「あれやってはダメ!これやってもダメ!」と言われて押さえつけられた子供の頭ではなく、生まれた時の頭の大きさを持ち続けているんだ、と言っていました。

また、共感覚の持ち主として有名なフランツ・リストは、音符に色が付いて見えていたと伝えられ、オーケストラにもっと青っぽい色で演奏してと指示していたと、という伝説が残っています。

ところで、私が知るソープ氏の絵は、確かに青い犬や大きな赤いハートを背負った少年が描かれていたりします。
ありえない、なんて言ってはダメで~すよ~
共感覚の人達は、子供の頃の感覚をそのまま受け継いだ人達とも言えるからです。

だから、芸術家や音楽家の脳では、イメージするだけで脳が勝手に作動するという、感覚になっているんだ、と想像できます。
私達が幻覚や妄想を見ている感覚に似ているのでしょうか?
無理だと言いましたが、凡人でも、鍛錬や訓練をすることで脳をコントロールすることは可能だ、と私は思うのです。
五感をフルに活用し、目的意識を強く持って、リラックス状態を造り出し、妄想でも瞑想でもよいから思考し、これらの体験を多く重ねることで「感性」などの能力として身に付くのだ、と思うのは私だけでしょうか

この感性と独創性、創造性が結びついたとき、人に感動を与えたり、人の心を打つような作品を創り出す能力に繋がるのです。

神様ではないのですから・・・姉の漆塗りだってその殆どが毎回毎回、私の心を打つような創作品ばかりではありません
塗師である姉の脳で何かが閃いて・・・出来上がった漆器は私の心を捉え、他の人達の心も打つのです


芸術家の皮質

2014-02-27 09:51:10 | Weblog
音楽家にとっては・・・皮質領域にヘシュル回という音情報処理に不可欠なところがあります。
一次聴覚であるヘシュル回に関して考えると、音楽家のそれは普通の人の二倍も大きいそうです
高齢者の仲間入りをした私達姉妹にとっては嬉しいことに、海馬やヘシュル回の大きさは特定の認知作業を長年やり続けた人ほど大きくなるということなのです
生まれつき音楽の才能に恵まれた人とか、子供の頃から第二言語を習得した早期バイリンガルという考えもあるでしょうが、その後如何に練習したり使ったりするかにかかっているという事実は否めません。
音楽演奏に関する限り、私のピアノはバイエル止まりだったし、姉のバイオリンは「きらきら星」止まりだった、と記憶しています

そこでアート分野の脳ということで、私の姉の漆塗歴について考えてみることにします。
失礼だけど、姉は古希を迎えた頃から周囲にも分かるほど物忘れが酷くなってきています。
忘れるのはつい最近のことで昔の記憶はしっかり残っているのです。
残念ながら、これは自分や姉だけでなく誰もが通る老化の道だと思います。
でも・・・でも遠くて長い工芸の道を信じられないほど長期に亘って歩いてきている姉にとってこの道は救いの道?であるとも言えるのです。
人生の後半期に入った現在も姉は工房にこもってひたすら漆を塗り続けてそこでの前進を止めません。

姉が使っている最近の漆の刷毛はこれまでと違い、かなり細いので理由を聞くと「細い方が塗りの速度は遅くなるけど丁寧な塗り方になるので満足な出来栄えになる」という答が返ってきたのです。
姉の創作活動は単なる塗り方の変化ではなく、これまでの姉自身の経験に対しての深い意味を知らず知らずに理解することかもしれません。
明らかに後退ではなく前進で、最近の姉の漆塗生活では、新しい洞察と理解の境地を切り開いていると、私は思うのです。
これまでもいつも自然を遠ざけることのなかった姉ですが、老いて、更なる自然に近付いているのです。
そして私は、姉が自らの才能を発揮して、大きな仕事を成し遂げる姿に拍手を送りたいといつも思っている妹なのです

