時間の外  ~since 2006~

気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

幼なじみの実家のある街

2021年05月22日 | 日々の、あれこれ

 

 

私が少年時代を過ごした町には、私のお気に入りの洋食屋さんがある。

そのお店のカレーが大好きな私は、そのカレー目当てに、少年時代を過ごしたその町にたまに行くことがある。

コロナ禍の中では中々行けないでいるけど、コロナの心配がなかった時は、たまに。

今私が住んでる町と、その町は、それほど遠くはないので。決断すれば行ける距離。

 

私が若かった頃、その店にはちょくちょく行っていた。カレー目当てで。

今では私はすっかりおじさんになってしまったが、幸いなことにその店はまだある。

私がけっこう年齢を重ねていくと同時にその店のマスターもママさんも年齢を重ねているはずだし、私が若かった頃にはその店のマスターもママも私よりけっこう年上だった(親子に近いぐらいの年齢差はあったと思う)ので、今では完全にシルバー世代だと思う。

でも、今はその店では、そのマスターの息子さんかもしくは若いバイトさんが客の対応をしているので、私がその店に今行っても、その店のマスターにもママにも顔を合わすことはない。

いや、マスターは厨房の中にいて料理を作っているから、顔を合わすことはないのは仕方ない。

だが、味はまさに「あの味」のままなので、きっと今でも同じマスターが調理しているのだと私は思っている。

ただ、ママの姿は見かけない。どんな事情があるのかは私にはわからないし、踏み込んで聞くつもりもない。

 

まあ、その店のことはともかく、とりあえずその店目当てで、私が少年時代を過ごした町には今でもたまに行くのだが、せっかく行ったのなら・・とばかりに、ついでにその町を散歩したりすることがある。しょっちゅうではないにしても。

 

私が通った小学校がその町に今でもある。ということは、小学生当時、同級生たちはその町か、その町近辺に住んでる子たちは多かった・・ということだ。

小学校当時、私はそれなりに何人もの級友たちの家には遊びに行ったので、その同級生たちの家がどこにあるかは当時わかっていた。

 

で、最近その町に行ってカレーを食べたついでに、かつて同級生たちが住んでいた家が今でもあるのかどうかを確かめようと散歩したりすることがある。

私が覚えている同級生たちの家を全て1回で周るとなると大変なので、何回かに分けで。

前回はあのエリア、今回はこのエリア・・という感じで。

 

で、そういう散歩をしてると、かつての同級生たちの家・・・まあ、実家と言ってもいいだろう・・は、今でも残っている家もある。

表札を見ればわかる。

もちろん、今では無くなっている家も多いのだが。

 

今でも当時と同じ表札がかかっている家の前を通ると、思わず「○○君、まだこの家に住んでたりするのかな」とか「○○ちゃん、今はどうしてるかな」などと思いながら。

ただ、学校を卒業してから一度も会ってなかったりすると、互いに顔を合わせてもわからないかもしれない。

いや、その家に○○君や○○ちゃんが住んでたことをわかった上で散歩している私にはわかっても、いきなり訪ねてこられた相手にとっては、おじさんになった私のことはすぐにはわからないかもしれない。

なので、決して呼び鈴を押すことはない。

 

たとえ独身の頃までは実家暮らししてたとしても、結婚して家を出た人が多いはずだとも思って。

実際、そうであろうし。

 

だが・・例えば結婚した後に離婚して実家に戻ってきてる人もいる可能性もあるし、親の介護で夫婦で実家に移り住んできている場合もあるかもしれない。

一度も結婚せず、実家で暮らし続けている人もいるかもしれない。

結婚して一度実家を出たが、実家に暮らしていた親が亡くなり、親の住んでた家にひっこしてきた場合もあるかもしれない。

など、色んなケースがあることを考えると、その実家に今も同級生が住んでる可能性はゼロでもないと思う。

 

そんなことを考えると、ちょっと呼び鈴を鳴らしてみたい気になったりもするが、実際に会ったとして、何を話せばいいんだろう?などと考えると、中々呼び鈴を押すまでは・・いかない。

やはり、チラ見して「○○君、元気かな」などと思いながら通り過ぎていくのが無難な気はしている。

卒業してからも付き合いがずっと続いている人なら大丈夫だが、何十年もご無沙汰してると、やはり敷居は高い。

 

そんなことを考えると、一度「同窓会」を開催して、現在の姿に対面し、近況を多少なりとも語りあっていれば、呼び鈴も押しやすくなるのかもしれない。

もしも呼び鈴を押したいのであればね。

 

とりあえず、昔の同級生たちの実家が、たとえ建物は新しくなっていても、同じ名字の表札がその家にかかっていると、何もかも変わっていくものが多いこのご時世の中で、わずかでも変わらないものが残っているような気がして、少しだけ嬉しくなる。

 

ただ・・ひとつだけ怖いことは、その子がすでに他界している場合・・・。

呼び鈴を押して、遺族が出てきて、私が「○○君、いますか?」と聞いたら、「○○はもう亡くなりました・・」という返事が返ってきたら・・・?

その場合、なまじ消息を知らないほうがよかった・・などと思うかもしれないし、第一、遺族に対して、亡くなった○○君のことを蒸し返してしまったことになり、申し訳なく思うだろう。

やはり、その可能性を考えると、怖い。

 

現に、同窓会などでは、すでに亡くなった同級生のことを聞かされることもあるから・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2 コメント

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Unknown (キャプテンゼロ)
2021-05-23 08:05:04
便利な世の中に、なったものです。
昔なら、電車やバスを乗り継いで時間をかけないと
見られなかった郷里の風景が、グーグルマップの
ストリートビューで、簡単に見られるのですから。

しかし50年以上の歳月の重さを、感ぜずにはいられません。
街の景観の変化の大きさには、驚くばかりです。
平屋の家が、沢山あったところに小さなマンションが建ち、
銭湯のあったところが、駐車場に、
おそば屋さんの店が、ファミレスになりました。
懐かしい商店街も、すっかり様変わりして、
雑貨屋さんや乾物屋さん、古本屋さんの店舗はなくなって
コンビニ、100円ショップ、ドコモの店が、
目立つようになりました。

当時の友人関係は、ボクは詮索しないことにしてます。
みんな、社会に出て変わりました。ボク自身も…。
同窓会で話していても温度差を、感じることがあるのです。

人間が成長し世代交代するように、街も進化しています。
自分の故郷の街が、今風に発展したのは喜ばしい事ですが、
半面、自分が浦島太郎になったような、奇妙な感慨も感じます。
返信する
Unknown (だんぞう)
2021-05-23 08:40:53
ストリートビューは、私もよく見ます。
パソコンが普及してなかった頃では考えられなかったような映像を見れるようになりましたね。

昔なじみだった場所をストリートビューで見るたびに、年月による変化はしみじみ実感します。
あったはずのものがなくなり、変わりに全然別の建物が建ってたりして、同じ町でも、別の町に見えます。

でも、今のその景観にしても、今後の年月の変化で変わっていくのでしょう。

昔の友人関係は、ごく一部の人を除いて私も詮索はしないです。
たまに同窓会で会う程度だから良い…そんな関係もあると思いますし。

様々な変化の中で、私も浦島状態の心境になることはありますねぇ…。
返信する

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