ミニバス記録

バスケノート

部員のみんなへ

2023-10-17 00:51:00 | 日記
人は何のために努力をするのか。
漠然とバスケが上手くなりたいと願っても、中々満足いく結果はでません。
上には上がいるからです。
人生も同じで、ただお金を稼ぎたい、頭が良くなりたいと思うだけでは必ず上がいます。

具体的な目標ができれば人の目など気にはならないはずです。
バスケが上手くなるという目的ではなく、バスケが上手くなってどんな姿になりたいのか、つまり上手くなることやそのための努力は手段にすぎない。
良い大学に入ることが目的ではなく、その先に自分のやりたいことがあるから、そのための勉強は手段。

しかしインターネットが普及し、承認欲求を求める人が増えたことは明らかです。匿名でのやり取りが可能であり、それを世界のどこからでも見ることができる今、世の中の「普通」であることのハードルは上がったと感じます。
それに比例するように誰かに認められたい、誰かを見返したいと思う人も増えているのだと考えます。

誰かに認められるための努力ほど空虚なものはないです。
自分の人生がそんな些細なものに囚われてしまうこと、これこそつまらない人生だと思います。
よく、サラリーマンにはなりたくないと言う人がいますが、ではその人のなりたい像は何かといわれれば、返ってくる答えは大抵「普通は嫌だ。」
そのような人の言う成功者は決まって、これは嫌だと考えることなく、自分のなりたい将来の姿があります。

社会に出れば、大半は会社員として働くことになります。つまり、彼らは世の中で普通だと評価されることが嫌なわけです。
こんなことに人生を囚われてしまえのは、その先に虚しさしか残らない…

バスケが上手くなることは、指導者に認めてもらうためかな?親や仲間に認めてもらうためかな?
もちろん、認められれば私も嬉しいですが、認められるために生きているわけではないので、別に認められなくても特に気にしません。

目的が認められることでは成長できない!

特に部活動やクラブチームという小さな世界で認められることばかりに喜びを感じては、広い世界にでた時辛くなるでしょう。

バスケをするなら、自分の中で大いなる目標を決めて欲しい。
バスケが上手くなるということを手段とできるように、今は努力で可能性を広げるにすぎない。
いざ目的が生まれ、更なる努力を積み重ねることができれば、思わぬ結果が生まれる。
きっかけは誰かが与えたかもしれませんが、努力したことに変わらなければ、本人の力です。

部員達は見ていませんが、最後にここに綴ります。

「世間の評価という移ろいゆくものに囚われるな!!
自分の努力や成果があるなら、たった一つだとしても普遍的なものを愛せ!!」










評価基準

2023-10-14 23:22:00 | 日記
チームの選手達が今の自分をどれだけ評価しているのかを知るために、自己評価シートを書かせてみました。
勉強、ハンドリング、シュート、ディフェンス、パスなどの項目を作り、今の自分への評価、それに対する取り組みへの評価を星1から5で決めます。
保護者にもそれぞれの評価をしていただきました。

私が心の中でしている評価と、選手、保護者との評価はどれだけ違うのかを知ることが目的でした。
結果を見て、正直驚きました。

勉強については分かりませんが、バスケに対する評価があまりにも高い。
私としては、このチームに星4、5をつけられる選手は3人程だと踏んでいましたが、その評価をつける人がかなりの数。

中には、現時点での立ち位置も取り組みも全て星1であるはずなのに、星3がコンスタントに付けられている人もいました。
というか、ほとんどがそれでした。

やはり、自分の中での100点満点の基準があまりにも低すぎる。
彼らの100点満点は、私の中では50点に満たないでしょう。
そしてこれは危険なことでもあります。

例えば、やる気がないことを知っている人と、やる気があると思い込んでいる人の2人がいるとします。
やる気がある、できていると思い込んでいる人は、低すぎる物差しで物事を見るでしょう。だったら、初めからやる気がないことを知っている人の方が、これから頑張る可能性があります。

つまり、彼らの口癖である「自主練をした」は、私からしてみればしたに値しないです。厳しいですが…

しかし、私も頑張ること、努力することを低い物差しでしか見ることができませんでした。
適当にシュートを打つことを努力とするのか、なんとなくドリブルをついていることを努力と定義づけてしまうのか。
場所や本数を決めてやる、できないことに対して向き合うために血反吐を吐きながらもがくことが努力であるはず。

自主練や努力というものへの評価基準があまりにも低い。だから甘えるのです。

身の丈の幸せを掴むことができるのは、広い世界を知り、そのヒエラルキーの中で現実から逃げずに努力した人のみです。
というか、そもそも今の状況で努力している、自主練をしていると言い張れることがカッコ悪い。
出来ない自分から目を背け、でも自主練はしています、努力しています。
結果を見ずに過程ばかりに目を向ける、当人が見るべきは常に結果です。
過程にある努力が素晴らしいのではなく、結果が出たから過程が輝きます。


勝ちだけが全てではないのか?