芸術は科学と違って、常に前進するというものではありません
19世紀の科学より21世紀の科学の方が進んでいますよね。
これには誰も異論はないでしょう。
でも現代美術がルネッサンス美術より進んでいるとか優れているとは断言できません
現代漆塗りが鎌倉時代の漆器より素晴らしいとは明言できません
平安時代の漆はどうでしょう
夫々、一長一短、好き嫌い・・・前進後退ではなくて無論立ち止まってもいないのです。
芸術は科学と違って、感情を伝えるもので芸術の役割はそこにあるのです

伝統工芸のひとつである漆芸も他の芸術同様に普遍的で、年齢に関係なく精神や感覚、更に脳そのものを刺激することが出来ると思うのです

芸術家の脳を探る前に・・・

2014-02-26 09:32:00 | Weblog
バイリンガルの脳を探っている内に『芸術家の脳』にも大いなる興味が湧いてきました。
我が家には「英語屋」の血を継いできている人間と『天然派』の人間がいます。

英語屋は・・・私で~す、かしらね
昭和生まれの代表・・・終戦っ子の私は確かにこれまで英語を武器にして生きてきました。
社会人として第一歩を踏み出した時、自称英語屋の父が「これからの時代は英語+ワンでないと生きぬいていかれない」と私に喝を入れたのを思い出します。
亡き父は、戦前・戦中・戦後と一貫して英語で家族を養ってきました。
障害者の世界に足を踏み入れてから、私は「脳の不思議」「漆の不思議」「障害の不思議」不思議だらけの道を歩むことになったのです
数々の不思議には感謝しています。
探究心を駆り立ててくれるからです。

天然派は・・・工芸一筋の道を歩んできている姉でしょうか
この「一筋」という言葉が脳の海馬に最も大切なのだ、ということはよく知っています。
工芸とは、実用品に芸術的な趣向を施し、機能性と美術的な美しさを融合させる工作物の事で、綿密な手作業によって製作されるのです。
工芸品は、あくまでも実用性重視であって鑑賞目的の芸術作品とは異なるのです。
芸術作品が一般常識や時代意識の陰に潜む真実を多くの人達の目の前にさらす力を持っているのでしょうが、工芸作品は一般人の日常と共にある、と言えばいいのでしょうか
確かに工芸作品と美術作品の違いを明確にするのは難しいことです。
それに芸術という言葉の意味も、人それぞれ「意味する範囲」が違うと思うのです。
工芸作品は日常に溶け込んでいくことが求められているのに対して、美術作品や芸術作品は日常に溶け込んでいく必要がないのではないでしょうか
そもそも芸術作品は「ニーズに応えるため」に制作されている訳ではないので、工芸作品が「技術(テクニック)」の高さが問題になるのに対して、芸術作品は「テクニックが度外視」されることがあるのです。

話がそれますが、ソチオリンピックの女子フィギュアスケートのメダルの行方を見ていて「なるほど」と悔しく思ったのは私だけではないと思っています。

因みに漆歴40年の姉の「デザインは一生の仕事」という座右の銘は年月を経て「テクニックは一生の仕事」に今、変わりつつあるようです。

伝統に裏打ちされた素晴らしい工芸作品の美しさが芸術作品に影響を与えることもあるし、芸術作品の新発見が工芸作品に大きな影響を与えることもあるでしょう。
芸術作品のも工芸作品にも決して偽物はないのです。
つまり工芸作品と芸術作品の大きな違いは、流行や伝統の装飾性ではなく作家自身から湧き出てきたものを自らの手で表現して、更なる洗練を試みると言えるのでしょうか
洗練することによって、次代に担い手に伝統可能、ということになるのでしょうか

