空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」③

「自決命令」から「軍の命令」へシフトした瞬間

 

 前回まで「自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」というシフトがなされてきたということを延々と書きました。それが集団自決の実像解明の弊害あるいは阻害しているのではないか、ということも指摘しました。詳しくは当ブログ「言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」」①と②をお読みいただければありがたいです。

 

 では一体どのような感じでシフトしていったのかということを、具体的な例を挙げて考えてみたいと思います。今回は「赤松大尉の自決命令」から「軍の命令」へとシフトしたといえる「瞬間」です。

 

 この場合、シフトしたということは変わったということにもなりますから、それを示すエポック的なものや象徴的なものが必ず存在するはずです。自分なりにいろいろ探してみた結果、とある有名な証言がそれに該当することと判断いたしました。

 有名とはいいましても、渡嘉敷島の集団自決を研究する人や、集団自決に興味がある方なら誰もが知っている証言という意味です。また、この証言がその後の渡嘉敷島集団自決における、「軍の命令説」に対する決定的な証拠として数々の文献に取り上げられていますので、そういった意味での有名ということでもあります。

 

 その証言とは「兵事主任の証言」です。ご存知の方もおられるでしょうが、ご存知ない方のために引用いたします。

 

 それでは1988年6月16日付の『朝日新聞』(夕刊)から。

 「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」

 

  一般的常識で考えれば、この記事を読んだら「軍の自決命令」があったのではないか、と考えるのではないかと思われます。「兵器軍曹」が部下に命じて手榴弾を用意し、役場職員と少年たちを集めて「自決せよ」と「命令」しているのですから、軍からの命令はあってもおかしくはない、というような印象を持つことができるのではないでしょうか。

 

 では早速、シフトしたという観点から考察してみます。

 一読していただければわかると思いますが、この証言には兵器軍曹が命令したということだけで、「鉄の暴風」に掲載された「赤松大尉の自決命令」については言及されていません。

 

 軍隊というのはご存知の通り「上意下達」が基本中の基本ですし、特に日本陸軍の場合は敵の米軍よりもシビアな上意下達、究極的なものといっても過言ではないほど厳しかったです。「上官の命令はすなわち天皇の命令」なんて典型的な例だと思います。これは厳密にいうと必ずしも正しいとは言えない例なのですが、その雰囲気を感じ取ってくれるだけでよろしいかと思います。

 上意下達を順々と辿っていけば、当然のごとく赤松大尉に到達することは明白であります。そういうことであるならば、この兵事主任の証言に出てくる自決命令は、赤松大尉が発したものと断定することが可能です。

 

 「渡嘉敷島の隊長さん」は赤松大尉なのですが、ある時期までは隊長が二人いました。海上挺身第三戦隊の赤松大尉と、海上挺身基地第三大隊の隊長です。一見すると似たような名称ですが全くの別部隊で、戦闘序列は同列でした。わかりやすく言うと二人の上司は同じなのですが、組織としては主従関係でも上下関係でもないということです。現在の会社組織と同じです。

 ちなみに海上挺身基地第三大隊の任務は、海上挺身第三戦隊用の基地設営・構築・船舶の整備で、海上挺身第三戦隊が出撃等により渡嘉敷島から出てった後は、渡嘉敷島を防衛をすることになっていました。現実にはそうならないで、海上挺身第三戦隊が渡嘉敷島に残ったということになります。

 

 隊長が二人いた場合、兵器軍曹の所属先によっては、赤松大尉の部下ではないということになります。しかし「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか」という証言に誤認がないのであるならば、二月中旬に海上挺身基地第三大隊は海上挺身第三戦隊に編入された事実がありますので、この兵器軍曹は赤松大尉の部下ということになります。

 

 しかし、あくまでも理論上という領域の枠から抜け出すことができません。特に説明するまでもありませんが、上意下達というものは複数の人が介在しておりますゆえに、「独断専行」等といった何らかの理由により、いくら厳しい上意下達といっても、赤松大尉以外の人物が自決命令を出したという可能性が存在するからです。つまり少なくとも上記の証言だけでは、「赤松大尉が発した自決命令とは断言できない」ということです。極言すれば兵器軍曹が勝手に出した命令という可能性も、この証言からは否定できないのです。

