あそこを「複郭陣地」に選んだのは誰?②
前回は「複郭陣地」が既にあったことが原因で、造りたくても造れなかった「地下壕陣地」も存在していたという明らかな誤認を、少なからず誘発してしまったのではないか、ということについて考察してまいりました。
今回は誰が最初に複郭陣地を決めたのか、ということについて説明したいと思います。
また、「複郭陣地の場所が分からない」という方がおられるかもしれません。そういうことであるならば、文献やインターネット等でお調べいただくと、「集団自決跡地」とともに簡単に見つけることができます。場所や位置関係をもっと知りたい方も、できればご自分でお調べいただいたほうがよいかと思います。
ここで確認するべきことは、舟艇基地群と複郭陣地は全くの別物であり、集団自決は複郭陣地の内側で起こった、ということだけを掲示するにとどめます。
誰が最初にといっても、もはや第三大隊の大隊長しかいないことは前述したとおりです。第三戦隊のサポート後は歩兵部隊として渡嘉敷島に残る予定だった、海上挺身基地第三大隊の大隊長、鈴木常良少佐です。なお、渡嘉敷島赴任中に大尉から少佐へ進級しましたので、ここからは便宜上鈴木少佐と統一いたします。
しかしながら、先述の通り第三大隊に関する資料が全くありませんので、それが鈴木少佐であると断定することが極めて困難な状態です。
それでも鈴木少佐が最初に決定した可能性が、非常に高いことを示唆するような状況証拠がありましたので、少し長いですが引用させていただきます。
「十・十空襲の少し前、住民から『将校以下五人の兵士が無断でうちの畑を測量しています』という知らせがあった。(中略)間もなく渡嘉敷駐屯の海上挺身第三基地隊長、鈴木常良陸軍大尉がやってきた。(中略)何のための測量ですか?『一個小隊の兵を置くための準備だ』。なぜ、兵隊を駐屯させるのですか?『君たち住民を守るためだ』。太平洋各島では住民も多数が玉砕していますね。『おれたちが駐屯するのは住民を玉砕させるためじゃない』。(中略)兵隊がいると敵の兵隊がきて戦います。(中略)友軍の兵隊がいない方が住民は死ぬ機会が少ないと思いますが。『バカモノ、貴様は何をいうか。貴様は反戦思想の持主か』。(中略)私は上海事変に従軍した現役の陸軍上等兵で、元警官です。軍がいない方が住民は生き残る可能性が強い。(中略)『無礼者め!』(中略)どなりはしたが願いはかなえてくれた。人間として友達づきあいのできる人だった。
鈴木隊長は続けて言った。『前島の全責任を持て。いかなることでもやるか』どんなことでもいたします、と答えた」
以上の引用は前島という小さな島でのエピソードです。
前島というのは渡嘉敷島北東約7㎞に位置する島で、行政区は渡嘉敷村に属しています。もっと詳しく知りたい方はグーグルマップ等でご確認ください。
現在は無人島のダイビングスポットとして有名らしいのですが、沖縄戦当時はこの島で住民が生活していました。
「十・十空襲の少し前」という証言からすれば、沖縄が初めて本格的に空襲された1944年(昭和19年)10月10日の少し前、ということになります。その時に複数の兵士が前島にやってきて測量等の調査が始まり、そのあとから第三大隊の大隊長である鈴木少佐も前島を訪れたということになります。
第三大隊はその前島に一個小隊(数十人程度だと思われます)を駐屯させようという予定でした。しかし住民側が丁重に断り、鈴木少佐も怒りはしましたが、結果的に住民側の要請を受け入れたということになります。
このエピソードは渡嘉敷島の集団自決と直接は関係ないものの、「軍隊がいなかったから被害がなかった」や、「軍隊がいなかったから集団自決が起きなかった」というような主張をなさる方々に好例として度々取り上げられていますから、ご存知の方がいるかもしれません。実際、集団自決はおろか米軍の攻撃もされておらず、一人の戦死者もなかったそうです。
ただし、ここでは「軍隊がいなかったから」云々については、取り上げた主旨が違うので考察はいたしません。この点についてご興味がある方はご自分でご確認ください。
一つだけ個人的見解を述べるのならば、同じ慶良間諸島の阿嘉島では軍隊がいるにもかかわらず、集団自決が起きなかったという事実を取り上げるのみです。
次回以降に続きます。
参考文献
榊原昭二『沖縄・八十四日の戦い』(岩波書店 1994年)