空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 中編②

「沖縄戦」から未来に向かって 第2回①


 第2回において、そのキーパーソンとなるのは元渡嘉敷村長の存在です。

 1950年に出版にされた「鉄の暴風」取材時の当事者に元村長がいて、1973年出版の「ある神話の背景」にも元村長の証言が掲載されているということが、1985年に交わされた曽野氏と太田氏の論争にて明らかになりました。
 さらには、全く同じ当事者に取材しているにもかかわらず、全く相反する結果が出ている現象がおこっていることも見受けられています。

 渡嘉敷村の村長という立場を常識的に考慮すれば、集団自決においては明らかに何らかの中心的な役割を果たした可能性が高いのであり、その点については曽野氏も既に同じことを指摘しております。
 したがって「赤松大尉の自決命令」の有無ということについて、元村長の存在が核心部分になってくるのではないかと思いますので、曽野氏の主張と共に掘り下げてみたいと思います。

 まずは少し長くなってしまうのですが、第2回から引用させていただきます。


 「私『安里さん(当時の駐在巡査)を通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか』
古波蔵氏『ありません』
私『じゃ全部安里さんがなさるんですね』
古波蔵氏『そうです』
私『じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか』
古波蔵氏『私へ来るんです』
(中略)
もしこの会話が古波蔵氏の嘘でなければ、赤松大尉が自決命令を出したことは、安里巡査には証言できても、そこにいなかった古波蔵氏には証言できないことになる。ましてや太田氏が書いたように、赤松大尉が壕の入り口に立ちはだかって住民を睨(にら)みつけた、というような場面は、かりに実際にあったとしても、古波蔵氏には証言できない。(中略)そして、私が安里氏に直接会って聞いた時、安里氏は自決命令がだされたことについては、はっきりと否定したのである」


 引用文の中にある会話形式の「私」は曽野氏で、「古波蔵氏」は元渡嘉敷村長、「安里さん」は当時の駐在巡査ということになります。

 繰り返しになりますが、太田氏によると「鉄の暴風」での取材時には、元渡嘉敷村長がいたことになります。ただし、どのような証言をなさったのかは不明で、太田氏の主張からは具体的内容が全くわからないものとなっています。
 それに対して「ある神話の背景」では「自決命令は聞いていない」と明確に証言しているということになります。

 このような状況になっているがゆえに、第三者からすれば「鉄の暴風」の取材時に元渡嘉敷村長は何を話したのか、太田氏は何を聞いたのか、という当然の疑問がわいてくるかと思われます。曽野氏の主張も直接的ではありませんが、そのような矛盾に対する疑問を展開しているように見受けられます。「自決命令は聞いていない」というのに「自決命令が出された」とはいったいどういうことなのかといったものを、この第2回で暗に主張しているのではないかと思われます。
 別の言い方にすれば、「自決命令の有無」という矛盾に対して、そのキーパーソンとなる元渡嘉敷村長の存在が空白を醸成している状態である、ということにもなるかと思います。

 ではその空白とは何かということになりますが、本来であれば曽野氏の疑問に対する太田氏の返答となるはず、あるいは返答となるべきでした。

 再度の繰り返しになってしまいますが、太田氏に取材を受けた時、「自決命令の有無」に関するキーパーソンである元渡嘉敷村長は何を話したのか、どのような内容を太田氏に披露したのか、ということです。
 従って太田氏はこの論争の反証として、元渡嘉敷村長が話した内容を提示することができれば、内容の実像はどうあれ、少なくとも空白は埋まったのはずなのです。その空白が埋まれば自動的とはいかないまでも、さらには結果がどうなろうとも、それなりに矛盾が解消されたのではないでしょうか。

 しかしながら太田氏はその点について、少なくとも「沖縄戦に「神話」はない」では答えておりません。元渡嘉敷村長へ「取材したことを思い出した」だけで、そこで何を聞いたのかは一切言及しておりません。
 参考がてら「沖縄戦に「神話」はない」から、元渡嘉敷村長に言及した部分を引用いたします。


 「確かな記憶がないが、その中に、戦争中の渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏がいたことをようやく思い出した。(中略)古波蔵氏とは、その後も二回ほど会っている。(中略)この再度の訪問で、私が知りえた事実のなかには「鉄の暴風」に記録されなかったものもある。「ある神話の背景」のなかの他の箇所について反ばく材料があるが、伝聞証拠説に関する本筋から外れるので、ここでは割愛することにする」


 言及しないということは「言及したくない」可能性や「言及できない」可能性もあり、具体的には「忘れてしまった」「思い出せない」ということになるかもしれません。

 ただし、ここでは「思い出したり忘れたり」したことを非難・批判する気は一切ございません。記憶の曖昧さというものは、意図的あるいは虚偽でない場合を除いて誰もが起こり得るものでありますから、本来なら責めるべき事柄ではありません。

 しかしこの空白を何かしらの方法で埋めなければ、ここで発生した矛盾や疑問を解消することが不可能になってしまいます。「自決命令の有無」に対する実像が、このままの状態だと霧や霞がかかったままなのです。

 そういうことであるならば、「鉄の暴風」や「ある神話の背景」以外の資料を駆使して元渡嘉敷村長の言動を考察し、そこで推測や仮説を取り入れながら個人的見解を述べる作業を試みたいと思います。
 誰もがキーパーソンであることを認識していたのかは不明ですが、元渡嘉敷村長に関する資料は幸運にも複数ありますので、ここからは引用を交えて考察を進めていきたいと思います。


次回以降に続きます。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

最新の画像もっと見る

最近の「渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事