私のこのブログで「音楽全般」のジャンルで特定の1曲を取りあげる時、必ずしもそのシンガーの代表曲や有名曲ではないことが、ままある。
有名曲や代表曲を避けてるわけではないのだが、有名曲もいいけど、さほど知られていないこの曲も聴いてもらいたい・・・とか、このシンガーに代表曲以外にもこんなに良い曲がある・・・そんな思いで、選曲をすることがたまにあったりする。
あくまでも個人的な思いや好みからの選択なので、選ぶのが代表曲的な曲であることもあれば、決して代表曲というほどでもない曲を選んでしまったりもする。
だが、この「一本道」という曲は、友部正人さんの、まぎれもなく代表曲の一つである。
この場合、この代表曲というより、友部さんを知らない人に友部さんを知ってもらいたい・・そんな思いで、この曲を取りあげてみる。極めてストレートな選曲だ。
私がこの曲に出会ったのは、十代の頃だった。
どういういきさつでこの曲を知ったのか・・それはもう覚えていない。
この曲が入っているから・・という理由で、「にんじん」というアルバムを買ったのか、あるいは、友部さんのレコードをレコード屋で探している時に、たまたまお店に置いてあった友部さんのアルバムがこれだからこれを買ったのか、よく覚えていない。
ともかく、買った「にんじん」というアルバムに、この曲は入っていた。
このアルバムを買った時、まず面くらったことがあった。それは・・歌詞カードが入っていなかったということだった。
友部さんの音楽は、聴いてもらえば分かるが、歌詞が非常に重要。
実際、詩人と呼ばれているシンガーだ。
だから、通常は、重要な要素である歌詞を記した歌詞カードは、他のシンガーのアルバム以上に大事なはず。
だが、入っていなかった。
それは・・・これは予想だが、歌詞はカードに頼らずに、実際に友部さんの歌声を聴いて味わってほしい・・という意図だったのかもしれない。
アルバムは、全編弾き語り。
友部さんの肉声、ギター、ハーモニカだけで、アルバム1枚通されている。
伴奏がないぶん、より友部さんの演奏や歌声や歌詞がダイレクトに伝わってくる。
色んな装飾や演出をそぎ落とした、むき出しの「歌」がそこには存在した。
友部さんのアルバムを最初に聴いた時、まるで初期の弾き語り時代のボブ・ディランを彷彿させる印象を私は持った。
だが、後年、あれこれ色んなシンガーのアルバムを聴いたうえで、友部さんのアルバムを再び聴いた時、友部さんは、デビュー当時のディランというより、むしろジャック・エリオットに通じるものを感じた。
実際友部さんはジャック・エリオットはお好きだったようで、以前何かの本で友部さんがジャックについて文章を寄稿した時、
「ジャック・エリオットはひどい近眼だ。分厚いメガネをかけているので、いつでも電車の窓ごしに風景を見て旅しているようなものだ」
こんな趣旨の文章をつづっていたのを私は読んだ覚えがある。
まあ、ディラン・・・特に初期のディランは、あきらかにジャック・エリオットを意識していたふしがあるので、友部さんのアルバムを聴いた時に、初期のディランに通じるものを私が感じたのは、それはそれで「あり」だったのかもしれない。
で、「一本道」。
これはアルバムを少し聴き進んだ時に出てくる。最初にこの曲を聴いた時は、衝撃的だった。
このアルバムには、私が好きな曲が何曲も入っていたが、その中で「一本道」は、他の曲とは一味違う「色」を感じた。
曲全体に漂う「色」が。
それは・・例えるなら、黄昏色に私には感じられた。
歌の出だしに夕焼けが出てくるから、そう感じたのだろう。
歌詞もメロディも、すぐに好きになった。メロディは他の曲よりも親しみやすかった。
友部さんのことを何かの雑誌が
「中央線を空に飛ばしてしまう」と表現していたが、その表現は歌詞として、この「一本道」の中に出てくる。
そう、
「中央線よ空を飛んで あのこの胸に突き刺され」
というくだりがそうだ。
確かに、一度聴いただけで、耳に残り、心に突き刺さる表現だった。
この表現だけでも、「普通の人には、中々出てこない表現」だと思ったが、そういう「普通の人には、中々出てこない表現」は、他にもふんだんにあった。
そのへんのセンスや才能や言葉選びが、友部さんが詩人と呼ばれるゆえんなのだろう。
世の中には、詩人の詩集が無数に出版されており、詩人の詩集を読むたびに私も刺激され、詩を書きたくなったものだが、友部さんの歌詞にも、そてはあてはまった。
こんな詩がかけたらすごいな・・と思ったし、さらにその「詩」にメロディを付けて「歌詞」として人に伝えられたら、さらにすごいなとも思えた。
友部さんの歌を聴いて、刺激を受け、歌詞を書く衝動にかられたシンガーソングライターは、当時さぞかし多かったことだろう。
私自身も、この曲からは相当刺激と影響を受けた。こんな歌が作れたら、どんなにいいだろうと思った。
この歌を聴いてると、ついつい中央線と、その駅を思い出す。
特に、歌詞に出てくる「阿佐ヶ谷」の駅。
学生時代、阿佐ヶ谷には友人の家があった。電車の窓から見える位置にあった。
阿佐ヶ谷の駅で電車を降りて、ホームに立つと、いつも「一本道」が頭の中で鳴り始めた。
改札を出て、阿佐ヶ谷の街を歩くと、とうに頭の中で鳴り始めた「一本道」はエンドレスで頭の中をまわっていたりもした。
また、中央線に乗っていても、この歌を思い出したりした。
拓郎さんの曲「高円寺」と共に。
70年代フォークソングには、中央線は良くにあう。
高円寺や吉祥寺には、ライブハウス系の店は今も多い。なので、中央線はフォークというより、音楽がよくにあうのだろう。
中央線沿線が音楽が盛んなエリアだとしたら、友部さんの「一本道」は、そんな環境の中で登場した楽曲の中でも、一際輝きを放つ宝物のような1曲ではないだろうか。
というか、日本のフォークシンガーと呼ばれた人たちが作ってきた全ての楽曲の中でも、一際輝きを放つ曲・・・と言っても過言ではないと思う。
歌詞は、聴き手がそれぞれの感じ方で受け取ればいいと思うので、歌詞の解釈はここではしないでおく。私がそれをしたとしても、それはあくまでも個人的なものだから。
ともかく、心に突き刺さってくる歌詞だった。
「一本道」のような曲を、この曲を知らない1人でも多くの人に聴いてみてもらいたいと思う。
私がこの曲をこのブログで取りあげるまでの過程は、決して一本道ではなかったので、余計にそう思う。
この曲を取り上げるのは、なにやら怖かった。いつも、いつか取り上げたいと思ってはいたが、中々手を出せずにいた。いや、これまであえて手を出さないで来た。
でも、思い切って取り上げてみたが、私の拙い文章ではとてもこの曲について書けたとは思っていない。
友部さんの声、ギター、ハーモニカ、そしてこの曲。それだけあれば、この曲には十分すぎる。他には何もいらないし、余計な装飾は、いらない。かえって、無い方がいい。
たった1人で、どんな編成の(それが大音量のロックバンドであっても)出演者のファンの耳をもかっさらってしまう、究極の弾き語りシンガーだと思う。
やっと、この曲をこのブログで取り上げてみたが・・・・とりあえず、今この歌を取りあげて、私がこの自分のブログに対して思うことは・・
これでいいのだろうか・・・。
「訪ねてみても誰もこたえちゃくれない、だから僕ももう聞かないよ」。
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