 

 そうなると、次は兵器軍曹の存在が重要になってくるのは当然の帰結になるでしょう。特定することができるのであれば、この証言を補完できるものであることは言うまでもなく、自決命令がどのようなものだったかという実像の解明が、全てではないにしろできるということになります。

 

 そもそも兵器軍曹とは何か、ということになりますけど、上記の証言だけでは特定できません。それでもある程度の推測は可能だと思います。

 「兵器軍曹」という、いわゆる役職といったものはありませんが、中隊レベルの組織になると「兵器掛」というものが存在し、通常は軍曹といった下士官レベルが担当します。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」という証言と突き合わせてみると「兵器掛」だった可能性があります。また手榴弾が入った木箱を二つ、部下に運ばせている場面もあります。これは船舶と爆雷がメイン兵器の海上挺身第三戦隊より、のちに編入された歩兵部隊でもある海上挺身基地第三大隊のほうが、常識的に考えれば大量の手榴弾を所有している可能性が高いので、元は第三大隊所属だったのではないかという推測も可能です。

 ただし、あくまでも推測の域を出ないことを付言します。

 

 次にくるのが「兵器軍曹は誰なのか」ということになります。

 軍曹というからには元軍人の証言といった資料や「陣中日誌」「戦闘概要」「戦闘詳報」等、といったもので特定することが可能になるかもしれません。しかしながら元軍人の証言でさえありませんでした。ちなみに海上挺身第三戦隊の陣中日誌は戦後になって加筆・訂正されたそうです。要はオリジナルではないということです。

 

  従って、どこの所属だか2019年の時点でも不明なのです。誰も誰だか知らないということです。他に補完するような資料、具体的には証言というものがないんです。要はこの兵事主任の証言だけなのです。それゆえ資料を突き合わせて考察すること自体が、2019年現在でも不可能になっているということです。 

  

 それどころか、上記の資料自体を相互参照・相互補完できる資料自体がないのです。インターネットでの検索も同様です。

 個人的な見解ではございますが、このブログを書くにおいて土台にした自らの卒業論文(放送大学に提出)を製作中だった2007年頃から、不思議だなと思い続けていました。しかもインターネット上では、同じような考えをお持ちになられた方もおられるようですが、ここでは参考程度で受け止めていただきたいです。

 

 証言の内容を一読していただければ、登場人物が多いことに気付くはずです。役場職員たち、少年たち、そして軍人たち合わせて数十人程度ですね。それなのに資料が出てこないのです。しかもこの集合に参加した人たちはもちろんのこと、集合している光景を見たという証言もないし、聞いたという証言もなく、軍人も同様な状況なのです。 似たようなもの、関連性がありそうなものでさえ見当たりません。

 参加した人や見た人聞いた人が、戦争中や戦後に亡くなられてしまった可能性も十分ありますし、結局残ったのは元兵事主任だけということかもしれませんが、とにかく不明であることだけは確かです。

 

 ないものを延々と説明することは脇に置いといて、「自決命令」→「軍の命令」へシフトしたという瞬間に戻ります。

 

 そういった観点に立ち戻れば、この証言によって「軍の命令」があった可能性が高いということもできるのです。別の言い方をすれば「赤松大尉の自決命令はなかったかもしれないが、軍の命令はあったはずだ」ということになります。

 

 ここが「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」、すなわち具体的なものから抽象的なものへシフトした「瞬間」だということが言えるのです。そして同時に適用範囲の拡大も行われた結果「鉄の暴風」に描写された「赤松大尉の自決命令」は、自動的ともいえるような形で無視または排除されたわけです。

 

 さらにいえば「赤松大尉の自決命令」がなくても「軍の命令」として、軍や日本に対する集団自決の責任追及を難なく継続できることが可能になったのです。

 なぜ継続できるのか、継続させるのか、ということについては当ブログの①と②を読んでいただければありがたいです。

 

 ここではシフトしたことに中心に書きましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。

 

 

次回以降に続きます。

 

追伸 

「兵事主任の証言」を参照・補完できる資料がないと書きましたが、もし何かあることをご存知な方は、遠慮なさらずコメント欄でご教授をお願いします。自分は完璧な人間ではございませんので、どこかに見落としがあるかもしれません。


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