次回の『芸術家の脳』を投稿する前に工芸家として人生を送ってきている実姉の手を妹なりに身近に見てきた私の感想を自らのハイパーグラフィティに任せて書き記してみます

私はバイリンガル♪

2014-02-25 09:28:55 | Weblog
脳内の角回って知っていますか

角回・・・相撲(角力)の各界ではありませんよ~

角回とは、異種感覚統合野の一部で、視覚・聴覚・触覚による刺激がそこでひとつに統合されるのですが、左半球の角回は言葉の関係構造を扱うのです。

脳卒中などで左の角回にダメージを受けると重い言語障害になるということです。

左脳をやられた私は幸いにも角回が傷つかなかった、ということでしょうか

更なる幸運は、私がバイリンガルだったということらしいのです

右半身不随と言っても過言ではないほどの重い右片麻痺を受容した私は発病二週間足らずの後、母語を押し退けて英語だけは流暢に話していたのです。

バイリンガルは灰白質が多く存在していて、更にその下にある白質の密度が高かったからでしょうか

ひとつの言葉しか話せない人よりふたつの言葉を操れる私はニューロンの数も多くてニューロンどうしの接続も促進されていたと、いうことでしょうか

若き頃の留学に感謝、それ勧めてくれた両親に感謝です

脳出血発病後ズット後になって「英語脳」という機能で視床の下方にある尾状核が活発に働いていることも知ることになりましたが、何れにせよ私はバイリンガルに感謝するのです

右脳の方が老化の進み方が速いって本当?

2014-02-23 21:58:10 | Weblog
右脳の方が左脳の方が速く老いぼれるんですって

確かに世の老人の運動能力は言語能力より低下が著しいですよね。

そして・・・左脳は右脳よりタフで加齢に伴う機能低下に強いことにほかならないでしょうね。

私自身は高齢者の門には未だほど遠い時に脳出血で左脳にダメージを受けたのです。

どっちがタフとかどっちが速いとかいう問題ではなかったのです。

実際、40歳になる寸前に脳梗塞で左半身麻痺になってしまった男性も知っています。

つまり突然の脳卒中襲撃は右も左もない、というのが当事者の感想だ、と思います。

スポーツの世界では「鍛えないと衰える」は常識になっています。

脳も使えば使うほど元気になってくるのです。

それでは新しい記憶の形成に欠かせない海馬を考えてみます。

複雑な認知作業を行う海馬では一生を通じて新しいニューロンが成長しています。

通常の老化だけでなく、認知症になった時にはとても影響を受け易いのです。

筋肉を鍛えて太くするのとチョッと似ています。

新しいニューロンが成長する速さが認知活動に左右されるということを知っていけばいく程、海馬のニューロン増加が著しいという重要事項に気がつくのです

海馬は記憶と深い関係があって、認知症の初期段階で一番影響を受ける器官なのです。

私は長年英国の航空会社で働いていましたが、とても感心したことがあります。

それはタクシードライバーのことです。

東京のタクシーはドアの開閉を客がしなくても自動的にしてくれますが、ロンドンのタクシーは自動開閉はしなくても住所を告げると確実に目的地まで行ってくれるということでした

ロンドンのタクシードライバーは市内のどの道にも詳しくて、行き方や目的地全てを頭に叩き込んでいるのにはとにかく感心しました

今になって考えると、ロンドンのタクシードライバーの海馬は普通の人よりずっと大きいのではないかしら、と思うのです。

その大きさは・・・タクシードライバーを長年やっている人ほど海馬が大きいのでしょう。

ある種の認知活動の量が増えると、その活動関係の神経の構造が大きくなるのではないでしょうか

海馬の神経の構造の成長が使えば使うほど促進される、ということでしょう

私が乗ったタクシーのドライバーはみんな結構年配者だった、と記憶しています。

「プライベートハウス○○ストリート」・・・これだけで目的地に行けた、ということはドライバーの海馬を絶えず刺激して、日頃から認知活動を盛んに行ってきた積み重ねが老化を防いていたのでしょうか

