私が選手に「期待」を抱いているのか、自分の指導の仕方、声の掛け方を振り返り、見つめ直す。
「もっとやれるぞ」を求める限り、その裏には必ず「期待」がある。
だから私は彼らを期待しているし、1歩進めばその次へ、次へと求めて続けることは確かだ。
「期待」という言葉に関して、高校時代私の印象に残っているエピソードがある。
ある選手がこう言った
「怒られるということは、期待されているということだから…」
対する先生の返答は、
「そういうことじゃないんだよな…」
この他に答えを何も述べなかった。
高校生ながらその意味はなんとなくわかり、「先生に怒られたから、期待されているから頑張る」のではなく、
「今自分の足りないこと、なりたい姿になるため頑張る」の違いだったのだと思った。
怒られることはあくまで課題に気づくためにすぎない。
だから今日まで、私が指導するにあたって「期待」という言葉は好まなかった。
しかし、熱くなればなるほど、本気になればなるほど感情は表に出てしまうもので、私は間違いなく選手に期待している。
未熟なのかもしれないが、それでいいのだ。
選手へ情がうつり、できることが増えれば私も嬉しい。
「期待」とは、人の持つ素敵な感性なのだと思う。
選手には、指導者に期待されるとか、されないとか関係なく自分のすべきことをやり切る強さを身につけてほしいが、私の心の中に期待はある。
「もっとやれるぞ」という声をいつしか自分自身にかけられるように。