チームの選手達が今の自分をどれだけ評価しているのかを知るために、自己評価シートを書かせてみました。
勉強、ハンドリング、シュート、ディフェンス、パスなどの項目を作り、今の自分への評価、それに対する取り組みへの評価を星1から5で決めます。
保護者にもそれぞれの評価をしていただきました。
私が心の中でしている評価と、選手、保護者との評価はどれだけ違うのかを知ることが目的でした。
結果を見て、正直驚きました。
勉強については分かりませんが、バスケに対する評価があまりにも高い。
私としては、このチームに星4、5をつけられる選手は3人程だと踏んでいましたが、その評価をつける人がかなりの数。
中には、現時点での立ち位置も取り組みも全て星1であるはずなのに、星3がコンスタントに付けられている人もいました。
というか、ほとんどがそれでした。
やはり、自分の中での100点満点の基準があまりにも低すぎる。
彼らの100点満点は、私の中では50点に満たないでしょう。
そしてこれは危険なことでもあります。
例えば、やる気がないことを知っている人と、やる気があると思い込んでいる人の2人がいるとします。
やる気がある、できていると思い込んでいる人は、低すぎる物差しで物事を見るでしょう。だったら、初めからやる気がないことを知っている人の方が、これから頑張る可能性があります。
つまり、彼らの口癖である「自主練をした」は、私からしてみればしたに値しないです。厳しいですが…
しかし、私も頑張ること、努力することを低い物差しでしか見ることができませんでした。
適当にシュートを打つことを努力とするのか、なんとなくドリブルをついていることを努力と定義づけてしまうのか。
場所や本数を決めてやる、できないことに対して向き合うために血反吐を吐きながらもがくことが努力であるはず。
自主練や努力というものへの評価基準があまりにも低い。だから甘えるのです。
身の丈の幸せを掴むことができるのは、広い世界を知り、そのヒエラルキーの中で現実から逃げずに努力した人のみです。
というか、そもそも今の状況で努力している、自主練をしていると言い張れることがカッコ悪い。
出来ない自分から目を背け、でも自主練はしています、努力しています。
結果を見ずに過程ばかりに目を向ける、当人が見るべきは常に結果です。
過程にある努力が素晴らしいのではなく、結果が出たから過程が輝きます。