ロンドンのタクシードライバー以外にも海馬が大きくなる職業はあるのでしょうか

色々探ってみたいと思います。


脳出血直後の左脳の働き、私の場合』

2014-02-16 06:58:03 | Weblog
近年、脳のミステリーに対する関心は年々高まってきています。

研究者だけではなく、一般人も「何故右脳と左脳に分かれているのか?」とか「右脳と左脳はどう違うのか?」等など・・・

私は・・・実は自分が脳出血で倒れて右片麻痺を受容してから、俄かに興味を持ったのが「脳の不思議」でした。

言語と脳を考えると、思い違いの誤りに気づくのです。

言語の能力は左脳が大きな役割を持っているという長年に亘る定説があまりにも一般社会にまで浸透してきました。

脳卒中や外傷性脳損傷などは左脳をやられると言語障害になり易い、と言われています。

そして、これは大人の場合で子供はその限りではない、と言われているのです。

私が脳出血に遭遇してやられたのは左脳でしたが、失語症にはなりませんでした。

確かに入院後一週間では私の言葉はあやふやだったようです。

それはどんな大病にもありがちな事だと思います。

失語症を免れたのは英語脳のお陰だと自分は思っていますが、確かに言葉に関しては「大変だった!」という実感はありませんでした。

これも・・・確かに英語脳という尾状核が活発に働いた、というのは否めません。

損傷した左脳が英語脳のお陰で日本語という言語にも一生懸命働きかけてくれたのかもしれないとさえ思っているのです。

発病後、左脳をやられた私がかなり早くから言語を取り戻していたのも事実です。

体験した私が「左脳をやられても言語が大丈夫!」と明言するのですから、結構、信用出来るでしょう

自分の老化を考えながら自らに答を・・・知恵ってなあ~に?

