誤認を誘発してしまった「複郭陣地」の存在①
1944年の10月10日の少し前(前回の引用文をご参照ください)ということは、第三大隊が渡嘉敷島に上陸したのが9月9日ですから、日付の確定はできませんが大体一ヶ月前後の時期だと思われます。それに進捗状況は不明なのですが、この頃は既に舟艇基地群の構築作業が始まっていました。
鈴木少佐がとった一連の行動から推察するに、第三戦隊のサポートである舟艇基地群の建設と同時に、第三大隊にとっては二次的な任務であった渡嘉敷島の防衛、すなわち地上戦への対処も同時に行っていたのではないか、という可能性を導き出せると思います。
引用文からすると、前島の防衛をするために一個小隊を駐屯させるということなので、舟艇の秘匿基地建設のためではないということがわかります。
もっとも、一斉に出撃して一斉に攻撃するのが舟艇攻撃(特攻)の原則ですから、前島のような離れ小島に舟艇基地を設置するということは、戦術的な観点からすれば考えられません。あまりにも距離が離れすぎており、当時の日本軍が持つ通信等のネットワークは貧弱ですから、正確・精密な連絡・連携が著しく困難であったはずです。当然、第三戦隊の赤松大尉や第三大隊の鈴木少佐も、その辺の事情は熟知していたと思われます。その結果が一個小隊の駐屯ということではないでしょうか。
そういったわけですから、鈴木少佐は二次的な任務とはいえ比較的早い段階で地上戦を想定したうえで、舟艇基地群構築の遅延というトレードオフの懸念がありながらも、あえて駐屯させようとしたのではないか、という推測が成立するのです。
そして上記の推測が成立するならば、本来は二次的な任務であった渡嘉敷島の防衛を一次的、あるいはメインとして考察した場合、前島というのは軍事的、地理的な位置関係からしてサブになるかと思われます。前島が渡嘉敷村に帰属しているとはいえ、メインはあくまで渡嘉敷島となります。
そのようなサブ的な前島まで部隊を配置しようとしたということは、メインである渡嘉敷島の、地上戦を想定した部隊配置も既に決まっていたのではないか、という推測も成り立つのではないでしょうか。
米軍が上陸してきたと仮定した場合、渡嘉敷島内でどこにどんな部隊を配置するか、どのような陣形や態勢で迎撃するかといったようなものが、第三大隊の大隊長である鈴木少佐の指揮において、第三大隊が渡嘉敷島に到着してから比較的早い段階で、ある程度は形成されていたのではないかということです。
それが複郭陣地の「選定」として出現したのではないでしょうか。
ただし、「この場所に陣地を置く」というような「決定」をしただけでした。別の言い方をすれば地図上の中でのみ存在するということです。従って実際は陣地の構築・建設はされていませんし、先述の通り造りたくても造れなかった状況があるのです。
しかしながら前島と同様に、むしろ前島よりも詳細に渡嘉敷島の地形等を調査し、そのような結果をもってして、あの場所(現在の青少年交流の家周辺)に複郭陣地を選定した可能性が高いのです。つまり、渡嘉敷島本体を調査・検討し、その結果を出したうえでの前島駐屯の準備、ということになると思います。
また、島嶼の防衛という軍事学な観点からすれば、実際に選定され結果的に第三戦隊が各自集合していった複郭陣地というのは、渡嘉敷島の地形等を検討した結果、「布陣するのはあそこしかない」という場所でもあるのです。その点についての詳細は趣旨が違ってきますので省略しますが、簡単に説明すると、俗にいう「山城」と呼ばれた、敵が攻めにくい山の上に城を建てた理由とほぼ同じである、という程度に理解していただければ十分だと思われます。
舟艇基地群の構築・建設が様々な理由によって遅延したため、兵力や労力をそちらへ集中しなければならず、選定した複郭陣地の設営・構築(地下壕を含む)は当然のごとく後回しになったのではないか、と思われます。むしろ舟艇基地群の構築を完了させた後に、地上戦に備えた複郭陣地の設営をしても遅くはない、という考えがあったかもしれません。常識的に考えれば、そういった順序であっても決して間違いではないと思われます。
さらに前島へ部隊を結果的に駐屯させなかった一番の理由は、上記のような実情によって断念したことではないのでしょうか。もしくは兵力の分散を嫌ったのかもしれませんが、いずれにしても資料がないものですし、ここで考察することは趣旨から外れると思われるので、これ以上の追及はいたしません。
鈴木少佐が自ら北山(ニシヤマ)周辺(現在の青少年交流の家周辺)に赴いて視察し、測量や調査等の指揮をとったかどうかも全くの不明です。元軍人や住民らの証言もありません。
従って、鈴木少佐が複郭陣地を選定したかどうかの断定はできませんので、当ブログでの考察は仮説の一つであることを強調します。
そうはいっても複郭陣地が既にあったという事実によって、「地下壕も」あったというような誤認を誘発させたということについては、特に変わりがないと思われます。
もっとも、これは複数ある原因の一つであって、少なくともあと二つの原因があるのではないかというのが個人的見解です。
その点については次回以降に続きます。