空と無と仮と

特攻に「志願せよ」と「命令」するのは、果たして「志願」か「命令」なのか?

いつも思うんですよね。

特攻に「志願せよ」と「命令」するのは、
果たして「志願」か「命令」なのか?

「志願」というのは当たり前なのですが、
「自ら進んで」ということです。

自ら進まない限り、「志願」にはなり得ません。
ま、当たり前ですよね。

でも、上官とはいえ第三者によって「志願」を命令・強要するのは、
自ら進んで、ということになるんでしょうか?

これを現代社会の例にしてみると、
「辞めろ」とは言わず、
「辞表を出せ」ということになるのでしょうね。

解雇といった会社都合ではなく、
自己都合の退職、
すなわち自ら進んで辞めるということ、でしょうか。

ま、現代の会社だったら、
「辞表を出せ」といわれた人に、
何らかの不正や落ち度があり、
そのための責任をとるというかたちで辞める、
というような状況があるかもしれません。

しかし特攻を「志願」せよと「命令」された兵士たちには、
そんな不正や落ち度など全くありません。


だから、
自分には理不尽という言葉しか思い浮かばないんです。

特攻という異常なシステムを無駄に継続していくために、
兵士たちをそのシステムへと、
機械的に追い詰めていくような気がしてなりません。

一番手っ取り早い手段が、
「志願」せよと「命令」することだったのかもしれません。

あるいは、
無駄だと無意味だとわかっていても、
決まった以上、ダラダラと続けていくような、
現代のお役所仕事に通じるような、
特攻を継続することこそを、
単に目的化してしまったような、
目的と手段の逆転化という、
悪しきスパイラルに陥っているような、
そんな気がしてなりません。

もちろん、本当に「志願」していった兵士もいたでしょう。
そういった人たちを非難するつもりはございません。

ただ、やっぱり、
特攻を「志願」せよと「命令」するのは、
「殉国美談」を設えるための、
この上なく卑怯な手段だなと思いますね。

だから、
右翼的な思想である「犠牲的精神」には、
納得できないような違和感が残ります。

かといって、
特攻が「無駄死に」だったという、
左翼的な思想も肯んじえません。

なんか切ないですね…

74年前の今頃は、
特攻機が沖縄に向けて、
鹿児島の開聞岳を、
次々と飛びこえていきました。


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