慟哭──嘆き悲しみ泣き叫んだ!はずなのに…
前回はどちらかといえば住民側、つまり「自決命令」を発した指揮官の具体的な文言を聞いた人、あるいはそれ以外の「自決命令」を聞いた人について考察しました。今回は発した側とされる軍側つまり第三戦隊についてです。
結果を先に述べますと、やはり指揮官の文言を聞いたという元軍人の証言はありませんでした。
しかしながら「鉄の暴風」に描写されたある場面と、それに対する元軍人の証言について、大変興味深いものがありましたので、まずはそれを「鉄の暴風」から引用してみたいと思います。
「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食料を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛感した(原文ママ)
これは当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」①」で掲示した箇条書き15の原文です。戦後に判明したということで、主張した時期というのは特定されていませんでしたが、常識的に考えて上記の文脈を考察し、知念少尉が声をあげて泣いたとするならば、この描写は集団自決の前だという可能性が高いです。
それに対して上記に登場する元副官の知念氏は、聞いたことがないという証言をしております。さらには指揮官が主張したとされる場所だった地下壕自体がなかった、という証言もさることながら、自分は慟哭なんてしていないという証言まであります。また少なくとも昭和45年まで沖縄の報道関係者からは、一切インタビューを受けていないそうです。「鉄の暴風」の初版刊行が昭和25年ですから、知念氏の証言に記憶違い等の誤認がなければ、上記引用文のいわゆる元ネタは知念氏ではないということになります。ちなみに副官というのは、部隊の隊長といった将校につく専属の秘書みたいなものですから、知念少尉は赤松大尉の副官ということになります。
これも先述した赤松氏の場合と同様、「鉄の暴風」と知念氏の証言だけで検証するには情報が少なすぎて、あったなかったの単なる水掛け論に終始してしまいそうです。
証言の検証というのは相互補完ができない以上、次に進めることができません。赤松大尉の文言もそうですが、「なかった」という証言を補うような、第三者等の証言といった資料とつきあわせてみなければ、確かめようがないことは理解していただけると思います。この場合「鉄の暴風」のみですから、こういった事実があるということを提示するにとどめます。
さて、情報が少なすぎるとは書きましたが、別のアプローチから見ると新たな疑問点が浮かんできます。それは知念氏の証言にある「地下壕はなかった」という部分です。これは当ブログの「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」①」で提示した個人的に気になる点「地下壕陣地ってどこなの?」とも合致する点です。
自分は歴史学において、様々な事象に様々な角度から焦点を当て、より一層の実像を解明する事が肝要と信じています。従って、ここではどこの地下壕だったのかという場所の特定をして、より集団自決の実態を明らかにするその一助になればという、ささやかな思いがありました。しかしそれとは裏腹に、元軍人の「地下壕陣地はない」という複数の証言があるということは、赤松大尉の「自決命令」と同様、地下壕陣地があったのか、それともなかったかを「鉄の暴風」以外の資料で検証することも重要ではないかと考えます。
人によっては些末な問題じゃないかと思われるかもしれませんが、その些末な問題を訥々と粛々と解読していくのが、歴史学の基本だと思っております。
それに地下壕陣地の存在の有無は、ノンフィクションであるはずの「鉄の暴風」に記載された描写にも、少なからず影響していきます。
また、少なくとも住民の証言は信用するが、軍人の証言は信用しないというような、偏見に満ちた姿勢ではないということを強調しておきます。
というわけで、いつになるかはわかりませんが、次回以降から地下壕陣地の有無について検証したいと思います。
参考文献
別掲『鉄の暴風』
別掲『ある神話の背景』