ミニバス記録

バスケノート

期待

2024-07-30 23:44:00 | 日記
私が選手に「期待」を抱いているのか、自分の指導の仕方、声の掛け方を振り返り、見つめ直す。
「もっとやれるぞ」を求める限り、その裏には必ず「期待」がある。
だから私は彼らを期待しているし、1歩進めばその次へ、次へと求めて続けることは確かだ。

「期待」という言葉に関して、高校時代私の印象に残っているエピソードがある。

ある選手がこう言った
「怒られるということは、期待されているということだから…」

対する先生の返答は、
「そういうことじゃないんだよな…」

この他に答えを何も述べなかった。

高校生ながらその意味はなんとなくわかり、「先生に怒られたから、期待されているから頑張る」のではなく、
「今自分の足りないこと、なりたい姿になるため頑張る」の違いだったのだと思った。
怒られることはあくまで課題に気づくためにすぎない。

だから今日まで、私が指導するにあたって「期待」という言葉は好まなかった。

しかし、熱くなればなるほど、本気になればなるほど感情は表に出てしまうもので、私は間違いなく選手に期待している。

未熟なのかもしれないが、それでいいのだ。

選手へ情がうつり、できることが増えれば私も嬉しい。
「期待」とは、人の持つ素敵な感性なのだと思う。

選手には、指導者に期待されるとか、されないとか関係なく自分のすべきことをやり切る強さを身につけてほしいが、私の心の中に期待はある。

「もっとやれるぞ」という声をいつしか自分自身にかけられるように。



切り替え

2024-07-30 02:12:00 | 日記
スクールをはじめて1年が経つ。
1年の月日がどれだけ選手を変えたかといえば、まともにつけなかったドリブルは安定するようになり、小学生も当たり前のように6号、7号を使って練習に取り組むようになった。

自主練の時間までここにこだわってほしいのは本音だが、この時間だけでも、小学生が大人の条件でバスケをすることには価値があるのだと私は思う。

ということで、今日は大学生数名を呼んで3×3、4×4をした。

ここで求めたことは、はやい展開になれること。

大学生に対して全てを守り切ることは不可能であり、リバウンドも全てとることはできない。

そのため決められてもすぐ次のオフェンスで点をとることだけに集中する必要がある。

シュートを決められた、ミスをした、シュートが入らなかった…
などと考えているうちに場面は一瞬で変化する。

その点ではまだまだ迷いがあり、技術面を抜けばこの差が大学生との間にある。

しかし、ナイスプレーが多かったことは確かな成長だ。



自分に生きる

2024-07-28 19:56:00 | 日記
あの子は怒られないのに自分は怒られる

女子の数名がそんな感情を抱いていることは意外であり、嬉しさもある。

「ひいきだ」という考えはそれなりに頑張っているのであれば誰にでも起こりうる考えなのだ。
同じ経験は私にもある。

小学生の頃2人で廊下を走って、私だけが怒られたことがある。

当時は私だけが怒られることは不平等だと思ったが、廊下を走ったら危ないという事実に変わりはない。

誰かに怒られるということは、変わらなければならないことを教えてくれるということ。

「怒られた」という事象にとらわれず、自分に足りなかったことを考える必要がある。

私が高校時代に上手くなれたのはここが大きかった。

仲間や先生に指摘されても、その事象よりも自分だけを見続けた。

例えば、高校1年生の私は自分なりに自主練をしていたが、周りは「変わらない、練習してない」という評価。
そこで確かに自分はまだできないことばかりだと自分に目を向けることができた。

「誰かは怒られなくて、自分は怒られた」
ことばかりを考えていてはできなかった自分はいつまでもできないままである。

小学生から自分を見ることのできる選手など早々いないが、中高も通用する選手、そして大人になっても強く生きる精神は今ここで学べるようにしよう。

今の彼らは、少なくとも頑張れている。
しかしそれは、私に評価されるかされないかでしかない。
私に怒られた、怒られなかった
ノートで褒められた、厳しい言葉を書かれた

私の評価に左右されなければ、怒られても怒られなくても自分のすべきことは変わらない。

人に認められるために生きる人生ほど空虚なものはないだろう。

確かに褒められることは嬉しいが、強い人の核に「認められるため」という感情は存在しない。

自分と向き合った結果認められて、尊敬されるのだ。

私も私のすることに対して結果しか見ない。
上手くなるために全てをつくし、その結果に対する評価は見ない。
私が嫌われたとしても、二度と会いたくないと思われたとしても、必要な声をかけ続ける。