2014-02-11 05:21:49 | Weblog
前にも記しましたが、年をとってくると、知的な作業はだんだん苦手になってきます

その代わりに不思議な事に様々な難問解決に自分らしい認識の無形パターンが一役買いに出てくるのです

だから『脳のミステリー』を開かずにはいられないのです。

自分の貯蓄箪笥(貯金に非ず)の引き出しから何かしら役立つものが出てくるものです

そのまま使ってもいいし、チョッと手を加えてもいい掘り出し物があるものです

人間の脳は多くの層からなっていて、ひとつの層に夫々の人の数多い経験が詰まっているのです

掘り出し物にきちんと経験が保存されていれば、それは知識が豊富だという訳です

難問を目前にして、長年保存されてきた経験を修正したりして使えば意志決定が容易く出来るのではないでしょうか

元来「ながら族」ですから、私は体験で貯め込んだ知識に更に新しい経験をして最新の知識を貯めていこうと、欲張っています

老いって?長期記憶と認知症

2014-02-05 20:43:45 | Weblog
老いを感じるようなると気になってくるのは「物忘れ」でしょうかね

老齢とは言いたくない

せめて高齢と言いたい

敢えて「物忘れ」とは言わずに「ど忘れ」と言いましょうか

だから私の周りは「ど忘れ」だらけ

大丈夫、すぐに思い出すから



どんなに些細なことでも、どうでもいいことでも何でも全て記憶に残っていたらどうでしょう

重なり合う記憶が洪水のように押し寄せて来て洪水のように氾濫寸前になったらどうしましょう

脳の機能で創り出す記憶の殆どはすぐに消えてしまうのが常なのです。

長期記憶と短期記憶のふたつの記憶は殆どの人が名称だけでも知っているのではないでしょうか

初めて聞く音、見慣れない顔、知らなかった事・・・未知の情報に遭遇した瞬間に新しい記憶は創り始められます。

そして、情報を取り込む感覚器官が処理を始めるという訳です。

つまり既に脳が持っている知識と拘っていくのです。

初めて聞く音・・・わあ、いいメロディ

初めて味わう食べ物・・・まずっ

初めて嗅ぐお香・・・あら、いい匂い

見慣れない顔・・・わっ、おそろしい顔

見慣れない花・・・綺麗、何という名

知らなかった事・・・ウソホント素晴らしい話

初めての訪問国・・・来てよかった

脳の中で確実な長期記憶が形成されるまでには、かなりの時間と多くの助けが必要になるのです。

そして長期記憶になった情報は事故やウイルスで脳にダメージを受けてもまた痴呆になってもビクともしないのです。

認知症の告知が降りても「お爺ちゃんが戦争の話をすると止まらないんですよね」とか「お婆ちゃんが若い頃は銀座によく買い物に行ったのよね」とまともな話に花が咲くのです

追憶の中で長期記憶の紐を解く老人の話は快く聞いてあげればいいのでしょうかね

もっと自らの老化を考えてみよう!

2014-02-02 12:04:21 | Weblog
精神が脳の産物であるということは何となく分かっていても、現実には脳が精神を作り出しているという認識は表面的にしか受け入れられていないのではないかと思います。

人間の身体は筋肉がないとほんの僅かな動きも出来ません。

自分自身が脳出血の置き土産として右半身に片麻痺を貰ってから、動かない右足は何かしらの筋肉が多少でも働くと動くのを知っています。

一方、右の上腕は何でもいいからと思っても動く筋肉が見つからないので「知らぬ存ぜぬ」で全く動きません。

精神活動も脳が正しく機能しなければお手上げ、ということでしょう。

必ず脳の何処かしらが動員されない限り活動は見られないという訳です。

このように考えると、脳と精神の関係が面白いように分かってくるのです。

脳の老化・・・気が滅入る事実ばかりでしょうか

脳の委縮・・・気づくのはマイナス面ばかりでしょうか

私はそうは思いません

敗戦っこの私も脳の老化現象が気になる年齢になりました。

自慢だった記憶力は覚束なくなってきました

集中力も以前のように続かなくなってきています

でも、最近になって少々賢い知恵が身についてきていると感じることがあるのです

まあ、ズル賢さもなきにしもあります

でも、少なくとも判断力と分別は健在だと思っています

精神や脳の老化現象はマイナスに出るだけではないと思います。

私の場合、脳の老化は右脳への依存が少なくなってきて、その分、左脳が盛んに働くようになってきているのを自ら感じ始めています

左脳が活発になってきているからでしょうか、最近は難問を抱えても閃きが助けてくれるのです

この閃きが只者ではないのです

また自らの老いを考えてみよう!

2014-02-01 04:42:26 | Weblog
年を重ねてくると、頭を振り絞るような知的作業は難しくなりますが、洞察力はかなり伸びてきているように思います。

妙なことに、面倒な問題を抱え込んであれこれ考えていると、全く無関係と思われることに出くわすことがあります

自らの頭脳を叱咤激励して働かせなくても棚から牡丹餅状態に落ちて来るから面白いのです。

長年「知恵の定説」を念頭に生きて来た私は今「知恵の逆説」を考えています。

子供の頃に好奇心や探究心という知恵の種が蒔かれて、大きくなって成長して、体験を通して栄養を与えられて、最終的には人生の終わりの頃に収穫の時期を迎えるのだろう、と思います

実は今、私は新しい仕事に取り掛かり出したところなのです

この仕事はこれまでの仕事を土台にしていることに変わりありません。

自分自身が老化を意識しているので、捉え方や進み方は今までとは違ってくるのが分かるのです

そして、加齢に反して脳が賢くなってきているのではないかしらと私は自負する可笑しな人間なのだ、と思っています

そうなってくると、俄然第二の人生を自ら見てみたい、と思う訳です

以前、老後という言葉に疑問を持っていたことがあります。

理由は、老いの後ってどういうこと

老いの後って死しかなじゃない

でも面白いことに自ら「老い」の中に入って考えると・・・

そこは「探究心」をくすぐる要素がいっぱいあるのです