2023-10-07 03:01:00 | 日記
「勝ちだけが全てではない」
という言葉はスポーツをしていて良く耳にする言葉です。もちろん、勝ちが全てではないのは間違いではないです。

しかし、私にはそれが正解だと知っていても、どうもしっくりしなかったです。
それが最近になってなぜしっくり来なかったかわかるようになりました。

理由は、敗者だったからです。

勝者や何かを成し遂げた人が言う、競争が全てではないと、何も成し遂げられなかった者の言うそれとでは、言葉の重みが違います。
まあ、当たり前かもしれませんが。
勉強をしてきて、それなりの学力のある人が言う「勉強が全てではない」
お金を稼いでいる人の言う「お金が全てではない」なども同じです。

なので、勉強でいい成績が収められない、スポーツをしていて上手くならないなら、雑念など捨ててただ努力すべきです。
私も、バスケットボールが上手くなった転換期は、努力すること以外何も考えなかった時でした。
人は常に逃げ道を作ろうとするものです。
勉強も、スポーツも。
行きたい学校に対して、学力が足りない。その時、志望校を変えることは簡単です。

そして今私が教えているチームは、勝てないです。
つまり、「勝ちだけが全てではない」の土俵に立つことすらできていません。
もし私が保護者で、今のチームの状況でこの言葉を言われても、やはりしっくり来ないでしょう。
勝たせられる指導者が言うからこそかっこいい言葉で、勝たせられないのにこれを言ってしまえばまさに逃げ道を作っているようですからね。

私が子供達に勉強をしなさいだとか、練習で厳しくするのはそれが大事なことだと知って欲しいと、よく言いますが、もう一つの理由は、私自身の逃げ道をなくすことでもあります。
人に偉そうに言うということは、自分もできる必要があります。先程述べた、説得力です。
では、私が勉強しなさいと言っているのに、勉強ができなければ説得力がありませんし、子供達に厳しく怒れば、怒れるだけの人間性を持っているのか、怒れるだけの実力があるのかが大事です。

これは高校時代学んだことで、自分の目標を自負の中でとどめてしまえば、その目標を下げることは簡単ですが、人に共有すれば、達成できなかった時に口だけになります。
口だけはカッコ悪いです。
だれかにカッコ悪いと思われるのが怖いのではなく、達成できなかった自分に不信感を覚え、自分が好きでなくなることが怖いのです。

何でもかんでも得ることができるとは限りませんが、「◯◯がなくても幸せだよね」という言葉を使うなら、それを得た時に言えるような人間でありたいです。

とにかく、まず勝たせます。
口だけにしません。

10月1日 試合

2023-10-03 02:21:00 | 日記
いよいよ10月に入り、時間が過ぎるのが早いと感じる今日この頃。

今回の相手は、春と夏に試合をしており、それぞれ勝ってはいますが、7点差と2点差のゲーム。
春は22対29でした。
結果から述べますと、16対50での勝利。
特にディフェンスで圧倒し、第二ピリオド終了時点で2対35でのリード。

本気さを見ることができ、感心と感動。
そして、彼女達はこの一瞬に全てを出すことの素晴らしさを同時に知ることができたのだとも感じました。

オフェンスがうまくいかなくでも、ディフェンスで守ればいい。
そして、独りよがりのプレーにならず、全員が主人公だという自覚を持ったプレー。
間違いなくこのチームは強くなっています。

前日、練習への取り組みに対して私は何度も喝を入れました。
正直、私が厳しくして、強く言うようになって、練習が激しくなるという側面はあります。
しかし、結果気持ち良く勝つことができて、その上で更なる課題を見つけられたなら、一概に間違いだとも言えない。

私は練習で厳しく、強く指導することがあっても、練習後の対話やノートでのやり取りで、それぞれと向き合い続けています。
決して支配する形に、私だけのチームにはしたくない。

理想は、コーチに褒められたいから、コーチに認められて、試合に出たいから練習を頑張るではなく、頑張れない、頑張らなかった自分に勝つために努力する姿。

それができれば、どんな環境に立たされても、輝くことができる。

いつでも、人が恐怖する最大の敵は、自分自身です。