私は決してこのスタイルを変えない。

彼らが4月を迎える頃、自分に生きることができるようになる日まで。


覇気

2024-07-26 04:05:00 | 日記
やりたくないから休むのか、危険を感じるきつさだから休むのか…

フットワークやランメニューと、対人では後者の方が楽しさがあるだろう。

しかし対人メニューで成長を得るには、身体の使い方や基礎は必須である。
だから対人メニューをする時間を楽しむよりも、その時間でどれだけできることが増え、できないことが見たかったかに焦点を当たるべきだ。

最近は休むことについて飽きるほどここに書いているが、それほどにこの課題は難しいということ。

昨日書いたように、練習で一度でも休めば最後のゲームに出さない方針にすれば、ゲームをしたいあまり無理をして倒れる可能性もある。

私は当たり前のようにチャンスは来ないと教えたいのだが、この危険とは隣り合わせ。

だからこれからは毎回ではないが、練習の最後にランメニューを入れてみようと思う。

練習前半に6分走をしたとしても、最後に組み込んだとしても、走る距離としては変わらない。

心の持ちようなのだ。
前半にランメニューをすることで脳は疲れを感じて、「残りのメニューできないかも」と考える。
そこからやらない選択をとるのが彼ら
しかしほとんどの子がすぐに練習に戻る訳で、それはまだ限界でないことを教えてくれるのではないか…

今日はスポーツセンターでエアコンもついていたためあてにならないが、これからの練習でその効果を見ていこうと思う。


そしてここからは最近感じること。
どうにも練習を見ていて、上手くなろうという気が感じられない…

パスが悪かった、レイアップシュート、ゴール下シュートを落としたとしても平気な顔をする。
ミスや勝ち負けを楽観的に捉えている。

これはほぼ全員に言えることだ。

例え平気な顔をしていても改善があれば良いことだが、改善もなく、同じミス、同じ外し方を繰り返す。

そんな環境を作ってしまっているのは私であるのだが、接し方に困る場面は多々ある…



2024-07-24 22:28:00 | 日記
いよいよ猛暑も本格的なものとなり、今日も合計8人ほど途中離脱が出てしまった。

私も少し動くだけでめまいがするほどであり、休む気持ちも充分理解できる。
というか、我慢して熱中症になるくらいなら休むべきだ。
この暑さはあまりに異常すぎる。

とはいえ、一度休憩した選手を最後のゲームに出さないのが今の私のやり方。

このやり方に意義がでることを見越した上で、それでも平日はこのやり方でいく。

私の狙いは「倒れるまで頑張る選手」を作り上げることではない。

私の狙いは一貫して、中高でも通用する選手、そして自分に負けない選手を育成することだ。

今の強度で休むことを私は攻めない。
だが、今の強度をクリアしなければ一歩先へ進むことができないと教える。

平日の2時間でゲームにとる時間は15分〜20分ほど
1時間半の練習をどれだけゲームに生かそうとするかを私は見る。
だから、途中で休んでしまっては100%のパフォーマンスができないだろう。

他にも、「休んでも試合に出られる」という考えが蔓延っていることもこの方針を決断した理由だ。

これは罰として出さないのではなく、あくまでも100%のプレーができないから出さないと考えて欲しいところ。

つまり、今休んでしまっている人は悪ではなくて、まずは自分の体力のなさや甘さと向き合うことから取り組んで欲しい。


そして、最後の理由こそこの決断を後押しした。

それは「平等」であるかどうか

やはり、とりあえず休みたいから休憩する子が多いのは確かで、相反してきついと感じでも一歩踏み出す子もいる。

事実として、毎度のことゲームが近くなると休憩から復帰する、または休んでもすぐに復帰する子は多い。

それでもプレイタイムを同じ時間与えているのだとしたら、果たしてチームとして健全と言えるだろうか…

私がもし本当の意味で「平等」を謳うなら、この場合、練習の姿勢や成長度に応じてプレイタイムは変わるはず。

この考えが大きかった。

先週土曜日私が見た光景は、試合に出るチャンスがあるのに休むことを選ぶ男子数名だった。
その選手により多くの試合時間を与えていくなら、私は日々成長していく他の3.4年生や女子に時間を与えたい。

彼らが変わると信じて、今は彼らから試合時間を奪うこともあるだろう。

しかしここで辞めるなら中高のバスケは通用しない。
今折れて辞めるのなら、それは早いか遅いかでしかないのだ。

6年生が卒団してから4ヶ月、新しい部員が増え、在部生が持つべきものは危機感だと、心底思った。